第5話 風使いと「保健室」
保健室という響きに何らかのエロティシズムを感じない男子高校生は一列に並んでいただきたい。端から往復ビンタだ。
さて、先ほど職員室にて担任の高座山先生の前で少しばかり悪ふざけを披露して、彼女からご褒美……もとい、お仕置きとしてのハイキックを食らった、そんな夏の放課後だった。
で、運び込まれた保健室。
僕は二台あるベットの内の一つに寝かされていた。
■ ■ ■
残念なことに残念なのだが、我が校の養護教諭は、僕のストライクゾーンから外れている五十歳台のマダムだ。代々木先生。身長より横幅が広い、そんな体型をなさっている。
「高座山先生も悪いけどあなたも悪いわよ。まあ軽い脳震盪だからしばらくベッドで横になってなさいな」
「先生、精密検査と美人な看護師さんによる看護を所望します」
「大丈夫よ大丈夫。ツバでも付けときゃ治るから。先生が舐めてあげましょうか?」
「いえ! すこぶる快調であります!」
病は気から、僕の中の悪い気はどこかへ飛んで行った。養護教諭とは偉大だなぁ。
「それだけ元気なら大丈夫ね。じゃあ私、ちょっと会議に出てくるから。気分良くなったら帰ってもいいわよ」
分かりました、と答える僕を置いて彼女は退室した。
■ ■ ■
そうして僕一人になった保健室に、新たなキャラがログインした。
代々木先生が出て行ったドアがガラガラっと開き、誰かが入って来たようだ。しかし、僕のベッド周りには薄いカーテンが垂れ下がっていてシルエットしか見えない。
どうやら女子生徒のようだ。こちらに歩いてくる。
「B組の風見くん、だよね?」
カーテンの端から顔を覗かせ、女子生徒は僕に話しかける。ええっと、この子は確か、隣のクラスだったか?
「ん、そうだけど?」
僕は首だけ起こして、そう返した。
見覚えはあるような、ないような――。少なくとも、会話を交わすのは初めてだ。距離感が難しいな、こういう時って。
「私はC組の天馬。天馬 美津姫」
「天馬か。よろしく。肉が多過ぎず、薄すぎない、男子に好まれやすい良いスタイルだな。顔もなかなかの美少女、ぶっちゃけ好みだよ」
距離感こんなもんか?
「……ふふっ、風見くん、噂どおりの変人だね。B組のセクハラ王、歩く卑猥物」
笑顔を見せながら言う天馬。
「お、おう? そんな言われ方してんの、僕」
僕のニックネームについてはさておき、彼女のリアクションは意外だった。大概の女子は、(何故だか分からないが)僕が話しかけると激しく怒るか、引きつった顔で退散するか、僕のことを蔑むかするものだ。
初絡みでありながら、まさか微笑みで返されるとは思わず、だから少し焦ってしまった。
「有名人だよ。だいたい悪い意味でだけどね。悪目立ちするから、クラスが違っても目に付くし。みんな言ってるよ、人畜有害、全ての女子の天敵、嵐谷史上最大の汚点、とかとか……」
「よーし、それを言った女子の名前を一覧にして渡せ。片っ端から揉みしだいてバストサイズをひと周りずつ大きくしてやる」
悪を討つというだけでなく、悪行を働いた彼女らに対しても善行で返し、さらに僕の手のひらもハッピーラッキーという一石三鳥の対処案だ。
そんな僕に笑顔の天馬は言う。
「風見くんってバカで面白いね」
またしても慣れない反応だ。こいつ、まさか僕をおちょくってんのか?
■ ■ ■
「ん? そういえばお前、どっか悪いのか? 見てのとおり先生なら不在だぞ」
「んーん、私は違うの。保健委員だから……お仕事かな。先生のお手伝い」
「なるほど、ご苦労さまだね」
いえいえ、と天馬。
「風見くんこそどうしたの? 具合悪い?」
「名誉の負傷ってやつさ。僕ほど上等な人間になると、普通の人間が挑戦しないような壁にだって立ち向かわなきゃならないのさ。それ故の代償ってやつでね」
本心だし、本当のことだった。だいたい、僕以外の人間が『テストの方法を変えましょう』なんて職員室に殴り込んだりはしないだろう。
「ふーん、じゃあ『ご苦労様』って言うべきなのかな」
「礼を言ってもらいたいもんだな」
「『ありがとうございます風見大先生』って、こんな感じでいい? ふふっ」
深々とおじぎをした後、おどけたように僕に笑いかけてくる天馬。……やっべ、こいつ天使なんじゃね? ペガサスじゃなくてエンジェルだぜこりゃあ。
「なぁエンジェル美津姫」
「風見くんって脊髄反射で会話してるの? ペガサスは言われたことあるけど、天使かぁ。初めて言われたかも」
照れているのか、バツが悪そうに笑う天馬。いやでも脊髄反射って酷くない?
「えっとエンジェル、立ちっぱなしもアレだろう。どっか座れば」
「じゃあ失礼してっと。あ、私のことそっちで呼ぶんだ……」
天馬は、僕のベッドの端に腰掛ける。隣のベッドだとか、丸いすだとか――選択肢は色々あるだろうに、わざわざ僕の最も近くに腰掛ける天馬。
僕が手を伸ばせば届くような位置に座る天馬。
おやおや?
これは押し倒していいってことだな?
この小説ってR―18だっけ? 違うのなら今すぐ変更して欲しい。変更できる機能を実装して欲しい。僕のために。お願いします。
「風見くんって女の子の敵ではあるけど、悪人じゃあないよね」
「え? 何が」
邪な僕の心に、彼女の純粋な言葉が突き刺さる。痛い。やめてエンジェル。僕は悪人なのです……。
「だからさ、デリカシーが全くないから激しい言葉に聞こえるけど、女の子のこと、けなしたりしないでしょ? きっと風見くんにとっては悪意なんて無くって、褒め言葉、なんだろうね」
「そりゃあ当たり前だろう。僕は思ったことしか言わないけど、思ったこと全部を口にする訳じゃないんだ。それでも、褒められて嫌な女子はいないだろ?」
僕にだって好みがある。この子は可愛くないなぁ――と思うようなことも当然あるけれど、それを相手に伝えたところで建設的な会話になるとは思えないし。
「まあだからって、何言ってもいいってことじゃないんだけど」
天馬は白い歯を見せる。
「セクハラって、受け取る側がどう感じるか次第なんだから。そういう意味じゃ女の敵だよ」
「そんなものか」
「うん、そんなものだよ」
窓からのそよ風。天馬の髪が揺れる。もともと色素が薄いのか、夏の陽射しが当たってキラキラと光って見える。他愛ない会話だけど、もっとずっと続けていたいと思った。
彼女の涼し気な瞳が、僕を見つめる。ただそれだけで、僕の胸は高鳴る。
僕は上半身だけ起こして、
「天馬……じゃなかった、マイエンジェル」
「呼び方、安定しないね。何?」
「お前、Cカップだな。だからC組なのか? それもお椀型と見える。そして今日のブラジャーは薄い水色。まるで天使だ」
フラグを折りかねない、僕の照れ隠しである。
「だからそういうの、私は気にしないけど、人によってはセクハラに……って、何でブラの色が分かるの? もしかしてストーカーなの、覗き魔なの?!」
胸をかばうように肩を抱く天馬。
「違うって。いやほら夏服って透けるじゃん? だからこの位置からだとよく見えるんだよ」
「うわ……それはそれで引くけど。まあ、覗きにまで手を染めてたら本当に引いちゃうけど……うーんギリギリセーフかな? 微妙だね」
登校時に、女子高生のスカートに風を送ることを日課としている僕の胸が少し痛む。しかし、これは言わぬが花だろう。彼女の許容ラインを越えたくないという気持ちが僕にはあった。
■ ■ ■
「で、名誉の負傷ってどこ?」
「ああ、頭。軽く打っちゃって。もう大分いいんだけど」
「頭? これ以上おかしくなっちゃうと大変だね。ちょっと触るね」
ちょいちょい挟まれる毒舌。天馬は僕の額に手を伸ばす。もちろん素手だ。柔らかな感触。近づく顔と顔。
「どう? 少し楽になった?」
いやむしろ、心臓的な意味で言えば苦しくなった。むっちゃドキドキする。
ん、でも頭? 頭の方は楽になったような……。
「まあ、言われてみれば……なんだか」
天馬が手を離す。
「『手当て』って言うでしょ? 文字どおり、手を当てて相手の気持ちを安らげてあげると、楽になるってことあるらしいよ。ほら、風邪でうなされてるときとか、お母さんに背中を擦ってもらうと、落ち着いたりした経験ない?」
「あったような、なかったような……。でも確かに気分が楽になったような気がするよ。ありがとな。お前、看護師とか向いてるんじゃないの?」
天馬は少し目を丸くして、
「風見くんってやっぱり只者じゃないね。そうだよ、私、医療の道に進もうって思ってて。まだ決めてる訳じゃないけど、看護師か、それともお医者さんかなって」
看護師に、お医者さん――。
うーん……、アリ!
「ねぇ風見くん、いま頭の中で、私にナース服と白衣を着せてたでしょ?」
「何で分かった!? それぞれ5パターンの脳内試着会を開催していたことが!」
特にナース服だ。淡い水色、ピンク、パンツスタイルにワンピースタイプ……よりどりみどり!
「……その数には驚愕だけど。だいたい読めてきた、風見くんの思考。嗜好かな。ちなみにどっちが似合ってた?」
「うーん、難しい。難しいんだが。……僅差で白衣! 『薄幸の美女医』が僕の中で一位だった」
「幸せにはなれないのね、私」
きちんとつっこんでくれる天馬。
「でもお医者さんの方ね。うん、私の進路希望もそっちの方に傾きつつあったから、そうしよっかな」
「おいおい、そんな簡単に決めてもいいのか、人の意見で」
しかも『コスチュームで判断する人の意見』で、である。
「でもさ」
窓のほうを見て、天馬が言う。
「これでいいのかな、って思うこともあってさ」
「ほぼ初対面の僕で良ければ相談に乗るぜ。手当てのお礼だ」
天馬は薄く笑って、
「ん、ありがと。……私、自分で言うのも何だけど、風見くんが言ってくれたようにお医者さんとか看護師って向いてると思うの。性格が、じゃなくて、素質が」
「素質が? 『私なら上手くやれるわ』ってこと?」
「うん。偉そうに聞こえるかもだけどね。得意だろうな――っていう確信があるの。受験の方も頑張れば何とかなりそうだし」
「なんだ、いいことじゃないか」
根拠があるのかないのか知らないけど、やる前から自信がなくてどうするんだって話だ。過信だとしてもあるだけマシだ。
「でもね、えーっと。順番としてはまず『できそう』ってところから入って『面白そう』ってなって」
天馬は言葉を選びながら続ける。
「だから『尊い志』みたいなものはないの。ただ私を活かせるのがそこなんだろうなっていうだけで。人を治したいとか救いたい、っていう気持ちが先に立ってないのね。それでいいのかなって」
「いいんじゃねえの――」
僕は言う。
「腕のない医者より、ある方がいいだろ。それに天馬ならきっと、いい医者になれると思うぜ。ほら、今だって話してるだけで、僕、すっげえ楽になってるもん。癒される」
「そ、そうかな?」
天馬は、照れたように身をよじる。
「僕は応援するぜ」
僕はいつの間にか、彼女の手を掴んでいた。
「あ――」
放課後の保健室。
ベッドの上。
手を取って、見つめ合う二人。
僕は、天馬の体をぐっと引き寄せる。
「……ん」
目を閉じる天馬。心臓がどっくん、どっくんと大きく高鳴って、壊れそうに痛い。――と、僕の視界の端に、窓の外を歩く生徒の影。まだこちらには気づいていない。
気づかせてたまるか。これが僕の……、今が僕の、後にも先にもないかもしれない、僕の人生の最高潮なのだから!
僕は僕の才能――風使いの力を行使する。窓際のカーテンを揺らめかせ、外からの視界を遮る。これでいい。一秒だけ時間を稼げればいい。僕も目を閉じ、二人の距離はゼロになる。
――寸前、ガラガラッと無遠慮な音が部屋に響いた。
「おーい、風見いるか?」
僕を保健室送りにした張本人、スキニージーンズが似合う長身の女性、僕の担任にして学年一の人気を誇る高座山先生のご入室だった。ビクッと反応した僕と天馬は、慌てて距離をとった。
「ああそっか、ベッドか……あれ」
カーテンを引いて、先生が僕らを窺う。
「C組の天馬か。そういえば保健委員だっけ?」
「あ、そ、そうです。当番で。風見くんが寝込んでたのでちょっと心配で」
僕は慌てて口を挟む。
「せ、先生、どうしたんですか」
「あー……、いや、ほらな」
いきなりガバっと頭を下げると、
「風見すまん! いくらなんでもやり過ぎた。悪かった。申し訳ない」
どうやら先ほどの、僕の側頭部へのハイキックについて謝りに来てくれたようだった。
「さっき代々木先生に聞いてな。まだ保健室で寝てるかもって……」
マダム! 保健室のマダム!
ありがとう、僕の人生のハイライトとなるはずの一瞬を邪魔してくれて! 恋の病に落ちそうだった僕を救ってくれて!
「だ、大丈夫じゃなさそうだな、血? 血の涙が出てるぞ?」
悔し涙を拭い、僕は、
「いえ……。大丈夫です。それに僕も悪かったですから。すみません。ただひとつだけ、僕の夢の時間をぶち壊してくれた代わりに、お願いを聞いてはもらえませんか」
「夢? な、何だ。出来る範囲なら構わないぞ」
戸惑う様子の先生に僕は言い放つ。
「先生。明日からはタイトスカートを着て、ピンヒールのミュールを履き、毎日僕を踏みつけてください。僕はいつでも床に寝転んでますから。そしたら僕は天馬の膝枕で傷を癒します。そんな僕を叱って、また踏んでください。いや、蹴ってください」
僕は二人を交互に見ながら、
「で、また天馬の膝枕。……いや、そのお椀型の胸で抱きしめてもらって。このムチとアメ、閻魔と天使、脚と胸の無限ループで、僕はこれからの高校生活を過ごします。いいですか、毎日、毎日ですよ。一日たりとも欠かさずにです! 返事がありませんね? 理解しましたか? どうなんですか」
僕の熱弁に感動しているのか、先生がフルフルと震えている。一方の天馬は苦笑い。
スキニージーンズの女教師は、つかつかと枕元まで歩いてきて、右足のスニーカーを脱ぎ僕に言う。
「風見、動くなよ。いいか、絶っっっ対に動くなよ!」
靴下になった右脚を高く振り上げる。よくそんなに脚が上がるもんだと関心する僕。
「でやぁああぁっ!」
彼女は脚を振り下ろす――。
枕への踵落とし。かつて、僕の頭が横たわっていた場所だ。そこへ、ハンマーのような一撃が振り下ろされ、ベッドは、みしみしとしばらく揺れた。
……揺れてくれて助かった。僕のガクガク震える情けない姿を、天馬に気づかれずに済んだのだから。
■ ■ ■
その後、保健室に帰ってきた代々木先生に三人まとめてお説教を食らい、僕らはすごすごと保健室を後にした。
天馬と肩を並べ、下駄箱に続く廊下を行く。僕は何を話していいものか、珍しく言葉に詰まっていた。こんなチャンスを棒に振りたくなんてないのに。
「高座山先生、凄かったね」
と、沈黙を嫌うように天馬が話しかけてくる。
「ん、……ああ、そうだな」
どうにも今日の僕はおかしい。歯切れが悪い。いや、原因は分かってるんだ。
――よし言おう。
言いたいこと、言うべきことを。言わなきゃ何にも始まらないのだから。手に入れたいものも手に入らない。
「なあ天馬……」
「なに?」
跳ね上がる心臓を押さえて僕は、
「僕と……、僕と友達になってくれませんか!」
言えた。やっと言えた。きょとんと目を丸くする天馬。
「……ふうん、それでいいんだ」
彼女はそう言って一度目線を床に向けた後、
「うん、いいよ、お友達。こちらこそ喜んで。よろしくね」
僕の方を見て微笑む天馬。よっしゃ! 良かった。
「それじゃ握手、しましょ。友達の握手」
差し出される天馬の右手。僕もそれに応える。
「おう、よろしく」
こうして僕に、後輩でも、ライバルでも、師弟関係でもない対等な友達が出来たのだった。なんだか大きなチャンスを逃したような気がしないでもないが、今はこれでいいという気もした。
僕の一学期は、そんなふうにして過ぎていった。
(第5話 風使いと「保健室」 終わり)