第8話 風使いと「スリッパ」(1)
日差しはまだジリジリと強いけれど、僕は幸せだった。
昼休み。中庭のベンチで隣に座る天馬と僕は、購買でゲットしたパンを仲良く食べていた。
「あ、そのドーナツ美味しいよね。チョコが濃厚で」
「ん? マンハッタン? そうそう、これはヘビロテだぜ。喉乾くけど。一口いる?」
「欲しい欲しい!」
チョコにコーティングされた、パンというかお菓子というか、そんなチョコドーナツ。封を開けて差し出すと、甘いものに目がない天馬は僕の方に首を伸ばしてパクっと食いつく。
「……ん。安定の味!」
嬉しそうに笑って、しっかりとドーナツを味わった天馬は、紙パックのグレープフルーツジュースで喉を潤す。
天馬は、夏休みを経て伸びた髪をサイドから編みこみ後ろで一本にまとめている。まっすぐに伸びた白い首筋が眩しい。
僕たちが憩っているこの中庭は、教室棟と特別棟の間にある生徒たちにも人気のスポットだ。
中庭の最大の目玉は噴水。由来は分からないが、イタリアかどこかにあるという噴水を模して作ったらしい。女神の像が中央に配置され、その足元から水が噴き出し、円形のプールへ注いでいる。
……公立校なのに、どこにこんな費用があるのだろうか。
ちなみに、手入れは用務員さんが毎日欠かさず行っているらしく綺麗なものだ。
その噴水の円形のプールを囲むように花壇とベンチが交互に配置されている。おかげで、隣のベンチと程よい距離が取れ、アーチを描いて落ちる水の粒を眺めながら、ゆったりと過ごすことができる。天気のいい昼休みはほぼ満席になるほどの人気だ。
灼熱の夏や極寒の冬には人もまばらになるものの、今日はまだ日差しの強い時期なのに、僕と天馬が中庭に来た時には残り一基のベンチしか残されていなかった。
ちょうど日光が当たる席だ。全く日に焼けてない天馬は木陰のベンチに座らせたかったが、出遅れたから仕方ない。
■ ■ ■
さて、二学期の昼休みの僕はこうだ。
一風変わった趣味嗜好を持つ転校生、穂々乃木希乃、そして同じクラスの野球部マネージャーコンビ、美山と蕨野の三人と一緒に、机を四つ突き合わせてランチに興じている。
女子三人に囲まれた華やかな食卓と見えるかもしれないが……これはこれで、のっぴきならない事情があってのことだった。
これまでも一緒に食べていた友達(男子)はいるのだが、この事情を知り、生温い笑顔で送り出してくれている。
つーか、誘ったけどそいつら絶対同席しねーんだもん。
転校生の内面は早くもクラスメイトたちの知るところとなっていた(あれだけはしゃいでたら無理もない)。
とはいえ幸いというか。今のところ恐れられてこそいるものの、露骨に避けられたり嫌われたりはしていないようだ。
なお、彼女たちはみんな家から持って来た弁当を食べているが、僕は毎日購買部で購入したパンを美味しく頂いている。
今日もパンを調達しようと向かったところで、普段購買部では顔を合わせない、隣のクラスの天馬美津姫にバッタリと会ったのだった。
「爽介くん。お昼、購買だっけ」
「おお天馬。そう、僕はいつも購買。天馬は珍しいんじゃないか?」
「うん。今日は弁当なくて。あ! 折角だし一緒に食べない? 中庭とかで」
生徒がひしめくレジ前から離れたところで話す僕たち。
「天馬はいいのか? 友達とかと食べるんじゃ」
女子同士、そういう友達同士のルールとか、暗黙の了解ってやつは不可侵なのではないのだろうか。
「大丈夫大丈夫。携帯にメッセージ入れとくから。爽介くんはいつも一人だから大丈夫でしょ」
「……いや違うけども。僕、別に男子からは避けられてないからな。まあいい。んじゃ、ちゃっちゃっと買って中庭行こうか」
天馬には「いつも女子と食べてるんだ」なんて敢えて言う必要もないだろうと、僕は伏せておいた。
「でも二人でランチとか恋人みたいじゃね?」
「ほんとだね〜。あ、中庭で襲ってきたりしないでよ? まだ私、そこまでの覚悟はないからね」
『まだ』という言葉に希望を見出さないでもない。
「はっはっは、僕を誰だと思ってるんだね。もちろんだよ、もちろん」
「その『もちろん』はどっちに掛かった言葉なのかな。もちろん襲うのか、襲わないのか」
「襲わなくもなくもなくもないことはないかもしれないのかもしれないこともない」
「――数えないからね。どっち?」
「襲いません」
そんな感じでキャッキャ言いながら昼飯を調達し、中庭を訪れたのだった。
■ ■ ■
ちなみに中庭へは、教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下からアプローチすることができ、石畳なので室内用のスリッパのまま通行が可能だ。
横に座る天馬の足元も、二年女子を表すピンクのスリッパだ。
同学年の女子はもちろん同じスリッパを使っているので、足の甲に部分に名字が書かれている。さらにワンポイント、デフォルメされた花が一輪、ペインティングされていた。
「それ、天馬が書いたの?」
「え? ああ、スリッパ? そうそう、ちょっと可愛いでしょ。本当は別の色で書きたかったんだけど、ベースがピンクだからね。赤だと目立たなくて」
「へぇ、天馬って手先器用そうだもんな」
「器用さと絵心はまた別だよ。でも絵を描くのは好きかな。選択も美術とってるし」
ふーん、とスリッパも見ながらも僕の視線は別のパーツに釘付けだ。紺のソックスのさらに上にある、真っ白な天馬のお御足を網膜に焼き付ける。
……ああ、夏休みの幸せを思い出す。
それは夏休みに天馬の買い物に付き合った日のこと。なんと天馬は、みんな大好きホットパンツで僕の目の前に舞い降りたのだった。正確にはキュロットとかペチパンとか言うらしいが、ネイビーの、ふわっとした素材の服だった。
たとえ正式名称が何であろうと、露出された陶磁器のような白い脚と相まって、僕の夏の脳内ベストショットになっている。レースが施された白いブラウスもハマり過ぎるほどハマり過ぎていて、今でも天馬を見る度に思い出してしまう。
普段、インドアな雰囲気の女子が夏になって活発的な格好をするってのは、いいよね。
「爽介くん……襲わない、んだよね?」
思わず天馬の方へ乗り出し気味になっていた僕を手のひらで軽く制して、天馬は言った。
「……天馬、言葉なんて。そして過去のことなんて。僕の愛の前では何の意味も持たないぜ」
「それは愛じゃなくて愛欲だよ、劣情だからね」
「劣情の反対ってなんだろう。清廉潔白な……『優情』?」
「それこそ『友情』じゃない?」
おおなるほど(本格的に叱られる前に上手く話を逸らした。そして上手いことを言われた)。
「ごまかされないよ、『ごめんなさい』は?」
「(ちっ……)ごめんなさい」
「私は今、ストローという名の凶器を持っているの。喉が乾いたら、爽介くんの眼球から水分を吸い出してもいいんだよ」
「眼球?!……えっと、ごめんなさい」
そう、僕は素直だ。
「うーん。……マンハッタンのお礼ってことで無罪にしとく」
ギリギリセーフ。人間素直が一番だ。
僕は話を戻す。
「で、何の話だっけ。ホットパンツだっけ」
「だから! ……スリッパ、っていうか絵心の話じゃなかった?」
ああ、そういえばそんな話だったかな。
「爽介くんは、選択、美術じゃなかったよね。音楽だっけ?」
「おう。絵は苦手でさ。まだしも料理の方がいいな」
「料理ね。そっかそっか……」
ん、天馬が何か考え事を始めたようだ。
ややあって、天馬が口を開いた。
「ねえ、爽介くん。いいとこ行こっか」
■ ■ ■
天馬に促されるまま後を付いていく僕。
渡り廊下を抜け、特別棟へと入っていく。
一階の廊下を奥へ、奥へ。
そういえば、こっちの方には特別教室もないので実は何があるのか知らない。
「ここだよ。行こう」
いつものように天馬が微笑む。
でも、その目の奥に、わずかばかりの興奮の色が含まれていたのを僕は確かに見た。
■ ■ ■
「失礼します」
天馬が鍵が掛かっていないその引き戸を開ける。薄暗い部屋の中には、むせ返るような異様な熱気が充満していた。
「あっつ……」
「そうだよ。みんなの熱気が溜まってるからね」
みんな。
窓が締め切られ、カーテンで外界と隔絶されたその部屋の中央には、使い古された教室の机が十数個、くっつけて並べられている。長めのクイーンサイズベッドのような大きさだろうか。
その寝台を中心に、男女入り混じり、六人の先客が汗ばんだ体を床に投げ出していた。
制服やスリッパから判断するに、一年も三年も。そして同級生もいる。
「なんだよ、ここは――?」
異様な雰囲気に飲まれて、うろたえた声を出す僕。
そんな僕を無視して、熱気を帯びた内の一人――確か同学年の男子だ。見たことはある。茶髪で、小ぶりだがピアスを開けている。夏服のシャツは無駄に第二ボタンまで開いており、胸には汗が滴っている
。
彼は、床にだらしなく座ったまま気だるそうに口を開く。
「あん?ミッキーじゃねぇの? ……へぇ。こんなとこには来ないタイプだと思ってたんだけどな……」
「柏谷くん。そうね、クラスじゃあ大人しい、って感じで通ってるからね、私」
天馬の言葉を受け、にやりと、いらやしく笑う柏谷と呼ばれた男子。
美津姫だからミッキー?
――どうやら天馬と同じクラスらしいが、その馴れ馴れしさが気分の悪い笑みと相まって、僕の中での彼の印象を酷く落とす。
「あの、私たち、ここ使いたいんだけど、いいかな?」
「ん~、まぁ今ちょうど空いてるけど……大竹先輩、どうします?」
柏谷が三年生らしき男子生徒の方を見遣る。
軽くパーマの掛かった、男子にしては長い髪。オシャレな(なのか?)黒ぶちの眼鏡を掛けた、長身の男子が立っていた。
その三年男子、大竹先輩はもったいぶるように言う。
「それはそうだが……。ここで『やる』って事は、君たち、ちゃんと『魅せて』くれるんだろうな?」
「そーですよ、私らもまた二回目やりたいし、つまんない感じだったらちょっと盛り下がっちゃうんですけど」
先輩の隣に座り込んでいた一年と思われる女子が、挑発的な目線を天馬に向けながら言った。
「大丈夫です。そんなに時間は掛けませんし。……ちゃんと、皆さんの刺激になるようにしますから」
天馬は落ち着き払って、丁寧だけど挑戦するように言う。口元だけ笑っている。
僕は目の前で、何のやり取りが繰り広げられているのかまったく掴めない。
「な、なあ天馬、だから何なんだよ、ここ……」
天馬の代わりに大竹先輩が口を開く。
「この空き教室はね、生徒会に申請し許可が下りれば、昼休み、あるいは放課後に借り受けることができるのさ。知らなかったかい? ……現行生徒会の審査はザルだからな、だからこうして、オレたち有志が、『有意義』に使わせてもらってるのさ」
フフフっと、柏谷に似たいやらしい笑みを顔面に貼り付かせている。
「丁度、オレたちも一発やって休憩中だからさ。いいよ、早めに終わらせてくれるんなら」
いや、柏谷よりもっと軽薄な笑顔かもしれない。
「……え、えっと、それで天馬、何しようってんだよ」
あまり彼らと話したい気分になれず、天馬に訊ねた。
「だから、やりましょ。あまり昼休みも時間がないし。まずはスリッパから脱いで」
「え? 脱ぐって……やるって、この人たちの前で……? いや僕、まだ覚悟が……」
「大丈夫だよ、すぐに慣れるから。ほら、早く脱ぎましょ」
言って、机で出来たベッドの方へ歩み寄っていく天馬。
慣れる? 何を言ってんだ天馬……。
彼女はさっきまで一緒に噴水を眺めていた天馬なのか? 知らない内に、僕の知らない天馬になっているんじゃないのか?
何だ、何なんだよここは。『やる』って、『魅せる』って……こんな大勢の前で?
ただの教室のはずなのに、見知らぬ世界に迷い込んでしまったかのような、じっとりとした恐怖が僕の背中に這い上がってくる。
「ほら、何だっけ、B組の風間? だっけ? お前も早く脱げよ。ミッキーを待たせてんじゃねえよ」
柏谷が言う。
風見だ、と言おうとしたが、天馬の方が早かった。
「爽介くん、先輩たち待たせちゃ悪いから、ね。ほら、靴下も脱いで。始めよう……」
く、靴下から? マニアックな脱ぎ方を……。
「私が誘ったんだし、爽介くん、先に攻めていいよ」
「い、いや僕、初めてだし……」
「爽介くんなら、きっと上手く出来るよ。だから私も……手加減しないからね」
――――!!
だめだ! 妖艶に笑う天馬に、僕の脳髄は溶かされてしまいそうだ。
こうなったら僕も覚悟を決めるしかない。
「わ、分かったよ。やるよ。でもせめて、始めはパンツ履いててもいいか?」
「パンツ?」
「いや、さすがにみんなの前で、いきなり全裸は恥ずかしい」
いくら変態と呼ばれる僕とはいえ、何を晒しても平気、ということではない。
「え? そ、そんなに脱ぐ気なの?」
「き、着たままするのか?」
それはそれで……いや、でもそういえば、先輩たちを見れば制服は着たままみたいだし……。
「こ、ここは、着たままするルール……ってことなのか?」
戸惑うというより、怯えている僕の声。
天馬は言う。
「脱いでするルールの方が特殊だと思うけど……うーん、さすが爽介くんだね」
「いや、着たままの方がマニアックだと思うぜ。そういうビデオも、あるけどさ」
「ビデオ? 何だ、意外と好きなんだね、映像までチェックしてるなんて」
「いや、まあ、それは……」
随分とあけすけに語るな、天馬。これが本当の彼女ってことなのか……。
ショックじゃない、と言われれば嘘になる。でも、これも天馬の一面ということなら……受け止めようじゃないか。
笑顔が素敵で優しくて。自分の進む道をしっかりと見据えた、しっかり者の彼女。
そんな天馬の、どんな部分であっても受け止めようと僕は覚悟を決める。
「よし、やるか……」
「うん。始めましょ。スリッパ卓球」
スリッパ卓球。
それはこの場合、上履き用のスリッパと、机で出来た卓球台で行う室内遊戯のことだった。
(第8話 風使いと「スリッパ」(1) 終わり)




