7.過ぎ去る日々
シェリオンは扉を叩く。返事があって中に入れば、だらけきった王太子・ヴェルディがソファに伸びていた。
思わず額を抑える。
「王太子殿下……」
「もー少しだけ~…」
片腕で顔を覆い、気だるげな返事を返す。
近衛騎士のハロンがそっと声をかける。
「殿下殿下。シェリオンが切れそうです」
「早過ぎんだろ!」
がばっと体を起こせば、涼しい顔のシェリオンが立っている。端正な顔には、不満も怒りもない。
ヴェルディは騎士を振り返る。
「オマエ……」
「あのまま転がってたら、確実にそうなったデショ?」
ハロンがしれっと答えた。悪びれた様子もない。
ヴェルディは大きな溜息を吐く。ソファから足を下ろす。
「で?午後の予定に変更は?」
「御座いません。これからファルマン辺境伯がいらっしゃいます。くれぐれも粗相のありませんように」
「わかった。あとは誰に会うんだったかな?」
「トリアーデ男爵、メルニス伯爵です。どちらもご令嬢を伴ってのご訪問です」
淡々と述べるシェリオンに、ヴェルディは顔を顰めた。首を振る。
王太子は現在十八。未婚で、婚約者もいなければ、噂に上るような女性もない。
トリアーデ男爵令嬢は十六、メルニス伯爵令嬢は十八。あわよくばという裏が隠れてもいない。
ハロンが軽やかに笑う。
「わっかりやっすいな~。その二人も、殿下も」
「そうですね」
シェリオンは無感情に相槌を打ち、ふっと息を吐きだした。外に目を向ける。
「社交シーズンもそろそろ終わりですから…頑張ってください」
ハロンが目を瞠る。冷やかに怒るという器用な感情以外見せない近侍が、珍しく気遣うような言葉を口にした。
ヴェルディは立ち上がり、体を伸ばす。放り出していた上着を羽織った。ボタンを留めると、束ねた長い金髪を指先で跳ね上げる。
「では、行くか」
「はい」
ヴェルディが歩き出せば、一歩下がって近侍と近衛騎士が付き従う。
場所は王太子の謁見室。王族の私室がある奥棟から、政治の中枢である表への移動はそれなりの距離を歩く。
ヴェルディはやや伏し目がちに、足早に歩く。
それを見つけた女官や侍女は、素早く脇に避けて頭を下げる。しかし通り過ぎた後ろから、時々黄色い悲鳴が聞こえる。
「モテモテですね、殿下」
「俺だけじゃないだろうが」
ヴェルディは溜息交じりに答える。
シェリオンもハロンも、若い女官たちに騒がれているのだ。
冷淡な性格であるが、容姿端麗で家は公爵家という近侍・シェリオン。
爽やかで誰にでも優しく、精悍な顔立ちの騎士・ハロン。実家は数々の将軍や騎士団長を生みだした武官の名門・シュナウザー家である。
ハロンはヘラっと笑い、軽い調子で手を振る。
「いや~、殿下ほどでは」
「ふん」
ヴェルディは軽く鼻を鳴らして、視線を転じた。
シェリオンは無駄口に付き合うつもりはないと言うかのように、無表情のままだ。冷たいと言われる薄い水色の目は、全てに無関心だ。
あれから五年。
彼の心はあの日から止まってしまった。
自分の過失から弟を失ったと思い込み、全ての光に背を向けた。
あのまま放っておいたら、自宅に引きこもり、二度と出てこなかっただろう。
だから、無理矢理引っ張り出した。
ヴェルディは、自分の選択を後悔しない。
厭々でも真面目に仕事をこなしている彼を、非難する者はいない筈だ。やっかむ者はあっても。
◆◇◆◇◆◇
その日の役目を終えたシェリオンは、王都にある屋敷に帰ってきた。日付も変わろうかという時間だ。
遅くなった時は、宮に与えられた部屋に泊まる事も多いのだが、生憎明日は休暇。休みに宮に居れば、どうしようもない雑務を押し付けられるので、少し無理をして帰ってきた。
夜番の侍従が出迎える。
「お帰りなさいませ、シェリオン様」
「ただいま。食事はいらない。着替えて休む」
「畏まりました。お湯の準備を整えますので、しばらくお待ちくださいませ」
「頼む」
侍従が去り、自室に戻ろうと歩き出す。静まり返った屋敷で、自分が立てる微かな足音さえも耳についた。
ふっと、ある部屋の扉が細く開いているのに気付いた。中から光が漏れている。
音を立てぬよう、慎重に扉に近付く。隙間から中を覗けば、人影が見える。取っ手に手をかけ、静かに扉を開く。
「…ハーヴェイか」
「兄上」
金茶色の瞳が驚いたように見開かれた。それから屈託なく笑う。
騎士団入りした二歳下の弟は、休暇のたびに家に帰ってくる。近いから問題はないのだが。
そして帰ってくると、真っ先にこの部屋にやってくるのが習慣になっている。
「遅かったんだな」
「明日は休みだから…色々片付けてたら、遅くなった」
「オレも明日休みなんだ。そんで、その後演習」
そういえば、そんな話を聞いた。
「どれくらい留守にする?」
「一週間とか言ってた。王都から離れるから、もしかしたら、もっと遅くなるかも」
「わかった。母上たちも、明後日には領地の方へ戻るそうだよ。父上が送ってくるそうだ」
「知ってる。その前に少し話でもって思ってさ」
ハーヴェイは少しの暗さも見せず、ただただ笑っている。
シェリオンはそれに応えようとして、失敗した。口角すら上げられなかった。
溜息を吐いて、視線を下げる。
「すまん。さすがに眠い……」
「王太子の近侍なんて、気疲れするばっかだろ。早く休めよ」
「お前もな。随分しごかれてるらしいじゃないか」
「オレの取り柄なんて、体力くらいだぜ?兄上みたいにひ弱じゃないから、大丈夫」
「失礼な。体力自慢は良いが、脳筋にはなってくれるなよ」
「…努力する」
「お前ねぇ…まあいい。話はまた明日、な。お休み、ヴィー」
「ああ、おやすみなさい」
シェリオンは欠伸を一つ噛み殺して、弟の部屋を出た。
弟の部屋といっても、ここはハーヴェイの部屋ではない。もう一人の弟の部屋だ。
まるで時が止まったかのような、子供部屋。
生きていれば十歳になるのに、部屋に置かれているのは幼児用の玩具やぬいぐるみ。
あの日、家族と共に外出した部屋がそのままの姿を維持されているのだ。
メイドたちは、一つの物さえも位置がずれぬよう、この部屋の掃除には気を使うという。
いっそ、誰かが壊してくれればいいのに。
きっと、母は泣くだろう。けれど、諦めもつくのではないか。
あの子は死んだのだ。もう、この世界のどこにも居ないのだ。
あんな部屋を残して、いつまでも未練がましく縋りついているから……
翌朝、シェリオンは少しばかり寝坊した。
特に約束があったわけではないが、完全に明るい外に少しばかり慣れない雰囲気を味わう。
着替えて外に出る。
リスヴィア王国の夏は、比較的過ごしやすいと言われている。
特に王都・セランディアルトは内陸に位置し、湿気も少ない。冬には雪も降るが、それほど積もるわけではない。
夏の盛りを過ぎた今、陽が昇ってもそれほど気温は上がらない。
穏やかな日差しの中、シェリオンはぼんやりと足元に咲く花を眺める。
白い花は、母親が好きなものだ。特にこれといって決まった品種はないが、最近は特に、清楚な小花を好む。
理由を聞けば、「どこかあの子に似ているでしょ?」と、寂しそうに微笑んだ。
目線を移す。
シェリオンの好きな花は、どちらかといえば色鮮やかなもの。出来れば大輪の花が好いが、少し時期が外れたようだ。
庭師が丹精込めて手入れする花壇には色とりどりの花が咲いているが、それほど大きなものはない。だが、植物に詳しいわけでもないし、興味があるわけではない彼は、美しければそれでいいと思う。
ぼんやりと散策していれば、奥の四阿から華やいだ声が聞こえてきた。母と妹、それに……
足が止まった。引き返そうと背を向ければ、甲高い声が彼を呼びとめた。
「お兄様!」
見つかった。
そっと溜息を吐き、再び向きを変える。
「おはよう、ティア」
「もうお昼よ、シェルお兄様」
妹はクスクスと笑う。
シェリオンは 四阿へと向かった。
瀟洒なテーブルを囲い、座るのは三人の女性。
「お茶会ですか、母上」
「そんな大層なものではありませんよ、シェリオン」
母親は茶器を置いた。
ふわりと微笑み、母親はもう一人の女性へと視線を向けた。
「伯爵令嬢もご領地にお戻りになるそうなの。だから最後にお茶に誘ったのよ」
「そうですか。ところでハーヴェイも戻っている筈なのですが……」
彼女と視線さえ合わせようとせず、シェリオンは話題を変えた。
あからさまな態度にも、彼女は表情一つ変えない。むしろ、妹の方が眉を寄せたほどだ。
母親は小さく息を吐いた。
「見ていませんよ。まだ寝ているのではなくて?」
「起こしてきます」
「寝かせてあげなさい。そのうち起きてくるでしょう」
「…そうですか。では失礼します」
シェリオンは表だけは礼儀正しく、さっさと踵を返した。
赤毛の女性の、僅かに揺れた瞳には気付かぬ振りをして。
去っていく後ろ姿に、アルティアは頬を膨らませる。
「もうっ。お兄様ったら!」
「いいのよ、アルティア。気にしていないわ」
ギネヴィアはすました様子でカップに口をつける。
シェーナも眉を下げた。
「ごめんなさいね。あの子はまだ時間がかかりそうなの」
「いいえ。わたくしにも責任ある事ですから……」
「ギーのせいではありませんわ!過ぎた事をいつまでも引きずっているお兄様が、女々しいだけです!!」
椅子を蹴倒して立ち上がったアルティアに、ギネヴィアは微笑んだ。首を振る。
「そんなにお兄様を責めないであげて。苦しんでいるのよ」
「でも…っ」
「貴方にとって、いなくなってしまった弟は過ぎた事なの?もう、忘れてしまった?」
アルティアは言葉に詰まった。視線を下げ、硬く手を握る。
その手に己の手を重ね、ギネヴィアはアルティアの顔を覗き込んだ。
「いいの。こうして会えただけで、もういいのよ……」
「ギー……」
「そんな事言わないで、また遊びにいらっしゃい。いつでも歓迎するわ」
「ありがとうございます」
「きっとよ?約束よ」
アルティアに抱きつかれ、ギネヴィアは目を瞠る。その向こうで、シェーナも微笑んでいる。
浮かんだ涙を隠す様にアルティアの肩に顔を埋め、彼女の背を撫でた。
誤字脱字の指摘、お願いします。
一気に五年後。