第54話 風使いと「悪魔」
今日はストレートに、天馬美津姫について語ろうと思う。
――天馬美津姫。
十七歳。二年C組。兄と弟が一人ずつ。保健委員で、優しくて美しい僕の天使(ただし怒らせると怖い)。
顔つきは特別派手ではないけれど、彼女のまわりにはいつも、きらきらとした光がダイヤモンドダストのように舞っていて、僕にはとびきりの美少女に感じられる。
僕が彼女と知り合ったのは七月のことだ。保健室での甘い密会。……いやまあ、保健委員の彼女が、教師から理不尽な暴力を受けた僕に付き添ってくれた――というだけだけども。
でもなあ……、どこかで会ったことがある気はするんだよな。もっと前に。
そういえば、人の顔を見て「美しい・整っている」と感じる基準は、実は平均値だという話がある。これまで見てきた顔を、脳が無意識に統合して、その平均的な顔を「美しい」と感じるのだという説だ。
つまり、僕が彼女と会ったことがあると思うのは、その辺が原因なのだろうか。どこかで見たことがある、と感じてしまうのは。ううん、いまいち釈然としないけれども。
……ん?
今日は小難しい話なのかって?
いいえ、黒ストッキングのお話です。
■ ■ ■
「なあ天馬、僕の夢を知ってるか?」
昼休み、中庭のベンチで僕は天馬に告げた。
「爽介くんの? 何だろ……私のお婿さんになることかな」
「いや、仮にそうだとして、こんな形で公開しねえよ。なんか気持ち悪いやつだよ、それ」
「ふうん、別に私はいいけど」
言って、天馬は口を尖らせた。
「まあ聞け、天馬。僕の夢――それはな! 『黒ストッキングで、じかに膝枕をしてもらうこと』なのだ!」
「『なのだ』って、そっちのほうが気持ち悪いよ、爽介くん」
そう、秋風が肌寒くなってきたこの時期、今日から彼女はスカートの下に黒いストッキングを履いているのだ。ストッキングに覆い隠されてしまった彼女の生足。それは、アンチ脚フェチを公言する僕でさえ、つい見とれてしまうほどの魔力を持っていた。
けれど、
「いいんだよなあ、ストッキングも」
僕の視線に気づき天馬は、スカートのすそを押さえて、
「あの、さすがに照れるんですけど」
言って、もじもじと身をよじる。
「特に、さっきの台詞のあとじゃ、私の太ももが狙われてるみたいなんだけど」
「え、狙ってるけど?」
「どうしよう、いつか私、学校で襲われるんじゃないかな。さすがにそれは……できればお家のほうが……」
彼女は小声でつぶやいた。
「っていうか、さっき『じかに』って言ってたよね。なんなの、それ」
「お! 聞いてくれるか!?」
「しまった、聞いてしまった……う、うん。まあ一応、興味はあるかな。怖いもの見たさっていうか」
僕は、すっくと立ち上がり、拳を握った。
「いいか、ストッキングとは肌の露出を抑え、代わりに着用者へ暖を与える、機能性の高い着衣だ。冬場の女子にとっては、なくてはならないアイテムだろう。……だが一方で、僕ら男子にとっては、障壁だとも言える。なんたって、下半身をすっぽりと覆い隠してしまうのだから」
「う、うん――」
中庭にいる他の生徒が、「なにが始まったんだ?」というような目を向けてくるが、相手が僕だと気づいて、「ああ、なんだ」という諦めにも似たため息を漏らして、すぐに各々の平穏へと戻っていく。……うん、これが日頃の人徳というやつだろう。
天馬は顔を引きつらせながらも、僕の演説に耳を傾けている。以前、「私、大事なものを爽介くんに奪われた気がする」とかなんとか言っていた。よく分からないけど、なんだかエロい響きがしたので、僕は笑っておいた。
僕は拳をぐっと突き出し、
「しかし、だ! 僕らは諦めない! いや、むしろご褒美だとすら思っている! 人は、隠されたものこそ見たくなる。ストッキングの下に隠された生足、そして下着さま!」
「……崇拝してるんだね」
「もちろん! 偶像を思い描くのさ。人間の想像力とは、古代からそうして培われてきたんだ。宗教も、科学も――哲学すら、黒ストッキングから生まれたといっても過言ではない!」
「過言どころか、虚言だと思うけど」
そんな彼女の言葉に、僕はため息をつき、首を振る。
「甘いぞ、天馬。『男子の煩悩、天をも創る』っていうだろ?」
「ごめん、初めて聞いた」
そりゃそうだろう。今、僕が作ったんだから。
さて、そろそろ教師を呼ばれかねない頃合いになってきたので――最近は『風見くん通報専用ホットライン』というSNSのグループがあるらしい――僕はベンチに座って、通常の音量で天馬との会話に戻った。
「だからな、その神様ともいうべき黒ストッキングにだな、直接ほおずりして、膝枕されるってのは、もはや信者にとっての礼拝なんだよ。義務なんだよ」
「爽介くん、声を落とせば何を話してもいいって訳じゃないんだよ?」
言いながら天馬は、スマホを取り出す。え? 天馬も入ってんの? 『風見くん通報専用ホットライン』……。
愛する人にそんな密告のような真似はさせられないので、僕は話題を変えた。
「いやあ、今日のから揚げ、美味しかったなあ。天馬も腕を上げたな」
「ん? ああ、お弁当? 残念、から揚げはお母さん作です」
「う、そっか……」
けっしてお世辞ではなかったのだが、的は外してしまったらしい。だが、話題の路線変更には役立ったらしく、天馬は、
「そういえば……」
と言って、少し考え込む仕草を見せた。
「今日ね、お父さんとお母さん、いないんだ」
ぼそりと言った。僕は息を飲んだ。彼女は続ける。
「空良も遅くなるんだって……」
「へ、へえ……」
これは誘っているのだろうか。なんだか、彼女の瞳は期待で満ち満ちているようにも見える。
「あ、あれあれー?」
僕はスマホを取り出して、すっとんきょうな声を上げてみた。
「いつも分刻みの僕のスケジュールが……おおっと、今日の夜はスカスカだぞ? うわあ、珍しいこともあるもんだなあ」
というか、いつもスカスカである。好きな漫画の発売日と、富嵐剣トリニティの活動日が、月に二、三個、カレンダーアプリに登録されてあるだけだ。アプリの意味がほとんどない。
随分とわざとらしい僕のリアクションだったが、天馬は目を輝かせて、
「ほんと? じゃあ一緒にご飯食べない?」
「おう、そりゃ構わないけど……」
僕は目を泳がせながら答えた。
「じゃあ天馬の家――」
「ラーメン屋さんで!」
満面の笑みで彼女は言った。
■ ■ ■
ということで、放課後、僕らは駅の近くにできたラーメン屋へと足を運んだ。
「ごめんね、急に誘っちゃって」
「全然構わねえって。女子ひとりでラーメンって、なかなか入りづらいもんな。あはははは――」
どこか虚しい僕がいた。だが、いつまでもヘコんでいたって仕方ない。
さて、二人並んでたどり着いた店は、ブラウンを基調にした店構えと、清潔感のある内装で、夕飯には少し早い時間帯でも、席は三割くらい埋まっていた。
二人がけの席について、お互い別のラーメンを注文した。
「天馬って、ラーメンも好きだったんだな」
「うん。毎日食べたい、ってほどじゃないけどね。たまにない? その食べ物のことで、頭が一杯になっちゃうこと」
「ああ、わかるわかる。ひたすらカツカレーが食べたいときとか、ポテトチップを口いっぱいに放り込みたいときとか」
そんで、夕飯がまったく違うジャンルのときとか、ヘコんじゃうんだよな。焼き魚の気分じゃねえんだよ、って。被扶養者の贅沢な悩みだけれども。
「ジャンクな食べ物のほうが、そういうの多いよね」
「確かに『おかゆが食べたい!』っつーのは、まずないもんな」
「それはまさに病気だね。風邪ひいてるときだね」
していると、香ばしい香りとともに、テーブルへと二杯のどんぶりが運ばれてきた。きちんと「いただきます」をしてから、二人そろって箸をつける。
天馬はするするっと麺をすすると、
「んー、おいしい!」
幸せそうな、とろんとした笑顔をみせた。やばい、かわいい。食べちゃいたい。
「やばい、かわいい。食べちゃいたい」
「……え、えっと爽介くん? たぶん、心の声が漏れてない?」
「あ、悪い悪い」
「悪くはないけども――恥ずかしい」
言って彼女は、目を伏せてしまった。頬を赤くして、どんぶりの中で箸をさまよわせる。食欲がそそられる素敵な光景だった。
「そういえばさ、この店にはよく来るのか?」
「え? ――ああうん、たまにね。それこそ、相手が見つかったときくらいかな。一人じゃ入りづらいし、女子同士でもちょっと気後れしちゃうしね」
「じゃあ相手って…………男?」
天馬は、きょとんと顔を上げて、すぐに吹き出した。
「兄弟だよ。ほら、空良とか」
「あ、ああ、そっか」
危ねえ。危うく嫉妬の嵐が店内に吹き荒れるところだったぜ(物理的に)。
「それに、今は大学で遠くに行っちゃってるけど、お兄ちゃんがこのお店が好きでさ。夏休みとか、お正月に帰省したときとか、連れてきてもらったりするかな」
「へえ」
「爽介くんはお姉さんと食事に行ったりしないの?」
「行くと思う? あの姉さんと――あ、でもこのあいだ、喫茶店は一緒に入ったかな」
将来の義兄と一緒に。――うう、思い出すだけで寒気がするぜ。
二人ともあらかた食べ終えたころ(天馬は意外と食事ペースは早い)、彼女は満足そうなため息をついて、
「ごちそうさまでした。爽介くん、ありがとうね」
「ん、なにが?」
「付き合ってくれて。おかげで大満足です」
僕こそ大満足だ。彼女の色んな面を知ることができるのは、それだけで嬉しいのだから。
店を出ると、いっそう冷たくなった風が肌に刺さった。
「うお、寒っ――」
店内が暖かかったせいもあるだろう。冬が近いことを感じて、そろそろマフラーが必要だろうか、いや、風使いには不要か――なんてことを考えながら、遅れて出てきた天馬へと振り返る。
「そうだ天馬、今度一緒に――って……」
びゅう。
と、突風が吹いた。
「え? ――っ!? きゃああ!」
慌てて天馬がスカートを押さえた。見えた。一瞬だけ、見てしまった。黒ストッキング越しではあるが、神様を見た。
「み、見た?」
「う、うん……」
正直な僕だった。だが、ここで断言させてもらうが、あの風のいたずらは僕が起こしたものではない。僕は、家族や友人、そして他人の彼女のパンツは見ない。少なくとも、自ら進んで風を起こすようなことは、絶対にしない。
だからこれはアクシデントであり、ある意味、天の啓示でもあるのだが……そう、神様(神パンツ)が降臨すると同時に、僕は雷に撃たれたようになった。全身に電流が走った。
彼女の姿が素敵だったからではない――まあ、今の光景はたぶん三十年くらいは脳裏に焼き付いているだろうけど、むしろ棺桶まで持って行きたいけど――それだけではなくて、何かを思い出しそうになったのだ。
「あ、あはは、恥ずかしいなあ、もう……」
照れて、しきりに前髪をいじったりする天馬を見ていると、さらに記憶の底から何かが掘り起こされそうな気になる。
「あ…………」
思い出した。あれは去年の冬……僕がまだ可愛らしい一年生だった頃だ。僕は見た。この場所で、神に会っていた。
「なあ、天馬――」
「どうしたの、かしこまった顔しちゃって……?」
「もしかして去年の年末、お兄さんとここに来たか?」
「え、うーん、来たかな?」
ふいの質問に戸惑っていたが、やがて、
「あ、来たよ。終業式の日。空良はいなかったと思うけど、お兄ちゃんと二人で。それがどうしたの? っていうか、どうして知ってるの?」
「僕は偶然、ここを通りかかったんだよ。自転車で。今日よりずっと冷たい風が吹く日だった」
そうだ。そして僕は見たのだ。
「天馬。僕たちは一度会っている。あの保健室よりずっと前に」
「え、まあ、同じ学校だからね。何度か会ってるとは思うけど」
「そうじゃない。スカートがめくれた君とだ」
「はい? な、なにを言ってるか分かんないんだけど?」
たじたじになる天馬に、僕は詰め寄る。
「だから、僕は偶然見かけちまったんだよ、去年の冬、ここでスカートがめくれてしまった君を! でもそのときは……カップルだと思って、記憶の奥に封じ込めてしまったんだ。見ちゃいけないものを見たと!」
「は、はあ……」
「けれど、深層心理には焼き付いていたんだ! 僕を黒ストッキング好きにしたのは君だ、天馬!」
「せ、責任を負いきれない……」
戦慄する天馬。まるで天使が、その手で堕天使を――悪魔を生み出してしまったかのような、青ざめた顔になった。
「天馬。もう一度だ。もう一度だけでいい。神様に会わせてはくれないだろうか」
「神様って……ええ!? す、スカートを!?」
僕は、神妙な顔でうなずく。
「これは決して下心によるものではない。漆黒の神様に対する信心が、そうさせるのだ」
「目、目が怖い……」
「だから天馬、スカートをたくし上げてはくれまいか」
「たくし上げるって……私が!? 自分で!? ここで??」
歩道のど真ん中で、彼女は今度こそ恐怖に震えた。
「そうだ。まずはスカートの裾を握るんだ」
「う……、こ、こう?」
「そう。ゆっくりだ。ゆっくりと、持ち上げてみてくれ」
「こ……、こうかな…………」
黒衣に包まれた太ももが、少しずつあらわになっていく。他方で僕の心は、まるで光り輝く虹を目の前にしたときのように、清々しい空気に洗われていた。悪魔のよどんだ心が、天上世界の清らかな風に吹かれて、厚い雲が払われていくようだった。
「いいぞ。もっと、もっとだ!」
僕の声にも熱がこもる。
「うう! このくらい、かな?」
「まだだ! もっと行ける! 君なら行けるぞ、天馬! 諦めるなよ、熱くなれ! まだ行けるぞ、君なら行ける! 自分を信じろ!」
「う、ううう……」
彼女は、スカートを握った両手を震わせたあと、
「やっぱり無理! バカ! 爽介くんの変態!」
叫ぶと、だだっと走り去ってしまった。
「え? は……?」
僕は立ち尽くし、その背中を呆然と見た。
「へ、変態って……」
言われ慣れていたはずのその言葉に、僕は大きな衝撃を受けてしまった。いやまあ、慣れてるのもどうかとは思うけど。しかし、天馬に言われるとこうもダメージが……。
「って、いやいや、待って天馬!」
このあと、僕が土下座で許しを乞うたのは言うまでもない。っていうか、五体投地で謝罪した。
■ ■ ■
「ねえ、変態くん」
「あ、はい。なんでしょうか、天馬さん」
その翌週の昼休み。またも中庭でのこと。
「私、喉渇いちゃった。あたたかいミルクティーの気分だな」
「はい。すぐに、自動販売機で購入してまいります」
あれから、主従関係がはっきりと出来てしまった。天使と悪魔。地獄の住人である僕は、天界に住まわれる天馬美津姫様には逆らえないのだ。
僕がベンチから腰を浮かせると、彼女は、
「ううん。駄目」
「駄目?」
「作って」
「つ、作るとは……」
「ミルクティー。すぐそこの雑貨屋さんに、紅茶の茶葉が売ってたと思うの。あ、ティーセットもね」
「は、はあ……」
「だから作って」
「いやでも、ここは学校だし……」
「いいの? そんなグダグダしてて」
「え」
「昼休み、あと二十分だよ?」
「すぐに行ってきます!」
僕は涙目になりながら走り出した。
「う、うう……!」
走りながら、僕は叫んだ。
「こ、この、悪魔めぇ――!」
声は、風に乗って遠くへ消えた。
(第54話 風使いと「悪魔」 終わり)




