厄災の霧と邪視の瞳 1
……ま…う……と…さま……
「父様!」
「ん…?レグルス……」
いつの間にか眠ったのか。しかも座ったまま。
目を開けると、そこには自分と同じ青銀の髪を持った子供が立っていた。けれど違和感を覚える。
「父様、大丈夫ですか?レグルスなら……」
子供は窓の方を見る。外からは楽しそうな妻と子供の声。
ああそうだ。レグルスは先ほど妻に連れられて、庭に行ったのだった。
この子はレグルスの双子の兄の方だ。生まれついて体が弱く、ベッドから離れられない。医者からは成人まで生きられないだろうと言われている。
「すまない。寝ぼけていた」
息子は尚も心配そうに、膝に手を置いてきた。
「お疲れなのでは?」
「いや、大丈夫だ」
息子の手を取り、抱き上げる。そしてベッドに戻す。端に座って頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。
外ではレグルスが何やら奇声を上げていた。あの子はグランフェルノの血筋らしく、やんちゃで活発だ。ただ人見知りが激しく、些細なことでよく泣く。
兄の方が羨ましそうにそちらを見ていた。だがコホコホと急に咳込む。
慌てて背をさする。
しばらく咳込んでいたが、治まると大きく息をして、背に重ねたクッションへと沈み込んだ。
「…父様」
「ん?」
「僕がいなくなったら、レグルスをお願いしますね」
何を言い出すのかと、思わず顔を顰めてしまう。
何がおかしいのか、息子はくすくすと笑い、また咳込む。苦しいのだろう。咳をするたび、顔が真っ赤になる。
抱えるように前屈みにさせ、ゆっくりと背を撫でる。咳が収まっても荒い息を繰り返す。
「妙なことを言い出すからだ」
息子は首を左右に振った。上目遣いにこちらを見上げてくる。
「僕はもう、長くはありませんから」
「滅多なことを言うな」
「自分の事です。父様もわかっているでしょう?」
息子は目に溜まった涙を拭う。呼吸を整え、再びクッションに靠れる。
酷く顔色が悪い。外に出ることもままならないため、全体的に青白く、体も小さい。最近は何もしなくても高熱が続くことが多くなった。
医師には、冬は越せないだろうと言われている。
…それは酷く凍える冬になるだろう。
息子は、薄く笑う。
「あの子は、弱い子ですから…僕がいなくなったら、きっと……」
ああ、そうだった。レグルスは精神的に酷く脆い。少し強い言葉で言われただけですぐに委縮して、寝込む兄のもとに駆けこんでしまう。
この子がいなくなれば、レグルスは逃げ込む先が無くなり、あっという間に心を壊すだろう。
思わず溜息が漏れる。両手を組み、額に当てる。
「だからお前は、生まれる前に消えたのか?」
息子はハッとしたように顔を上げ、気まずげに笑った。
こんな世界は知らない。
私の子供は四人だけ。双子の子供などいない。
そんな言葉を口にすれば、世界は音もなく、崩れるように消え去った。辺りは闇に包まれる。
残ったのは自分と、見も知らぬレグルスによく似た子供だけ。
子供は張り付けたような微笑みを浮かべ、まっすぐにこちらを見ていた。
「上手くいったと思ったんですが」
生憎、そんな簡単に乗っ取られるような、軟な精神はしていない。
知らずうちに視線が冷ややかになる。
子供は困ったように眉を下げた。
「お前は何者だ?」
「それは父様の方がご存じでは?」
「そうか」
寝間着姿のまま、裸足で立つ子供に手を伸ばす。脇に手を入れて抱き上げれば、子供は驚いたようで目を瞠った。
「…無事に生まれたお前に会いたかった」
しっかりと抱きしめてそう呟けば、びくりと子供の体が揺れた。
子供の体は酷く華奢だ。今のレグルスより幼い姿をしているからかもしれない。
レグルスは双子として生まれる筈だった。
医師にその可能性が高いと最初に告げられ、その後の魔術師の診断で、確実に双子であると言われた。母体のほか、二つの心音が聞こえると。
けれど同時に、一つの心音が酷く弱々しい事も告知された。もしかしたら、片割れは無事生まれることが出来ないかもしれないと。
それを知った妻は悲し気に腹を撫でていたが、出来るだけの事はしようと、かつてない程気を遣って過ごしていた。
気遣い空しく、子供の心音が消えたのは七カ月を過ぎた頃だ。
心音が消えただけではない。妻曰く、大きく膨らんでいた腹が僅かばかり小さくなったと言う。
魔術師に死児の姿を探らせれば、存在した形跡すら見つからないという。勿論、既に流れたわけもない。
取り乱す妻を宥め、出産すれば何かわかるかもと期待したが、結局消えた子供のことは何一つわからなかった。
もしかしたら生まれた子供の中にもう一つ心臓のような臓器があって、成長する過程で不要となり消えたのかもしれない。本当に、最初から子供は一人だけだったと、憶測だけ残して。
「……ょう、ま……」
子供が何か呟いた。聞き取れず体を離せば、子供泣きそうに顔を歪めていた。
短い青銀色の髪に手を入れ、そっと撫でる。
「何故消えた?楽しみにしていたのに」
体が弱くても構わない。生きる時間を、共に過ごしたかった。存在したことさえ疑わしい子供にしたくなかった。
子供は泣きそうな顔で笑う。
「レグルスが、弱かったから……」
「レグルスの体は丈夫だろう?」
「心が…魂の存在力が弱くて、簡単に死んでしまう子だったから……でも、僕は体が弱くて。別々に生きていくには、不完全でした」
ぽつりぽつりと子供は語り出す。
レグルスは魂が弱い。それは精神的に追い込まれやすく、発狂や自殺に繋がりやすい。だから弱い己の体を捨て、レグルスの体の中に入り込んだのだと子供は言った。
子供も、全てをはっきり覚えているわけではない。今の状態になってから、ふと思い出すのだという。
「レグルスの魂を僕に取り込んで、そうして生きていくつもりでした。僕たちが生きるためには、それしか方法がありませんでした」
「けれど、そうはならなかった?」
「全く違う二つの魂を一つにするためには、とても長い時間が必要だと…僕は知りませんでした。『僕』が『レグルス』を凌駕して出てこれたのは三年ほど経った頃です。それ以前から影響はしてましたが」
それでも徐々に一つになるはずだったが、予想外の出来事が起こる。レグルスの誘拐、監禁事件だ。
レグルスの弱い魂は、飲み込もうとしていた強いはずの片割れの魂まで侵食して、壊れ始めた。壊れた魂の修復の為に、子供は一度己の魂を砕く必要があり、レグルスの魂のつなぎとして使った結果、『レグルス』とは別たれてしまった。
黄昏の塔の中にいる間、レグルスを眠らせ、子供は独りで生き延びることを選んだ。
ポロリと涙が零れる。それを指先で拭ってやり、そっと抱きしめる。
「僕はもう、永くここにいられません。全部、レグルスにあげちゃったから……」
「消えるのか?」
「はいとも、いいえとも。僕はレグルスで、レグルスは僕でもあるので。またどちらでもない新たな人間であるともいえます」
肩に頭を乗せた子供はギュッと袖を掴んでくる。その背をポンポンと叩く。更に子供は体を硬くする。
「僕が消えてしまうのは止めようがありません。それと同時に、レグルスの力が表立ってしまうのも」
「レグルスの力?」
視線だけ肩に向けるが、顔は向こう側で表情を窺うことは出来ない。鼻を啜る音が聞こえる。
「守ってあげてください。僕はもう……」
すうっと気配が薄くなる。抱えていた温もりが、重みが消えていく。
「待て!」
「まだ消えません。でも、もう時間切れです…父様。僕は亡霊なのです……」
色が薄れ、白い靄が手から零れていく。
慌ててそれらを掬おうとしても、するりと手から抜けていく。
――ごめんなさい。レグルスの力は、災いを……――
「レオニス!」
飛び起きた…と公爵が理解したのは、起こしに来た執事の驚きの表情を見た瞬間だ。
長い溜息を吐き、両手で顔を覆う。そしてそのまま髪をかき上げた。
「おはよう」
「おはようございます。懐かしい名をお呼びでございましたね」
執事の顔からは既に表情は消えている。いつもの澄ました顔があるだけだ。カーテンが開かれるが、まだ日が昇らないので、外は薄暗い。
ベッドに座ったままの公爵は、疲れた様子で胡坐を掻く膝に肘を置き、頬杖をつく。
その間も、執事がてきぱきと朝の支度を進めていく。
「…レオニスは、一卵性ではなかったのだろうな」
「左様で。どのようなお姿でしたか?」
執事も興味を覚えたのだろう。ベッドから降りるように促しつつ、訊ねてきた。
「髪と瞳の色は同じだが、顔立ちが…そうだ。ティアに似ていたな。目元は俺寄りだった」
「それはようございましたね…レオニス様ということは、やはり男児でございましたか」
「そうだ。ああ…女児だったら、ステラだったな」
女児の双子だったら、ステラとスピカ。妻と話していたことを思い出す。
執事も覚えているのだろう。微笑んで、小さく頷く。
「レグルス様がお知りになったら、羨ましがられそうですね」
「…そうだな。アレはシェーナに似過ぎていることを、気にしているようだから」
そんな事を話しながら、身支度を整える。顔を洗い、着替えてから髪を整え、支度が整うと部屋を出た。
食堂には息子たちしかいなかった。ハーヴェイに至ってはもう食べ終わる直前だ。
「レグルスは?」
「昨夜遅くまでアルティアお嬢様とお話しされていた御様子で、まだ眠っていらっしゃると」
「…まさか、ティアの部屋で寝たわけじゃないだろうな?」
執事ははっきり答えず、困った笑みを浮かべるだけだ。
流石に寝る時は自分の部屋でと言っているのだが、下の二人は度々互いの部屋を行き来しているようだ。主にアルティアがレグルスの部屋に行っているようだが。たまに己の部屋に弟を連れ込むこともある。
席に着いた公爵は、額に手を当てた。
からからと笑うのは二番目の息子だ。
「何を心配しているのやら」
「アルティアはもう14だぞ。来年には成人だ。いつまでも子供気分で居られては困る」
「それってさ、竜王国から王子妃の打診が来てるから?」
公爵の眉間に深い皺が刻まれた。
シェリオンが一気に不機嫌になった父に、若干焦る。
「ヴィー。その話なら父上は断っているから」
「ふうん?向こうは諦めてないみたいだけど」
和やかになりそうだった朝の食卓は、一気に氷点下になった。
シェリオンは眉を下げる。
「まだ怒ってるの?」
「ハーヴェイ、今日の仕事は?」
シェリオンの言葉に、公爵が重ねるように訊ねる。視線は並べられた朝食に落とされている。
ハーヴェイはニッと口角を上げた。
「今日は非番。だから帰ってきてんじゃん」
「シェリオンは?」
「出仕しますよ…」
シェリオンは溜息交じりに応えて、肩を落とした。この分では、父と一緒に王宮に行くことになりそうだ。恨めし気な視線を弟に向ける。
咀嚼していたパンを飲み込んだ公爵は、鋭い目を真ん中の息子に向けた。
「ヴィー」
「はいな」
「その話は、誰から聞いた?」
地を這うような低い声だが、ハーヴェイはにっこり笑って、口元に人差し指を当てた。
「ひ・み・つ」
「…可愛くないな」
「ひっでぇ」
ハーヴェイは笑う。
公爵は相変わらずの次男の様子に、冷ややかな視線を向ける。これしきで怯む可愛い息子ではないが。
「アルティアには言うな」
「はいよ。でもさぁ、父上……」
「私は断った」
面白くなさそうに公爵は言って、その後は黙々と朝食を摂っていた。
ハーヴェイは苦笑して、心配そうな兄に向って肩を竦めてみせる。
朝食を終え、公爵は席を立った。チラリと長男を見る。
シェリオンはわざとらしく溜息を吐き、立ち上がる。ハーヴェイも立った。どうやら玄関まで見送るつもりらしい。
玄関ホールで執事に防寒具を渡され、しっかりと着込んでいると、どこからともなく泣き声が聞こえてきた。しかも父を呼びながら近づいてきている。
「レグルス?」
「とうっ…とーしゃっ、まぁ~」
奥から末息子が泣きながら駆けてくる。まだ寝巻のままだ。
側付も一緒に来たのだが、どうして泣いているのかはわかっていないようだ。ただただ困惑している。
ホールまで来たレグルスだったが、いつものように父に抱き着くことはなく、その遥か手前で足を止めてしまう。そして更なる大声で泣き出したのである。
「父様も黒いぃ!なんでぇ!?」
謎の言葉を叫んで泣きじゃくる。そして何かを払うような仕草も見せる。
大人たちは顔を見合わせた。何を泣き叫んでいるのか全く分からない。「黒い」とは、何の事か。
グランフェルノ公爵は末息子の前までやって来ると、床に膝をついた。
「レグルス?」
「やだぁ!どーして真っ黒なのぉ!?」
幼子のように癇癪を起こし、父を叩き始めた。慌ててマリスが止めようとする。
けれど公爵はそれを止めた。じっとレグルスを見つめている。
レグルスの手は確かに何かを払い落そうとしている。公爵はその動きに見覚えがあった。幼い頃の事だ。記憶にあるのは、もっと緩やかなものだったが。
「レグルス。落ち着け」
末息子の両手を掴む。すると末息子は足をじたばたさせる。
公爵は失笑する。
「落ち着いて、目を閉じろ」
「目…?」
「そうだ。しっかり閉じていろ」
鼻を啜り、レグルスは言われた通り、ギュッと目を閉じる。
公爵はレグルスの頭を己の肩に押し付けるように抱え、シェリオンを呼ぶ。
「シェル。閃光の魔法を」
「閃光、ですか…?」
「そうだ。全員目を閉じろ」
シェリオンは首を傾げながらも、これ以上時間をかけるわけもいかず、言われるがままに魔力を行使する。使用人たちも同様に、目をつぶって手や腕で顔を覆う。
閃光は文字通り、強い光を放つ目くらましの魔法だ。以前レグルスが使おうとして上手く使えなかった灯りの魔法の上位魔法である。上位であるが、高位ではない。
一瞬の光が瞼を閉じていても伝わり、すぐに消えていった。その光に気付いたらしい他の使用人たちが駆けつけてくる足音がする。
すぐさまに動いたのはマリスだ。使用人たちのもとに向かう。
公爵はレグルスの頭を離し、頬を撫でた。
「開けてもいいぞ」
レグルスは恐る恐るといった様子で、目を開く。すっかり赤くなった目が瞬く。
公爵は微笑む。
「どうだ?まだ黒いか?」
レグルスは首を左右に振った。涙は止まり、パッと笑う。
「父様すごいです!」
「…黒いものを見たら、灯りの魔法で払ってやるといい」
公爵はそう言ってレグルスの頭を撫でる。
レグルスは不満げに口を尖らせる。
「僕、魔法は使えません……」
「光球にしなければ、発動は出来るだろう?その状態で、埃を払うように払ってやれ」
くしゃくしゃと頭を掻きまわし、公爵は手を離す。
ぼさぼさになった頭に手を置き、レグルスは不思議そうな顔をした。何故か父が悲しそうな顔をしていることに気付いたのだろう。
「レグルス。見えたものの事は、屋敷の外の者に知られてはいけない」
「…父様?」
「屋敷の中の者にも、出来るだけ知られるな。いいな?」
口調は柔らかいのに否とは言えず、レグルスはこくりと頷いた。
公爵はそれを確認して、踵を返す。
執事が厳しい表情で、扉を開いた。通り過ぎ様に告げる。
「レグルスから目を離すな」
執事は返事はせず、ただ深く頭を下げた。
「「いってらっしゃい」」
「いってらっしゃいませ」
寝間着姿のレグルスは、ハーヴェイに抱えられて手を振る。
振り返った公爵は微かに笑った。シェリオンと共に馬車に乗り込む。
馬車が走り出して、シェリオンは改めて父に問いかけた。
「父上、あれは……」
「シェリオン」
被せるように名を呼ばれ、シェリオンは口を閉ざす。隣りの父の顔は蒼褪めていた。
父として情けない姿を見せることは過去にあったが、公爵として頼りない姿を見たことはない。シェリオンは不安に駆られる。
「今日は早めに帰ってくるように」
そんな事を言われてしまえば、ここではもう聞けない。シェリオンは頷き、座席に座り直した。
その後は結局一言も言葉を交わさないまま、王宮に到着した。
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