第6話 風使いと「夏休み」(8)
台風――
強烈な熱帯低気圧が、この日本列島に接近しているとのことだった。
昨日から僕たちの町――太平洋に面したこの町に降る雨は、台風本体に先行して、湿った空気が上空に流れ込んできた結果――ということらしい。
ガチで、嵐の前兆だったのだ。
そして、台風の本体はまだ海上にあるものの、陸地目掛けて接近中。飛行機ともなれば、たとえ台風の上陸前でも、その風の影響を大きく受けることになるだろう。
最悪の場合は欠航。
ワタルの乗る便まであと四時間と迫った今、彼の渡航には黄色信号が点っていた。
■ ■ ■
「ほら、今から引き返したら格好つかないじゃん? 杏果にさ」
「まあ、気持ちは分かるけど……」
ドラマチックな熱い抱擁と、濃厚なキスまで交わしておいて、すぐまた顔を合わせるのが恥ずかしいというのは……まあ分かる。
篠宮は喜ぶだろうけど、男としては、格好悪いってもんじゃない。男は見栄で生きてる人種だ。誰に対しても、格好をつけたい。それが女の子相手なら尚更だし、好きな女の子に対してなんて――そりゃあ見栄を張りに張りまくるってもんだ。
「へいへい、分かったよ。この風使いにお任せあれ」
「サンキュー。さすが爽介だな」
「こんな時だけ、調子がいいぜ」
しかしこいつは、僕を疑うということを知らないらしい。
きっと「爽介が言うんだから」というだけの理由で、『風使い』のことだって、信じてしまっているんだろう――僕自身、一応、それなりにこの不思議な力に戸惑っているというのに。
ワタルがモテる理由も、正直分かる。相手のことを肯定してやれる大きな器が、こいつにはある。決して女の子を甘やかす訳じゃなく、相手のどんな部分だって丸ごとひっくるめて、全部呑み込んでしまう強欲さをこいつは持っている。
こいつのそういう所が、羨ましくて、怖くて、妬ましくて、憧れて――ほんと嫌いだ。そんな愛すべき幼なじみは、電話越しに僕に言う。
「じゃあ任せたぜ、幼なじみ」
僕は応える。
「おう任された。幼なじみ」
■ ■ ■
――さてと、請け負ったはいいものの、どうするかな。
台風は今現在、陸地から遠く離れた太平洋の上にある。いくらこの僕でも、目の前にないものをどうこうするっていうのは流石に無理だ――無理だろう。
どうにかして台風が見える位置まで行くか? ううん、船にしろ飛んで行くにしろ、それは現実的じゃない気がする。
じゃあ、今から空港へ行って、荒れ狂う気流から機体を守るか? ――ダメだ。そういう問題じゃない。台風が遠くにあるってだけで、欠航の判断は下されるだろう。
『遥か遠くにある台風を制限時間内に吹き飛ばす』
うーん、風使いとして最初の試練だ。どうしたものか……。
ん、見えればいいのか? 目に見えるものなら、僕はどうにか出来る。そんな確信が僕の中にある。
それなら――
■ ■ ■
僕は、一階に降りた。
リビングでは昨日と同じソファの定位置で、姉さんが一人くつろいでいた。お酒の疲れが残ってるのか、ぐったりとソファに身を預けている。
そのスライムみたいな物体に、僕は言う。
「お姉様」
「……なによ」
不機嫌そうな姉の声。いつもの条件反射で、一瞬だけ怯みそうになる。
「実は夏休み明け早々、校内合唱コンクールがありまして」
「ふーん」
嘘だ。そんな行事はない。
「ちょっとリビングで発声練習をしようかなって」
「……? 何言ってんのよ、……ってちょっと、勝手にテレビ変えないでよ」
僕はテレビのリモコンを手に、画面の前に座り込み、次々とチャンネルを変えていく。
僕の部屋にはテレビはない。だからこのリビングだ。スマホの画面じゃあ小さすぎる。そう――台風を映し出す画面は、大きい方がいい。衛生から見た台風の画像。
白い渦巻き。中心部には黒い点。
これなら、リアルタイムではなくても、台風の正確な位置と、僕たちの住む町――そして羽田空港の位置だって、僕はこの目で見て確認できる。
僕はこの目に映るものならば――この目が届く範囲ならば。思いつくままに、思いのままに風を操れる――
「ちょっと爽介!」
姉さんの金切り声。僕は無視する。画面の中の台風を見据えて、精神を爆発させる。想像する。台風の中心を。暴風域? 知ったこっちゃない。猛烈に強い勢力? ――はん、僕に敵うわけない。
僕はテレビの縁をガシっと握って、
「うらああああぁあああああ――!」
叫ぶ。
僕の幼なじみは、しょっちゅうトラブルを巻き起こしてくれるし、猛烈に、奔放に僕らを引っ掻き回してくれるんだぜ?
――あいつの幼なじみである僕が、これくらい出来なくてどうする!?
「……ちょ、ちょっと、爽介? 何してんのバカ!」
血走った目で画面に食らいつく僕。その後ろ頭を姉さんが平手で打つ。僕は振り返り、
「だから、発声練習だって。……でも、もう終わったから。どうぞ番組の続きをご覧ください」
「……私がご覧したのは弟の奇行よ。……やっぱり昨日の打ち所が悪かったのかしらね」
ため息をつき、色々と諦め顔の姉だった。しばらくしてテレビからは、動揺した顔の気象予報士が、異常な気象現象をしどろもどろに解説する映像が流れた。
僕はフローリングの床に正座しながらそれを確認した。
ともあれ僕の幼なじみは今日、海の向こうへと旅立つ。
■ ■ ■
「いよいよ明日だね、ワタルくんが帰ってくるの」
一年前の出来事を思い出していた僕に、隣で自転車を押しながら歩く篠宮が言う。
高校二年の夏、終業式の帰り道。
一斉に下校する僕たち嵐谷高校の制服に混ざって、私立久世原高校のセーラー服――どこかの誰かさんが大好きな制服――に身を包んで歩く女の子、篠宮杏果。
僕の幼なじみの恋人だ。我がままでどうしようもないあいつと、共に在ることを決めた僕の友人。
「正月にも帰って来なかったもんな、あいつ」
「仕方ないよ。折角だからあっちでの新年も体験したかったって。ほんと自分勝手だよね」
文句を口にしながらも、篠宮は満面の笑みだ。歩調もウキウキ気分。自転車がなければスキップでも始めそうなローファー。放っておいたら、翼が生えて夏空まで飛んでいきそうな夏服の背中。自慢のストレートヘアまで、風に揺られて、ひらひらと嬉しそうに踊っている。
あれから僕と篠宮は、まあ狭い世間だし、ばったりすれ違ったり、たまに連絡を取ったりくらいはしていたけど、ワタル抜きで会うのも微妙だったので積極的に会うことはなかった。
だからゆっくり話すのは本当に一年ぶりだった。
その間、篠宮とワタルの関係がどうだったのか詳しい話は知らないけれど――どうやら今の篠宮の様子を見ると僕が心配するまでもなさそうだ。
「明日、空港まで迎えに行かなくていいのか?」
聞くと、篠宮はこの町で彼の帰りを待つのだそうだ。
「ほら、ワタルくんのことだから現地から女の子とか連れて帰ってそうじゃない? 鉢合わせしたら流石に怒らないでいる自信ないし。見ないに越したことはないよ」
「……いや、あの女たらしでもそこまでじゃないとは思うけどな。……たぶん」
完全に否定できないのが悲しい。
「ま、でもおじさんたちが迎えに行くだろうから、家族水入らずのほうがいいのかな」
という僕の言葉に、そうそう、と明るい声で返してくる篠宮。
「それに再会するなら三人一緒で、この町でっていうのがいいでしょ」
「ま、篠宮がいいんなら、それでいいよ」
「うん。じゃあサプライズ、どうしよっか」
そう、これから僕たちは、久しぶりに再会するあいつを、どのように驚かせるのか――作戦会議だ。明日この町に帰ってくるワタルに、僕たちはどんな顔をして会おうか。そして、どんな顔をさせてやろうか。
考えるだけで、楽しくなってくる。
■ ■ ■
結局、あの夏休みは。
僕たちはいつものように、いつもどおりに過ごして。傷つけたり、傷つけられたり。そんなついでに僕は風使いになったりして。
言ってみればたったそれだけの夏休みだった。人生の分岐点でも何でもない、ただの夏休みだった。けれど僕たちにとっては大切な時間で、確かにあった三人の時間だった。
僕と篠宮の歩くアスファルトの先、見上げれば青い空。目に痛いくらいの白い雲が高く高く伸びている。
眩しくて熱い風が、僕たちを追い越して空へと吹き上がっていく。
今年も、夏休みが始まる。
(第6話 風使いと「夏休み」(8) 終わり)
(「夏休み」編 了)




