第26話 風使いと「スカーフ」(8)【七不思議編】
花木も腹をくくり直したらしい。背中を押さなくても、もう自分の足で走っている。必死の形相だし、陸上部の風見から見れば走り方はドタバタしていて不格好だ。それでも風見は笑う気にはならない。
だってそうだろう。決意を胸に走る男を誰が笑えるだろうか。風見は、嬉しさのためか、つい全身に力が入ってしまう。
そして花木より先に校門に――玲実香の背中に追いつく。
追いついたには追いついたのだが、玲実香は取り込み中だった。
「はぁ、はぁ……風見くん、れ、玲実香さんは……」
花木がようやく追いついてきて、息も切れ切れにそう訊ねた。本当に苦しいのだろう、膝に手をついて肩で息をしている。
風見は少し困った顔をして、花木に質問で返す。
「なあ、あれ、玲実香さんの知り合い?」
「え?」
花木が顔を上げると、ちょうど玲実香の行く手を塞ぐように、校門のところに真っ赤な2ドアのオープンカーが停まっていた。運転席のドアが開いて、若い男が降りてくる。
革靴に、だぼっとしたチェックのパンツ。上着のジャケットは、これでもかというくらいに原色のブルーだ。すごい怒り肩――いや、肩パットなのだろうか、両肩がこんもりと盛り上がっている。そして整髪料をしっかりと塗った黒髪に、大きめのサングラスがこれ見よがしに乗っかっている。
「うおぅ……」
苦味がかった声が風見の口から漏れた。
風見のファッションセンスでもって言うなら、「ダサい」。まあ、風見の私服のセンスも褒められたものではないのだが。しかし、赤いスポーツカーに青いブレザーはないだろう。
「え……あれ、もしかして」
「知ってんのか」
「噂だけど……近くの医大生と玲実香さん、たまに一緒に歩いてるって。もしかしたらあれがその人かも」
「マジ? 付き合ってんの?」
「いや、本人は否定してたけど……まあ又聞き、というか盗み聞きだからよく分からないんだけども」
『又聞き』と『盗み聞き』は大分違うと思うけど――と風見は思ったが、取りあえずそれよりも、彼らの動向が気になった。
「――そんなに怖がらなくてもいいよ。さあ乗りなよ、玲実香さん」
「そんな急に言われても――」
どうやら男は玲実香を車に誘っているらしい。玲実香は断っているようだが――先ほどまでのような強い調子ではなく、少し迷っているような節がある。やはり、積極的な相手に弱いのだろうか。
「あたし友達と約束が……」
「じゃあその友達のところへ送っていくよ。どこかな? こんな寒い中、歩いて行くよりずっといいよ。その間、二人っきりで話せるしね」
「そ、その車寒そうだし……」
「そういえば君は薄着だね。気が利かなくてゴメンよ。さあ、これを羽織り給え」
青いブレザーを脱ぎ去り、男は玲実香の肩に掛けてやる。自然な仕草だったが、それだけにどこか胡散臭い。手馴れている――そんな印象を受けた。
「ほら、足元に気をつけて」
「え、あ、いや――九条さん――」
九条と呼ばれた男は、玲実香の肩に触れたまま助手席へとエスコートする。玲実香は戸惑いながらもそれに従ってシートに腰を降ろす。
そこでふと、玲実香がこちらに顔を向け、驚き、気まずそうな色を浮かべた。そして、何か言いたげに口を開いて――結局何も言わずに俯いた。
花木は、その表情をしかと見た。
「玲実香さん……」
花木は立ち尽くしたまま小さくこぼした。
九条のオープンカーは轟音を上げ、玲実香を乗せて走り去って行った。
「いいのか? 花木」
「……良くない。玲実香さん、きっと断り切れなかったんだ。あいつが本当に、ちゃんと送っていくか分からない。よくない噂を聞くんだよ、よくナンパしてるとか、違う女の子と手を組んで歩いてるとか……」
「そっか……」
風見は花木の顔と、オープンカーの走り去って行った方向とを見比べて、次に、校内に視線を戻した。
『それ』は二十年後と同じ場所にあった。変わっていない。ちょっと柱の錆びが少ないくらいで、ウェーブしたトタン屋根も、その大きさも、風見の知っているままだった。
風見は『それ』の下に並ぶものを品定めしながら、花木に言った。
「なあ花木。お前って何通? 徒歩か、それとも――」
「えっと……」
花木は風見の視線の先、自転車置場を見て、チャリ通だけど――と答えた。
■ ■ ■
真っ赤なスポーツカーは、幹線道路をすいすいと走る。
「ねえ玲実香くん、この間のこと、考えてくれたかな」
九条から投げかけられた問を、玲実香は気まずそうに聞く。
この間のこと――つまりは恋人関係にならないかという、九条からのプロポーズのことだろう。少し考えさせてくれなんて、曖昧な答えを返すんじゃなかった。時間が経てば経つほど断りにくくなるというのに。
玲実香は困り果てて、小さく、
「いや、その……」
としか言えなかった。
「ははは、ごめんね、急がせるようなことを言って。焦らずじっくりと愛を育んで行こうか。僕らはまだ若いんだしね。――そうだ、今日は寒いことだし、室内で出来る遊びにしようか。ビリヤードとかどうだい?」
「いやだから……」
「大丈夫、僕の行きつけの店だから、初めてでも心配する必要はないよ。コツさえ掴めば案外簡単なんだよ? 力が要らないからきっと女の子でも出来ると思うな。キューの握り方からちゃんとレッスンしてあげるよ」
友達のところまで送っていくと言った玲実香の言葉を覚えているのかいないのか、九条は玲実香の反応などお構いなしに喋り続ける。
確かに『約束』などとは、咄嗟についた嘘だったけれど。これはもう強引というか無神経に近い。信号で止まる度にこの車から降りてやろうかとも思うが、体が縮こまってしまってうまく動かない。
(ああ、私はなんて弱いんだろう――)
玲実香は、膝の上で握った自分の拳を力なく眺める。いざというときに自分の中にある恐怖心にすら打ち克てないなんて。
さっきの――花木のツレらしい男には簡単に蹴りをお見舞いしてやれたのに。結局、自分より弱い相手にしか暴力を振るえない……そんなのは空手家じゃない。しかも、こっぴどく扱ったあの二人に対して助けを求めようとしてしまった。
――誰より弱いのは私じゃないか。
「どうしたんだい、玲実香くん。あ、ビリヤードよりカラオケのほうが良かったかな。夜はちょっと足を伸ばしてディスコっていうのもいいかな。大丈夫、門限までには送り届けるからさ」
九条の横顔をちらりと見る。顔立ちは整っているものの、そこに貼り付いている軽薄な笑みは、どうにも好きになれない。
そもそも、友人と買い物をしているときに声を掛けられて、強引にどこかへ連れて行かれそうになったのがこの男との出会いだ。それから付きまとわれている。それも今日のように、思い出したように急に現れるのだ。
それが駆け引きのつもりなのか、それとも普段は他の女の子と遊んでいて、本当に思い出してやってくるのかは分からないけど……。
玲実香が軽くため息をついた直後、九条の目が驚きに見開かれた。
「な――なんだあれは……」
九条の驚きが、バックミラーを覗いてのものだと気づき、玲実香は後方を振り返る。
現在、車は片側三車線の国道を時速七十キロで走っている。このスポーツカーの本来の性能からすれば、随分とのろのろ走っているほうではあるが、それでも法定速度を超過してしまっている。
――では、この車に追い付いてくる『あの物体』も、当然スピード違反なのだろう。
灰色の国道のど真ん中を、それは真っ直ぐに切り裂いて走ってくる。細いタイヤに、安っぽい塗装の青いフレーム。前方にはバッグを乗せるのに丁度いいカゴが付いていて、ネジが緩んでいるのか、あまりの速度にガタガタと揺れている。
ママチャリが、推定時速八十キロで迫り来る。
「う、お、お、おおおおお――!!」
嵐谷高校のジャージを着た少年が、そのママチャリのペダルを考えられない速度で回している。その背後では、学ラン姿の男子が振り落とされまいと必死にしがみついていた。
「か、風見くん――! は、速すぎるって、うっわ!」
「黙ってろ! 舌噛むぞ!」
アスファルトの起伏に車体が跳ねそうになるのを抑えながら、風見が叫ぶ。
「おい、後ろはちゃんと付いて来てっか!?」
花木は苦しみながらも後方を少しだけ振り返り、原付きバイクがちゃんと、このママチャリの後ろを付いてきているのを見て取る。すぐ後ろ、こちらの後輪とあちらの前輪がくっついてしまいそうなくらいの距離だ。
「だ、大丈夫みたいだよ!」
「うっし! じゃあスピード上げるぞ!」
「う、うえええぇ?! まだ上がる――」
危うく花木は舌を噛みそうになって、それ以上喋るのをやめる。信じられない。あり得ない速度で自転車は疾走している。それも、空良と実花穂が二人乗りで運転している原チャリを引き連れているのだ。
一瞬で表情は確認出来なかったが、きっと後ろの二人も驚いているはずだ。
まるでこの二台の周囲を包み込むように、風が吹き荒んでいる。前方からの風も凄いのだが、信号で止まり、再発進するときには、猛烈な追い風が吹いていたような気もする。
(何でこんなことに――!)
花木は涙目になりながら胸の中で叫ぶ。何故こうなったのか……それは数分前のことだった。
(第26話 風使いと「スカーフ」(8)【七不思議編】 終わり)




