第51話 風使いと「雑誌」(1)
皆さんの中に、道場破りの経験者はいるだろうか。
まあまず、そんな前時代的な猛者は、こんな僕の物語など聞いてはいないだろう。しかしもしも、万が一そんな輩が居たとしても、道場主から直々に道場破りを依頼された経験はあるかと問えば――まったく手が挙がらないのではないだろうか。
しかも、朝の通学路に突然現れて、自転車の前で土下座しながら、こんなふうに。
「風見さんにお願いがあります。いえ、難しいことではありません。ただ、我が家に……秋鳥流の道場へおいで頂きたいのです。はい、私と仕合ってくださればそれで――ええもちろん、風見さんが勝った暁には、道場の看板を差し上げます」
いらねえよ。
アスファルトに額をこする彼女――北条美織に、僕は言い放ったのだった。
■ ■ ■
「たのもー、たーのもーー」
次の土曜日。
僕は、以前渡された名刺を片手に北条の家を訪れた。
彼女の家は、思った以上に道場道場していた。
古い日本家屋。豪邸と言うべきだろう。平屋のようだが、高さ二メートル以上の塀がどこまでも続いていて、中の様子は窺えない。辛うじて屋根瓦が見える程度だ。白いしっくいの塀は、一辺が百メートル近くある。
門扉は厳めしく、塀よりもさらに高い。でっかい木製の扉を開けようと思えば、大人が四人は必要じゃないだろうか。
門の横には看板がある。達筆な文字で、
『秋鳥流忍術道場』――。
そう。北条美織は忍者だ。くノ一だ。普段は富南高校に通う可憐な女子校生だが、その実態は、『秋鳥流』とやらの当主様らしい。
僕は夏休みに陸上部の合宿で出会って以来、彼女に付きまとわれている。とはいえ彼女は、別に僕に好意をもって追い回している訳ではない。
どうも、僕のことを『風遁の術』を使う同業者だと勘違いしていて――僕の毎朝の日課のことは忍者の訓練の一環だと思い込んでいる。僕からその技術を盗むために後を追ってきているのだ。それが彼女にとっての日課。マジで迷惑。
誤解を解くとそれはそれで問題になりそうなので、僕は放置せざるを得なかったわけだが、その結果があの土下座である。
「たのもー……」
あれはもう脅迫に近い。朝の通学路で、他校の女子生徒に土下座をされて、一体誰が断れるだろうか。
既に校内では『鬼畜外道な風見くん』の噂が、色々と尾ひれを伴って飛び交っている。どうやら僕は、『女子の悔し涙をワイングラスで集めて啜る変態』ということになっているらしい。
……いや僕、そこまでじゃねえよ。
「た、たーのもー――……」
で。
さっきから道場破りの作法(?)として、門の前で嫌々ながら声を張り上げているのだが、返事がない。通行人からはもちろん、白い目で見られている。まあ、そんなことで僕は傷つきはしないが、だからといって気持ちの良いものではない。
「たのもう……っつってんだろ!」
と、叫んだところで、扉が開いた。
三メートルくらいのバカでかい扉の隅には、人ひとりが頭をかがめて通り抜けられる程の押し戸があって、そこから和服の女性が現れた――北条じゃない。黒髪をひっつめた、上品な笑顔を浮かべた女の人だった。
決して派手な顔つきじゃないけれど、すっきりとした目鼻立ちの、奥ゆかしい美人だ。母親――というには若いので、お姉さんかもしれない。
ちなみにFである。
「あら……、貴方が風見さんでいらっしゃいますか?」
首をかしげて、柔らかな声で言った。
「え、あ、はい」
「お待ちしておりました。お嬢様がお待ちです」
「お嬢様――?」
「はい。申し遅れました。私、こちらの使用人の絹子と申します」
「ど、どうも、絹子さん。風見爽介です」
しかし『お嬢様』って。
いやまあ、この豪邸っぷりを見ればそんなふうに呼ばれていても不思議はないけれど――そのお嬢様、僕の前で土下座してましたよ。
浅黄色のシンプルな着物姿の彼女は、戸惑う僕のことが可笑しかったのか、口元に手を添えて、ふふっと笑う。
「どうぞ、こちらへ」
「はあ……」
若干気後れしながら僕が門を潜ろうとしたところで、
「それにしても、風見さんは古風でいらっしゃるんですね」
絹子さんが言った。
「どういうことっすか?」
「あちらを押してくだされば良かったのに」
「――――?」
よく見ると、看板の横にはインターフォンがあった……。ウチのと同じタイプだ。何てこった。叫ぶ必要なんてなかったんじゃん。しかも、ご丁寧に『セコム』のシールまで貼ってある。
……って、いやいや、警備会社に頼っちゃうの?
■ ■ ■
門の中は、何となく予想していた通りの光景だった。
玄関までのエントランスには石畳の通路があって、左右は手入れの行き届いた植木類。その先には日本庭園がちらりと見える。テレビで特集されるような、高級料亭めいた雰囲気だ。
僕がキョロキョロしながら歩いていると、先を行く絹子さんが振り返って、
「和風の住まいは珍しいですか?」
「いやあ、和風が珍しいっていうより……すげえ立派じゃないっすか」
「最近はなかなか手が回らなくって。本当はもっと色々と……」
庭木に目をやったあと、僕を見て、
「しかしそれにしても、お嬢様がお友達を呼ばれるのなんて初めてのことなんですよ」
絹子さんは言った。
女子の家にお呼ばれというシチュエーションは、普段なら飛び上がって喜ぶところなんだけど、さすがにこれは違う。
まず呼び出し方法が無茶苦茶だったし、僕は彼女にとって、『友達以上恋人未満』な男子ではなく、『風遁使いの道場破り』なのだ。何だそれ。何以上でも未満でもねえよ。
案内されて廊下を歩く。庭園の見える縁側を通った先に、離れがあった。
「あちらです。お嬢様は道場に」
高校の剣道場みたいな大きさの道場だ。その中で北条美織が迎えてくれた。
「風見さん。ようこそいらっしゃいました」
「お、おう――」
忍者のコスプレをしていた。本業なのだからコスプレというのは違うのかもしれないけれど――そう言いたくもなる格好だ。安っぽいショッキングピンクの忍び装束で、露出が高い。
胸元はざっくり開いてるし、ノースリーブだし、太ももはほとんど見えている。陸上のユニフォームだと思えば露出度は大して変わらないけれど、古くさい道場の中では異様に映る。
北条はスタイルがモデル級に良くて、手足はすらりと長く、胸は形の整ったB。首筋から輪郭にかけてのフォルムなんて芸術品だし、キリリとした大きな目は、もはや格好いいと言っていいかもしれない。
ポニーテールの彼女は、
「それでは早速ですが、始めましょうか」
「道場破りをか?」
「ええ、道場破りしましょう」
「……あのさ、具体的にはどうすればいいわけ? 殴り合いでもすんの? 僕、女子を殴る趣味はないんだけど」
「勝負の形式はお任せします。風見さんのお得意な方法で結構です」
「僕の……? じゃあ寝技」
「かしこまりました。絹子さん――」
北条が言うより前に、絹子さんは既に動いていた。道場の後ろ半分に凄まじい速度で畳が敷き詰められていく。
彼女は和服姿のまま、すり足で素早い動きを見せた。畳の重さを感じさせずに一枚、また一枚と板張りの床に並べていく。
早い。しかもブレない。機械めいたその動きによって、すっかり即席の柔道場が出来上がってしまった。……僕の迂闊な一言のせいで。
「お嬢様、完成です」
「ありがとう、絹子さん。さあ、どうぞ風見さん」
言うなり、北条は仰向けに寝転がる。
「どうぞって、お前なあ――」
「煮るなり焼くなり」
「…………」
困ってしまって絹子さんに目をやると、彼女は微笑んでうなずく。何だろう、かつてない状況だ。据え膳食わぬは男の恥。別にここで組んずほぐれつ、
「わりっ! 胸に手が当たっちゃった!」「も、もう! 風見さんのエッチ!」「うわ、暴れるなよ」「やんっ、どこ触ってるんですか!?」
的な展開でも一向に構わないのだが、相手が北条なだけに、まったく行動が読めない。
「どうしたんですか、風見さん。ほら早く。今の私は隙だらけですよ」
ビチビチと、活きの良いマグロみたいな動きで催促してくる。シュールすぎるわ。
「……んじゃま、行くぞ」
仕方がないので僕は彼女に覆い被さる。興奮半分、緊張半分。
いい匂いがする。か……、顔が近い! 凜々しい視線で見上げられて、僕の中で何だか変なスイッチが入ってしまいそうだった。
え? 抱きしめちゃう?
「ほ、北条――……う?」
途端、僕の視界が歪む。どさり。彼女に全身を預ける形で、本当に倒れ込んでしまった。どういうことだ? 体に力が入らない……。
「効いてきたようですね」
北条が耳元で囁く。
「それは媚薬の香です。強めですので、全身が弛緩しつつあるはずです」
「――――!」
あ、危ねえものを使うなや……! 色んな意味で……。
「道場破り、破れたりです」
言って、北条は右手を動かす。僕の首筋に鋭いものが当てられた感触があった。……くないだ。果物ナイフみたいな、黒光りする刃物が僕の頸動脈に添えられていた。
「さよなら、風見さん――」
「……サ、サヨナラ…………?」
そこで僕の意識は静かに途切れた。
■ ■ ■
「はあ、生き返るわー……」
白い湯気が舞う天井を見上げながら、僕はため息をつく。
ゆったりとした広さの檜風呂。柔らかな木の感触が心地良い。湯加減も最高。
ようやく人心地がついた。
というか、やっと意識がハッキリとしてきた。
あの後――僕は本当に気を失った。ここまでガチな『道場破り』だとは思っていなかった。幸いなことに、トドメを刺されることはなかったけれど……いや、これでホントにサヨナラしてたら、不幸どころじゃない。
で、畳の一室で目を覚ますと、絹子さんに気付けのお湯を勧められたのだ。ぼんやりした頭でうなずいて、たっぷりと湯の張られたこの浴室に入り――ん、あれ?
ちょっと待て。
僕、服を脱いだ記憶がないぞ!?
いやでも、もちろん裸だし……。
あ。
絹子さん――! 絹子さんに脱がされた! 僕の裸を見られた! えっち! 変態! もうお婿に行けない!!
「何てこった――!」
僕はわなわなと震える。こ、このまま生きて屋敷を出られるだろうか……? 凄まじい勢いで僕の体力と精神力を削ってくるぞ、この忍者屋敷。
そうして僕が、密かに脱出方法を考え始めたとき、浴室の引き戸が開いた。
「――――!?」
ビクッとして振り返ると、北条が立っていた。ビキニで。布地の少ない、ピンク色の水着だ。
「お、お前――!」
「ご一緒します」
スタスタと湯船に寄って来ると、手桶でお湯を浴び始めた。
「あの、北条さん? 何をしていらっしゃるのかな?」
「お気になさらず」
「するわ!」
「……お背中を流そうかと思いまして」
「ぼ、僕の? 北条が?」
「ええ。道場破りである以前に、あなたは客人ですから。そのくらいは礼儀だと、絹子さんが」
「あのさあ――」
僕はがっくりとうなだれ、
「そもそも、道場破りでもねえよ、僕は。もっとほのぼのとした『手合わせ』を予想してたんだけど。本気で殺しに掛かってくるなよな…………って、ええっと」
途中から言葉が出なくなる。
だって、同い年の美少女が隣で入浴中なのだ。いくら水着を着ているとはいえ、ほぼ裸だ。そして僕はもちろん全裸だ。
何この状況パート2だ。
いや、もはやパート何なのかすら分からない。
「な、何でそんな水着なんだよ……」
「絹子さんが選んでくれました」
「黒幕全部あの人じゃん! 絹子さんめっちゃ怖え!」
「絹子さんはとても優しいですよ。私の忍び装束も彼女のハンドメイドですし」
やっぱり諸悪の根源じゃねえか。
「まさか、『道場破り』を思いついたのも?」
「いえ、それは私の発案です。風見さんとしてみたかったのです」
『して』とか微妙な言葉のチョイスをやめて欲しい。
今の状況じゃあNGだ馬鹿野郎。
「もう少し手応えがあるかと思ったのですが。もしかして風見さん、手加減してました?」
「……手加減しようとか、そんなこと考える余裕すらなかったよ。無茶苦茶だよ、お前ら」
はあ、と僕は嘆息する。
「さて」
北条は僕を見て、
「上がってください。お背中流しますから」
「いやいや、マジで!? え、遠慮しとくぜ……さすがにそれは悪いし」
「? なぜですか? 私に遠慮など無用です」
僕は謙虚な人間ではないし、出来ることなら彼女のしめやかな手つきによって背中を洗ってもらいたいという欲望も、大いにある。あるけれど――男子諸君なら分かって頂けるのではないだろうか。
僕は今、湯船から出る訳にはいかない。
そういう事情がある。
タオルで隠せばいいとか、そういう問題じゃない。
隠れ身の術では隠しきれない。
忍ばない。
忍んでいないものが――ここにはある。
「に、忍法! 水遁の術――!」
僕は破れかぶれに叫ぶと、湯船に深く潜って、下半身をガードした。『彼』が忍ぶまで、じっくりたっぷり潜水した。
もう一度、気絶した。
(第51話 風使いと「雑誌」(1)終わり)




