第50話 風使いと「イス」
※ちょこちょこあった誤字脱字を修正しました。
「じゃあ俺はカプチーノで。爽介君はどうする?」
スレンダーな店員さんに声を掛けたあと、テーブルの向かいに座る彼――駒瀬さんは、僕に笑顔を向けた。体操のお兄さんみたいな、突き抜けて爽やかな笑顔だ。
「えっと……、じゃあカフェオレで」
「甘い物は?」
「いえ、大丈夫っす」
「なんだ、遠慮しなくていいんだぜ? このくらいおごるからさ」
「いやホント、大丈夫ですから」
しかし彼は気を悪くするでもなく、そうかい、と微笑んで店員さんへオーダーを通す。
「いやあ、爽介君って、聞いてたより大人しいんだね」
「そ、そうすか?」
「もっとヤンチャな感じかと思ってたよ。みーちゃんから聞く限りはさ」
――!!
みーちゃん! みーちゃんと来たか!
うっわー、マジか。
「その、こういうの初めてで、緊張してまして……」
「気を遣わなくていいのに。まあ俺もびっくりしたけどさ……でも嬉しかったよ。偶然とはいえ、君と会えて良かった」
歯の浮くような台詞を真顔で言う人だ。優しそうな目つきと細い顎。老若男女、誰が見ても好感を持ちそうな手入れの行き届いた髪型――存在には薄々勘づいていたけれど、『駒瀬柊希』という名前は今日初めて耳にした。会うのももちろん初めてだ。
どうやらあちらは、僕のことを大人しい高校生男子として――害のない普通の少年と捉えて――さほど悪い印象は抱いていないようだが、僕にとって、それはどうでもいい事だった。少なくとも、今は。
「たまには近場でデートしてみるもんだね、みーちゃん」
駒瀬さんは、隣の彼女に笑いかける。
ん?
みーちゃんって誰かって?
美山?
――そんな馬鹿な。
はは、笑止千万だね。あり得ないね。僕の斜め向かいに座る彼女は、あんな女の子らしい、キュートで、可憐で、儚くて、触れたら折れそうな令嬢ではない。
そこに居るのは――
「そ、そうね。うふふ、こんな事もあるのね。ワタシ、トテモ、タノシイワー」
僕は彼女を直視できない。うふふって何だ、うふふって。
「どうしたの、みーちゃんも緊張してる? でもこうして見ると、よく似た姉弟だね」
「ソウカシラ。ウレシイワ。ワタシタチ、ナカヨシ姉弟デスモノー」
だから、片言はやめてくれ。目も怖いから……。
彼女――僕の姉である風見美鳥は、冥界の主みたいなドス黒いオーラを巻き上げて、恋人である駒瀬さんの隣で、地獄のような笑顔を咲かせている。
しかし、駒瀬さんが顔を向けると、彼女は一変して柔和な笑みを湛え――視線を外すと、また僕を鬼のような形相で睨みつけてくる。
そう、彼女の目が訴え掛けてくる。『余計なこと喋ったらブッコロスわよ』と。僕も目だけで応じる。『僕はお姉様の奴隷です。全面的に支援させて頂きます』――。
姉弟間で、そのような殺伐としたアイコンタクトが行き交っていることなど露知らず、駒瀬さんは、
「思いがけず、楽しいティータイムになりそうだね」
と言って、にこやかに笑う。
知らぬが仏。
隣に般若。
こうして僕の、血塗られたティータイムは始まったのだった。
■ ■ ■
そもそも、今日はもっとのんびりした休日になるはずだった。部活休みの十月の日曜日、遊び相手も捕まらず僕は、自転車に乗って気ままな買い物を楽しんでいた。
書店を出て、ペダルをこぎ出したところまではまだ良かった。平和だった。しかし、しばらく行ったおしゃれなカフェの前で、二人に出会った。
美鳥姉さんと、その恋人である駒瀬さんだ。互いに大学生である。
姉さんに彼氏が居るであろうことは、雰囲気で気付いていた。彼女のそういうところは意外と分かりやすい。恋人の好みによって服装を変えるし、メイクも変化する。ダメ男に捕まりそうな性格だと思う。ちなみに、最近の彼女は清楚系。似合わない。
――いや、弟から見てもそれなりのルックスだと思うし、ファッションやメイクの腕も一定以上なので、あくまで表面的には似合うのだが、中身を知っている僕としては、似合わないとしか言いようがない。
どこが清楚だ。
営倉系女子だよ、どっちかと言えば。
もちろん、「最近、彼氏できたんじゃね?」なんて直接訊ねるのはNGだ。そんなふうに話し掛ければ、たぶん、「最近」の「き」ぐらいのタイミングで殺される。声のニュアンスだけで、その先の台詞を察するらしい。怖えよ。
だから、確信は持てないまでも、恋人が居ることに今更驚くことはなかったが、普段、知り合いに会わないように近所でのデートを避けているらしい姉さんと、この街でバッタリ遭遇するなんて思わなかったのだ。
凍ったね。凍りついたね、あの瞬間。
肩を寄せて歩く男女と、ママチャリに跨がる男子高生。沈黙を破ったのは、爽やかな笑顔の青年だった。
「あれ、もしかして君、爽介君? 写メのまんまだね。そうだ、これからお茶するんだけど、君も一緒にどう? うん、それがいい」
誰かに押し切られる姉さんという構図を、僕は初めて見た。唖然として戸惑う僕らを連れて、駒瀬さんは窓際の席に座ったのだった。
■ ■ ■
で、だ。
カプチーノを啜りながら、駒瀬さんは、姉さんとの思い出を楽しそうに語ってくれる。
「それでさ、みーちゃんは何て言ったと思う?」
「さ、さあ……」
「『ペットボトルから直接ジュースを飲むなんて、初めてです』だよ? どんだけ箱入り娘なんだろうと思ったよね」
「あ、あはは……」
嘘つけ風見美鳥! お前、2リットルペットボトルをラッパ飲みする女だろう!? なに猫かぶってんだ!
――とは思いつつも、口には出せない。曖昧に笑ってごまかすだけで精一杯だ。一方、猫かぶり女子はといえば、
「も、もう……、駒瀬君たら、恥ずかしいじゃない」
引きつった笑いを浮かべながら、駒瀬さんの肘を、人差し指でツンツンと突く。
いやだから、誰だよお前。
何だその声色。
そこはグーだろ? 鉄拳だろ?
僕の頬骨を何度も打ち砕いたようにさあ!
……なんて感じで、非常にストレスの溜まる会話が繰り広げられている。
■ ■ ■
一刻も早く、この凄惨な茶会が終わって欲しい……。僕ら姉弟は、珍しく想いをひとつにしていた。しかし神様は、そんな淡い願いを聞き届ける前に、大きな爆弾を投下した。
コーヒーカップを傾けたあと、駒瀬さんは意地悪く笑って、
「俺も、爽介君のこと『そーちゃん』って呼んでみようか? お姉さんの真似して、さ」
がしゃん――!
「お客様!?」
姉さんがコーヒーカップを取りこぼした。店員のお姉さんが、慌ててタオルを持ってくる。
「みーちゃん、大丈夫? やけどしてないか?」
「え、ええ、大丈夫……」
何だか、見てて哀れなほどに狼狽える姉さんと、それを気遣う駒瀬さん。姉さんは服にこぼしたコーヒーの染みを処理するため、席を立って、お手洗いにこもった。
駒瀬さんはバツが悪そうに、
「いやあ、ちょっと調子に乗りすぎたかな」
苦笑いを浮かべる。
まあどうやら、悪いのは姉さんだ。僕のことを『そーちゃん』と呼んでいる――なんて嘘を、駒瀬さん相手に吹き込んでいたのだろう。
確かに以前……といっても、幼稚園生くらいの頃だったと思うけど……彼女は僕の事を『そーちゃん』と呼んでいた。あの頃はまあ、そこそこ優しい姉だったと思う。でも今の姉さんに置き換えて考えると……うげ。気持ち悪い。
「みーちゃんって面白いよね」
駒瀬さんは頬杖をついて、
「からかい甲斐があるっていうか。隠し事が下手なんだよね。本人は気づかれてないつもりみたいだけど……ふふ、慌てる仕草とかこう、グッと来るよね。俺、精神的に責めてくの、好きなんだよな」
この人は――、彼女の弟に何の性癖を暴露してんだ。
……ん?
「あの、姉の隠し事……? 何のことすか?」
「またまた、とぼけちゃって。爽介君もすぐ顔に出るほうなのかもな。……俺って、勘がいいっつーか。彼女、君のことを普段はなんて呼んでるの?」
「な、何言ってんすか……もちろん『そーちゃん』って……」
無駄な抵抗っぽいが、姉との協定を守ろうとする僕。偉い。弟の鑑だ。
「ふうん、そっか」
何かを企むような顔で彼は、眉をつり上げて、
「じゃあそれでいいや。その代わり、俺のこと、『お義兄ちゃん』って呼んでよ。それでチャラにしてあげる」
「はあ!?」
「俺、一人っ子だからさ、弟、欲しかったんだよね」
「いや別に、姉さんと結婚するとは限らないでしょうよ」
「おっと辛辣だね。応援してくれよ、弟くん」
駒瀬さんは大げさに肩をすくめる。
姉さんが不在のせいで、どうやら、彼の標的が僕に変わったらしい。からかってやろうという思惑が透けて見えるようだ。
「駒瀬さんも、大概いい性格してますね」
「ああ、よく言われる」
……皮肉が通じねえ。っていうか、流されてる。
「自分で『S』だって言っちゃうやつに、大抵ロクなの居ませんよ?」
「そうかもなあ。……でも大丈夫! 安心していいよ」
「はい?」
駒瀬さんはグッと親指を立て、
「じきに癖になってくるから!」
今日一番の笑顔を見せて、ウインクする。
「……分かった、バカなんすね、あんた」
「それもよく言われる。鋭いね、そーちゃん」
僕はため息をついて、
「その『そーちゃん』ての、やめてくれません?」
「君が『お義兄ちゃん』って呼んでくれたら、考えてもいい」
「拒否します」
「じゃあ仕方ない。みーちゃんが戻って来たら、彼女にあの手この手で呼ばせよう。君のこと『そーちゃん』って……ああ、二人まとめてむず痒い気持ちになるんだろうなあ……楽しそうだなあ」
ぬぬ……、こんにゃろう……。
「『そーちゃん』でいいです。好きに呼んでください」
「呼んでくださいお願いします――だろ?」
このドS魔人め……!
「……『そーちゃん』と呼んでください。お願いします」
「うん、まあいっか。これからもよろしくな、そーちゃん」
「……はい」
何だろう、結局、僕だけ損してない?
この人がもしも姉さんと結婚したら……僕に自由はない! 断固阻止せねば……。
■ ■ ■
「駒瀬さんは、姉さんのどこが好きなんすか? 適当な気持ちなら――僕、認めませんから」
「直球で来たね。聞きたい? そうだなあ、たくさんあるけどね。……生々しい話になるけど、例えばキスのときなんて――」
「やっぱナシ!! 聞きたくねえ、肉親のそんな話!」
「はは、そうだろ? やめときな」
タチ悪いよ、この人……。
「あ、あとは耳を甘噛みすると――」
「ナシだっつってんでしょ!」
駒瀬さんは軽く笑うと、タイトスカートの店員さんにおかわりを注文してから、
「真面目な話」
僕に向き直って、
「君が認めてくれなくても、俺は諦めないよ」
と言った。
「どういう意味すか?」
「そのまんま。俺、本気だから。今はまだ彼女、全部さらけ出してはくれてないけどさ」
「そうっすよ。あの人、ガサツだし、怖えし、腕力強いし……あっちはあっちでドSですよ」
「それを屈服させるのがたまらない」
駄目だ、深刻なやつだ、この人。
「そういう所も含めて好きになったんだよ。いくら隠したって、見えちゃうから。……彼女にはまだ話してないけど、俺がみーちゃんのこと好きになったのってさ、ストーカー撃退したのを見たからなんだよ」
「ストーカー? 姉さんの?」
「いや、彼女の友達の。それまでも経緯は色々とあったらしいんだけど、とうとう大学にそいつが乗り込んで来てさ。友達の前に立ちはだかったところを……ああ、その辺から俺、その様子を見てたんだけど……怯える友達に代わって、みーちゃんが撃退したんだよ。罵って、そこから実力行使で……」
ああ、光景が目に浮かぶよ。むしろストーカーのその後が心配になる。
「俺が止めに入るまでもなく、瞬殺だったな。周りも唖然とする中、みーちゃんはさっさと警察に通報して、全部片付けちゃったんだよね」
「……まあ、姉さんらしいです」
「だよね。そんな子がだよ? 俺の前じゃあ、借りてきた猫みたいに大人しいんだぜ? 可愛いくない?」
「すぐに化けの皮、はがれますよ?」
駒瀬さんは、巨乳の店員さんが運んできた、追加のコーヒーに口をつけてから、
「だから、それでもいいんだって。それはそれで楽しそうじゃん」
「……はあ。分かりましたよ。好きにすればいいんじゃないですか? じゃじゃ馬ですけど、あんなのでよければ」
「頑張って乗りこなしてみせるよ。特典に、君も付いてくるしね。からかい甲斐のあるパートナーと、同じくらい楽しそうな義理の弟……いいね、俺の将来バラ色だなあ……」
「幸せな性格っすね」
駒瀬さんは「ありがとう」と笑って皮肉を受け流すと、
「でも、君もいい性格してるぜ?」
身を乗り出して、そう言った。
「さっきから俺と話しながらも、店員の女の子ばっか見てるだろ?」
「! ……そ、そんなことは」
「俺は、あの髪を束ねた子がいいね。ほらあの首筋。セクシーじゃないか」
「ね、姉さんがいるのに、そんな話していいんすか!?」
僕は声を低くして言う。
「これは別腹。……うーん、あっちの子は、もっとナチュラルメイクにしたら映えると思うんだけどなあ。和服とか似合いそう」
「確かに。胸はDカップなんで、さらしで巻いて、小さく見せれば似合いそうっすね」
「――んで、脱がした時に『おお、でかい!』って最高だよな」
「アリっすね。駒瀬さん、巨乳好きっすか?」
「いいやギャップ萌え。ほらあっちの子、いい肉付きなのに胸は……」
「ああ、分かります!」
何だか急に親近感が増してくる僕だった。……つーかこの人、彼氏とか義理の兄としては駄目かも知れないけど、男としては……アリだ!
「姉さんも意外と――」
「ああ、知ってる」
「……見たんすか?」
「いや、まだ。でも服の上からでも分かるだろ?」
「最低っすね」
「君だって、さっきカップ当ててただろ?」
「うちの親、もっと凄いっすよ……」
「マジか」
……などなど。
僕らは楽しく会話を交わしていた。
時間を忘れて、
『彼女』の存在を忘れて……。
「『そーちゃん』」
僕の背後から、深淵の縁から響き渡るような、ドスの効いた猫なで声がして――
「うふふ、すっかり駒瀬君と仲良くなったのね、『そーちゃん』?」
ぐわしっ――
悪魔の五本指が、僕の後頭部を捉えた。そのままギリギリと、万力のように締め付けてくる。
「大丈夫よ、『そーちゃん』。こんなところで、中身は飛び散らせないから。お片付けが大変でしょ? 家に帰って、ゆっくりね」
「ず、頭蓋骨を粉砕するおつもりで――!?」
僕は戦慄する。
「駒瀬くぅん」
「は、はい――」
姉さんは思いっきりの猫なで声で、
「また今度、ゆうっくりと、お話しましょうね」
「お、おう。はは、楽しみにしておくよ……」
彼の顔に、引きつった笑いが貼りついた。
「さ、帰りましょ、『そーちゃん』」
「い、嫌だあーーー! 帰りたくない、おうちに帰りたくないーーーー!」
高校生の僕は、手足をジタバタさせて思いっきり駄々をこねた。
■ ■ ■
その夜。
「アンタたち、まだやってるの?」
母さんが呆れた顔でそう言った。
「いい加減にしないと、爽介の腕、死んじゃうわよ?」
リビングで僕は四つん這いになり、お姉様の忠実なるイスに成り果てている。それは通算、五時間目に入ろうとしていた。
「大丈夫よ、適度な休憩とエサは与えてあるから。ね、爽介?」
「はいっ! ありがとうございます!」
と、言うしかない。
「私って、じゃじゃ馬らしいのよね」
「ふうん?」
母さんは首をかしげる。
「そういえば、今日は二人で出掛けてたの? 珍しいわね」
「いいえ。外でバッタリ会ったの。……ねえお母さん。今度、彼氏連れて来てもいい?」
「え! いいけど……初めてね、美鳥がそんなこと言うの。……イケメン?」
「イケメン」
母さんは何だか、そわそわし始める。気が早すぎるのだが、鼻歌を歌いながら台所の掃除に取りかかった。
そうして僕の背中の上で、我が敬愛するお姉様は、低く、重い声を発する。
「……ふふ、イスが増えるわ。いや、テーブルでもいいか」
――逃げて! お義兄ちゃん!!
僕は心の中で叫ぶのだった……。
(第50話 風使いと「イス」 終わり)




