第34話 風使いと「ピアノ」(1)【七不思議編】 ※ロゴあり
「あー、私、世界史って全然勉強してないんだよね。やばいわ」
休み時間、教室のどこかで響く呑気な声に、美山陽は苦い表情を浮かべる。
本当に『やばい』人間なら、おしゃべりなんかしている場合じゃない――今の美山と同じように、教科書に齧りついて、一つでも多くの情報を、頭に詰め込もうとすることだろう。
友人の蕨野や穂々乃木も、美山のあまりの剣幕に、話し掛けるのをためらっているくらいだった。
別に美山は、他人と比べて記憶力が低いわけではない。ただ単に、人より掃除が好きで、少々、漫画の蔵書が多いだけだ。
(何で私は…………!)
昨夜、テスト勉強を始めようと教科書を開いたところで、学習机の引き出しが無性に気になった。インクの切れたボールペンを捨てたり、よく使う文房具を手前に並べたり、奥のほうに溜まったホコリを綺麗に取り除いたりした。
それだけでは収まらず、教科書や参考書を、高さの順番に並べ替えてみたり――やっぱり考え直して、教科ごとに寄せてみたりした。
当然のごとく、その手は本棚にも向かって――まるで運命の導きかのように、ここしばらく読んでいなかった漫画――計二十四巻にも及ぶ恋愛モノの傑作を開いてしまった。
主人公が憧れている男の子は、明るくて誠実なクラスの人気者。彼とは対照的に、うまくクラスに溶け込めない、けれども実直な主人公をいじらしく思ったり。彼女のよき理解者になってくれる女友達に、ほっこりしたりした。
「いいなあ、こんな恋愛……」
などと、恋に恋焦がれる美山陽、十七歳の秋であった。
はっ――と気づいたのは、日付が変わる直前。
なんと三時間も、部屋の隅で漫画を読み耽っていたらしい。腰が痛い。
後悔に打ちひしがれる美山。
そこで二択に迫られた。
すなわち、今の危機感を最大限に活用し、真夜中に『イスラム史』を詰め込むか。
それとも、早々に床に就いて、午前四時に起き、すっきりした頭で仕切り直すか。
(よし。早く起きよう――)
それが美山の出した結論だった。そうと決めたらあとは早い。すぐさまベッドに潜り込み、漫画の世界で体験した、甘い恋愛の妄想に浸りながら――彼女は深い眠りへと落ちていった。
しかして彼女が目覚めたのは――
午前七時。
健康的に七時間の睡眠を得た彼女は、そのスッキリと冴えた頭で現状を――つまり、世界史のテスト範囲に全く手を付けていない、という事実を――嫌というほどハッキリ認識した。
……そう、彼女には、こういう公式が当てはまる。諸君の中にも、心当たりのある方は多いだろう。それくらいスタンダードな公式だ。つまりは――
(掃除+漫画+睡眠)×無計画
イコール、絶望――である。
■ ■ ■
テスト中は、それはもう地獄だった。何しろ美山は横文字が苦手だ。世界史に登場する人物や地名が悉くカタカナばかりで、頭が痛くなる。――さらに輪をかけて、自分の意志の弱さが、ほとほと嫌にもなっていた。
「はあ――――」
ため息が漏れる。
魂が抜けてしまいそうなため息に、試験監督の教師は心配そうに美山を見るが――特に体調不良という風でもないので、それ以上、気には掛けなかった。
世界史の授業は好きなほうだった。世界史担当の花木は、くだけた雰囲気で授業を進めてくれる。肩肘張らず、笑い声が響く授業風景だった。
ただ、悪ふざけが過ぎることも多く――
「よーし、じゃあローマ帝国について深く学ぶために、公衆浴場職人のロールプレイをやってみるか」
などと素っ頓狂なことを言い出すのもしばしばだ。
一番に反応するのは決まって、
「はい! 僕がやります! 先生、上戸彩との混浴はありますか」
元気よく手を挙げる風見だ。
「上戸彩な……しかし原作のヒロインみたく、女神的な雰囲気のある美女のほうが良くないか?」
「そうですね、分かりました。じゃあヒロイン二名体制で手を打ちましょう。両手に花。僕らしくていいじゃないですか」
彼らがヒートアップしてきたところで、委員長あたりに諌められるのがいつものパターンだ。風見はともかく――花木がPTAからイエローカードを頂戴するのも、そう遠くない未来のことかもしれない。
解答欄を埋めるべく、授業風景をたどっても、そんなバカらしいシーンしか思い浮かばず、二学期の中間テストは困難を極めていた。
(アッバース? マルムーク? ……ううん、こんがらがってきた)
「ウマイヤ朝は……あ、『うまいや!』じゃないぞ。お前ら、食いしん坊だなあ、あっはっは」
花木のくだらないオヤジギャグが、美山の脳内で反響する。
「先生、カスピ海って甘いんですか?」
「風見、それを言うならカルピスじゃないのか。地理の勉強やり直せ。しかし、泳いだらベトベトになりそうな海だな。はっはっは」
――くだらない、くだらな過ぎるやり取り。
花木のえびす顔と、風見のドヤ顔とが交互に、現れては消え、現れては消え……耐え難い苦痛を伴って思い出される。走馬灯とは、こういう感じで見えるものなのだろうか。
(ああ、もうっ――――!)
美山は頭を掻きむしって、天井を仰ぐ。もう一度、大きくため息を吐いてうなだれる。すると、試験監督の鼻歌が耳に入った。テスト中に不謹慎だな――美山は眉根を寄せて、その教師の背中を睨みつける。
(――――?)
しかしその姿は、先ほど見回っていた教師のものではなかった。目が覚めるような真っ赤なジャケットに、毛先のカールした長い白髪。鼻歌を歌いながら、両手を腰で組んで、机の間を軽やかに歩いている。
美山は目を疑った。両目をこすって、もう一度見た。試験監督の教師は、明らかに『二人』いる。一人は定年間近の老教師。白髪ではなくツルツルとした頭をしている。
――問題は、もう一人だ。
そもそも、ただの定期テストの教室に試験監督が二人もいる時点でおかしいのだ。だというのに、いるはずのない二人目の格好は――もっとおかしい。
『彼』は教壇の前まで行くと、列を変え、美山のほうへと向かって歩いてくる。顔もおかしい。日本人離れしている。
――明らかに西洋風の顔立ちだ。
美山は、その顔に見覚えがあった。何度も言うが、彼女の記憶力は特別低いわけではないのだ。美山の記憶の中で思い出されるのは――
音楽室。
壁に掛けられた肖像画。
(ベートーヴェン? ううん、そうじゃない。あれは、えっと……)
そうだ、と美山は合点した。ただ、思い出したところで――それが正解だったところで――何の解決にもならないし、むしろ悪化したとすら言っていいかもしれない。
なぜなら、教室を我が物顔で歩き回っている不審者がいて――その不審者が、モーツァルトの格好をしているのだから。
(第34話 風使いと「ピアノ」(1)【七不思議編】 終わり)




