第6話 風使いと「夏休み」(5)
本日は登校日である。
天候、曇り。
僕の家から学校までは自転車で十分程度で――他の生徒と比べるまでもなく、かなりの近距離だと言える。
おかげで、朝はギリギリまで寝ていられる。
僕は朝が弱いので、進学先の高校を決めるときにも『家から近いこと』という基準を設けていたのだ。朝早くに家を出る奴らの気が知れない。
僕には、そんな習慣は身につかないだろう、よっぽどのことがない限り。
久しぶりの登校日の朝は、夏休みのルーティーンに慣れてしまっている身としては、辛いものがある。
僕は陸上部の午前練があったりで、そんなにダラけた生活を送ってはいなかったけれど――それでも、登校日となると、練習日より三十分は早く起きなければいけない。みんなに会えて嬉しいなあ……という気分ではなく、ただただ気だるい、そんな朝だった。
特に寄り道もせず教室に入り、自分の席に着く。
「あ、おはよう、風見くん。久しぶり」
前の席の蕨野 雪絵が、わざわざ振り向いて挨拶をしてくれた。
蕨野は、女子平均より随分低い身長に、ふんわりとカールがかかったボブカット、笑うと目尻がこう、へにゃっとなる、ナチュラル愛され系女子だ。しゃべり方もほんわかとしている。
ただ、そこにアンバランスな爆乳が追加されいらっしゃるので、取り敢えず心の中で毎日手を合わせている。
蕨野大明神さま。
ありがたや、ありがたや。
「おう、蕨野、おはよう。ちょっと焼けた?」
「そうなんだよ、日焼け止めは塗ってるんだけど、さすがに焼けちゃうね。でも風見くんこそ、焼けてるよ」
蕨野は、隣のクラスの、美山とかいう女子と一緒に、野球部のマネージャーをやっている。
蕨野いわく「私、意外と力持ちで、体育会系なんだよ」だそうで、マネージャー業も、楽しくやっているらしい。
「陸上部は帽子もないしな。あと合宿、あれでも結構焼けたんだよなぁ……」
夏休み中の合宿では、高原とまではいかないまでも、ちょっと涼しい山あいの合宿所で、四日間過ごした。朝から夕方までみっちりと練習練習。
「朝早く起きたせいか、なーんかダルいんだよ、今日」
と、蕨野にグチる僕。
「そーなんだ。私は毎日朝から練習のお手伝いしてるから、今日は逆に楽かも」
「ああ、野球部はいっつも朝早いもんな。夏休みも。脱帽するぜ」
だから、僕は帽子は被ってないんだけどな。
「今日も部活? 調子悪いなら休んだら?」
「いや、ちょうど今日は水曜だから休み。気にしてくれてサンキューな」
社交辞令で気を遣ってくれただけかもしれないが、蕨野は周囲の空気を和らげるオーラを醸し出しているので――自然と、こちらも穏やかな返しになる。マネージャーを務める女子っていうのは、みんなこんな風に、穏やかな感じなんだろうなあ。
きっと、隣のクラスの美山も、癒し系なのだろう。
そんな話をしていると、ブブブっと僕の携帯電話が震えて、メッセージの着信を知らせた。
「――ん、ワタルから?」
久しぶりに来たメッセージには「今日、ウチによろしく」的なことが書かれていた。放課後に来い――ということらしい。
まあ、『的なこと』っていうか……本当に、メッセージの全文が「今日、ウチによろしく」だけだったんだけど。
「おう」とだけ、短く返信。
きっと篠宮も来るんだろう。何だかんだ、八月に入って二人に会うのは初めじゃないだろうか。
■ ■ ■
ワタルの家へは、ウチから自転車で二〜三分。
一旦帰っても良かったけれど、どうせ家に帰っても昼飯はないし、ちょっと遠回りになるので――学校から、直接向かうことにした。
昼飯は……まあ、ワタルの家で食べればいいか。
何かあるだろ。
そこは幼なじみ。相手の家の台所事情は――この場合は家計の状態ではなく、文字どおり台所のストック事情を指すのだ――ぼんやりと把握している。
さすがに、その日その日の在庫までは予想しようがないが、ワタルの家はお菓子やカップラーメンの在庫を切らさないのだ。もちろん、食べたら後日補給することは忘れない。
念のため、ジュースとパンを途中のコンビニで調達して、ワタルの家へと向かった。
ワタルの両親は、我が家と同じく共働きなので、夜まで帰って来ない。
住宅街の一角にある沙南家は、二階建ての一軒家だ。
自転車は邪魔にならないよう、駐車場の端に駐める――
と、すでに篠宮の自転車があった。
そういえば時間指定がなかったし、タイミングが悪ければ、二人とも、まだ居ない――ってパターンもあり得たのか。
全然気にしてなかった。
さすがに、合鍵までは持っていない。
さて……と、家に入ろうとアプローチを進んだところで、玄関のドアが勢いよく開いた。
中からは、篠宮の姿。私服だ。
突然のことで立ち尽くしていると、篠宮のほうも、僕に気づいた。足を止め、俯き加減で、
「あ、爽介くん……」
「……どうしたんだよ、篠宮」
「うん、ちょっとね……」
「ワタルか?」
「そう、だけど、……うん。ごめん」
篠宮は、絞り出すように言うと――僕の脇をすり抜けて、自転車のところへ駆け出した。結局、それ以上、声は掛けられなかった。
■ ■ ■
チャイムも鳴らさずに二階に上がると――篠宮が出て行ったままなのだろう――ワタルの部屋は、ドアが開けっ放しだった。部屋の主はというと……ベッドに腰掛けて、映ってもいないテレビをぼんやり眺めていた。
「よう、ワタル」
僕は立ったまま声を掛けた。
「ん、ああ……来てたのか。チャイムくらい鳴らせよ」
「今さらだろ。つーか、篠宮に会ったんだけど。どうしたんだよ」
「いや、まあな……」
こんな歯切れの悪いワタルを見るのは初めてかもしれない。
ただ、そんなことはどうでもいい。
泣いていた。篠宮は、泣いていた。まだ短い付き合いだが、とても気丈なあの子が泣いていた。声も震えていた。
「あれ、お前が泣かせたのか」
「そうだよ……」
もしかしたらこれまでも――こいつに泣かされるようなことが、あったのかもしれない。僕が知らなかっただけなのかもしれない。
けれども今日は。
僕は、見てしまった。
知ってしまった。
泣いている姿を、知ってしまった。
――こいつは、僕の友達を泣かせた。
左手でワタルの胸ぐらを掴んで、立ち上がらせる。
「何か言うことあるか」
ワタルは目も合わせずに、
「……いいや」
と言う。
僕は、右の拳を強く握って、ワタルの頬を目がけ、振り抜く。
初めて、幼なじみを本気で殴った。
手首に鈍い衝撃が伝わる。
軽く捻ったかもしれなかった。
ワタルは、声も出さずに、ベッドに仰向けに倒れる。
黙って、なすがままになっている。
――それが余計に頭に来る。
僕は、ワタルの腹の辺りに馬乗りになって、
「さっきのが篠宮の分。あとは、僕を嫌な気分にさせた分だ」
「おう……」
ワタルの唇に、血が滲んでいる。軽く切ったのかもしれない。
今度は両手で胸ぐらを掴んで、僕は、上半身を後ろに反らす。
勢いを付けてヘッドバッド。
僕の額と、ワタルの額がぶつかり、ごちんという鈍い音が――空気ではなく、骨を伝わって僕に聞こえた。
手を離すと、ワタルは力なくベッドに倒れた。目は開いたまま、ただ天井を見上げていた。
そんなワタルに、僕は言う。
「……じゃあな。幼なじみ」
僕は、部屋を後にした。
外は、ぱらぱらと雨が降り始めていた。
(第6話 風使いと「夏休み」(6) 終わり)