第15話 風使いと「図書室」
秋、読書の秋。秋は人を読書へと誘う。
そしてそれは、唯一にして最強の風使いである僕、風見爽介にも当てはまるのだ。
所属する陸上部も秋の新人戦を終え、練習が休みになったその日、放課後の僕は図書室を目指していた。
『風使い』かける『図書室』いこーる『窓辺に佇む図書委員ごっこ』という等式が成り立つことは世界的に有名だ。知らない? 義務教育からやり直せ。
さあ、頭の中に思い描いて欲しい。
強い日差しの夏を越え、幾分か柔らかくなった夕日が差し込む、放課後の図書室。
その窓際の席に一人、読書に耽る女子生徒が座っており、眼鏡ごしの目線は手元の本へと注がれている。
すると、開け放たれた窓から一陣の風が。彼女の髪を優しく揺らす。
思わず髪を抑えた彼女の目線が、ふと本から離れて、見惚れる僕の目線とぶつかる。
彼女は、恥ずかしそうにはにかんで笑う……。
如何だろうか、『窓辺に佇む図書委員ごっこ』。
僕はこの情景を人為的に作ることのできる、おそらく唯一の人類なのだ。
そんなわけで、普段は読書をしない僕も、秋風に誘われて三階にある図書室へと足を運んでいた。
■ ■ ■
なるべく大きな音を立てないよう、入り口の引き戸をそっと開ける。
すると、まさに窓を背にした席に、一人の女子生徒の姿があった。
二つに束ねたおさげ髪。整った鼻筋にはリムレスの眼鏡が乗っている。
真っ白な肌は、太陽の日差しとは無縁に過ごしてきたように透き通る。衣替えしたばかりの冬服に包まれた細い肩。触れたら折れてしまいそうに儚い。
まさに、まさに図書委員の中の図書委員。キングオブ図書委員。
こんな出会いを、僕はきっと前世から待っていた。
その時、風使いの僕にすら予想できないことが起こった。
そう、窓から秋風がふっと吹き込んできたのである。
彼女は少し驚き、目線を上げる。その先にある僕の姿を捉えて――
「あっ! そーちゃん、そーちゃんでしょ!? 久しぶり、私のこと覚えてる? 覚えてるよね」
僕のイメージをぶち壊し、驚くほど俊敏に席を立ち、駆け寄ってくる図書委員(仮)。
知らないんだけど、こんな女子。
■ ■ ■
「もう、ほら分からない? あ、眼鏡掛けてるからかな」
そう言われても。眼鏡を外して見せられたところで覚えがない。
「あの、人違いでは? 僕、二年の風見っていうんですけど」
制服のリボンからすると、どうやら相手は三年生のようなので一応敬語を使ってみる。
「そうだよ、風見君。風見爽介君でしょ? そーちゃん! 美鳥さんは元気してる?」
図書室だというのに無遠慮に通常会話のトーンで話しかけてくる。周りの目線を気にするという機能が付いていないのか、この人には。無神経だな。と、普段の自分を棚に上げてみる。
「え〜っと、どちら様で?」
本当に心当たりがないのだ。美鳥さん? ってことは姉さんの知り合いか?
「えー、忘れちゃった? ほら、チカだよ、佐々川 千花。チカお姉ちゃん」
チカ――お姉ちゃん?
僕の姉はあの一匹だけだ。僕の頭上に君臨する人外の怪物は一匹だけで十分すぎるのだ。
――でも待てよ。
姉さんと知り合いで、チカお姉ちゃん……
「あ、もしかして! チカ――姉ちゃん?!」
「そう! そうだよ、やあっと思い出してくれたんだ、よかった〜。そーちゃんもこの学校だったって最近知ったんだけどさ、なかなか会う機会がなくて。嬉しいな〜」
僕と姉の美鳥には、共通の幼なじみが居た。
ひとりは沙南渡。僕の同級生だ。
そしてもう一人は僕の一つ上、姉の二つ下の女の子。
小さい頃はその四人を中心に、近所の公園で男女入り混って野球やサッカーに興じていたのだ。
小学生の頃に隣町に引っ越したその女の子こそが、佐々川千花。
チカ姉ちゃんだった。
「美鳥さんとはソフトボール部で一緒だったんだけどさ、そーちゃんとはずっと会ってないままだったもんね。あの頃は『チカお姉ちゃん、チカお姉ちゃん』って可愛かったんだよ〜。あ、今でも可愛いけどね、そーちゃんは」
いくら年上とはいえ、女子から可愛いと言われるのは面はゆいというか、気恥ずかしいというか。あまりいい気分にはなれないものだが。
しかし図書委員(仮)改めチカ姉ちゃんは、そんな僕の気分など慮ることなく、喋りたいことを喋るだけだった。
「あ、私はもうソフトボール部を引退しちゃったんだけどさ、そーちゃん部活は?」
「陸上部です。部活は新人戦後のひと休みって感じで。先輩は図書委員なんですか?」
「もう、先輩だなんて他人行儀だなぁ。チカお姉ちゃんでいいよ〜。図書委員じゃないよ、図書委員が座って本読んでたら仕事にならないじゃない。図書委員さんはあっち。カウンターのところ」
カウンターの方を指差すチカ姉ちゃん。
――図書委員(真)はこちらを睨んでいる。
そうですよね。さすがに大声で騒ぎすぎですよね。
「あ、あの先ぱ――」
「『チカお姉ちゃん』」
「…………」
「『チカお姉ちゃん』でしょ?」
僕は観念することにした。
「…チカ、姉ちゃん」
「はいはい、なんでしょう!」
嬉しそうなチカ姉ちゃんに僕は言う。
「取りあえず、座りましょうか」
まずは落ち着こう。図書委員(真)が腰を浮かせる前に。
■ ■ ■
窓際の席に二人で隣り合って座り、話を続けた。
旧交を温めるのは吝かではないが、幼い頃のままのハイテンションなチカ姉ちゃんに、どう対応したものか戸惑ってしまう。
「眼鏡どう? 似合うかな? 私ももう受験生だからねぇ。ソフトボールやるときはずっとコンタクトだったけど、こっちの方が頭良さそうに見えない?」
彼女が頭が良さそうに見えるかどうかは置いておいて、考え方はバカっぽかった。
「ソフト部か、そんなこと一言も言ってなかったよ、あの姉さん野郎は」
敬語で話すのも指摘されてしまい、当時の距離感を思い出しながら、探り探りではあるものの、タメ口で話す僕。
「美鳥さんは細かいこと気にしない人だから。三歩歩いたら忘れたんでしょう」
笑顔のまま、チカ姉ちゃんは猛毒を吐く。
いいぞ、もっと言え。
「それにしてはチカ姉ちゃん、まったく焼けてないね」
「私、日に焼けても黒くならないんだよ。赤くなってヒリヒリするだけで。それに筋肉も付かないんだよね」
ふん、なんて可愛らしい掛け声で力こぶポーズを取るチカ姉ちゃんだが、冬服の上からでは力こぶができているのか、いないのかは分からない。
「えっとじゃあ、勉強中だったんだ」
「そーなの……あ、そーちゃんは成績いいほう?」
「ボチボチですよ。上位三割くらいには入ってると思うけど」
「うわ、いいなぁ……」
「チカ姉ちゃんは?」
「えへへ」
察しろ、ということなのだろうこの笑顔は。受験生がこの時期にそんなことで――
「ダメですわよ、佐々川さん。そんな男と関わっていては」
急に横合いから声がして振り向くと、三年の神宮院先輩が立っていた。
神宮院玲奈、生徒会の副会長。僕は委員会活動を通じて、最近知り合ったばっかりだ。
「先輩、いきなりヒドいっすよ、それ」
「何が酷いものですか。佐々川さんのお勉強の邪魔をして」
腕を組んで威嚇してくる。嘲るような視線が似合う似合う。
「縦ロール先輩」
「だ、誰が縦ロール先輩ですか!」
「僕は別に邪魔なんて……」
「そうだよ、玲奈ちゃん。私たちはねぇ……許嫁なのよ」
言いながらチカ姉ちゃんは僕の腕に絡みついてくる。
……ああ、もっとチカ姉ちゃんに胸があればな。
ってそうじゃねえよ僕。
「な……なにをして……!」
口をパクパクさせる神宮院先輩。
「チ、チカ姉ちゃん? ほら神宮院先輩に冗談通じてないから……」
「え? 冗談じゃないよ。ちっちゃい頃、言ってくれたじゃん。『チカお姉ちゃんをお嫁さんにするんだ!』って」
「いやだからそれを……」
「と、とにかく離れなさい! あなたたち! ここは公共の場ですのよ!」
神宮院先輩は色恋沙汰に免疫がないと見える。僕もないけれど。
「公共の場だからこそ、興奮するということもあるんですよ、副会長」
ついそんな事を言ってからかってしまう。悪い癖だ。
「な、なにを――!」
「ごほん――。すみませんが、図書室ではお静かに」
図書委員(真)による横槍で、楽しみにしていた神宮院先輩のリアクションを見損ねた。
ただ、叱られた恥ずかしさで顔を真っ赤にする神宮院先輩を見ることができたのは僥倖だった。
少し可愛そうではあるけれど、これも僕に歯向かった報いだぜ。
忍法、巻き添えの術。
これ以上にショボい忍術など存在するだろうか。いやない。
■ ■ ■
「神宮院先輩も勉強ですか?」
「ええそうよ。……いいえ、『そのつもりだった』、よ!」
追い出されこそしなかったが、(神宮院先輩が)居たたまれなくなってしまい図書室を後にした。
「玲奈ちゃん、どうどう」
歩きながらチカ姉ちゃんがなだめる。
「私は馬じゃありません! まったくもう、佐々川さんも、もう少ししっかりしなさい」
「えへへ、気をつけます」
二人は仲よさげだ。
「二人は同じクラスなんですか?」
「うん、そうだよ。たまに勉強も教えてもらってるの」
「へぇ。神宮院先輩は……何か見るからに成績良さそうですよね」
「何ですかそれは。結果を残すだけの努力はしているつもりですけれど。佐々川さんは……やる気はいいんですけれど。暗記はからっきしですわよね」
「ああうん。暗記はねぇ……どうやっても頭に入ってこないんだよねぇ。それに引き換え、玲奈ちゃんは凄いよ~。成績もそうだけど、真面目だし面倒見いいし。おまけに綺麗!」
「ほ、褒めても何も出ませんわよ……!」
まんざらでもなさそうだな。ストレートな褒め言葉に弱い質らしい。
そしてチカ姉ちゃんはそれを理解した上で、反応を楽しんでいる節がある。もちろん本心で思っているんだろうけど。
「と、ともかく! 家に帰ってしっかり勉強なさい。分からないことがあれば、電話なり何なりしてくださって結構ですからね」
「僕も電話していいんすか?」
「いいわけないでしょう! 佐々川さんに言ったんです、私は!」
ちっ。ケチ。流れで電話番号ゲットできるかと思ったのに……。
「ありがとう、玲奈ちゃん。あ、代わりに恋愛相談ならいつでも乗るからね?」
「そ、そんなことにかまけている暇はありません!」
結局、神宮院先輩は廊下で別れて、そそくさと帰っていった。
「さて、どうしよっか。そーちゃん、図書室に用があったんじゃないの? 玲奈の手前、出ちゃったけど。戻る?」
「いや僕は……暇を持て余してただけだから、別に」
『窓辺に佇む図書委員ごっこ』をしたかっただけだから、とは言わなかった。
誰も得をしないことを、僕は口にしないのだ。
「チカ姉ちゃんこそ、戻って勉強の続きする?」
「んー。あ、そうだ、そーちゃん、暇ならちょっと付き合って」
企みを含んだチカ姉ちゃんの笑み。
「いいけど、どこに?」
「屋上」
■ ■ ■
放課後の屋上は静かなものだった。
そもそも、中庭のような快適に整備されたような空間ではなく、この屋上は実に殺風景だ。
目立つものといったら貯水タンクくらい。座るところもなく、ただ四方を高いフェンスで囲まれただけの空間だ。
「こっちこっち。ほら」
「ああ、ソフト部のグラウンド見えるんだ」
「そう! 私のお気に入りスポットなんだ~」
陸上部のグラウンドと校舎を挟んだ反対側にソフト部のグラウンドはある。
ここからだと少し遠いけど、ギリギリ、個人を判別できるくらいには見える。
「チカ姉ちゃんポジションは?」
「私はファーストだったよ。今は……ほら、あのコがレギュラー」
チカ姉ちゃんが指をさす。
「そっか、全然知らなかった」
「私もソフトボールにしか興味なかったし、そーちゃんが陸上部だってことも知らなかったんだよね」
「部活一筋だったんだね」
次第に、一緒に遊んでいた頃の記憶が蘇ってくる。
ゴムボールとプラスチックのバットで野球をしていたこと。チカ姉ちゃんの男子顔負けの派手な活躍――まあ、僕の姉も似たようなもんだったが。
そういえば、上級生にグラウンドの使用権を賭けた野試合を挑んでボロ勝ちした、なんてこともあったっけ。
その後の乱闘騒ぎは美鳥姉さんのひとり勝ちだった。あの人の武勇伝は枚挙にいとまがないのだ。
「チカ姉ちゃんは大学行ってもソフトするの?」
「……分かんない。今はそれどころでもないしね」
「受験勉強?」
「そう。部活ばっかやってて、将来のこと後回しにしてたからさ。追い上げきついんだよね。自業自得だけど」
ソフト部の練習を懐かしげに眺めながら、チカ姉ちゃんは言う。
「後悔してる?」
「部活? ううん。それはない。ソフトボールやってない高校生活なんて想像できないもの。そーちゃんは陸上部楽しい?」
「まあ……」
楽しいことには楽しいが、僕の場合は風使い。他の選手と楽しみ方が少し違うんだけれど。
「現役に戻りたいとか、そんな感じ? チカ姉ちゃんは」
彼女の内面に、少し踏み込んでみる。
「それも違うかな。――私ね、先生になりたくて」
「先生? 教師ってこと」
「うん。第一希望は小学校の先生。そーちゃんたちと離れて、転校したでしょ、私」
そのときの記憶もありありと蘇ってきた。
最後の日、泣きじゃくってたチカ姉ちゃんの顔を思い出す。
「鼻水たらしてたよね」
「うわ! そーちゃん、そんな事は覚えてるんだ! ひどい」
そう言ってチカ姉ちゃんはようやく笑った。
「寂しかったなぁ。そーちゃんや美鳥さんたちと離れるの。行った先の学校にも、なかなか慣れなくて」
「意外だな。チカ姉ちゃん、そんなイメージなかったのに」
「あはは、私けっこう人見知りだよ? みんなと仲良くできたのは……美鳥さんが引っ張ってってくれたからかな」
「人の意見とか、昔から気にしないヤツだからね」
あんな破壊するしか能がないような姉でも、人の役に立つことがあるのか。分からないもんだな。
「そうなんだよ。でも新しい学校じゃそんな人は居なくて。塞ぎがちだった私を、担任の先生が凄く良くしてくれたの」
当時を思い出すのか、フェンスに寄りかかりながら優しく笑う。
「で、今になって進路を選ぶとき、急にその先生の顔が浮かんでさ。ああ、あんな先生になりたいなぁ、って」
「いいじゃん。そういう目的があるって。それで勉強も頑張ってるんだろ?」
「うん。でもね、逆に言うと、それまで忘れてたの、私。もちろん先生のことは覚えてたけど、先生にしてもらったことをもっとしっかり意識してたら、こんな土壇場じゃなくて、もっと早くから勉強も頑張れてたかもしれないのに。あんなに感謝してたのに――私ってひどいなあって」
「それは――」
チカ姉ちゃんのために何もできなかった僕に、今さら何か掛けられる言葉があるとは思えなかった。
それでも、何もできないわけじゃない。
「チカ姉ちゃんさ、たぶんウチの姉さんならこう言うと思うぜ」
「ん?」
「『あんた、なに逃げようとしてんのよ。ウジウジ考えてないで、英単語のひとつでも覚えたら? その先生だって別に感謝されたくてやったわけじゃないでしょ。勉強がキツイ? 知るか。さっさとやれ。ぶっ飛ばされたいの?』って。絶対言うと思う」
姉さんの声色を真似て、僕はひと息に言った。
「うわ~、さすが姉弟! 似てる!」
チカ姉ちゃんは目を輝かせる。
「それに――そうだなぁ。うん、言うとおりだよね。上手くいかないことを、別の何かのせいにしようとしてる。意味ないね、こんなの」
「チカ姉ちゃん。叫ぼうぜ。青春っつったら、夕日に向かって叫ぶもんだぜ」
「叫ぶ――って、ここで? あはは、私がお腹から声出したら、結構響かせちゃうよ? 下まで聞こえちゃう」
おどけて笑うチカ姉ちゃんに僕は、
「大丈夫。そんなの風向き次第で聞こえなくなるよ。僕が保証する」
「そーちゃんが言うなら、――いいね」
「んじゃ台詞は何がいいかな。『夕日のバカヤロー』かな、オーソドックスに」
「んー、どうしよっかな。あ、じゃあそーちゃんからお先にどうぞ」
「え、僕も?」
僕は別に悩みなんて……あれ? 悩み? 無いなぁ……。
いやいやいや、あるはずだ。そんな脳天気な僕なわけがあるもんか。よく考えろ――
「僕、悩みないや……」
浮かぶのは煩悩だけ。少し自分の人生が不安になるぜ……。
「いいのいいの。叫んじゃおう。私もすぐ後に続くから」
「う……そっか。んじゃまあ」
僕はフェンス際、夕日の方に向かって立つ。
オーソドックスに。
「夕日の、バカヤローー!!」
続けてチカ姉ちゃん。
「私のバカヤロー―!!」
風はごうごうと強く吹く。
「僕のバカヤローー!」
「私のバカヤローー!! うーーあーーーー!」
「バカヤロー―!」
溜まったもやもやを吐き出すように絶叫するチカ姉ちゃんに、僕もつられて叫んだ。
腹の底から吐き出すように二人して叫んだ。
息を切らしながら目を合わせると、二人で腹の底から笑った。
僕のもう一人の幼なじみは、とても綺麗な人だった。
(第15話 風使いと「図書室」終わり)