四 沈黙の帰還
流血描写があります。ご注意下さい。
その夜の月は糸のように細く、ともすれば夜空が微笑んでいるようだった。
常ならばその微かな明かりの下、屋根で光を遮って眠りにつくのだが、今宵は特別だ。宴のためには月明かりなどでは到底足りない。大きな篝火が、集落の広場を照らし出していた。
「お帰りなさい、リュエリ様」
「修行は大変だった?」
「大婆様ってどんな人?」
「リュエリ様、これ、わたしが作ったの!」
人々に囲まれた今宵の主役であるリュエリは、おっとりと微笑んで膝をつき小さな一族の子に視線を合わせた。
「ありがとう、マーヤ。大変だったでしょう」
色とりどりの小さな石を連ねて作った首飾りを差し出した少女は、顔を真っ赤にして首を左右に振った。
「お祝いだから!」
「本当に私がもらってもいいの?」
「リュエリ様のために作ったの! 巫女様はきれいにしてなくちゃいけないんだって、アルマ様が言ってた」
まあ、とリュエリは笑って首飾りを手に取った。
「大切にするわね。ありがとう」
当然のようにリュエリの横に陣取っていたユーシェンも、幼馴染の少女を褒めた。
「マーヤは器用だよな。組み紐も凝ってるし。リュエリ、つけて見せてよ」
「ユーシェンは弓とか作るのはうまいのに、こういうのからっきしだもんな」
「うるさいぞ、カルヴァス。暇さえあれば素振りしてる剣狂いに言われたくない」
「そんなのお前も同じだろうが」
どっちもどっちだよ、と周囲から笑いが起こる。リュエリも声を上げて笑いながら、鮮やかな組み紐で編まれた首飾りを首にかけた。
「リュエリ様、似合うー!」
「きらきらー!」
幼い子供達が目を輝かせる。
大人も子供もリュエリの帰還を祝っていたが、遠くからひっそりその様子を眺める幼馴染を見つけ、ユーシェンは駆け寄って声をかけた。
「どうしたんだ、シオン。お前もリュエリが帰ってくるの、楽しみにしてたじゃないか」
ちまちまと料理をつついていたシオンは、すっと俯いた。
「うん……でも今は、ゆっくり話せないから」
「そんなのもう何日かは同じだろ。ほら、来いよ。リュエリにお帰りって言うだけ」
半ば強引に腕を取られながら、シオンは立ち上がって人の輪の中心へと近づいた。気配に気付いたのか、リュエリがぱっと顔を上げる。
「シオンね。久しぶり、背が伸びたんじゃない?」
うん、と頷いたシオンの背を、ユーシェンが軽く叩く。
「リュエリ様、お帰りなさい。……あの……約束、したの……」
「もちろんよ、覚えているわ。いつでも好きなときにいらっしゃいな」
そうそう、とリュエリは付け加えた。
「この際ですもの。同じ巫覡の才に恵まれた者として、ユーシェンとエクリスも一緒に勉強しない?」
ユーシェンは人垣の向こうにいた年下の兄弟と顔を見合わせた。
「……僕は、リュエリとシオンがいいなら」
「私も」
無性体という負い目は三人に共通のものだった。一族を増やすことはできないけれど、役に立てるようになれるならその機会を逃したくなかったのだ。
だがそれが今日明日のことではないことは明白だったので、ユーシェンもエクリスもシオンも場を譲った。リュエリと話したいという者は後を絶たず、また子供は寝ろと追い立てられる時間が迫っていたからだ。
「でも意外だな」
リュエリから離れて料理に手をつけながら、シオンが言った。
「何が?」
「エクリスはともかく、ユーシェンが巫覡の勉強をするって言うなんて思ってなかった」
「ああ……」
納得、とエクリスは頷く。
「いつも食べ物とか狩りの話しかしてないもんね。やることなすこと食べるためって感じ?」
「そうそう」
「あのな……私だって色々考えてることもあるんだ」
知ってるよ、と年少二人は声を揃えた。
「巫覡の才使って天気の変わり方を読んで、狩場に罠を仕掛けてその場で食べようとしたりとか」
「雨が降って湿気るから何日までに保存食作って、黴が生えないようにとか」
「何となく星を読んで、何となく大物が出そうな日に里から出てウロウロしたりとか」
「で、フォルティス様に追いかけられて、とっつかまる寸前でその大物が出て、結局二人だけで傷だらけになりながら仕留めたりとか」
全て事実なので、ユーシェンは反論できなかった。エクリスが匙を振りながら尚も言う。
「分かってるなら父上に言って、カルヴァスとかディクスとか、ルネディにマルディとか、何人かにも声かけりゃ良かったじゃないか。イヴェールあたりなんか喜んでついてっただろうに」
「……あんなに大きいとは思わなかったんだ」
言い訳染みた響きになってしまうのはどうしようもない。
目を逸らして料理を掻き込むと、ユーシェンは立ち上がった。
「どこ行くの? ユーシェン」
シオンの問いには答えず、ひらりと手を振ったユーシェンは人の輪から外れた里の外を目指した。
明かりの届かぬところまで来て空を見上げると、零れ落ちそうなほどの無数の煌きが漆黒の帳を背景にして散りばめられていた。
「……幾億のいのち、星に還らん。闇より生まれし無限なる輝き、幾何に散じたり……」
一族に伝わる唄をでたらめに繋げて口ずさむと、ユーシェンは草の上に寝転んだ。里の周辺には、緑の野原というには足りないが、土肌に直接触るのは難しい程度には草が生えていた。
夜空に輝く無数の星は、巫覡の才を持つ者にはただそこにある以上の意味がある。自身の真上のそれらを眺めやったユーシェンは、明日も晴れだと確信を得た。深い知識がないのでそれくらいしか読み取れないのだが。
「全ては一時の泡沫、ただ汝の御許に還るのみ……」
歌声は風に乗ってのびやかに広がったが、聞く者はいない。さわさわと風が吹き抜ける音だけがユーシェンの耳をくすぐっていた。
闇女神は、原初の母だ。全ての生物は彼女から生まれ、彼女へと還る。それを、この世のどこへでも行けるという『白き暁の門』から送り出されるといい、この世のどこからでも行けるという『蒼き黄昏の門』へ向かうと表現することもある。セレナイディアールは闇女神を奉じる神祇の一族だから、闇女神についての伝承が多くあった。この言い回しも一族特有のものだ。
始原にして終焉たる蒼き闇
暁の前に 白き門は開かれり
黄昏の後に 蒼き門は開かれり
星は狭間を流れゆく
時の螺旋を廻りゆく 幾億数多の命
其は蒼き闇より生まれし 無限なる輝き
やがて星と還りて 幾何に散じたり
全ては一時の泡沫なれば
我等、この生死の狭間を歩むのみ
澄んだ歌声が風の隙間を縫ってユーシェンの耳に届いたのは、ユーシェンが物思いに沈みかけていたときだった。聞き覚えのある歌声に、ユーシェンはまさかと声のする方に目を凝らす。
「こんなところで寝るつもり? ユーシェン」
「リュエリ……」
並んで腰を下ろす同胞に純粋な驚きを示すと、微笑みが返ってきた。
「聞いたわ、ユーシェン。あなた、里の全ての家を守るって言い出したって」
「エクリスか」
「違うわ。それに問題は、誰が言ったかではないのよ」
嗜めるような響きから続く言葉を察して、ユーシェンは違う、と首を振った
「守るんじゃない。さすがにそこまではできないってわかってる。ただ、薪が少ないから……いくら力があるといっても、私は皆とは『量』が全く違うから」
「確かにあなたの神力は里の誰よりも大きいけど、さすがに無理があると思うわ。一時のことだけではなく、冬中続くのよ?」
「できるさ。精霊達と取引なんていつものことだ」
「ユーシェン」
嗜めるものから咎めるそれに変わった。おっとりと優しく笑みを浮かべているのが常のリュエリの静かな剣幕に、ユーシェンはたじろぐ。
「私が言っているのはそういうことじゃないの。そんなことをしたら、皆があなたに頼ることを覚える。それが果ては甘えになって、いつかあなたは潰れてしまうわ。……差し出そうとしているものが、物なら私も賛成よ。でもそうじゃない。神力は生命力よ。あなたが命を削らなくてはいけないほど、まだ皆弱っていないわ」
言い聞かせるリュエリの表情は真剣で、そして純粋に同胞の子を案じているのがわかる。だがその真っ直ぐな眼差しから目を逸らしたユーシェンは、ぐっと拳を握り込んだ。
じゃあ、と呻くように、絞り出すように叫ぶ。
「じゃあ、私のこの力は何のためにあるんだ。こんな、恐れられるだけの力がたくさんあったって仕方ないじゃないか……!」
中途半端な体に、大きすぎる力。知っているのだ、ユーシェンの力が他に類を見ないほど強いと噂されていること。時折交易のために里を訪れる力無き者達から、恐怖を含んだ眼差しを向けられたことは一度や二度ではない。
「リュエリ、お前がさっき言ってくれたことは嬉しかった。私にあるのは神力だけじゃない、もしかしたらリュエリと同じように皆の役に立てるかもしれないって、そう思った」
「……長い目で見れば、あなたとエクリスとシオンが巫覡の才の使い方を心得ておくのは重要だもの。私は頑張っても百年も生きられないけれど、あなた達は違うでしょう?」
無性体の中でも精霊の子は、性別がない代わりに寿命がないとされる。もちろん普通の人間と同じように傷つくし、致命傷を負えば死ぬ。体が特別頑強なわけではない。ただ寿命が長いだけだ。ある程度成長した後は、身体の老化の速度も本人の意思で決められるという。
ユーシェンは笑った。
「そんなに生きてもなあ」
「見た目もそのうち自分で好きな歳で止められるじゃない。羨ましいくらいよ」
おどけたような口調に、ユーシェンはもう一度笑い声を上げた。ひとしきり笑い終えると、リュエリがふと真顔になる。
「ねえ、ユーシェン。力があることと、それをいつでも皆に分け与えるのは何か違うと思うの。もちろん、あなたの力の使い方は、あなたが決めるのよ。でもね、使いどころというものがあるわ。同じ刃物でも、狩りをする時と捌く時では使う物は違うでしょう? 他でもないあなたに授けられた意味が必ずあって、けれどまだ使うべき時は来ていないと、私は思うわ」
ユーシェンは俯いた。結いきれなかった髪が一房、ぱらりと落ちてその横顔を隠した。膝を引き寄せ、抱えるように抱く。
「……そうだったら、いいな」
リュエリは黙って、小さな背中に手を伸ばした。ゆっくりとさすると、やがて小さな体はころりと解けて彼女にしがみついた。
どれくらいそうしていただろうか。細い月が中天を過ぎようとしていた。
前触れも無く、ユーシェンもリュエリも顔を上げた。その視線の先は里ではなく、逆方向――里の外へと続く道だった。
ユーシェンは立ち上がって耳を澄ました。いつも身に着けている短刀をすぐにでも抜けるよう、腰に手をかける。――足音が、聞こえてきた。
「……獣の類じゃないようだな」
獲物を襲う気なのに、これほど堂々と足音をさせる間抜けな獣はいない。少しだけ警戒を解いたユーシェンは、次の瞬間漂ってきた臭気にぎょっとした。鉄錆に似たそれは――血臭。
「リュエリ、お前はここにいろ」
言い置いて、ユーシェンは走り出した。枯れた木々の間を通り抜け、中でも比較的大きな木の陰に隠れながら近付く。
(足音が多い……新しく逃れてきた者だろうか。それとも盗賊とか、か……?)
息を潜めて窺っていると、話し声が聞こえてきた。
「――……りしろ!」
「もうすぐだ、頑張れ」
「大丈夫だ、里に着けば――」
聞き覚えのある声達に、ユーシェンは飛び出した。
「兄上! ディクス! イヴェール!」
足音の主――妖魔討伐隊の面々は、一瞬静かになった後、頼りない月明かりの下に躍り出た小柄な影に、歓声とも安堵ともつかぬ声を上げた。
先頭にいたフォルティスがふっと唇を緩める。
「ユーシェンか」
「兄上、おかえ――」
言いかけて、ユーシェンは口を噤んだ。
久しぶりに見た兄は、里を出た時とは様相が違っていた。特に、赤茶色に染めた服など、兄は持っていなかったはずだった。
気付いて見回せば、他の者達も似たような色の服を纏っていた。中には自力では歩けないのか、仲間に肩を貸してもらっている者、背負われている者もいる。
「……兄上」
「話は後だ。里まで走って行って、人手を呼んで来てくれ」
ユーシェンはぎゅっと拳を握って首を振った。両手を広げ、自身の内にある神力を滲ませる。
「こうした方が早いよ、兄上。――風の精霊達、集まれ! ここにいる者達を全員、里まで運んでくれ!」
ざあああっと、強い風が吹いた。集まった精霊達の内の二体にリュエリ、エクリスそれぞれへの伝言を頼み、他の精霊達には神力を与えながら指示を出す。
「いいか、揺らすなよ! 遊びじゃない。そっと、ゆっくりだ」
風の中を漂ってきた血臭で気づくべきだった。仲間達は深手を負って帰ってきたのだ。
誰も一言も発さないまま、一行は速やかに里へ運ばれた。広場ではまだ、大きな篝火が焚かれていた。あそこだ、とユーシェンが風霊達に指示を出すのと、数人がその様子に気付くのがほぼ同時だった。
「来た! ユーシェン!」
中央で手を振っているのは、精霊の伝言を受け取ったらしいエクリスとシオンだった。他にも場所を確保しようと、皆駆け回っていた。その合間を縫って降下する。
そっと着地したのを見計らって、人垣の中から数人が走り寄って来た。腕には薬草を一杯に詰め込んだ籠や包帯が抱かれている。
「若長……!」
「こら、しっかり!」
「誰か、もっと布を……!」
宴の場は、瞬く間に救護の場と化した。
明かりの下で改めて見てみれば、怪我をしていない者を探す方が難しかった。ひっ、と誰かが息を呑む音がして、そちらを見遣ってみれば――
「ケドルス! お前、腕……!」
ケドルスと呼ばれた若者は、浅い息の下で口端を持ち上げて見せた。
「ああ、しくじっちまった。頼めるか? ユーシェン」
「馬鹿!」
示された腕は、半ばからその姿が無かった。止血のために縛り上げられた布はどす黒く変色していた。それを解くと下からは、無惨に引き千切られたと、そう状況を想像させるような傷口が現れた。水霊に頼んで水を生じさせ、こびりついた血糊を洗い流せば、膿み始めていることがわかった。
「消毒薬を――ケドルス、これはもう少し切ることになるかもしれないぞ。医師に診てもらわないと」
「構わん。命があって、利き腕もまだ残ってる」
覚悟はしていたらしい。蒼白な顔で頷く同胞を促して敷かれた布の上に横たわらせると、安堵したように彼は目を閉じた。
「おい、まだ寝るな!」
「ああ……」
直後、医師の一人が駆け寄ってきて、彼は担架に乗せられ治療所へ運ばれて行った。
「二の腕の半分までは切り落とすことになるだろう」
沈痛な面持ちで、ケドルスを診た医師は言った。
重傷者は似たり寄ったりの状況だった。四肢のどれかを失ったものは数人だったが、しばらく絶対の安静が必要な者は一行の半分以上を占めていた。
「何があったのですか、フォルティス様」
こちらも風霊の伝言を受け取って駆け戻ってきたリュエリは、硬い表情で治癒の技を駆使している。幸運なことに五体満足だったフォルティスは、しかしもう立ち上がる気力も無いというように座り込んだまま首を振った。
「……我々の予測が甘かった。まさかあれほど大きく群れるとは誰も予想していなかった。神力を放出して、退路を確保するだけで精一杯だった……」
「群れ?」
怪訝な顔でリュエリが聞き返した頃、ユーシェンはあるべき人の姿が見えないことに気付いていた。脇で懸命に薬草をすり潰す作業をしていたエクリスに声をかけた。
「エクリス、父上を見ていないか」
エクリスもはっと手を止めて、周囲を見回した。
「……見てない……え、ユーシェン、運んできたんじゃなかったの」
「暗かったから顔なんて確認してない。――ディクス!」
子供の一人から水を受け取っていた青年に目を留め、ユーシェンは走り寄った。後にエクリスも続く。
「父上がいないんだ。父上はどこに? もしかして、遅れているのか?」
「父上はどうしたの。まだ帰って来れていな――ディクス、どうしたの。何で首を振るの」
その意味するところに思い当たったのは、エクリスの方が先だった。ディクスはゆっくりと首を振る動作を繰り返していた。彼に水を渡していた子供達も、どうしたの、長様はどこ、と口々に騒ぎ出した。
騒ぎを聞きつけたフォルティスは、緩慢な動作で立ち上がり、声を張った。
「皆、聞け! ……落ち着いて、聞いてくれ」
張られた声の厳しさにか、震えた語尾にか、とにかく、その場は水を打ったようにしんと静まり返った。衆目が自身に向いていることを確かめたフォルティスは、おもむろに懐に手を入れ、何かを取り出した。
「此度の討伐では大きな犠牲を払った。四肢を奪われた者、目を潰された者……生きては、帰れなかった者もいる」
最後の言葉で、初めてその場の者達は、出立時の人数と帰ってきた人数が合わないことに気がついた。三、四十人はいたはずなのに、戻ってきたのは二十数人ほど――……。
フォルティスが取り出したのは、茶色の糸の塊のようだった。
「遺体を連れ帰ることはできなかった。……これは、我が父ジェレノスの遺髪だ」
彼等の頭上には、細い細い月が、嘲笑うかのように漆黒の夜空にかかっていた。