第27話 風使いと「スカーフ」(9)【七不思議編】
「風見、やっと見つけた!」
それは玲実香が連れ去られた直後のこと。自転車置き場で風見たちが花木の自転車の鍵を外したところだった。
「逃げる気? もう余計なことさせないわよ。空良、行きな!」
「はいっ」
取り押さえようと身構えた空良に対して、風見は手のひらを突き出す。
「ちょい待った。聞きたいことがある、平」
「何よ?」
実花穂は怪訝そうな顔をする。
「お前の……えっと、父親の名字って何だ? 九条か?」
「え、違うけど……何よ、こんなときに」
「こんなときだからこそだ。九条って大学生に、玲実香さんが連れ去られた」
「え――」
実花穂が目を見開く。
「言っとくけど嘘じゃねぇからな。今から追いかけるんだ、九条ってやつの車を。玲実香さんも不本意な感じだったし、危ないことになる前に止めたい。……っつーか、その辺は花木の意思なんだけどさ」
花木は黙って頷く。実花穂は目を泳がせる。
「で、でも車って……自転車で?」
「おう。僕、チャリ通だからさ、自転車得意なんだよ」
「得意って、そんな問題じゃ……」
風見が、やむを得ない事情から毎朝二時間、自転車を漕いでいることは誰も知らない。……いや、知っている生徒もいるかもしれないが、皆、見てみぬ振りをしているだけなのだろう。数ある風見の奇行のひとつ――くらいに捉えられていて、誰も話題にしないというだけなのかもしれない。
「そういう事情だから。追いかけっこはちょっと中断だ。僕たちは行かなきゃだからな」
「でも……。母さんがピンチだっていうんならあたしも……」
「いや、さすがに三人は無理だろ。もう一台、自転車があればいいんだけどな」
風見は花木の顔を見るが、彼はただ首を振るだけだ。
空良は頭を掻いている。
「風見先輩、普通は自転車じゃ追えませんからね、車なんて……」
そんな話をしていると、風見の視界に、もさもさと揺れるリーゼントがあった。彼は何やらうなだれて、力なく原付きバイクを押している。先ほど風見に撃退された男、伊原だ。
「あ、サソリくん? ごめん、それ貸してくんない?」
風見は陽気に手を振る。
「――っ! ひいっ」
伊原は慌てて身をすくめる。押していた原チャリを倒してしまい、派手な音がした。風見の前で直立不動だ。
「も、も、もちろんです、風見さん! どうぞ、返すのはいつでもいいんで――」
「すぐに返すよ。空良、免許持ってっか?」
「免許なんて持ってませんよ」
「じゃあ平は?」
「……一応。母さんが原付きの免許だけは早めに取っときなって。学校にも許可もらったけど……って、あたしが運転して追っかけろって言うの? あのさ、いくらなんでも車に追いつくのは無理だって」
「僕の後ろを付いてくれば大丈夫だから。つーか急ごうぜ。ほら、二人はメット被れよ。花木っちは自転車の荷台な。ビリヤードとか言ってたから、花木場所分かるよな? ナビよろしく。すぐに追いつくぞ」
有無を言わさぬ風見の指示に、三人は戸惑いながらも言われたとおりに動く。
「んじゃ、かっ飛ばすぜ。振り落とされんなよ!」
風見はペダルに足を置くと、ぐっと力を込めた。
発進。
風見の漕ぐママチャリは、初速から既に原付きバイクを置いていかんばかりの勢いだった。平も慌ててアクセルを捻る。
ひとり取り残された伊原は、そんな二台をポカンと見送った。
「風見さん凄ぇ……さすが禍聖都火威っす……」
こうして、疾風怒涛のカーチェイスは始まったのである。
■ ■ ■
「よっしゃ、もう追いつくぜ!」
前方に赤いスポーツカーを捉えた。しかし、その車は急に左折して郊外の方向へと走り出す。
「ちっ、こっちに気づいたか」
「そ、そりゃあ気付くって……目立ち過ぎだよ!」
ママチャリが公道のど真ん中を猛スピードでひた走っているのだ。運転中とはいえ、九条だって気付くに違いない。それに道行く人々の注目も集めている。もしかしたら既に警察に通報が届いているかもしれない。
「なあ、こっちって、あんまり信号がない道だよな」
「……ああ、橋を渡った先はもう、ほとんど田園地帯だよ」
前方からの空気抵抗は最低限に抑えているとはいえ、背中でする花木の声は聞き取りづらかった。
「んじゃそこまでに追いつかねぇと、さすがに直線を本気で飛ばされたら敵わないからな」
自転車は更に加速する。
前方に急激な左カーブ。ブレーキが軋んで甲高い音を鳴らす。風見が重心を左に寄せ、車体を傾かせると、アスファルトに擦れてタイヤが白煙を上げた。
「ひ、ひいいっ!」
花木の悲鳴もさもありなん。強引なコーナリングで、彼らの膝はアスファルトに擦りそうなくらい地面に接近している。下がる視点、暴力的に流れていく灰色の景色。コーナーの立ち上がりで、風見はペダリングを再開する。
ロードレーサーならいざ知らず、ただのママチャリではあり得ない速度と挙動で、風見は前方の車を追う。後ろに従う実花穂たちも必死で従うしかない。風見はその気配だけを感じながら、なおも速度を増す。
前方で、歩道から黄色いゴムボールがてんてんと転がってきた。さらにボールを追って幼児が車道に飛び出す。
「あ、危な――!」
花木が咄嗟に叫ぶ。
「任せとけっ!」
風見はハンドルを引き上げ、前輪を持ち上げる。速度を落とさずに突っ込む。すると、わずかに浮いた前輪は、見えない坂道を登るようにしてボールと幼児を乗り越えていく。幼児は呆気に取られた顔でそれを見上げる。
「なんだよ、これ!」
花木の素っ頓狂な声がする。すぐ後ろの実花穂と空良の絶叫も聞こえた。
しかし風見は爽快に笑う。
「『虹の風橋』! まだまだ突っ走るぜ!」
風見たちは、幼児の頭上に架けられた風の橋を突き進み、地面に向かって下り、元の車道へと着地した。減速することなくそのまま爆進する。
やがて、町を南北に流れる大きな川が近づいてきた。
■ ■ ■
川の手前の信号は青。このまま橋を渡れば、しばらく信号のない県道が続く。玲実香を連れ戻すならここが最後のチャンスだ。
「花木! 自転車を横に付ける。そしたら玲実香さんの手を取れ」
「分かった――でも、それからどうするんだい」
「ドアを開けさせろ、んで抱きかかえるんだ」
「だ、抱き……って、そんな! この自転車に三人?」
「一瞬なら大丈夫だ! 奪っちまえばこっちのもんだよ」
「でも――」
「いいから! 強引に行けよ!」
言って風見は、更に前傾姿勢になって速度を上げる。スポーツカーのバンパーは目の前だ。バックミラー越しに、九条が信じられないという風に目を見開いているのが見えた。随分と取り乱したのか、きっちりとセットされていた髪型も乱れている。
その隣で、玲実香はこちらを向いて何やら口をパクパクさせている。長い髪が風にたなびいている。
「よし、ゴーだ!」
風見は、右手で後方の実花穂たちに合図をする。運転席側に回りこむよう指さした。そして自分は、左側――玲実香の座る助手席のほうへと回る。歩道との間を疾走し、玲実香のすぐ隣にまで並ぶ。
反対側では、運転席に向かって実花穂が叫んだ。
「スピード落とせ! アンタもう逃げられないんだからね、母さんを――その子を解放しな!」
メット越しに実花穂が九条を睨んでいる。空良は何も出来ずに実花穂にしがみつく。
「な、何なんだ君たちは! おかしい、無茶苦茶だ!」
九条は取り乱すが、速度は落ちない。
「花木、さっきの奴も……何なのよ、アンタら!」
玲実香が並走する風見に向かって声を張り上げる。
「安心しろ! ――ほら、花木!」
「平さん! ドアを開けてこっちに」
「い、行けるかバカ……」
風見が横目で玲実香の狼狽する様子を見た瞬間、ガツンと下からの衝撃があった。
橋の継ぎ目、わずかな段差にタイヤが乗り、自転車が突き上げられた。それは九条の運転するスポーツカーも同様だったようで、自然、両者の距離が狭まり、接触する。自転車のハンドルとスポーツカーのサイドミラーが互いを弾き合う。
「うっお――!」
風見の操縦する自転車が大きく左にブレる。一段高い歩道の端に、タイヤがぶつかる。高速で走っていた自転車は、暴れ馬のように捩れ、跳ねる。
「おわああぁ!」
風見と花木は宙に高く放り出された。宙を一回転しながら風見は、花木と目が合った。まるでスローモーションのように、時間がゆっくりと流れる。このままだと花木は無防備にアスファルトに打ち付けられる。それがどんな結果を引き起こすのかは……想像したくない。
スポーツカーが急ブレーキを掛ける音も聞こえた。誰かが叫ぶ声も。
(衝撃を……!)
轟、と凄まじい上昇気流が花木とアスファルトとの間に発生する。彼の体はガクンと見えない床に叩きつけられたように揺れる。苦悶の表情を浮かべていたが、アスファルトに軽く尻もちをつき、無事に着地した。
その様子を見て取った風見の体は、欄干を飛び越えて落下していった。
(第27話 風使いと「スカーフ」(9)【七不思議編】終わり)
「スカーフ」編、次回最終回です。