第8話 風使いと「スリッパ」(3)
「さ、早く始めましょ」
覚悟を決めた僕に天馬が言う。
そして教室の窓際に歩み寄ると、スリッパと、プレイ中に滑ってしまわないよう紺の靴下を脱ぎ始めた。右足用のスリッパを手にし、もう片方のスリッパと紺ソックスを壁際に置く。
窓のカーテンの裾からわずかに光が漏れ、天馬の日焼けしていない瑞々しく真っ白な足を照らしている。靴下を脱ぐその動作すら、僕の目には神々しく映る。
すっげぇ、いい。
僕は『脚フェチ』なんていう人種の人権も、存在すらも認めてはいないが、その足の裏を舌で愛撫し、嫌がる天馬の顔を眺めながら、指の一本一本を舐め尽くしたくなる程度には素晴らしい光景だ。
なぜ足の指は十本しかないのだろう。そのくらいじゃあすぐに舐め終わってしまう。永遠に舐めていたいのに……。
「ちょっと、爽介くん? ……爽介くん的には平常運転かもしれないけど。そして私にとってはいつもの光景だけど。みんなちょっと引いてるよ」
僕の一種異常とも言える熱視線に、スリッパ卓球クラブの面々は若干距離を置き始めた。
「僕は別に、無差別ってわけでもないんだぜ……」
とか何とか言いながらも僕は、スリッパ卓球クラブの強者たち、特に女子の足元へ舐めるような視線を送る。
「……うわ、この人、マジでないんですけど」
特にしっかりと眺めさせて頂いた一年女子から嫌悪の声が漏れる。僕の周りからはすっかり人が退いてしまった。
さてさて、目の保養という名の充電も完了したところで、僕も臨戦態勢に入りますか。
スリッパと靴下を脱ぎ、ついでに夏服の上着も脱ぐ。透き通るような青いシャツになって準備完了。これでかなり動きやすくなったし、シャツの裾から風も入ってきて気休め程度には涼しくなるだろう。
「よし、始めっか、天馬」
僕も右足用のスリッパをラケットにし、天馬に告げた。
「ええ。……かっしー、審判お願いできる?」
「いいぜ」
「え、かっしー? って呼んでるの?」
審判として擬似卓球台の横に立つ同級生、柏谷への嫉妬を禁じ得ない僕。
いかんいかん、集中だ。こんなことで心を乱していては勝てるものも勝てなくなってしまう。これも僕を揺さぶりに掛かる、天馬の遠大で強力な策略なのかもしれない。
審判に促されてお互いのラケットを確認し合う。小細工はない。
さて、僕のサーブから。
初球から全開でいくぜ。黄色いピンポン球を左手で持ち、右手でスリッパのかかとの部分を握る。
審判の試合開始の合図で球を軽く宙へ投げ上げ、スリッパのラケットで『強烈な回転を掛けて』弾き出す!
「ふっっ!」
本来、スリッパでは掛かるはずもない回転数のスピンと、あり得ない速度。風使いの力を駆使して打ち出されたボールは、天馬のコートに突き刺さり跳ねる。
―――チュイン!
イレギュラーバウンドこそしなかったものの、これまたあり得ない音がして、天馬のコートにワンバウンドしたボールは僕に先制点をもたらす……はずだった。
次の瞬間、黄色い閃光が僕の視界の左隅を貫いたかと思うと、僕の後方で、何かがぶつかるような、弾けるような音がした。
次いで、僕の左腕に、焼けるような疼痛が走る。
「――っつぅ! 何が……」
反射的に左腕を抑える僕。見ると、鋭利な刃物で付けられたような一筋の切り傷があり、血が滲んでいた。
今の閃光は、ピンポン球? じゃあ、破裂音は?
音のした方向、僕の後方を見ると、六メートルは離れた壁に、小さく黒い円形の穴が空いており、ブスブスと燻っていた。
穴ができた壁の下の床に目をやると、黄色くて薄いプラスチックの破片がいくつか散らばっていた。先ほどの閃光が敵陣からの返球で、それが壁に当たって爆散したのだとすれば。
あれは、ピンポン球の、成れの果て。
「――爽介くん、もしかして今のが本気? 私を失望させないでくれるかしら」
僕は恐ろしくて、天馬の方を振り返ることができない。
この部屋に入った時とは違う汗が、僕の背中をじっとりと濡らす。
「言ったでしょ、私『現金だ』って。お弁当だけならまだしも、爽介くんの巫女さん姿をじっくり眺められるんだから、どこまでだって私は強くなれるわ」
「そ、そんな予定を立てていらっしゃる?」
僕は恐る恐る後ろを振り返る。
天馬は、眉ひとつ動かさず、瞬きすらせず言う。
「下着は背徳感満点のベビードール」
「ひいっ!」
「頭部を除き、不浄な体毛は全て脱毛」
「う、っぐ……」
「語尾には小さい母音を付ける。『なんですぅ』……とか、『大好きだよぉ』って」
「いやぁ……!」
「ちなみに『僕っ娘』」
「一人称は変えずに済むのか……」
いっそのこと、一人称は変えてしまった方が楽になれる気もするが。微妙な加減で男成分を残してしまうと、成りきれずに余計苦痛を感じそうだ。
しかしこれが、普段女子が僕に感じている恐怖か。ちょっと反省しよう。
この間も、天馬の口元は笑ってさえいない。
「次は私のサーブね。しっかりと、ざっくりと、あなたを殺してあげる」
チェーンソーで木材を切るような音とともに、今度は僕のコートの右端を捉え、天馬のサーブが卓球台の机を削り取った。
僕は一歩も動けないまま立ち尽くす。ギリギリ目で追うことはできるが、体がついて行かない。
イレギュラーバウンドなんてする余地がない。台ごと削ってしまう打球にとっては、少しばかりの段差など何の事はない。
天馬は大竹先輩の方を見て静かに言う。
「次の球を彼に」
「は、はいっ!」
生物としての本能が絶対者への恐怖を感じ取ったのか、先輩は天馬の言うなりに動く。
情けなく見えるが、仕方のないことだろう。その威圧感を正面で受ける僕には、その気持ちは痛いほどよく分かる。
絶対者である彼女が発する威圧感は、試合開始前のそれとは全く違う。人が違うというレベルではなく、生物としての格が違う。変貌しすぎている。
「……くそっ、いくぞ天馬」
心の奥底に芽生えつつある彼女への畏怖の念を振り払うように、僕は言う。
あの閃光のような球と正面切ってラリーに臨むのは分が悪い。それならば、天馬に、打球に触れることを許さなければいい。
僕はサーブで、強烈な横回転を掛けて相手のコートへと叩きこむ。
接地した球は、回転の影響を受け、僕から見て右、天馬にとっては左方向へ大きく横に跳ねる。打球の速度も通常の卓球以上に底上げされているので、天馬の位置からでは絶対に届かない。
――が、この場の絶対者にとって、僕の言う『絶対』など無意味だった。
ひらめくスカート、一瞬で天馬は打球の左側まで回りこむ。バックハンドで打ち返すことすら無理だと思われた打球に対し、恐ろしいことに、フォアハンドで打てる位置まで瞬間移動し、返球してくる。
だが瞬間移動の代償か、先の閃光ほどの威力はない。これなら打ち返せる。机の傾斜で少々バウンドの向きが変わったものの、僕は天馬の返球に回りこみ、打ち返す。
今度は、下回転を加えて。
この回転が掛かった打球は、打ち返そうと思っても沈む。つまり、思ったよりも手前に、例えば自分のコートにバウンドして失点に繋がるような回転だ。
どすんと地を震わす衝撃が部屋中に走り、僕のコートの左端にある机がふっ飛んだ。宙を待った。弾けたようにくるくると。
天板が叩き割られ、もはや原型をなくした塊が大きな音を立てて床に落ちた。
「知らなかったの? 私に回転は効かない」
「か、回転は……効かない?!」
僕が加えた回転など物ともせず、激しい踏み込みとともに放たれた天馬の打球は、あろうことか擬似卓球台の一部を破壊したのだった。
大竹先輩たちがいそいそと流れるような動きで後片付けと卓球台の修復を進める。
その間に、僕は問う。
「お、お前、卓球経験は無いんじゃなかったのかよ」
「そうよ。でもその程度の回転を無効にするくらい、今の私には造作も無いこと」
その程度と評された僕の打球の回転は、天馬には及ばないまでも、それでも卓球台に焦げ跡を残すくらい、常識はずれの回転数だったはずだ。
強い、強すぎる。
この平和なスリッパ卓球の世界にそぐわない、彼女の何者も寄せ付けない圧倒的な強さ。
テレビゲームで言うなら、低レベルの冒険者を襲う、イベントバトルのボスキャラのような無体な強さだろうか。『風使い』というチートスキルを持っている僕ですら、この体たらく。
「これで三点差。あなたの心を折るには十分かしら」
天馬が物騒なことを言う。
「まだ続けてもいいけれど。諦めが悪いようなら、次は腕を折る。体を狙う。足を切り刻んで腹を貫き、肩を砕いて首を削ぐ。
五臓六腑を蹂躙し陵辱し尽くす。顔だけは美しいままで残してあげるわ」
「……そりゃあありがとうよ。だが僕は、友人の手を殺人で汚させるわけにはいかない」
「あら、それじゃあ降参する?」
嘲るように、そして失望したように天馬が笑う。
「いいや諦めない」
僕は言う。
「来いよ天馬、僕には負けられない理由が増えた」
「格好つけて。そういうところが大好きよ」
「涙が出るほど嬉しいが、そのセリフは僕が用意するメイド服に身を包んでから言ってもらおうか」
天馬は僕の言葉を鼻で笑い、サーブの構えを取る。修復の終わった卓球台に向き、半身に構え、こちらを鋭く見据える。
「時間は掛けない。右腕からもらうわ」
閃光のような、などという生易しい比喩ではない。掛け値なしの光速の一球が放たれる。
狙いは、僕。
「――手間が省けるぜ!!」
予測するな、と大竹先輩からはアドバイスを貰っているが、それはイレギュラーバウンドの話であり、ラリーにおいて何も考えないということではない。
つまり、前後左右、どこに打球が来るのか予測しながら戦っていた訳だが、天馬の『僕を狙って打つ』宣言により、打球の方向は絞られる。
予測に回していた力を、集中力を打ち返すことのみに注ぐ。
空気を切り裂き迫る打球を、何とかスリッパで捉える。
物理法則を無視した破壊力を湛えるその一球を受け止め、突進力の源になっている回転を、繊細かつ猛烈な気流を生み出し抑えこむ。回転の逆方向に風を作り出し、食い止める。
「ぉおおお!」
卓球台の反対側に立つ天馬を見据え、受け止めた打球を打ち返す。
打球を擦り上げるようにして前回転。全てを弾き飛ばし、空気の壁すら穿つフォアハンドドライブ。
纏う風が、熱を帯びて赤く輝く。
「必殺!『赤い進撃』!」
「――くっ!」
僕の(謎の)必殺ドライブが天馬のラケットを弾く。ピンポン球は、威力を殺され床に落ちている。
「これはただの一点じゃない。僕の反撃の狼煙となる大きな楔だ。天馬、もうお前には――」
初めて戸惑いの表情を見せた天馬に僕は言う。
「――勝たせてやらない」
スリ卓クラブ(長いので勝手に訳した)の一同から、おおっという歓声が上がる。
これで一対三。ここから逆転してやる。
「ほら、早くラケット拾えよ。まぁ、このまま続ける勇気があるんならだけどな」
「それ、さっきのお返しのつもり? 一点取ったくらいでいい気にならないで欲しいわね」
言って、スリッパに腕を伸ばした天馬が、自分の異変に気づく。
僕の『赤い進撃』の衝撃は、彼女の右手を軽く麻痺させているようだ。
「どうした、天馬。悪いが女子だろうと友人だろうと、僕は勝負の最中に情けはかけないぜ」
「――知ってる。だからこのくらいで調子に乗らないでって言ってるじゃない」
うだるような熱気に包まれているというのに、汗一つ掻いていない天馬。
分かっている。この状況、天馬がなりふり構わずコートの隅を突くような攻撃を続ければ、僕の勝ち目はない。だから盤外勝負、台の外での駆け引きで戦うしか、僕には勝ち筋はないのだ。
もちろん、僕の思惑なんて天馬はお見通しだろう。
それでも天馬は言う。
「次は爽介くんのサーブかな。くだらないサーブを打つようなら、私は予告どおりあなたの手足をもいであげる。かかってきなさい」
そうだよな、そう来るよな、天馬、お前なら。
僕の宿命のライバルは美山 陽だと決まっているが、僕が一生かけても乗り越えられそうにないのは、天才的で天災的な僕の幼なじみ、ワタルくらいだと思っていた。
けれど、今の天馬を見て認識を変えた。
本気でエンジンの掛かった天馬は、僕の想像を大きく超える。こいつも、僕の前にそびえ立つ大きな壁だ。敵わない。
そして同時に強く思う。こいつに勝ちたいと。
(第8話 風使いと「スリッパ」(3) 終わり)




