厄災の霧と邪視の瞳 2
姉が離してくれないので、レグルスは姉の部屋で一緒に眠った。あとで両親に怒られることまで覚悟の上だ。
朝、起こしに来たのは姉の側付の女中たちである。ベッドの上に座り、ぼんやりとする。
辺りを見回せば、室内に何か黒いものが漂っている。見間違いかと目をこするが、それらが消えることはない。
(…けむり?)
レグルスはそれを振り払おうとする。
黒い煙のようなものはゆらりと揺らめくが、消えるどころか薄まることもない。
「レグルス?どうしたの?」
姉の声にレグルスが振り返ると、そこは黒いものに囲まれた姉がいた。
レグルスは驚きと恐ろしさで顔を歪めた。心配して伸ばされた姉の手を振り払い、泣きながら逃げ出した。
(なんでっ?なんでなんでなんで!?)
混乱したまま自室まで逃げ帰る。勢い良く部屋の扉を開けたところで、短い悲鳴を上げる。
室内は黒いもので充満していた。慌てて扉を閉じる。
「レグルス様!どうっ……!?」
側付の声にも反応できず、レグルスは再び走り出す。
「とうさまっ…父様ぁ!どこぉ!?」
レグルスは父を探して、泣きながら走る。
困惑しながらも、側付はどこに行くかもわからないレグルスを的確に誘導する。
「旦那様なら、そろそろご出仕のお時間です!」
「どこぉ!?」
「まだいらっしゃるなら玄関に」
「うわあぁん!!」
理解できないままだが、何かが起きているという事だけ承知して、マリスはレグルスの後を追う。様子からして、下手に触れることは憚られた。
レグルスは自分が何をしているかもわからないまま、玄関まで走った。そして探す父の姿を見つけた。
「とうっ…とーしゃっ、まぁ~」
駆け寄ろうとして、思いとどまる。その場に縫い留められるように、足が止まる。進まない足の代わりに涙が出た。
「父様も黒いぃ!なんでぇ!?」
せっかく探し出した父はやはり黒いものですっかり包まれていた。自分を呼ぶ声はするのに、近付くことは出来ない。
黒いものが傍にやって来る。気付くのが遅れたせいで、逃げ出せなかった。
黒いものが自分を呼ぶ。
「レグルス?」
「やだぁ!どーして真っ黒なのぉ!?」
それを叩き落とそうと、父を叩く。けれど黒いものは全く無くなってくれない。
必死に剥がそうとしていると、黒い塊に手を取られた。
「レグルス、落ち着け」
父の声がする。黒いものに囲まれているのに、大きな手は暖かくて優しい。
もどかしさに、レグルスは足を踏み鳴らす。
「落ち着いて、目を閉じろ」
レグルスは鼻を啜る。父の顔があるだろう辺りを見る。
「目…?」
「そうだ。しっかり閉じていろ」
言われるがまま、レグルスは目を閉じた。灯りの光さえ届かないほどしっかりと。
大きな手が頭の後ろに伸び、肩口に顔を埋めるように抱えられた。レグルスはしゃくりあげながら、父の肩に額を押し付ける。
父の声が聞こえる。
「シェル。閃光の魔法を」
「閃光、ですか…?」
「そうだ。全員目を閉じろ」
父を探すことだけに必死で、上の兄がいた事にも気付かなかった。
視界がしっかりと塞がれていたので、兄がいつ魔法を使ったのかも分からなかった。
ただ頭を押さえていた父の手が離れ、頬に暖かいものが移動する。
「開けてもいいぞ」
許可が出たので、恐々と開ける。黒いものはすっかり消えていた。父の姿もはっきり見える。
父が笑う。
「どうだ?まだ黒いか?」
レグルスは首を左右に振った。安心から自然と笑顔になる。
「父様すごいです!」
「…黒いものを見たら、灯りの魔法で払ってやるといい」
頭を撫でられた。けれどレグルスは不満げに口を尖らせる。
「僕、魔法は使えません……」
「光球にしなければ、発動は出来るだろう?その状態で、埃を払うように払ってやれ」
くしゃくしゃと頭を掻きまわされ、頭がぼさぼさになる。
何故父は悲しそうなのだろう。頭に手を置いたまま髪を直すのも忘れ、キョトンと父の顔を見つめる。
「レグルス。見えたものの事は、屋敷の外の者に知られてはいけない」
「…父様?」
「屋敷の中の者にも、出来るだけ知られるな。いいな?」
レグルスはこくりと頷いた。何故か聞き返せなかった。
公爵はそれを確認して、踵を返す。
レグルスはその後を追いかけようとした。だが突然体が宙に浮いた。昨日に引き続き、ハーヴェイに抱き上げられる。
執事の開けた扉から父と兄が出ていく。
「いってらっしゃい」
下の兄や執事たちと声をかければ、父は振り返って微笑んでくれた。
玄関の扉が閉じられる。
そのまま扉を見つめていると、マリスに呼ばれた。
「レグルス様、お着替えを」
「…お部屋は嫌です」
レグルスは顔を顰める。ギュッと兄の肩にしがみ付く。
ハーヴェイとマリスが顔を見合わせ、困ったようにレグルスを見る。
助け舟を出したのは執事だ。
「マリスは閃光の魔法は使えましたか?」
「それくらいならば」
「ならば先に戻り、レグルス様のお部屋で使いなさい。ハーヴェイ様。レグルス様をお部屋までお願いできますでしょうか?」
「いいぞ」
ハーヴェイはレグルスを下ろした。気乗りしないレグルスと手を繋ぐ。
マリスが一礼し、先に奥へ戻っていく。
「影は光で消えますよ」
レグルスはキョトンと執事を見上げる。執事は微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。
兄に連れられ戻った部屋には、先程まで充満していた黒いものはなかった。けれど庭がやはり黒で塗りつぶされていた。
涙目のレグルスを見かね、執事の頼みで、お抱え魔術師が邸中に閃光をかけて回ることになった。
◆◇◆◇◆◇
ぽこん。ぽこん。ぽこん。
レグルスは泣きながら、灯りの魔法のくっ付いた手で、定期的に雪に埋もれた地面を叩いている。
ハーヴェイがその傍らにしゃがみ込み、弟の奇行を眺めている。
帰ってきた父親は二人を見下ろす。
「いつからだ?」
「昼食ってから」
「止めなかったのか?」
「止めようとするとな…」
ハーヴェイは立ち上がり、両手を脇に入れて持ち上げた。
「う゛あ゛ー!!!」
耳を劈くような悲鳴が上がる。堪らずハーヴェイは弟を下ろした。下ろされたレグルスは、すぐさま地面叩きに戻る。
ハーヴェイは眉根を寄せ、耳に手を添えた。
「これよ」
「理解した」
公爵も眉間の皺を深くしている。次男に代わり、末っ子の傍らに膝をつく。
「ただいま、レグルス」
「う゛ぁ?」
レグルスは父の姿を認めると、更にくしゃりと顔を歪めた。泣き過ぎて目が腫れ上がっている。
「どぉじゃあ゛~!」
「うん。ここが原因なんだな」
「おいで」と、レグルスに両手を広げる。レグルスは立ち上がると父親に抱き着いた。何が見えているのか、しきりに後ろを気にしている。
父親はレグルスを抱きあげた。
「誰か、この辺りを掘ってくれ」
「はい」
既に庭師たちがスコップやつるはしを用意していた。それを使って、レグルスが叩いていた辺りを掘っていく。
冬中積もった雪は下の方が氷となっていて、掘るのは難しい。お抱え魔術師が魔法で一気に溶かし、更にぬかるみになった地面から適度に水分を抜く。
危険だからと庭師たちを遠ざけ、代わりに騎士たちが地面を掘る。一メートルほど掘り進んだところで、硬いものに当たった。
「う゛~…」
レグルスが唸るので、宥めるように背を撫でる。
騎士たちが出てきたものの周りを掘っていく。
それを眺めている内に、シェリオンも帰ってきた。不思議そうな顔をしている。そして末弟の様子を見て、目を見開いた。
「美人が台無しに…」
「に゛ぃ……」
「声もすっかり枯れちゃって。一体何をしてたの?」
呆れた様子で頭を撫でる。レグルスは父親の肩に額を押し付ける。
その間に出てきたものが取り出された。それは木製の箱だった。船荷に使う、防水や防腐効果のある薬剤が塗られているような頑丈な木箱だ。
公爵と長男の表情が険しくなる。
「主、若。お下がりくださいヨ~」
「フォン」
公爵の上着のポケットから飛び出した白蛇が、地面に着く前に人の姿へと変わる。
いつも人を食ったような笑みを浮かべる裏方の長からも、妙な緊張感が伝わってくる。
「…も~ヤダー。どう考えても、狗神が出るヨ~」
「いぬがみ?」
「ワンコのアンデッドだヨー」
緊張感が増す。
フォンは東方出身だ。この呪術の事はよく知っている。エミールに教えたのも彼だ。
公爵はレグルスを抱えなおした。しっかりと視線を合わせる。
「レグルス。シェーナたちのところへ行っていろ」
レグルスはしばらく父を見つめ、口を尖らせつつも頷いた。地面に降ろされる。
控えていた使用人が付き添おうとすれば、レグルスは立ち止まった。鼻を啜りながら、首を振る。
「まぃしゅ。とおしゃまのおてぅだい、して」
「ですが…」
「ねえしゃま」
レグルスが呼ぶ先に、アルティアがいた。青ざめた顔をしながらも、笑顔を作っている。
姉と手を繋ぎ、屋敷に入る前にレグルスはもう一度振り返った。
「まいしゅ。おまえはたたかえるでしょ?」
「…はい」
マリスは一礼して幼い主に背を向けた。
レグルスは姉に手を引かれ、屋敷内に入る。
そこでは母がお茶を飲みながら待っていた。庭から離れないレグルスを、ずっとここで見守っていたらしい。
母はレグルスの顔を両手で包む。そしてくすくすと笑いだした。
「まあ、ぶちゃいく」
「…う~」
泣き腫らして、目の周りは真っ赤になっている。レグルスは頬まで膨らませる。
それでも可愛い息子には変わりない。優しい手つきで、レグルスの頬を撫でる。
「さあ、二人とも。応接室でお父様を待ちましょうね」
子供たちを促し、奥棟から出る。女中たちも共にだ。
けれど逃げることはしない。売られた喧嘩は買うのが、グランフェルノだ。
ここの戦力で勝てなければ、どのみち王都に甚大な被害を出す。そんな事になろうものなら、グランフェルノ家であっても取り潰しを免れないだろう。
(ここで終わっても、この子に余計な悪評は立たずに済むわ)
よしよしと息子の頭を撫でれば、レグルスは不思議そうな顔をして母を見上げる。
母はただ優しく微笑んで、何も言わなかった。
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