第38話 風使いと「ピアノ」(5)【七不思議編】
為す術もない美山たちは、やむなくモーツァルトに従うことにした。天川は最後まで訝しがっていたが、
「それほど心配なら、その肖像画を下ろしておくといい。私の行動を不審に感じたなら破け」
「これが本体……いや、本来の依り代か?」
「然り。そんなものでは、夜な夜な目を動かすくらいしか出来ないがな」
モーツァルトはおどけて言った。
風見の体を、音楽室の隅に運んだ。天川が首なし胴体をお姫様だっこする姿は、二重の意味で気持ち悪かった。
美山たちは、風見の胴体が安置されているほうを見ないようにしながら、ピアノの周りでモーツァルトの話を聞く。肖像画は、天川が預かった。
「私が最後に作曲した曲を知ってるか?」
彼はそう切り出した。
美山たちは顔を見合わせる。
「――『レクイエム』だ」
答えられない美山たちに代わり、天川が指摘した。
「番号は『K.626』。確か、未完成だったが、死後に補完されたはずだ」
「はは、さすが長生き……いや、怪異なだけはあるな。そう、死者のための鎮魂歌を書いている最中に、私は死んだ。まるで自らの死に花を添えるように、そして、完遂できないままに……な」
モーツァルトは真面目な口調で語るが、そこに悲壮感はなかった。
「もしかして、それを完成させるために、幽霊になったんですか?」
蕨野がおずおずと訊ねる。
「ふむ、初めはそんな気持ちがないでもなかったが。次第にどうでもよくなった」
モーツァルトは天井を見上げる。背中を反ると、椅子の背もたれが軋んで音を出した。実体がある――ということなのだろう。
「まさか百年以上の時を越えて、こんな世界の隅、極東の国でも私の曲が聴かれることになるとはな。何というか、実感がないよ」
「実感がないのは幽霊だからでしょ」
相手が風見の顔をしているだけに、美山はつい、いつもの調子で突っ込んでしまった。
「ああ、確かにな。そうかもしれん」
しかしモーツァルトは愉快そうに笑う。
「実感はないが興味深いよ。私は私のために曲を作っただけだ。表現したいものを表現し、生きるために生み出した」
「アイデンティティのようなもの……ですか?」
「敬語はいらんよ、勇敢なお嬢さん」
モーツァルトは肩をすくめる。
「……まあ、そんな大したものではない。あの時代、音楽家は依頼主からの求めに応じて曲を作った。演奏し、オペラを上演し、日銭を稼いだ。私には確信があって、その才覚があった――というだけだ」
美山の目をじっと見て、言った。
「フロイライン、君の好きな曲を言ってみたまえ」
「え、私? でもクラシックは聴かないし……」
「何でもいいさ。私の守備範囲は広い。この体になって、色々と自由に楽しませてもらったからな。J-POP、ロック、パンク、雅楽、アニメソング……少し前からはボーカロイドなども嗜んだ」
モーツァルトは自嘲気味に、
「とはいえ、君たちがウォークマンやら、スマートフォンとやらをいじるのを、横で見ていただけだがな」
振り返ると、蕨野たちも苦笑いを浮かべている。
美山はモーツァルトに向き直って、中学の頃から聴いている男性ユニットの曲名を告げた。
「なるほど、恋心を綴った真っ直ぐな曲だな。君は、意外と純情なんだな」
「う…………」
風見の顔で言うが、浮かぶ笑みにはどこか優雅さというか――大人の余裕のようなものがあった。
途端、モーツァルトは目を閉じて鍵盤を叩く。主旋律は確かにリクエスト通りだが――アレンジが加えられ、原曲とはまた違うひたむきさと、切なさを感じさせた。
美山は、喉の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
ゆうべ読んだ少女漫画。映画にもなった人気のストーリー。劇場で聴いた、胸の奥に勇気が湧いてくる音楽……それがこの曲だ。
想像のなかの恋。
妄想のなかの涙。
モーツァルト――風見の横顔を見つめる目が、じわりと滲んで、美山は慌てて首を振った。
曲が終った。
「いかがかな。この手でピアノに触れるのは二百年ぶりだ。鈍っているようにも思うが――まだ捨てたものじゃなかったようだな」
慌てて美山は顔を逸らす。
「それで満足か、音楽家の亡霊よ」
天川が言う。
「おいおい、風情のないやつだな。……こういう曲も知ってるぞ?」
「な、これは――!」
ピアノがメロディを奏で出す。一段と軽快なリズム。絵本みたいな世界観。幼稚園で習うような歌――
童謡、『犬のおまわりさん』だ。
「う、うぬぬ――」
天川は何故かうずうずしている。踊り出しそうになる自分を、必死に抑えているような形相だ。『わんわんわわん』のフレーズが近づくと、特に。
何やら葛藤しているらしい天川を見て、美山たちは首をかしげた。
■ ■ ■
「さて、ウォーミングアップは終了だ」
「ま、まだ続けるのか……!」
天川は汗だくになりながら、必死でモーツァルトを睨む。
先程から天川が止めに入ろうとする度に、
『ラブラドール・レトリバー』
『よあけのみち(フラン○ースの犬 OP)』
『CHAMGE THE WORLD(犬○叉 OP)』
など、立て続けに何曲も。
一貫性がありそうな、なさそうな。そんな演奏会が繰り広げられていた。時折、どこかで犬の遠吠えが響いたような気がした。
「いや、お遊びは終わりさ」
真剣な表情をするモーツァルトに、さっきまで狼狽えていた天川は警戒心を高め、身構えた。
しかし美山は落ち着いていた。危険な事はもう起こらない。なぜだか、そんな確信があった。
「曲を作ろうと思ってね」
モーツァルトはそこで初めて物悲しげな顔をした。
「二百年。様々な音楽を聴いて創作意欲が湧いた。生きるためではなく、私はただ曲を作りたいと思った。……しかし、私の存在に気づく者は少ない。気づいたとしても一瞬だ。こんなチャンスは、もう二度とないかもしれない」
モーツァルトは手を差し出して、
「紙とペンを」
そう言った。
「え、紙? ルーズリーフでよければ持ってますけど……」
蕨野が答えた。バッグを開いて、モーツァルトが催促するままに、ルーズリーフを五枚と、シャープペンシルを一本。蕨野はまだ亡霊に怯えていたので、美山が代わりに手渡した。
「助かるよ」
モーツァルトは途轍もない勢いで、紙面に音符を落としていく。
ノートに新たに横線を書き加え、即席の五線紙をつくり、いくつもの音符を並べ、一度も書き直すことなく、わずかな時間で書き上げてしまった。
「完成だ」
「え、もう?」
美山は目を丸くした。いくら音楽の知識は浅くとも、モーツァルトが偉大な音楽家だということくらいは知っている。だが、作曲とは、こんなにも早く出来てしまうものなのだろうか。
「やっぱ、天才――か」
美山は呟く。
「天才? これはただの技術だ。研鑽の結果に過ぎんよ」
「ど……努力の天才……ですか?」
穂々乃木が、思い切ったように口を開く。
「『努力の天才』などという概念はない。天才とは、己が進むべき道を確信して、道の上にある苦難を当然のごとく受け入れる者を指す」
まるで教師が教え子にするように、モーツァルトは優しく諭す。
「『努力』とは、必要に駆られて行うものではない。むしろ求めるものだ。凡才が避けて通る障壁に、あえて立ち向かう。それが天才と呼ばれる人種だ」
「……ひ、ひたむきに頑張れる人が、天才……みたいな? それが才能?」
音楽家は、
「まあ、大きく外れてはいないが――少し違う。だが、平凡であるならなおさら、『努力』と呼ばれるものを、避けるべきではないよ。それでは、ただの怠惰に落ちる。『努力の天才』という言葉は、怠惰を戒めるための方便だろう。それに――」
眉を吊り上げて言う。
「生まれ持った能力など、それも単に技術だ。扱う人間がポンコツでは、何の役にも立たないさ。……そうだな、例えばこの少年は、天才ではないがポンコツでもない。自由人だ。その点では、私も少しだけ共感するところはある」
モーツァルトは楽譜をピアノに立てかけ、鍵盤に指を置く。
「この曲は君に……勇敢なお嬢さんのために作った曲だ」
その言葉に、一同の視線が美山に集まる。
「え、え? 私?」
美山はぎょっとする。手をパタパタ振り回して、
「な、何で私なのよ――うええ!?」
慌てふためく。
「君の見目麗しさに。友を想う心の強さに。そしてその真っ直ぐな勇気と、素直さに。敬意を表したい――そんな気分になったんだよ」
真摯な目で見つめられる。風見の容貌をした音楽家に、瞳を射抜かれる。
「なによ、それ……」
心臓が大きくなったり、小さくなったりを繰り返す。激しいテンポで、弾むようなリズムで。
「では、お嬢さん――」
モーツァルトは息を吸い込み、鍵盤を撫でようとしたが――
唇を噛んで立ち上がった。
「……どうやら、時間のようだ。これ以上は少年に悪影響を及ぼすかもしれない。それは、君としても……つまり、私としても不本意だ。残念だがね」
モーツァルトは横目で天川を見て、
「少し、じゃれ過ぎたみたいだ。いや、すまん。自業自得だな」
ため息とともに言った。
天川は、鼻を鳴らす。
「また別の機会もあろう。我々はそういう存在だ」
「ふ、そうだな」
モーツァルトは美山に向かい、おどけて笑う。
「私はいつもこうだ。つい、楽しくなってしまってね。演奏できずに申し訳ない」
「……やっぱり、あんたたちは似てるのよ。風見も、あんたも。お調子者なんでしょ。不本意だけど、慣れてるから」
「はは、それはどうも。……これは、君が持っていてくれないか」
モーツァルトは楽譜を揃えて、差し出してくる。
「え、でも私、楽譜読めないし」
「いいんだ。君に持っていて欲しい」
「う……分かったわよ」
美山は手を伸ばす。受け取ろうとした瞬間、
「うわ――」
どこからか風が吹いて、楽譜が舞った。
美山が視線を戻した時、もうそこに音楽家の姿はなかった。
はらはらと、五線譜が床に落ちた。
■ ■ ■
その夜。美山は翌日のテスト勉強のため、学習机に向かった。壁際にある漫画本の棚に、ポーニーテールの後ろ髪を引かれたが……
「ああ、ダメダメ!」
首を振って、邪念を引き剥がす。
物理の教科書を開いたところで、スマートフォンが鳴った。出鼻をくじかれる思いがして、美山はため息をつく。
確認すると、風見からのメッセージだった。
『例の曲、明日ソノちゃんに弾いてもらおうぜ! ついでにお前もファンクラブに加えてやってもいい!』
風見には乗っ取られていた時の記憶はないらしく、事情を説明しても生返事だった。ただ、今になって『園宮と接点を持つ大義名分になる』とでも発見したのだろう。
美山は、スタンプだけを返信してあしらった。
「……よし、やりますか」
改めて教科書に向かおうとするが――ふと思いついて、引き出しに大事にしまっていた譜面を取り出す。偉大な音楽家の直筆。けれど、美山には楽譜が読めない。
「私のための曲……か」
もう一度、スマートフォンを手に取る。音楽配信アプリを開いて、曲を検索する。
――ジャンルはクラシック。
検索ワードはモーツァルト。
アルバムを丸ごと買うのは、美山の財布事情からはキツいものがあったが……思いきって購入ボタンを押した。
風見には悪いが、園宮に演奏してもらうつもりはなかった。
あの曲を演奏していいのは、一人だけだ。
スマートフォンから流れる軽やかな音楽に浸りながら、美山は今度こそテスト勉強を始めた。
才能などなくとも、今、この時だけは頑張ってみよう。
そう思った。
(第38話 風使いと「ピアノ」(5)【七不思議編】 終わり)
(「ピアノ」編 了)




