第39話 風使いと「ブレザー」
《まえがき》
今回は一話完結、夏に間に合わなかったホラー。一応コメディもありますが、ホラー要素も多めです。七不思議編がまったく怖くないので、その代替でもあります。
それでは部屋を暗くして、ごゆるりとお楽しみくださいませ……
ヘッドライトが、真っ暗な隧道の入口を照らした。
ようやく車一台が通れるほどの細い隧道だ。岩盤を削ったままの歪な壁面からは雨水がしみ出している。昨日から降り続いていた雨は――今は、もうやんでいる。
ただでさえ人気のないこの山道は、冬の夜空の下で静まりかえり、まるで世界から切り捨てられたかのように、暗く沈んでいた。
男は隧道の手前に車を止めて、ライトを消した。途端、闇は深くなる。
車の外に出ると刺すような寒さが襲ってきて、男は首をすくめた。持参した懐中電灯を片手に、トランクを開けた。
荷物は――ある。
間違いなくある。
トランクを確認したあと、男は懐中電灯で辺りを照らした。光は十数メートルほど先の空間を照らすが、その先は闇に溶けて消える。周囲にあるのは、ほら穴のような隧道と、黒くそびえる針葉樹の森。あとは、通ってきた細い山道だけだ。
山道の脇は、緩やかな崖になっていた。樹木もまばらで、斜面は落ち葉に覆われている。
――ここにしようか。
男は迷った。
より確実に隠すのなら、もっと別の方法があるかもしれない。
けれども、一刻も早く荷物を手放したいという衝動に駆られて、男は決断した。
トランクの中から、毛布に包んだ荷物を取り出す。
積み込んだときと同じように、それはとても重かった。持ち上げるのには相当な苦労が必要で、足の部分をトランクの端に強くぶつけてしまったが――しかし、彼女にはもう足は必要ないのだから、気にすることはないだろう。
引きずるように道の端まで運んで、棄てた。
崖を滑らせるように転がして、彼女の死体を棄てた。
かつて彼女だったそれは、雨に濡れた落ち葉を巻き込みながら、ずるずると地の底へ向かって落ちていった。
「真奈美――――」
男は斜面を懐中電灯の光で撫でながら、小さくこぼした。そこでようやく、自分の吐く息の白さを見て取った。どうやら随分と呼吸が荒くなっていたらしい。汗が冷えて身震いをした。そうして、震える手でハンドルを握り、山を下りていった。
■ ■ ■
疾風丸――
それが僕の愛車の名前だ。
高校に入学するとき、小さな自転車屋で購入して以来、ほぼ毎日乗っている。特に一年の二学期からは、とある事情により、毎朝、長時間のサイクリングに付き合わせている。
時には獲物を仕留めるために急加速したり、またある時は、女忍者の追跡から逃れるためにブロック塀の上を爆走してみたり。
いわゆるママチャリなので、本来の性能をはるかに超えて酷使していることになる。だからこそ、メンテナンスにはよく気をつけていて――自分の手だけでなく、ちょくちょく自転車屋にも持ち込んだりしている。
……まあでも。
パンクは仕方がない。そんなこともある。
しかしこの場合、時と場所が問題だった。迷い込んだのは山の中。しかも早朝。人通りなんてまったくない。
朝の通学路で、僕は遭難した。
■ ■ ■
「う……圏外かよ」
電波も入らないことを知って、僕は肩を落とした。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
僕は毎朝、ルートを変えて通学している。それはまあ、健全な男子のやむを得ない事情というやつなのだが……ここでは割愛。
――今日は峠を攻めてみよう。
峠を越えれば、新たな新境地が開けているかもしれない。そんな淡い期待を胸に、この山道に分け入ったのが午前六時十五分。暦の上では秋だが、冬の気配が近づく十一月。辺りはまだ暗かった。
それからしばらく坂道を登って、ようやく下りが見えてきたと思ったら、また登って。
神社のような小さな祠があって、道が分かれていた。左に進んだ。そこから更に登ったり、下ったりして――ほら穴みたいなトンネルの手前まで来たところで、タイヤが止まった。後輪がパンクしていた。
いくら『風使い』の僕であっても、何の道具もなしにパンクの修理は難しい。
自転車を手で押しながらの下山も、きっと大変だ。とはいえ、僕の愛車を――生死を共にした相棒を――こんな山奥に置き去りになんてできない。それくらいなら、僕は一緒に朽ち果てることを選ぶ。
電話で助けを呼ぶこともできない。地味にピンチ。
そんな時だった。
トンネルの入口に、髪の長い女の人が立っていた。
■ ■ ■
その人は、薄暗い中に立っていた。黒い髪で顔が隠れているけれど――きっと美人だ。僕の直感がそう言っている。
お腹の辺りに赤い刺繍が施された、タートルネックのセーター。
足首まで伸びる、黒いロングスカート。
足下はなぜか靴下だ。
靴を履いていない。
こんな山の中で大丈夫なんだろうか。なんだか、ぼんやりと突っ立っている。
「えっと、おはようございます」
取りあえず声を掛けてみた。もしかしたら遭難仲間かもしれない。
彼女はこくりと、首を縦に振っただけだった。恥ずかしがり屋さんらしい。
僕は近づいて、
「あの、僕、立ち往生しちゃったんですけど。あなたもですか?」
「…………ええ」
抑揚のない静かな声で、彼女は応えてくれた。前髪がはらりと揺れて、顔が見えた。やっぱり美人だ。眉目は整っていて、蠱惑的な瞳をしている。僕が見惚れていると、細い顎が動いた。
「私、山を下りたいのだけれど」
トンネルの中で残響するような、不思議な声だ。
「僕もなんですけど、タイヤがパンクしちゃって。困ってるんですよね」
僕は頭を掻きながらも、思わぬシチュエーションに――
うきうきしていた。
うん、彼女の胸にそびえる二つの峠。具体的には……Eカップだ。セーターはしばしば、露出が少なく色気とは無縁に思われることがあるが、むしろ想像力をかき立てられることから、実はかなり刺激的だったりする。これは僕らの業界では常識だ。
ロングスカートで脚は見えないが、間違いなく美脚。僕の遺伝子がそう叫んでいるから間違いない。
肌は白い。もはや青いというくらいに白い。
寒いのだろうか。
「これ、着てください」
僕はブレザーを脱いで手渡そうとするが、
「結構よ。――寒さなんて、私はもう感じないのだから」
「ああ、僕もどっちかっていうと夏の暑さのほうが堪えますね。寒いときは動き回れば暖まりますもんね」
なにが可笑しかったのか、彼女は静かに笑った。
口紅の赤が、大きくゆがんだ。
■ ■ ■
「ここから動けなくて困っているの」
お姉さんはそう言った。
「靴、どうしたんですか?」
彼女の足元は白い靴下だけ。アスファルトで舗装されているとはいえ、山道を歩く格好ではない。……いや、そもそも靴を履かずに外を歩くこと自体、なかなかないと思うが。
それなのに、こんな山奥まで。
うっかり履き忘れた――なんて、サザエさんでもそんなミスはしないだろう。
「あれ?」
お姉さんの動きがぎこちなくて、僕は気づいた。
「右足、ケガしてるんですか?」
彼女は片足を庇うように立っている。
「ええ、ちょっと。……ぶつけられたみたいで」
お姉さんは伏目がちに頷く。
僕はポケットからハンカチを取り出して、彼女の足元にひざまずく。
「ここに、足を乗せてください」
「……あなたの膝に?」
「はい。足首を固定しますから。靴下脱がせますね」
お姉さんは怪訝そうにしていたが、僕の言うことに従って、膝の上に右足を乗せた。僕はチェック柄のハンカチを使って、捻挫しているらしい足首を固定してやる。陸上部員ならこのくらい、朝飯前だ。
「よし――と。これで少しはマシになると思いますよ」
「…………ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ」
「…………?」
「あ、何でもありません」
危ねえ危ねえ。『好青年を装って綺麗なお姉さんの足を眺めよう』という僕の魂胆を、危うく見抜かれるところだった。
「まあ、とはいえ。うーん、どうしたもんかなあ」
状況は変わらない。
むしろ、足をケガしているお姉さんを連れての下山となれば、難易度は上がった。
「パンク……したのね。どの辺りかしら?」
「後輪です。何かを踏んじゃったのか、完全に空気が抜けちゃって」
お姉さんはひょこひょこ歩いて後輪の辺りにしゃがみ込むと、タイヤに触れた。やがて僕を振り仰ぐと、
「……パンク、してないみたいよ」
「いやそんなワケ……え? 本当だ……」
確かにパンクしていたはずなのに――お姉さんに言われて触ってみると、しっかりと空気が入っていた。くるくると一回転させても、どこにも穴はない。
僕の勘違いだった? いやでも……
「ねえ、お願いがあるの――」
お姉さんは立ち上がると、生気のない顔で言った。
「私を、後ろに乗せてくれないかしら」
■ ■ ■
今まで、疾風丸に乗せたことのある女子はひとりだけ。夏休みに天馬と買い物に行った帰り、彼女を送っていったときだけだ。
だから――という訳ではないのだが、少し躊躇いはあった。
けれどもパンクが気のせいで、自転車が動くのなら――お姉さんをこのまま放っておくわけにもいかず、結局僕は承諾した。
「よしっと。じゃあ後ろ、乗ってください」
「助かるわ」
相変わらずの平坦な口ぶりでお姉さんは、自転車の荷台に腰掛けた。横向きだ。そして彼女の腕が僕の腰に回された時――
僕は、今までにない感覚に襲われた。僕の中の理性ではない何かが、これは危険だと告げていた。
手足が動かなくなる。
息が荒くなる。
視界が真っ白に飛びそうに――なる。
喉が押しつぶされそうな錯覚を受けながらも、僕は必死で口を動かした。
「あ、……む…………」
しかし言葉にならない。
「どうしたのかしら――」
背中で冷たい声がする。
「なにか、怖いものにでも会ったのかしら……」
まるで背後にあるトンネルから這い出して来たような、そんな声がした。
「う、あ――」
違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。
「む、むむ――!」
「むむむ?」
勇気をふりしぼれ――――僕!
「お、お胸さまが! 背中に当ってらっしゃいます!」
「…………ん?」
お姉さんは背中にしがみついている。それはつまり、彼女の胸部が押し付けられているということだ。この感触は――恐ろしい!
男を駄目にする感触だ。なんてことだ。金縛りにあったかのように、全身が動かない。怖い。大人おっぱい怖い。男の本能って、怖い。
「E……Eカップ、ば、ばんざい!」
言ってハンドルに突っ伏した僕を、お姉さんはしらばく無言で見守ってくれていた。
■ ■ ■
「き、気を取り直してまいりましょう!」
「ええ。お願いね」
震える僕のことなどお構いなしに、お姉さんは同じ体勢で胸を押し付けてくる。
ここで踏ん張らなければ男じゃない。背中の感触を理性でシャットアウトしながら、僕はペダルを踏む。タイヤさえ回ってくれればこっちのもんだ。上り坂であっても、追い風に背中を押されて僕は登る。
「風、ちょっと強めにしてますけど、大丈夫ですか」
僕は振り返らずにたずねる。
「……あなたって、変わった人ね」
お姉さんは胸だけでなく、頬までぴったりと背中に密着させている。彼女の声が、背中に響いて聞こえる。
体温は低いらしく、触れ合っている部分は温まるどころか、どんどん熱を奪われている気がする。不思議だ。
「お姉さんのほうが変わってますって。こんな朝から、こんな山奥に」
「それは、お互いさまでしょ」
「まあ確かに」
僕たちは笑い合った。
空にはもう太陽が登っている頃だというのに、僕らの進む山道は、うっそうと茂った木々に遮られて薄暗いままだ。時折、湿った落ち葉をタイヤで踏みながら、朝もやの中を自転車は進む。
「それにしても、胸を押し当てたくらいで動揺するだなんて――あなたはまだ、女の子を知らないのかしら」
「ど、どういう意味ですか?」
「女の子の味。――知らないんでしょ」
「あ、味? ……どういう、意味ですか?」
僕は馬鹿みたいに、同じ質問を繰り返す。
「知りたい?」
「わ、わかりません」
「ふふ……じゃあ、教えない」
「う、ぐ…………」
気のせいでなければ、後ろから回されたお姉さんの指が――さっきから僕の腹筋をなぞっている。もちろん服の上からだが、何度も上下に往復しながら、じれったい速度で撫で回してくる。
「あ、あの。指――――」
「私、男の人の腹筋が好きなの」
「は、はあ」
「付き合っていた彼も、あなたみたいに素敵な腹筋をしていたわ」
「彼氏さん……ですか」
そうよ、と彼女はひんやりした声で言った。
「随分と前に、喧嘩して、それきり会ってないんだけどね」
「別れちゃったんですか?」
「彼から一方的に、ね。……仕方ないわ。彼には奥さんも、可愛いお子さんもいたから」
「それは……」
不倫、というやつだろうか。そして相手から別れを切り出された。正直、僕にとってはドラマの中の話のようで、どんなふうに声を掛けていいのか分からない。まあ、でも――
「状況はともかく。見る目ないっすね、その人」
「どうして?」
「こんな綺麗なお姉さんを振るなんて、もったいないっすよ――」
しばらく間があったが、お姉さんは、
「……ありがとう。じゃあ今度は、あなたとお付き合いしてみようかしら」
「う、えええ――?」
「冗談よ。高校生となんて、私が捕まっちゃうわ。……でもきっと、あなたは素敵な大人になるわ。その時は……また私、告白しちゃうかも。ふふふ」
「う、うす……」
からかわれているのだろうけど――これはきつい。照れる。顔が熱い。
「う、うっし! 飛ばしますよ、お姉さん!」
会話を続けるのが恥ずかしくなって、僕はペダルを踏む足に力を込める。
「頑張って、自転車少年くん」
お姉さんは、少しだけ弾むような声でそう言った。
■ ■ ■
しばらくすると、小さな祠の分かれ道まで戻ってきた。Y字型の交差点になっていて、ここを下れば町に戻ることができる。だというのに――
「もう、ここでいいわ」
お姉さんはそう言って、自転車を降りた。
「まだ先は長いですよ? 家まで送って行きますから、乗ってくださいよ」
「家まで……あら、会ったその日に女性の家に上がり込むの? ふふ、意外と積極的なのね」
お姉さんは上品な仕草で笑う。
僕はもう、翻弄されっぱなしだ。
「私は大丈夫よ。この祠を越えられないだけだったから。こんなもので私をここから出さないように……。おかげで私はあの男を――」
お姉さんは鋭い目つきで、祠の中に祀られているバスケットボールみたいな大きさの石を睨んだ。
けれど、すぐに僕に向かって微笑み、
「ともかく。ここまで来れば、あとはひとりで歩けるわ」
「いやでも、その足じゃ――」
「平気よ」
僕の申し出を、お姉さんは頑なに断る。
「えーっと、でも携帯とか持ってます? 誰か、呼びましょうか?」
「へえ、携帯電話って、そんな形になったのね。知らなかったわ。……ううん、もう、私を覚えている人は居ないだろうから。遠慮しておくわ」
そうは言うが、じゃあ、彼女は歩いて下山するつもりなんだろうか。
「――ねえ、代わりといってはなんだけど。あなたのお名前、教えてくれるかしら?」
「別にいいですけど……風見です。風見爽介っていいます」
「そう。いい名前ね」
「どうも……あの、お姉さんの名前は――」
その時、クラクションの音がして振り向くと、オンボロな軽トラックが山道を登ってきた。道の真ん中で話し込んでいた僕たちに向けて、クラクションを鳴らしたらしい。
僕が避けると、軽トラはすぐ横まで寄せてきた。窓が開き、
「兄ちゃん、こんな時間にそんな自転車で……何してんの?」
浅黒い顔のおじさんが、声を掛けてきた。
「ひとりでこんな山道を。危ねえぞ。この辺は幽霊も出るってウワサだ」
「いやあ、ちょっと迷っちゃって。あ、でも大丈夫です。ここまで来れば何とか――」
そこまで答えて、気づく。
ひとり?
振り返ると、お姉さんの姿はどこにもなかった。
ごとん、という鈍い音がして、祠の石が真っ二つに割れていた。
■ ■ ■
結局、僕は遅刻した。
もう一限目が終わる頃だった。次の時間は体育らしく、下駄箱で、ジャージ姿の蕨野に会った。
「あれ、風見くん。盛大に遅刻だね。大丈夫?」
「おっす、蕨野。いやあ、ちょっと寄り道しちゃって」
「高座山先生、心配してたよ。職員室に報告に行ったほうがいいかも」
「そうするよ」
僕がスリッパに履き替えようとした時、
「か、風見くん――」
蕨野の小さな悲鳴が上がった。
「背中……何か、書いてあるよ……」
「背中?」
僕は、蕨野が指さすブレザーを脱いで、確かめた。
そこには、赤黒い泥のようなもので、文字が書いてあった。
「なんて読むんだろうな、これ」
「なんだろう……」
蕨野と顔を見合わせる。
「うーんと、『マナミ』……かな?」
蕨野は自信なさげに首をかしげる。
「マナミ……。そっか。マナミさん、っていうのか、彼女」
「彼女?」
「ん? 僕、なにか言ったか?」
「え、いま……ううん、なんでもない。私の空耳かな」
僕は何も言っていない。――と、思うけど。
蕨野はいまいち納得していない様子だった。しかし、そろそろ授業が始まる頃になったので、慌ててグラウンドに駆けていった。
僕は僕で、なんだかふわふわした気持ちのまま、職員室へと報告に向かった。
■ ■ ■
その次の日。土曜日。
僕は、朝からせっせと自転車を洗っていた。
ゆうべは遅刻したことと、ブレザーを汚したことで、母からきっちりと叱られた。別にそのせいではないと思うが、何だかよく眠れず、せっかく午前中はフリーだというのに、今日は早くから起き出していた。
僕の愛車、疾風丸も汚れていた。
昨日、お姉さん――マナミさんを乗せた荷台や、後輪の辺りに、ブレザーと同じような赤黒い泥がこびりついていた。水を浴びせてブラシを掛け、きれいに拭き取った。
「うし。これでオッケー」
疾風丸は、美しいブルーの輝きを取り戻した。
満足してリビングに上がると、美鳥姉さんがソファでくつろいでいた。もはや定位置だ。活気のない目でテレビのワイドショーを眺めながら、せんべいをボリボリとかじっている。
――なんでこんなに色気がないんだろう。
どうやら大学ではもっとキチンとしていて、男友達も多いらしい。確かに、メイクをして髪を整え、それなりの服を着れば――まあ、平均よりずっと上のビジュアルだとは思うけど――
「あんた、なにか失礼なこと考えてない?」
「い、いえっ! しょんなわけ、ないじゃないでしゅか」
振り向きもせず、姉は言う。
僕は、恥ずかしいくらいに返答を噛む。
これもいつもの光景だ。
ワイドショーでは、昨日起きたという獄中自殺のニュースを取り上げていた。キャスターたちは深刻そうな顔で――けれど、どこか他人事のような表情で言葉を交わしていた。まあ、他人事なんだろうけど。
「爽介」
「ひゃ、ひゃい!」
不意打ちだった。また噛んだ。
「あんたも、女には気をつけなさいよ。この男、浮気相手を殺して牢屋にぶち込まれたんだってよ」
「はあ……」
女性には気をつけている。特に、家庭内の女には――
「あん?」
振り向く姉。
いちいちドスを効かせないで欲しい。
つーか、なんで僕の心の声が分かる……。
僕の気苦労など知らず、テレビは映像を流し続ける。
どうやらニュースの男は、十数年前に交際中の女性を殺害し、遺体を捨て――しばらくして捕まった。裁判の後は檻の中で服役していたらしい。逮捕された当時、彼は競輪の選手で、随分と鍛えあげられたアスリートだったとか。
そんな彼が、昨日、無残な姿で発見されたという。
刑務所の中のことだし、ひとりの部屋だったので、『自殺』ということで処理されるはずだった。――しかし、どこから漏れたのか、あり得ない死に方であるということがネットで出回った。
いわく、『腹を切り裂かれ、右の足首を砕かれていた』のだそうだ。
動きを鈍らせるための『足首』が先ではなく、『腹』が先であることには、何か意味があるのだろうか。分からない。
さらには。
彼が殺した『彼女』の遺体――どこかの山中で発見されたらしい――と、その損傷の箇所が酷似していた。彼女も腹を刺され、足首を殴打されていた。そのため、好奇心まるだしの話題が、ネットでもテレビでも飛び交っていた。
「亡霊のしわざだってさ。女の恨みって、怖いわね」
あんたも女だろう、と心の中で呟きそうになって、踏みとどまった。
「――手遅れよ。文句があるならはっきり言いなさい」
「ご、ございません……」
怖い。怖すぎる。
ワイドショーのニュースなんて目じゃない。
僕はそそくさとリビングを後にして、二階にある自分の部屋へと逃げ込んだ。
なんとなく、クローゼットに掛けてあるブレザーを取り出して、眺めた。
(――マナミさんは無事に山を降りられただろうか。喧嘩したという彼と、再会したんだろうか。幸せになれたなら、いいけど)
うまく働かない頭で、そんなことを考えた。
彼女のことを考えようとすると、思考に靄が掛かったかのように、ぼんやりとしてしまう。なぜかは分からない。
ちなみにニュースの男が発見されたとき、彼の死体のすぐ側には、チェック柄のハンカチが落ちていたらしい。
しかし僕には、きっと関係のないことだ。
(第39話 風使いと「ブレザー」 終わり)
《あとがき》
はてさて、普段とはひと味違った話になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
この夏は初めてホラー短編を書いたりしていたのですが、その仕上げとして『風使い』にもホラー回を導入してみました。「ピアノ」編で書けなかった「あててんのよ」を挿入できたので、作者的には満足です。
しかし風見は、年上の女性と相性が悪いみたいですね。悪いというか、敵わないというか。高座山先生に始まり、美鳥姉さん、チカ姉ちゃんにも振り回されて、挙句の果てには母には頭が上がらない。……彼を押しとどめようとすれば、もしかしたら年上のほうがいいのかもしれませんね。
9月に入り、世の中の学生さんは2学期が始まったのですね。ざまあみろ! と、我々社会人どもはゲスな顔でほくそ笑んでおります。しかし辛い現実は、小説の世界で忘れましょう。
さて、次回は純正コメディ……になるといいのですが、まあ分かりません。
最近は更新が不定期ですが、来週からは【水曜日の朝7時】に固定してみようかなと思います。以前より更新頻度が落ちて申し訳ありませんが、引き続きお相手して頂けるとありがたいです。
それでは!




