第6話 風使いと「夏休み」(6)
ワタルの家から帰って、リビングのドアを開けると――僕の三つ年上の姉、風見家の長女にして僕の天敵、風見 美鳥がソファに鎮座していた。市内の大学に通う女子大生だ。
「……ただいま」
「ん」
とだけ、姉さん。
こちらを一瞥もしない。
僕は、昼飯にと買っていたジュースとパンを、ワタルの家に置いてきてしまっていた――しかし食欲はなかったので、飲み物を求めて冷蔵庫を開けたものの、飲み物らしきものはない。
リビングを見ると、テレビの前のテーブルに、麦茶の入ったポットが置かれていた。
「お姉様……その麦茶を一杯、頂いてもよろしいでしょうか」
いつ、いかなるときでも、姉には絶対服従の僕だ。
「一杯って、コップ一杯ってこと? たくさんって意味なら、アウト」
この女……小学生か。
「コップ一杯です」
「許す」
なんと御心の広い!
……じゃねぇよ。
その麦茶は家族の共有財産だ。
あえて言うならお父様とお母様の物だ。大学生のお前と高校生の僕は扶養家族だ。
「ってあんた、濡れてんじゃん。汚っ。なに、外、雨降ってんの」
別に汚くはねぇよ、と反論しようとして――面倒臭いのでやめた。
まだ十五年の付き合いでしかないけれど、口喧嘩では絶対勝てないことを、身をもって知っている。
代わりに、恵んで頂いた麦茶をコップに注ぎ、飲み干してから返事をした。
「ん、さっき降り出した」
外では、初めは小ぶりだった雨も、段々と本降りになってきたようだ。
「えー、今日サークルの飲み会なんだけどなあ。めんどい……」
暴君の居ない我が家は、どれだけ平和なのだろうかと思いを馳せ、僕の声はひそかに弾む。
「じゃあ、遅くなる感じ?」
「そ。朝になるかな。あ、お母さんも今日は、叔母さんとこ泊まるってさ。ご飯は適当に出前でも取りなさいって」
父は出張なので、じゃあ今夜は僕一人か。
彼女でも呼ぼっかな(いないけど)。
自分の部屋に退散しかけた僕に、姉が言う。
「……ちょっとあんた、血、出てるわよ」
帰りに雨に降られたせいで気づかなかったが――ワタルへの頭突きで、額を切っていたらしい。殴った右手首も、まだ痛い。
「はあ……なにバカやってんのよ、高校生にもなって……」
姐さんは悪態をつきながら、戸棚から救急箱を引っ張り出してくる。
「ほら、ここ座りなさい」
自分の隣を示し、半ば強引に、僕をソファに座らせる。
……何をする気だろう。
僕は、とうとうトドメを刺されるんだろうか。
「髪」
「え?」
「邪魔だから前髪、手でどけなさいっつってんの。消毒できないでしょうが」
なんとビックリ、この姉が応急処置をしてくれようというのか。
いやいや、まだ油断してはいけない。
「なによその間抜けな顔……文句あるんならやったげないわよ」
「いえ……お願いします」
姉さんのほうを向いた僕は、左手で前髪をかき上げ、素直に額を差し出す。
お姉様は意外と慣れた手つきで脱脂綿に消毒液を染み込ませ、患部に当てる。
「っつ……! しみる!」
「当たり前でしょ。あんたみたいのだって、一応、生き物なんだから」
「…………」
「なに? 文句?」
「ございません」
言葉の端々で僕を傷つけるのはいつもどおりだけど――でも、いつもなく優しい。
怖い。
嵐でも来るんじゃないだろうか。
「……ん。取り敢えずガーゼ貼っとくから。お風呂上がったら自分で貼り替えなさいよ」
「どうも」
「どうも?」
「いえ、ありがとうございますお姉様。今度、靴を舐めさせてください」
「嫌に決まってんでしょ。余計に汚れるわ。自分の靴でも舐めてなさい」
と、いつものやり取りを交わし、今度こそリビングを後にする。
二階の自分の部屋に入ると、疲れがどっと来た。床にカバンを投げ出し、制服のままベッドにダイブする。体は重く、ベッドに沈み込む――けれど、どこかフワフワした、落ち着かない感じがする。
慣れないことをしたからもしれない。
……殴ったのって、初めてか。
ぼんやりと右手を眺める。
篠宮の辛そうな顔を見たのも初めてだ。人が悲しんでいる顔は……こっちまでヘコむ。
……どうにも気分が悪い。今になって、また頭がガンガンと痛み出した。
体が重い。
何もしたくない。
雨の音がうるさい。
あれこれ考えるのも嫌になって、うつ伏せになり、僕は目を閉じた。
■ ■ ■
――ズキズキする。
――ミシミシする。
――うねうねする。
――フラフラする。
――ガンガンする。
――バキバキする。
――熱い。熱くて、痛い。
――もやもやする。
――悶々する。
――ドキドキする。
――ギシギシする。
――メラメラする。
――ざわざわする。
――ずるずるする。
――苦しい。
吐きそうに、なる。
■ ■ ■
コチ、コチ、という秒針の音が聞こえて、目を覚ました。上半身を起こして、首を巡らせる。焦点が定まらない。部屋の中は暗い。
……どうやら、ベッドにうつ伏せに体を投げ出して、そのまま寝てしまったらしい。もう夜だ。
――頭が痛い。
カーテンを閉め忘れた窓から、街灯の灯りが、室内を照らしていた。窓の外では、雨が激しくなっていた。
次第に目が慣れてきた。体を捻って壁掛け時計を見ると――深夜0時を回っていた。ええっと、帰ってきたのが昼過ぎだから……もう随分な時間、僕は眠っていたようだった。
「…………うぅ」
胸を押し付けて寝ていたせいか、うまく声が出ない。喉が渇いたし、体も汗でじっとり湿って気持ち悪い。
「……まじか、風邪かな……」
僕は健康優良児で、これまで風邪をひいた記憶が、ほとんどない。
さながら、『天才は風邪を引かない』という都市伝説のとおりに。
ただその分、いざこうして風邪をひいてみると――「このまま死ぬんじゃね?」ってくらいに、弱気になっている自分がいる。
タイミングの悪いことに、今、家には僕以外は誰も居ない。
体を奮い立たせて、一階へと向かう。
リビングに、昼間の救急箱があったはず。見つけて、開いてみるが、
「ねぇし……」
残念ながら、解熱剤や頭痛薬は入ってなかった。
それなら取りあえず水分を補給しようと、冷蔵庫を覗くと――どうやら昼間の麦茶は、姉さんが飲み上げてしまったようだ。何もない。水道水はあるけど……。
「コンビニ、行くか」
朦朧とした頭で、そんなことを思う。
逆効果だろうか?
まあ、いいや。
えっと、財布、財布。
二階に戻り、カバンの中から財布を引っ張り出す。家と自転車の鍵もズボンのポケットに押し込み、制服姿のまま、玄関を出る。
外は――雨。
「げ、そうだった。……歩くか。いや、歩くのしんどいな」
一番近くのコンビニは、通学路のちょうど中ごろ――自転車で五分くらいの位置にある。今日(もう昨日か?)、ワタルの家に行く前に寄ったコンビニだ。
自転車で行きたい。
また自分の部屋に戻り、グレーのレインコートを引っ張り出して、羽織る。
ああ、マスクもしていくか。
リビングの救急箱から、マスクを探し当てて装着する。
……どうにも、我ながら冷静な行動でないことは分かっているけど、軌道修正ができない。思考が正常じゃない。風邪って辛いものなんだな、と改めて思う。
結局、そのまま自転車に跨り、コンビニを目指した。
■ ■ ■
「いらっしゃいま……せぇ〜〜」
入店すると、レジカウンターの中から、アルバイトらしきおばちゃんが、僕を見て一瞬固まり――間の抜けた声を出す。
なぜ?
僕は、家から五分のところにあるコンビニに、倍の時間をかけて、ようやく到着したところだった。
雨は相変わらずだったが、奇跡的に濡れることなく、到着できた。
ラッキー。
幸運だ。
レインコート、要らなかったな。
雑誌コーナーを横切り――いつもの悲しい習慣、男の性で成人誌コーナーにチラリと目をやると、窓に写る自分の姿が目に入った。
「ああ……そりゃあ、ビックリするよな……」
僕の姿は。
グレーのレインコートでフードを深く被り、マスクをし、額にはガーゼまで貼っている。顔がほとんど見えていないし、不審人物にしか見えない。そりゃあ、間抜けな声も出されてしまうだろう。警戒しないほうがおかしい。
自嘲気味に笑って、店内を徘徊する。
スポーツドリンク、レトルトのおかゆ――ええっと、薬とか売ってんのかな。ああ、雑誌コーナーの向かいか。
……などと考えていたら、他の誰かが入店する音が聞こえた。次の瞬間、レジから悲鳴が上がり、
「出せ! さっさと出せ、金だ! 全部! ……は、早くしろ!」
と、男の怒鳴り声が聞こえた。
しばらく呆然としてしまったが、レジのおばちゃんの上擦った声で、これはコンビニ強盗だと――ようやく気づいた。
通路越しにレジを窺うと、僕と同じようなレインコートを着た、強盗の背中があった。
どうやら、僕の存在には気づいていない。強盗も、相当焦っているのだろう。
ここは、僕が背後から強盗を取り押さえるべきか?
いや、きっと凶器を持ってるだろうし、急に出て行って、逆に店員さんを傷つけてもまずい。
第一、今のコンディションでは、たとえ不意打ちであっても、成人男性を取り押さえる自信はない。
コンビニの対応マニュアルだってしっかりしてるだろうし、奥に他の店員も居るかもしれない。それに――どうやら、レジのお金を素直に渡そうとしているみたいだし、このまま目的を果たしてもらって、あとは警察に任せるのがベストだろう。
「ふ、ふざけんな! もっと、もっとだ! ぜ、全部だよ!」
男の声が響く。
続けて、怯えた店員の声。
「ぜ、全部です、それで全部なんです! ほ、本当です、すいません、勘弁してください!」
「嘘つくんじゃねぇ! な、舐めやがって、どいつもこいつもぉ!」
「いや、やめて!」
ちらりと見えた。
強盗は、刃物を振り回している。
叫ぶ言葉も、どんどん支離滅裂になっていく。
……傍観していられる状況では、ないらしい。
僕は二リットルのペットボトルを右手に、通路を、気づかれないようにゆっくりと進む。息を殺し、足音を消して近づく。
強盗は、カウンターを乗り越えそうな勢いで何やら怒鳴っていて、周囲に注意を配っている様子はない。
もう少しだけ、近づこう。
あと一歩。
出来ることなら、一撃で決めたい。
それなら頭だろう。
けれど、すぐ背後まで忍び寄ればバレてしまう。
背中まであと四歩くらいの位置で、僕は足を止める。
一度、大きく息を吸って、強盗の後頭部に狙いをつける。標的に向けて右手を振りかぶり、ペットボトルを思いきり投げつけた。
ボゴンッと重い音がして、強盗の背中に命中。ペットボトルは床に転がった。二リットル――約二キログラムの重さのペットボトル。
重さを上手く計算できなかったのか、昼間痛めた手首のせいもあったのか――狙った後頭部には当たらなかった。
それでも、こちらに気を向けさせることは出来た。
強盗は、僕を振り向き、目を吊り上げる。
レインコートのフードを被り、マスクをしていて、顔はほどんど見えないが――その目にはもう、正気が宿っていないことは、すぐに分かった。三十代くらいの、ガタイのいい男だ。
強盗は、瞼を痙攣させながら、僕に向かって叫ぶ。
「なんだてめぇ! お、お前も、お前も俺をバカにすんのか!」
彼の右手には、刃渡り二十センチくらいの出刃包丁が握られていた。強く握りしめられていて、小刻みに震えている。
まだ数歩の距離があるのに、鼻息がすぐ近くに聞こえるようだ。
暴漢は、もはや聞き取れない呻き声を上げながら、こちらへと突進してくる。
僕は、思わず後退する。情けないが、怖い。ヒザが笑う。足を引きずりながら後退する僕に、威嚇するように男は迫る――僕は、ドリンクが並べられた棚まで後退すると、缶を一本手にして、男に投げつけた。
が、急所に当たることなく、前腕で防がれる。
――逆効果だ。
相手は一瞬怯んだが、嬌声とともに、突進してくる。
ヒザが震えて、まっすぐ立てない……!
強盗は一際大きな声で、
「うがああぁ、ばかやろぉおう!!」
叫びながら、無茶苦茶に右手を振り回す。
僕は反射的に左手を突き出し、目を閉じる――
左手に、衝撃が走った。
「…………!」
――カラカラ、と乾いた音がした。
おそるおそる薄目を開けると……出刃包丁が床に転がっていた。
咄嗟に左手を見るも、傷ひとつない。
強盗は、ほんの少しの間だけ、呆然としていたが――
すぐに僕を睨めつけると、包丁を拾うではなく、素手のまま掴み掛かってきた。何やら叫んでいるが、言葉の体をなしていない。
一方の僕は、冷静さを取り戻していた。
よく分からないが、今日の僕はツイているらしい。雨には濡れないし、左手も無事だ。それなら、こんな強盗――おばちゃんを脅して、刃物を振り回し、ワガママを通そうとする凶漢なんかに、負けるわけがない――そう、思った。
僕は、首を掴みにきた強盗の右手を制して、彼のレインコートの袖を、ぎゅっと掴んだ。
同じく首を狙ってきたもう一方の手は、さっき包丁を弾いたときと同じように、風を纏って――
右手で打ち払う。
頭は痛いし、足腰はフラフラ。
それでも、こんな奴をぶっ倒すのには十分だ。
十分過ぎる。
僕は、レインコートの袖を掴んだ左手で、男を引き寄せる。
相手にとって、僕の行動は、すべて予想外だったのだろう。強盗は前方に――つまり、僕のほうへ向けてバランスを崩し――右足を一歩、踏み出そうとする。
その足を払う。重心を乗せようとしているその右足の――ふくらはぎを狙って、払う。簡単だ。ふくらはぎの辺りに、風を生み出すだけなのだから。
――どうやら、柔道の授業は無駄じゃなかったらしい。
僕は、柔道の『小内刈り』の要領で、しかし一切、触れることなく、男の右足を薙ぎ払う。柔道には空気投げという幻の技があるらしい。これも原理は違うが――空気投げと呼んでもいいかもしれない。
「うっわっ……おおっ!?」
強盗は、格好悪い声を出して、仰向けに転倒する。
――まだだ。
男を跨ぎ、膝立ちに覆い被さる。まさか二日連続で、男相手にマウントポジションを取ることになるなんて、夢にも思わなかった。色気がなさ過ぎる。
僕は右の拳を握り締める。
狙うは、男の顔面。
僕には格闘技経験なんてないし、こんな不安定な体勢じゃあ、まともな威力が出るか分からない――それなら、風を作ろう。標的に向かって風の道を作るんだ。
右手を高く、振りかぶる。
ああ、痛いのは嫌だ。こんな奴のために、拳を痛めるのは嫌だ。
――ならば、拳の先に層を作ればいい。空気の層を。こいつに当たったときに、思いっきり硬くなるようにしよう。鈍器の恐怖を教えてやろう。体に、心に、刻みつけよう。
刃物なんて振り回したんだ、このくらいの覚悟はあるだろう――?
「う、らああっ……!」
「ひ、ひいいいいぃっ……」
僕は拳を振り下ろした。
ごしゃっと。
何かが潰れる嫌な音が、店内に響く。
僕の右拳は、男の左耳をかすり――すぐ横の床を砕き、陥没させていた。
強盗は、恐怖のあまりか、あるいは興奮し過ぎたせいか――気を失った。
僕は立ち上がり、レジへと向かう。そう、僕は買い物に来たのだ。レジの手前でペットボトルを拾い、カウンターに乗せる。
「これ、いいっすか」
「は、はい……!」
僕は代金をきっかり支払って、コンビニを出た。
外は、相変わらずの雨。
「さて……と」
僕は自転車に跨り、周囲の雨を風で弾きながら、家路に着いた。
(第6話 風使いと「夏休み」(6) 終わり)




