第37話 風使いと「ピアノ」(4)【七不思議編】
「ふう……」
その日は午前中で放課になった。
高座山はコーヒーカップを傾けて、ようやくひと息つく。
風見たち四人を職員室に呼びつけ、先ほどまで怒鳴りつけていた……さすがに、暴力は振るわなかったが。
しかし、大事な中間テストだというのに、まさか自分の受け持つクラスが、あんなふうに荒れてしまうとは……。
(いや、私が何かを見落としていたのかもしれない。普段の何気ない出来事。そうしたストレスが、あの子たちをあんな行動に――)
そうだ。感情的になるのは悪い癖だ。もっと冷静に、生徒たちと向き合わなければ。高座山は自分で頬を叩いて、気を取り直した。
それにしても――
「あの子たち、天川先生と何処へ行ったのかしら?」
■ ■ ■
「ここが奴の根城だ」
天川に連れられて、美山たちは音楽室を訪れていた。
なんとかモーツァルトの幽霊を撃退できたものの、テストは明日も続く。もう一度、あんな真似をするのは勘弁だった。
だから今度こそ、完膚なきまでに退治してやる――
そう意気込む美山だった。
「でも、勝手に入っていいんですか、音楽室に」
蕨野が天川に訊ねる。
「問題ない。音楽教師の園宮なら、すでに我輩が手篭めに――ごほん。親しい仲になっている。鍵も快く貸してくれた」
天川が目を逸しながら答えた。
園宮はまだ若い女性教師で、生徒――特に男子からは『ソノちゃん』だの、『ピアノの妖精』などと呼ばれ、親しまれている。どうやら、非公式のファンクラブもあるらしい。
「……おい犬、てめえ、僕らのソノちゃんに手ぇ出したんじゃねえだろうな?」
風見が天川のネクタイを掴んで詰め寄る。
「我輩、人間のメスには興味がない」
「本当か……? おい、目を見ろっての。いいか、ピアノのペダルになって、ソノちゃんに踏まれたいって男子は大勢いるんだぞ? 下手したら、僕の立ち上げたファンクラブ会員・127人が、お前の鎮魂歌を奏でることになるかもだぜ……」
『きゅ、きゅーん』
「どこから声出してんだ、おい」
急に犬の怯えるような声がして、美山は辺りを見回すが――当然のように何も居ない。
というか、こんな事をしている場合ではない。
さっさと終わらせないと、今日もテスト勉強ができなくなる。美山は風見を制して、天川に訊く。
「で、どうすればいいんですか、あの幽霊を退治するには」
「ふむ、そうだな」
天川は襟を直しながら、壁の高いところにある肖像画の列を見やる。
「定石どおりにいくならば、あの肖像画を突いてみるのが手っ取り早いだろうな――ん? そこの女子生徒は何をしているのだ?」
振り返った天川の視線の先は――穂々乃木だ。
「…………ああ、そなたの奏でるピアノはまるで運命……! そうさ、僕の魔笛も吹いておくれ……! 魔王、不倫相手が来るよお義父さん!」
「あ、気にしないでください。この子、手遅れなんで」
どうやら肖像画を眺めながら悦に入っているようだ。
しかし、何故わざわざ『義理の父』にする必要があるのか分からない。もしかしたら昼ドラのようなドロドロした背景があるのかもしれないが……ともかく、穂々乃木に構っていると話が進まない。
美山はブンブンと手のひらを振って、天川を促す。
「――む、そうか。難儀だな」
天川は、穂々乃木に憐れみの視線を送って、肖像画に向き直る。
「とは言ったものの、どうしてくれようか……いっそのこと、引き裂いてみるか」
「その必要はない――」
途端、背後から――ピアノが置いてあるほうから、『ヤツ』の声がした。
■ ■ ■
「先程はどうも。随分と手酷く扱ってくれたじゃないか」
ピアノに頬杖を突きながら、モーツァルトはとろんとした目で、美山たちの顔を眺め回す。
「で、出た……」
妄想から帰ってきた穂々乃木が肩を震わせて、風見の背中に隠れる。
「出たわね。あんた、何のつもりなのよ」
美山は一歩踏み出す。
彼女はこれまで、優等生とはいかないまでも、真面目に、後ろ指を差されないような高校生活を送ってきたつもりだ。
――それが、あの幽霊のせいで台無しになった。
しかも、風見とひと括りにされて!
もはや、美山の怒りは限界に近いのだ。
「何のつもり? はは、そんな眉間にしわを寄せるものじゃないよお嬢さん。ほら、もっと笑って。そうだ、一曲プレゼントだ」
モーツァルトは目を閉じ、鼻歌を歌い出した。どこか間抜けな……けれども聞いているうちに、陽気な気分にさせるメロディだ。
音楽の素養がない美山には、何の曲か分からなかったが、
「即興さ」
モーツァルトは快活に笑う。
「君の声、君の瞳、君のふくよかな胸を眺めて思いついたメロディだよ」
「なっ――!」
美山は思わず胸をかばった。
「これって、もしかして凄く贅沢なことなんじゃないの?」
蕨野がつぶやく。
しかし美山はぶんぶんと頭を振って、
「か、風見……私、あいつ苦手。あんた同類でしょ? 何とか言ってやってよ」
「そうだな、天才は天才を知る――ってやつかな」
「そういう意味じゃないわよ……」
「まあ、任せろよ」
風見は拳を握って宣言する。
「おい、モーツァルトさんよ。その席はソノちゃんの物だ。それにな、美山の胸も、全校女子の胸も、全て僕のモノなんだ! 僕の許可なしに勝手に眺めるんじゃねえ!」
「誰があんたのだ!」
美山はスパーン! と勢い良く風見の後頭部を叩く。
「ほう……なかなか活きのいい少年だな」
しかしモーツァルトは真面目な顔になって言う。
「そういえば、教室で私に狼藉を働いたのも君だったな……ふむ。なるほど、君も普通ではないようだ」
「ほら聞いたか、美山? やっぱ天才には分かるんだって」
「はあ……」
美山は頭を抱えてため息をついた。
「尋常ではない能力を備えているな……」
モーツァルトは静かに言って、口の端を歪めた。
「いかん! 風見少年――」
天川が叫ぶ直前、モーツァルトの姿は消え――
風見の背後に現れた。
右手が、横薙ぎに振るわれる。
「――――え?」
風見の首が切り離されて――宙を舞った。
美山がその光景を理解した時、張り裂けんばかりの悲鳴が音楽室を覆った。
■ ■ ■
モーツァルトがかざした手のひらに、風見の生首がすとんと収まる。
頭部を失った胴体は、机をなぎ倒しながら床に転がる。
「……な、え…………?」
美山はあまりの出来事に言葉を失い、悲鳴を上げた蕨野と穂々乃木は、身を震わせてよろめいた。
「おや、お嬢さんがたを怖がらせてしまったかな。まあ落ち着いて――おっと」
モーツァルトの背中を目掛け繰り出された天川の手刀は、跳躍とともに躱された。
「君は……校内を徘徊していた犬か。なぜそんな成りをしている?」
「貴様に答える義務など――ない!」
天川はモーツァルトに向かって突進した。
直線的な拳を、モーツァルトは空いた左手でいなし、その場で一回転してみせる。まるでダンスを踊っているようだった。
「落ち着けと言っている。この少年は死んじゃいないよ」
モーツァルトは、目を見開いたままの生首を両手で掲げ、頭の上に持っていき――スポンと、被った。
ぎょろりと、風見の目が動き出す。
首から下は赤いジャケット姿のモーツァルト。
頭だけは、風見爽介。
「ん、と――」
首を捻って、ゴキン、と鳴らす。
「な、なんなのよそれ……」
美山は膝が笑って、立っているのもやっとだった。それでも、机に手を突きながら、気丈に振る舞う。
足を引くと、風見の胴体に当たった。下を見るのは嫌だ。しかし、恐怖に引き寄せられるように――視線を落とす。
胴体は動かない。血も出ていない。まるで時が止まったかのように、冷たい床に身を投げ出している。
「ああ、やはり馴染む。能力のほうも……」
ベージュ色のカーテンがふわりと揺れた。
窓は開いていない。
モーツァルトが、指揮をするように指を振った。
カーテンが千切れた。
ナイフでずたずたに切り裂いたように、細かくなって、舞った。
「うむ。どうやら問題ないようだ」
「貴様、その力を得て何とする……」
天川が牙を剥く。
「ん? 何も? ただ、この少年に居てもらっては私の存在も危ういのでね。ご退場願ったまでさ。なに、ささやかなお返しだよ」
風見の顔で、風見の声で、風見の眼差しで――モーツァルトは答える。
歌うように、笑う。
「ふっざけんな!」
瞬間、美山は床を蹴っていた。
走りながら椅子を持ち上げ、モーツァルトに向けて振りかぶり、叩きつける。
しかし、空中で止まった。
顔の前で、見えない壁に押し留められたかのように、どれだけ力を込めても――届かない。
「無駄だよ、お嬢さん。そこには空気の壁がある。破りたければ、大砲でも持ってくるといい――まあ、それでも足りないだろうがね。いや実際、とんでもないなこの少年は。その気になれば、この石造りの校舎ですら塵に返すも容易だろう…………」
モーツァルトは不敵に笑う。
「そう睨むな。安心しろ、すぐに済む」
音楽家の幽霊は、美山に向けて告げる。
「私はただ、ピアノを弾きたいだけなのだ」
(第37話 風使いと「ピアノ」(4)【七不思議編】 終わり)




