誕生日会 1
早朝、マリスはフェティエとフェリトを連れて、主の部屋に入る。室内はまだ薄暗い。けれど奥庭へと続く窓が開けられ、カーテンが風に揺れていた。
ふっとマリスに笑みが昇る。
「いつも通りに」
「わかった」
「はいっ」
フェティエの感情のない声と、フェリトの元気な返事を聞き、マリスは開いた窓へと向かう。揺れるカーテンを引き、薄く開いた窓を大きく開けた。
薄明りの中、小さな主が空を見ていた。冷たい風が青銀の髪をさらりと流して抜けていく。
「レグルス様」
預かりものの幼竜を抱えた主が振り返る。
「マリス、おはようございます」
「おはようございます。お誕生日、おめでとうございます」
向けられたのは満面の笑顔とお礼の言葉。側付のささやかな特権に、マリスは仄かに微笑んだ。
レグルスは十一歳になった。
遠くに馬車の音が聞こえる。人々のざわめきも。パタパタと軽い足音を響かせるのは若い使用人たちか。
窓から外を眺めながら、レグルスはふっと息を吐きだす。
「行きたくないです」
「今日の主役が何を言っているの?」
誰にともなく呟いた言葉は、同室にいた姉に聞き咎められる。レグルスはへにょりと眉を下げた。
「人がたくさん……」
「シェリオンお兄様の結婚式は、今日の比じゃなくてよ!前哨戦と思って諦めなさい」
「や~!!」
晴れの舞台を前に涙目の弟に、アルティアは眉を吊り上げ…やめた。困ったように微笑む。
「レグルス。私に貴方を自慢させて?」
今日はアルティアも可愛らしい薄紫のドレス姿だ。薄いチュールを重ねたスカートが動きに合わせて軽やかに揺れる。
アルティアは両手で弟の顔を挟み込むと、そっと額に口づけた。
「私の可愛いレグルス。貴方は私の自慢で、大切な弟よ。今までだって、皆に言い触らして回りたかったのを我慢してきたのよ?こんなに綺麗で賢い子が私の弟なのよって」
「姉様…」
「やっと見せびらかせるの。ねえレグルス、お姉様の我儘に付き合って?」
アルティアがふわりと微笑む。華姫と呼ばれ、美貌を謳われた母に瓜二つなのはレグルスだけではない。微笑めば父親譲りの目元のきつさが和らぎ、祝福を授ける聖女の如き物腰柔らかな美少女が佇む。
レグルスの頬にさっと朱が差す。そして恥ずかしそうに俯き、小さく頷いた。
アルティアは笑みを深くする。
「ありがとう。まだ時間はあるわね。こちらで座って待ちましょう」
そう言って、レグルスの手を引く。ソファに並んで腰かける。
レグルスは姉のドレスを皺にさせないように気を使いながらも、ぴったりとくっついた。
アルティアがくすくすと楽しげな声を上げる。
「すっかり慣れたと思っていたわ。大人は怖い?」
「しらない人がたくさんいると、すこし」
「…仕方のない子」
ギュッと手を握り、頭を寄せる。
午前中は楽しそうだった。
準備に追われていたアルティアが直接見たわけではないが、孤児院の子供たちもお祝いに来てくれて、彼らの贈り物の歌に惜しみない拍手を送っていたという。
彼らを見送り、少し早めの昼食を摂った時も、まだ楽しそうだった。
誕生日会の為に着替えを始めた時も。
今日の衣装はレグルス自身で選んだものだ。
黒のシャツに金ボタンの並んだ赤い上着。
母や使用人たちの要望や反対を全て跳ねのけた、レグルスの望んだ衣装。母の泣き落としに危うく覆されそうになったのを、父の「本人の望むものを」という一声であっさりと決められた。
意外にも似合っていて、いつもより落ち着いて大人びた雰囲気を醸し出している。
自分で選んだ服をようやく着ることができ、この弟が喜ばないはずがない。何しろ今まで、身の回りのものは家族や使用人が勝手に用意してきた。
機嫌が下降したのは、最初の客が到着した頃だ。知らない人が沢山来ると、ようやく実感してきたと思われる。
今のレグルスの姿を見て、嗤う者などいないだろうに。
アルティアは、今まで白や薄い色合いの服を不満も言わず疑問も抱かず用意されるがままに着てきた弟が、ここでこの暗く鮮やかな色を選んできたのか…恐らくただ一人正しく理解している。
これは決意の赤。幼い己との決別の時。
今はまだぐずぐずと甘えてくるが、この控室を出ればきっとこの姿は消える。公爵家の血統として凛と佇むだろう。
ちらりと横目に弟を見れば、不安げにアルティアの腕にしがみ付いている。
扉が叩かれた。
「二人とも、そろそろ時間だ。準備はいいか?」
入って来たのは長兄だ。不機嫌を前面に押し出した末弟に、思わず吹き出す。
「良くないとは言わせないぞ」
「シェル兄様のいじわる~!」
「ははは。さあ、行くぞ」
レグルス渾身の駄々も軽くいなして、兄は扉を開く。
レグルスはぐずりながらも、ソファから降りる。そしてアルティアを振り返った。
「姉様」
差し出された手に、アルティアは目を見開いた。それは一瞬で笑みにとって代わる。そして己の手を重ねると、ゆっくりと立ち上がった。
廊下に出る前に側付たちが衣装を整える。
そうして準備を整えて部屋を出れば、そこには次兄も待ち構えていた。
ハーヴェイは一頻り弟の仏頂面を揶揄うと、それは好戦的な笑みを浮かべた。視線の先は、これから向かう大広間だ。
「いざ出陣といこうか」
只の誕生日を祝う席に向かうとは思えない言葉なのに、これほどしっくりくるものも無かった。
招待客の相手をしていたグランフェルノ公爵は、執事に呼ばれて頷いた。
大広間の扉が開く。歓談していた招待客たちから音が消える。
最初に入って来たのは成人している二人の息子。全くの無表情な長男と、どこか皮肉めいたようにも見える笑みを浮かべた次男。彼らの動きに合わせて、招待客たちが道を開く。
息子たちが振り返ると、ようやく今日の主役が娘と共に入ってきた。ざわめきが起こり、末息子はびくりと身を震わせ、足を止める。手を添えていた娘が顔を寄せ、何かを囁いた。末息子はハッとしたように目を見開き、そして娘を見上げる。娘が頷く。すると僅かに唇を引き結び、正面に向き直る。
「立て直したか」
「踵を返して逃げられたらどうしようかと思ったわ」
思わず漏れた言葉に、妻が安堵の溜息を吐いて応えた。何しろ前科があるので、やらないとは言い切れない。
長い青銀の髪を揺らめかせ、両親の許までやって来る。エスコートされてきた姉がするりと手を引き抜き、一歩引いて兄たちに挟まれるように並ぶ。
一瞬だけ揺れた表情を、父公爵は見逃さなかった。軽く背を叩くと、顔を上げてにこりと笑う。いかにもな作り笑いだが、この場にいる者たちがどれだけ見抜くだろうか。
公爵は招待客たちに向き直った。
「今日はお集まりいただき、感謝する。そして末息子のお披露目がこのように遅れ、お詫び申し上げる」
あの時は父公爵の出張で、二カ月ほど遅らせる予定だった。けれど実際は六年。
流石にそれはないですねぇと、レグルスは呑気に考えていた。原因は自分にあるので、仕方ないことなのだが。
ポンッと肩に手が置かれる。
「レグルス、皆に挨拶を」
「はいっ」
元気良く返事をし、レグルスはふわりと微笑む。
「皆様、レグルスにございます。どうぞこれからよろしくお願いいたします」
わっと歓声が上がった。盛大な拍手も送られる。
大きな手が頭の上に置かれたので顔を上げれば、隣に並ぶ父が微笑んでいる。自然とレグルスの表情も緩む。が、これが始まりであるのを思い出し、すぐに表情を引き締めた。
一通り挨拶が終わって、レグルスは息を吐く。その前にハーヴェイが現れた。
「お疲れ様。疲れただろ。少し休むか」
「ヴィー兄様。良いのですか?」
「勿論。今のうちに休憩しとけ」
促されて両親から離れ、壁際に用意された椅子へ座る。マリスが持ってきてくれた果実水を受け取ると、一気飲みする。
「おかわりください」
「はい」
マリスは空になったグラスを受け取り、すぐに次の果実水を渡す。それも半分ほど飲んで、大きく息を吐きだした。
「お水、美味しいです」
「ずっと喋りっぱなしだと喉乾くよな」
「はい……」
遠巻きに招待客たちがこちらを気にしている。先程祝いの挨拶をしてきたのは、レグルスと年の近い未成年の子供たちがいる家だ。大人や成人済みの令息令嬢たちは、家族が相手をする。それがお披露目の鉄則だ。
これから両親や兄姉の紹介のもと、改めて挨拶を受ける。その前に一言、声を掛けたいし掛けられたいと思う者もいる。だが、まだ幼い子供の休憩を邪魔して声を掛けてしまえば、グランフェルノ公爵の不興を買いかねない。
従って、レグルスが側付の持ってきてくれた軽食を摘まんでは、美味しそうに頬を緩めるのを、ただ見つめるしかないのだ。
「あら、可愛らしい」「お顔立ちはやっぱりお母上譲りですな」「将来は美人になりますね」などと、高評価ながらも本人には不本意な会話を遠くに聞きながら、レグルスは兄を見上げる。
「そろそろ行った方が良いですか?」
「必要になれば、父上たちから迎えに来る。それまでは座ってろ」
「兄様は挨拶回りしなくて大丈夫ですか?」
「父上にお前を引き渡すまではここにいる」
「…僕、逃げたりしませんよ……」
若干上目遣いで兄を睨めば、おどけた様子で肩を竦められた。
「何せ前科があるからなぁ…」
兄の呟きに、レグルスは言葉を詰まらせた。言い返せない代わりに、皿の上のお菓子を口に放り込む。
ハーヴェイも、本当に弟が脱走するとは思っていない。レグルスも逃亡防止に兄がここにいるとは思っていない。
兄が苦笑しながら、弟の頭を撫でた。
長い青銀の髪は今日は根元できちんと束ねられている。いつもは髪を引っ張られる感覚が嫌で肩のあたりで結わえているのだが、今日の姿ならちゃんと男の子に見えるようにとマリスにしっかり束ねられた。
纏められた髪の毛先を取り、さらりと散らす。弟の髪を楽しんでいると、どこからともなく溜息が聞こえた。
レグルスはそれに構わず御馳走を平らげる。空になったそれを側付に渡す。
「食べ終わったか?」
「父様!」
頃合を見計らったように、父公爵が現れる。
レグルスは椅子から飛び降りて、父親に飛びつこうとした。が、寸前で何とか思い止まった。若干前のめりになってしまったのは、ハーヴェイが立て直してくれる。
見上げれば少しだけ呆れた様子の父公爵の顔。レグルスは笑って誤魔化す。
「まだ暫く、礼儀作法中心の授業だな」
「う…ちょっと、油断しただけです……」
レグルスは両手を合わせて視線を泳がせる。すると眉間を想いっきり突かれた。文句を言う前に、父公爵に付いて来るように促される。
仕方なく、何も言わずに後に続いた。
大人たちへの挨拶回りも恙なく終わらせたレグルスは今、庭へと出ている。庭に用意させた的当ての周りに子供たちが集まっている。
幸いにも、同年代の子供たちにはすんなりと受け入れられたようだ。身長の低いレグルスは、少年たちに囲まれて姿が隠れてしまっている。時折隙間から光る青銀の髪がのぞくから、そこにいるのだろうと推測するのみだ。
少年たちから時折上がる歓声を聞きながら、メイフェア公爵は苦難を共に乗り越えた戦友に目を向けた。
「詫びの品まで持ってきたなら、さっさと謝罪して許してもらってきたらどうじゃな?」
「……」
「賢い子じゃ。心から謝罪すれば、素直に許してくれるだろうよ」
隣からの返事は全く無い。ただ真っ直ぐに子供たちの群れを見つめている。
老公爵は深い溜息を吐いた。
「そうやっていたとて、何の進展も無かろうが」
「……わかっとる」
「分かっとってその体たらくか?」
辛辣な老公爵の言葉に、戦友・前バジュリール伯爵は再び無言になる。
代わりに応えたのは、その息子である。
「もっと言ってやってください」
「おお、リシェル殿。お主が言っても無駄か?」
「全く聞く耳持ちません。しかも、何も今日まで待たなくても、正式な手順を踏めばいつでも会わせるとお返事を頂いていたのにもかかわらず、ですよ?」
バジュリール伯爵はすっかり呆れた様子だ。
父親は無言のまま息子を睨み付けた。が、全く効果はない。逆に蔑むような目を向けられた。
子供の一団から、一際高い歓声が上がる。聞こえる声から判断すると、レグルスが手持ちの矢を全て的に当てたらしい。
老公爵は目を細めた。何度も頷く。
「聞いた通り、弓の腕前は父親譲りじゃな。将来が楽しみな子よ」
「本当に。さて」
息子の方が腕を組んだ。父親を睥睨する。
子供たちの方から不満の声が上がった。「ずるい!」「勝ち逃げだ!」と口々に叫んでいる。
「ごめんなさい。すぐに戻りますから」
彼らの間をすり抜け、今日の主役の姿が見えた。従兄に連れられ、こちらに向かってくる。
慌てたのは彼らの祖父だ。立ち上がろうとすれば、息子に肩を押さえつけられる。
メイフェア公爵が呵々と笑う。
レグルスはあっという間に彼らの前に到着してしまった。
「お祖父様、連れてきましたよ」
従兄に促され、レグルスは彼の前に立つ。レグルスが屈託なく笑いかける。
「お祖父様、何のご用でしょうか?」
びくりと彼の体が跳ねた。視線を泳がせる。
それを見ていたメイフェア公爵が指先で肘掛けを叩いた。じろりと彼をねめつける。
キョトンとしたレグルスが首を傾げる。
「メイフェア公爵様?伯父様、どうされたのですか?」
「お祖父様がね、レグルスにプレゼントしたいものがあるんだって」
そう言ったのは従兄のエルネストだ。
レグルスはパッと顔を輝かせる。キラキラした目を祖父に向ける。
「何をくださるのですか?」
「う、む……」
実に歯切れ悪く、祖父はテーブルの上を見た。そこには大きな木箱が置かれている。
レグルスが駆け寄った。木箱に手をかけ、祖父を振り返る。
「これですか?開けてもいいでしょうか?」
何も言わずにただ頷く。
プレゼントと呼ぶには、あまりに武骨な木箱だ。レグルスが蓋を開けると、中にはおがくずと布に包まれた何かが入っていた。包みに手を掛ければ、ずっしりとした重みがある。
「レグルス様。私がお出ししましょうか?」
「はい」
レグルスはマリスの言葉に素直に手を引いた。うっかりでも落としてしまっては、取り返しがつかない。
取り出された包みがテーブルの上に置かれる。おがくずの付いた布を取り払う。
「わぁ……」
レグルスの表情が緩んだ。
現れたのはランプだ。鈴蘭の形を模した。ガラスの花弁が微かな振動に揺れている。
台座に触れれば、鈴蘭の花弁を通して魔具がほんのりと光ったようだ。けれどこの日差しの中では全く分からない。
「ありがとうございます、お祖父様!」
満面の笑みで振り返れば、祖父はきょとんとしたように目を丸くしていた。小首を傾げてみせると、はっとした様子で咳払いをして頷く。
レグルスはランプシェードを軽く突いた。ゆらゆらと揺れる。
「僕、鈴蘭のお花、大好きなのです」
「妻も娘も好きだったから……」
「お祖母様もお好きだったのですね。小さい頃,領地のお庭で母様と眺めたのを覚えています」
祖母はレグルスが行方不明の間に亡くなってしまったという。生まれて間もない頃会ったきりだというから、レグルスの記憶には無い。五歳の誕生日は領地が遠い事と祖父の体調が良くなかったことを理由に欠席し、王都で行われるはずだったお披露目を楽しみにしていたという。
ふっと祖父の表情が和らいだ。
「このランプの原型は、妻の嫁入り道具の一つでな」
「原型?」
「我が家のじゃじゃ馬娘が壊して、今はもうない」
「…母様?」
「そうだ。仕方ないと妻は笑っていたが、寂しそうでな…妻の実家に問い合わせて工房を教えてもらって、作り直してもらったのだ」
レグルスはランプと祖父の間で視線を往復させた。
「ではこれは、お祖父様がお祖母様に贈ったものですか?お祖母様との思い出の品では?」
「そうだな。亡くなる前にいなくなった孫へ残した、最後の贈り物だ。受け取ってやっておくれ」
祖父の手が伸びた。レグルスが傍に寄ると、皺の多い手が頬を撫でる。くすぐったさに肩を竦めた。
しみじみと呟く。
「前に会った時は、まだ歩くことも出来んほど、小さかったのになぁ…」
「僕が覚えていないくらい小さな頃です」
「ワシが腰を痛めてなければ、前の誕生日にも行けたんだが」
寂しそうな祖父に、レグルスは何も言えなかった。
会えていたら、レグルスの記憶に祖父母も残っていただろう。
けれどすべて過ぎ去ったことだ。二度と会えなくなるとは、本人も思ってもみなかった。
「近いうちに、お祖母様にもご挨拶をしに行きたいと思っています」
「ああ…楽しみに待っている」
祖父の手が離れた。
レグルスは従者を見上げる。
「マリス。ランプはベッドの傍に置いてください。きっと暗い所で光ったら綺麗です」
「畏まりました」
手早くランプが片付けられていく。
和解も済んだので、そろそろ戻ろうかと口を開きかけ、邪魔が入った。
「お祖父様!もう帰ろうよ!!」
甲高い声とともに現れたそれにチラリを目を向け、目が逸らせなくなった。
丸々肥えた体も薄い白金の髪も、記憶にある姿と大して変わりない。いや、ますます丸く大きくなっただろうか。
だが問題はそこではない。
今日は公爵令息の誕生日で、お披露目の場だ。招待客は皆、場に相応しい装いで来ている。いかに裕福な家柄で、同じ服は二度と袖を通さないと謳う者でも、この場で汚して平気な顔をしていることは出来ないだろう。
そんな礼儀以前の概念を色々と吹き飛ばした従弟に、その場にいた全員が唖然とした。
顔も贅を凝らした衣装も、何かのソースと食べかすに塗れていた。本人は周囲の視線などまったく気にしていないが。
そもそも、今の今まで何をしていたのか。祖父と伯父、それに従兄のエルネストは最初の挨拶に来たが、ジョルジュはいなかった。伯爵夫人である伯母も招待されていたはずだがいなかった。
声も出ないレグルスに代わり批難したのは、エルネストである。
「公爵家の方々にご挨拶もしないで、もう帰ろうってどういうこと?」
「うるさいなぁ。僕はお祖父様に言ってるんだよ!」
「餌を貪り食うだけの豚が、伯爵家の血縁だなんて嘘だろ」
柔和だったエルネストの表情が冷ややかなものに代わっている。伯父も似たような様子だし、祖父も流石に呆れた様子だ。
ジョルジュは、広間に入るなり料理の並んだテーブルに駆け寄り、皿に取るのも面倒くさいと大皿に盛られた料理をそのまま引き寄せて食べていたらしい。家族が挨拶をするからと呼んでも、無視して。
他の招待客へ迷惑が掛かってはいけないと、ジョルジュが陣取ったテーブルは隔離され、別所で料理は提供された。
流石公爵家の使用人たちである。同時に、豚の餌にしてしまった事は、料理人たちに申し訳なくなる。
意識が現実逃避しそうなところで、レグルスは無理矢理戻す。
ここで口を出し、直接対決するべきか。否。それは拗れる原因だ。バジュリール家と絶縁したいわけではない。
どうしようかと悩んでいると、肩を叩かれた。メイフェア公爵だ。
老公爵が指さす先には先程まで座っていた椅子とは別に、もう一つ用意されている。老公爵の口の端が持ち上がる。高みの見物をしようと誘われているのだ。
レグルスの肩から力が抜けた。無意識のうちに身構えていたらしい。小さく笑って、老公爵の提案に乗ることにした。
二人並んで腰かけると、女性が一人やって来た。白金の髪の女性だ。それなりに美しいのだろうが、性格の悪さが顔立ちに出ている。
レグルスがぽそりと呟く。
「母様の足下にも及ばないです」
「母御と比べては、大抵の女性は見劣りするぞ?」
老公爵も小声で応じて、二人で苦笑する。
そんな二人の耳に、女の猫なで声が届いた。
「ジョルジュちゃん、お口の周りが汚れていてよ。折角の男前が台無し」
「お母様、ふいてぇ」
「はいはい、ジョルジュちゃんは本当に甘えん坊さんだこと」
ぞわり。全身鳥肌が立つ。思わず両手で自分の体を抱きしめるようにして、腕をさすった。老公爵が小さく噴き出す。
女──伯爵夫人がハンカチで食べかすを丁寧に拭いている。そんな妻に、バジュリール伯爵が話しかける。
「お前が一緒にいるからと離れることを許可したというのに…一体ジョルジュの何を見ていたんだ?」
「ジョルジュちゃんは腕白な子ですもの。少し食欲旺盛なだけですわ」
「品が無いのはお前譲りという事だな」
「まあ!妻に向かって何を……」
「作法も知らぬ家畜を息子と呼ばねばならぬ苦痛に比べたら、大したことではないだろう?」
バジュリール伯爵の眉間の皺が深くなる。
夫に睨まれ、夫人は僅かに顔色を悪くした。
睨まれる程度で分が悪くなるくらいなら、最初からまともに育てればよいのに。
伯爵夫人の意図が解らずにいると、老公爵が注釈を入れてくれる。
「夫人はもともと、坊の父狙いじゃ」
「っ!?」
「母御に取られた腹いせに、婚約者を喪って立ち直れずにいたバジュリール家の嫡子に取り入った…という所じゃな」
「うえぇ……」
親のそういう話は聞きたくなかった。レグルスは耳を塞ぐ。隣りの老公爵が呵々と笑った。
「長男は先代の伯爵夫人が育てた。次男も早々に引き離そうとしたが、抵抗されて無理だったようじゃ」
祖母の苦労が偲ばれる。
突然ジョルジュが金切り声を上げた。足を踏み鳴らす。
「もうっ!ニセモノのお祝いなんてしなくていいだろ!!」
騒ぎに様子を窺っていた招待客たちさえ、息を飲んだ。一瞬だけ、辺りが静まり返る。すぐに戻ったざわめきは、戸惑いや怒りが混ざったものだった。
傍観者でいるつもりだったレグルスが、渋々立ち上がる。
固く杖を握る祖父に、己の手を重ねた。はっと祖父がこちらを見る。
「お祖父様。孫同士で喧嘩になってしまう事、お許しくださいね」
「レグルス……」
祖父は情けなく眉を下げた。ややあって溜息を吐いた後は、厳しい表情に戻っていた。小さく頷く。
「年の近い男の子だ。そういう事もあろう。思う存分やりなさい」
「ありがとうございます…というのも、おかしいですね」
レグルスが小さく笑うと、祖父の表情も緩んだ。手が離れる。
そしてジョルジュの前に立った。
誤字脱字の報告、お願いします。
い、一年ぶりの更新です……:(;´ω`;):