第48話 風使いと「マイク」(1)
初めて――
という言葉には甘やかな響きがある。
生まれたばかりの頃は誰だって、それこそ初めて尽くしだっただろう。初めてのミルク、初めてのハイハイ、初めての伝い歩き。初めて幼稚園にひとりで通った日もあるし、徒競走で一等を取る喜びも経験した――またある時は、初恋に胸を焦がしたこともある。
もちろん、楽しいイベントばかりではない。失恋だってしたし、友人を殴ってしまったこともある。
しかし、それがたとえ甘かろうと、または苦かろうと――『初めて』は、忘れられない思い出になる。否が応にも、僕らの胸には深く刻みつけられるのだ。
初めて。
僕の――、
僕たちの初めて。
今日は、その記念すべき日の話をしよう。
■ ■ ■
駅前にある時計塔が、十二時を告げる鐘を鳴らした。僕は小走りに、自転車置き場から、待ち合わせの券売機前へと向かう。
十月のある休日。僕は、富南高校の小山と、剣崎工業の西野の二人と待ち合わせをしていた。
彼らとは夏の合宿で意気投合した陸上部仲間だ。ただし共鳴し合ったのは、陸上競技に対する姿勢ではなく、もっと個人の思想に深く関わる部分――分かりやすく言うならば、趣味や嗜好についてだった。
僕の趣味。
そして彼らの嗜好。
それはただひとつ。
女子だ。
それ以外にはない。あったとしても、比べものにならない。己の中で最も突き抜けた情熱が、そこにはある。
もはや、陸上部であるという共通項など何の関係もないくらいに、僕らはもっと深いところで意識を共有しているのだ。それぞれ好みのタイプに違いはあっても、女子に向ける情熱に違いはなかった。
■ ■ ■
先月は僕の提案で、とある企画を催した。それは、
『はしゃぎ切った夏はすっかり過ぎてしまったけれどだからこそこの時期の脇チラってレアで至高で究極だし見なきゃ損なレベルでヤバいしむしろ今が旬なんじゃねえのツアー』
……だ。
電車に乗り、都心の繁華街まで遠征し、僕らはひたすら脇チラを追い求めて、丸二日間、足が棒になるまで街を闊歩した。僕らは腐っても陸上部だ。そんな僕らの足が棒になるということは、果たして、どれほどのことなのか――各自で思いを巡らせて欲しい。
夜は池袋のネットカフェに泊まった。
広い席が取れず、カップル席に僕と西野が押し込められたのは苦い思い出だったが、そこは自分のくじ運を呪うしかない。……まあそれはともかく、ネットカフェを選んだのはもちろん、高いところのコミックに腕を伸ばす女子に狙いを定めるためだ。それ以外にはない。
これは犯罪ではない。
この国の法律を犯してはいない。
見てるだけ。
触んない。
セーフ。
たぶんセーフ。
■ ■ ■
で。
今日は西野が企画する番で、こうして最寄り駅に集められた――という運びだった。集合場所にはもう二人の姿があり、僕が近づくと、小山がひょいと手を上げて、
「よう風見。遅刻ギリギリだな」
と朗らかに笑った。
小山は合宿の頃よりも髪が伸びているけれど、全体的には好青年といった感じだ。やや面長だが顔は整っていて、三人の中では一番背が高い。流行に敏感らしく、爽やかなブルーのシャツに、ゆったりしたパンツを合わせている。着こなし感というか、こなれた感が強い。
一方の西野は、男と呼ぶより『漢』と言いたくなるようなルックスだ。
ごつごつした顔とがっしりとした体格が特徴で、いつも木訥とした雰囲気を醸し出している。今日はチェック柄のシャツを着ていた。一見、無難で地味な服装なんだけど……なぜか首元には、似合わない蝶ネクタイを巻いている。首が太いから、はち切れそうにぴっちり伸びている蝶ネクタイ。
なんだそのチョイス。
僕は何があってもいいように、動きやすい格好をしてきた。薄手のパーカーにジーパン、足下はお気に入りのスニーカーという軽装だ。準備はすぐに済んだのだが、
「悪い悪い、出がけに姉さんに捕まってさ」
因縁を付けられた――と言ったほうが感覚的には近いものがある。「あんた、また変な事しに行くんじゃないでしょうね」と、何の根拠もない理由で叱られたのだ。
――まあ、大正解ですよお姉様。ちくしょう。
とはいえ、僕は今日何をするのか知らない。あくまで、西野がひとりで立てた計画なのだ。僕は彼を見て、
「よう西野、今日の予定は? 読書の秋、スポーツの秋、性欲の秋……どんな企画でいくんだ?」
「不穏な単語が混じっているな……いや、テーマは性欲の秋で間違いないのだが」
眉ひとつ動かさず、西野は深く頷く。
「今日は正々堂々、正面から挑もうと思う」
武士のような迫力をもって西野は、僕と小山の目を交互に見ると、
「ナンパをする」
と、単刀直入に言った。
そう、これが今回の僕たちのミッションだ。富南高校の小山に、嵐谷高校の僕こと風見爽介。そして剣崎工業の西野の三人。人呼んで、『富嵐剣トリニティ』である――!
……いやまあ、だから、僕らしか呼んでないんだけど。
■ ■ ■
僕らは場所を移した。
電車に乗り、隣町へと移動した。商業ビルが建ち並ぶ、女子に人気のショッピングスポットまで足を伸ばしたのだ。まずはファストフード店に入って、じっくりと作戦を練ることにした。二階から通りを見渡して、現状を視察する。
「お、あの子よくないか? ショートカットの」
小山が弾んだ声で言う。
「うーん、いや、隣のCカップのほうが、素敵なくるぶしをしていらっしゃるぜ」
「……どこ見てんだよ。風見の脚フェチは重症だな」
「脚フェチじゃねえよ。ただの『くるぶしファン』だ」
「奇特さは増したよな、それ……」
などと、僕らが、いつもの他愛のない、可愛らしく、かつ男子高校生らしい健全な会話を交わしていると、西野がおもむろに口を開いた。
「今日の目標を発表したい」
両肘をテーブルに突き、口の辺りで指を組む。その迫力たるや、どこぞの特務組織の総司令官ばりだった。人類を補完しそうな気迫に満ちあふれている。
「今日は、行くところまで……行く!」
僕は、生唾を呑み込んだ。
第一種警戒態勢だ。
「行くって、お前……マジか!? その……イっちゃうのか?」
「ああ。僕は今朝、冷水で身を清め、その覚悟を決めてきた。もう昨日までの僕ではない。そして明日からの僕は、今までの僕ではなくなるのだ――大人になる」
「な、なんてこった……!」
こいつは今日、大人の階段を登る覚悟で蝶ネクタイを結んできたのか! なんて童貞紳士だ!! ……って、いやいや、気合の入れ方おかしいだろ。男子校で何をこじらせてんだ。
「ひとりでそんな覚悟を決めんじゃねえよ。先に言ってくれないと、その……、僕たちにも準備ってもんがだな……」
僕は向かいに座る小山に視線を向ける。彼も西野の宣言には、困惑した顔を見せていた。
「む……」
西野が唸る。
「てっきり、君たちは既に体験済みだとばかり思っていたのだが……。共学ともなれば、チャンスは毎日転がっているのではないか? そこかしこで見かけると、聞いたことがあるのだが――」
「そんな乱れた学生性活は送ってねえよ……。つーか、そんなもん見かけたら授業どころじゃねえっての」
小山もこくこくと頷く。西野は「む……」と少し考え込んでいたが、
「そうか。夢を見すぎていたか。君たちなら、女子と手を握るくらい日常茶飯事だと思っていたのだが」
「…………」
こいつ。
「お前、もしかして『行くところ』までって……」
「当然だ。女子の手に触れることだ」
「あのさあ、『その先』には行こうとしないわけ?」
小山が訊ねる。
「む? 口づけや愛撫、それに性交か?」
「――っバカ!」
小山が慌てて西野の口を抑える。彼らの後ろのボックス席で、女子中学生らしき集団がこちらを見て変な顔をした(僕にとっては見慣れた表情だ)。
「そのようなことは、婚前にすべきではない。初めての接吻は神の前で行うものだ」
「神の前?」
「結婚式だ」
西野のこじらせっぷりを甘く見ていた。……なんだろう、こいつは夢見る少女なのか? 純情なのか? その程度の意識で風呂を覗こうとしたり、脇をチラ見してたのか? どんな精神構造をしているんだ。
「故にナンパだ。通りすがりの女性とならば、行きずりの恋もありだろう」
僕と小山は、ため息とともに肩を落とす。
しかし、僕ら『富嵐剣トリニティ』には暗黙のルールがある。それは、企画者の意向を全面的に取り入れる――というものだ。
と、いうことで。
仕方なく、僕らはピュアな蝶ネクタイ野郎・西野を先頭に街へと繰り出した。
■ ■ ■
「では、僕から行こう」
西野がそう宣言した。ためらいを感じさせない強い声色だ。
ファストフード店前の遊歩道へと、彼は一歩を踏み出す。ターゲットは、右方向から歩いてくる二人組のようだ。同い年か少し上くらいで、地味めな雰囲気の女子だ。
「おい……、止めなくていいのかよ風見」
小山は、西野の背中へ不安げな視線を送る。
「本人がやる気だしなあ。それに意外とさ、西野みたいに真面目そうなタイプのほうが、話を聞いてもらいやすいかもだぜ? ……お! ほら、んなこと言ってたら、足止めてくれたぞ」
西野は二人組の前に立ちはだかるようにして、何やら話し出した。彼女たちはといえば、警戒しているような仕草は見せるものの、それでも、一応ちゃんと話を聞いてくれているようだ。
しかし、やがて女子の一人が、右手を振りかぶり、西野の頬に振り下ろした。彼女たちは足早に去っていく。
「……風見」
「言うな、小山。まずは戦士の帰還を待とうじゃないか」
西野は固い顔のままこちらへと戻ってくる。左の頬が、紅葉みたいに赤く腫れていた。
「すまない、失敗した」
僕は、西野のごつごつした肩に手を置いて、
「んで? なんて話し掛けたらそんなことになるんだ?」
「『僕と手を握ってくれ。一緒に大人になろう』――」
駄目だこいつ。電波系の怖さがある。
「――ったく。じゃあ僕がお手本を」
「待った、風見」
小山が割って入る。
「お前が行っても失敗するに決まってる」
「なんでだよ、そんなの分からねえだろ?」
「分かるよ。お前が話し掛けるのはリスキー過ぎる」
小山が薄く笑う。
「俺がちょいちょいっとお手本を見せてやるからさ。まあ任せとけ。こういうのは、獲物の選び方が重要なんだよ」
そう言って、首を巡らせながら通りを物色する。やがて、三人組の女子に照準を定めた。高校生のようだが、明るめの髪色で、派手な格好をしている。
「じゃあ、ちゃちゃっと行ってくるわ」
気軽な様子で手を振る小山の背中を、僕は見送った。
■ ■ ■
しばらくして。
「ちゃちゃっと行ってくる……んじゃなかったっけ?」
「すまん」
小山は肩を落として小さくなった。
「せめて話し掛けなきゃ、何も始まんないだろ」
「すまん……」
彼の声は震えている。
結局、小山は誰にも話し掛けることなく、尻尾を巻いて帰ってきた。派手めの彼女たちに近寄ったはいいものの、そこで異変があった。大言壮語を吐いたはずの小山は、生まれたての子鹿のように足を震わせ、通り過ぎる女子をただ見送ったのだった。バンビっていうか、チキンだ。
その後も二、三組に声を掛けようとしたが、いずれも失敗した。青ざめていた顔は、今では真っ白だ。
「ったく。二人とも頼りになんねえな。いいか? 僕の勇姿をよく見てろ!」
そう啖呵を切って、僕は女子たちの元へと足をふみだ(以下略)
■ ■ ■
「よし、こうなったら仕方ない。最終手段だ」
両頬に大きな紅葉を付けた僕は、そう宣言した。
二人は疑うような顔をしている。だが今は、彼らの心情を慮っている場合ではない。これは、富嵐剣トリニティ発足以来、最大の危機なのだから。
「いいか? もはや、ひとりの力じゃ、目標達成は到底ムリだ。それはよーく分かった。三人で力を合わせなきゃ、成功しないだろう。けれど……、僕らが心をひとつにすれば、勝利は必ず掴める。僕らに――、富嵐剣トリニティに、不可能はないんだ……!!」
訝しがる二人の耳を集め、僕は最後の策をささやいた。
ややあって。
ターゲットを慎重に探す僕らの姿が、そこにはあった。
通りを十分ほど見回していると、うってつけの獲物が見つかった。やはり同年代の、三人組だ。ひとりは黒髪ロングの文化系っぽい女子。あとはショートカットで小柄な猫系女子と、背の高い巨乳女子だ。
「行くぞ! 同志たち!!」
僕のかけ声で、三人は同時に地を蹴った。彼女たちの眼前に躍り出て、一斉に地に伏せた。膝を折り、大地に両手をついて、額をこすりつけ、懇願した。
はい、せーの、
『お願いします! 僕たちと遊んでくださいっ!!』
息ぴったり。プライドをかなぐり捨てた、富嵐剣トリニティ渾身の土下座である。
(第48話 風使いと「マイク」(1)終わり)




