魔術協会 3
レグルスは頭を撫でる手に、意識を浮上させた。
目は閉じたまま、レグルスは大きな手にすり寄る。どうにもこうにも瞼が重くて開かない。
大きな手はしばらく頭を撫でていたが、やがてすっと離れていく。
――なんで?どうして?どこいっちゃうの?――
レグルスは大きな手に追いすがる。手探りで伸ばして何度か宙をかいた後、何とか大きな手を捉まえた。
しっかり掴んで顔を寄せると、安心感に表情が緩む。ピクリと大きな手が反応したが、気にしない。
何となく手だけでは物足りなくなって、本体を探す。大きな手を引っ張り、その先を引き寄せようとする。もう片方の手で宙をかくがそこは何もない。
――どこ?どうしてないの?――
レグルスは悲しくなって顔を歪めた。大きな手に縋る。手は暖かいが、それだけだ。ギュッと握って顔を押し付けていると、手が強引に離れて行った。
「…ふっ、うえぇ……」
寂しくて悲しくて、とうとう涙が溢れる。
眠い。とても眠いのに、悲しくて眠れない。
また心が壊れてしまいそうな感覚は、すぐに暖かな手に繋ぎ留められた。
ふわりと体が浮き、不安定な体勢になる。それは一瞬で、すぐに硬いものの上に降ろされた。
硬いけれど、暖かい。
レグルスはふにゃりと顔を緩ませた。硬いものの中で具合良く丸まると、顔を摺り寄せる。そして再び意識を沈めていったのである……
幸せそうに眠るレグルスを抱え、父親はぽんぽんと背を叩く。半ば無意識の行動で、顔は茫然としたままだ。
「…びっくりした」
「私共もです」
グランフェルノ公爵と共にやって来た外交官たちも、眠っているのにもかかわらず突然泣き出した公爵子息に、ただ狼狽えるしかなかった。
先程到着したリスヴィアの交渉団は、スランダード側がまだやってきていないことを知り、先に留め置かれた子供たちの様子を窺いに来た。
魔力の枯渇により、眠るか食べるかしかしていないという話は聞いている。今はまだ睡眠中で、揺すっても起きないと言われた。
ただ我が子に会いたいだけの公爵は、それでもいいと部屋に案内させた。そして眠る我が子に安堵の息を漏らし、久しぶりに顔を見た嬉しさにそっと頭を撫でたのである。
そしたらまるで誰に撫でられているのか分かったかのように、レグルスは反応をした。目は閉じたままだったから、夢うつつだったのかもしれない。
一応まだ家出中で、あまり傍にいるのも悪いかもしれないと、公爵はすぐに手を引く。が、レグルスはそれを追いかけて、一生懸命自分の手を伸ばしてバタつかせてきたのだ。不機嫌そうにパタパタさせるので、仕方なくもう一度撫でてやれば、しっかりと握って嬉しそうに笑う。
思わず体が硬直した。
それでも、これで満足したかと思えば、更に腕を引かれた。開いている手で更に何かを探す。何を探しているのか解らなかったが、そのうち泣きそうに顔を歪めた。手を握る力が強くなる。
そこで仕方なく、公爵はレグルスを抱えようと一度手を払ったのだが……
本気で泣き出すとは思わず、慌てて抱き上げベッドに座り、膝の上に降ろしてしっかりと抱えれば、涙はすぐに止まった。それどころか無防備に微笑んで、膝の上で具合良く丸まったのである。顔をしっかりと公爵の胸に押し付けて。
レグルスが起きていたとは思わない。寝ぼけていたかもしれないが。
父に抱えられて幸せそうに微睡むレグルスに、リスヴィアの外交官は苦笑いになる。
「安心しきってますな」
公爵と同じ年代の外交官が、揶揄い交じりに言った。公爵は眉を顰めるが、事実なので反論できない。
外交官たちが顔を見合わせ、そして頷いた。
「我々はスランダードとやらの使者が来るまで、先ほどの部屋で待機しておりましょう。公爵様は程よき頃にお戻りください。司祭殿も公爵様とご一緒にお戻りくだされば結構です」
「ありがとう存じます」
ルオーの様子を窺っていたフラメル司祭は、にっこり笑って深く頭を下げた。
外交官たちが案内役の魔術師を伴って出ていくと、公爵は深い溜息を吐く。レグルスの頭に顔を寄せる。
行方不明の第一報が入った時は、目の前が真っ暗になった。部下の手前平静を装ったが、あの老獪な副大臣までは騙せたとは思わない。『使えない大臣は必要ありませんからな』と、早急に組まれた外務省の交渉団に押し込まれた。
グランフェルノ公爵がここに来たのは、国王の名代である。
そしてフラメル司祭は、リスヴィアの国教でもある三神教の一員として、だ。
司祭は司祭で、安心した様子でルオーを撫でていた。
「生きて戻ってきてくれればいいと思っていました。けれど、怪我一つなく戻ってくるとは、思ってもいませんでした」
司祭が苦笑交じりに言った。
飛ばされた場所も理由も、最悪なのは知っている。五体満足で戻ってきてくれさえすれば、それでいいと願っていた。
公爵も同意する。
何しろこの見た目だ。どんな扱いを受けるか、想像に難くない。
「…大人しく眠っていてくれればいいのに」
ぼそりと公爵は呟いた。
眠っていれば、どこにもいかない。何も聞こえないから、傷付くこともない。
司祭が困ったように笑う。
「それで満足ですか?」
「……いや」
眠ったままでは、声が聴けない。傷付いて泣くこともないが、喜んで笑う事もない。
深い眠りに落ちたレグルスを再びベッドに寝かせる。今度は泣き出さなかった。
あどけない寝顔を晒す息子に、公爵はほろ苦い笑みを浮かべた。
◆◇◆◇◆◇
午後も遅い時間に目を覚ましたレグルスは、何度も目を瞬かせた。
「えっと…ここは魔術協会、ですよね……?」
久しぶりに活動を始めた頭が、現状を把握しようと慌ただしく回転を始める。
レグルスは顎に指先を添える。
何度か起きたと思う。食事をした記憶は朧であるが、夢ではないはずだ。それよりもいい夢を見たような気がする。
頬が緩む。同時にお腹が鳴った。
レグルスが自分のお腹を見下ろす。
「何故そんなに素直ですか……」
「…その腹音に起こされるとか、どうなの……」
後ろから寝起きのルオーの声がした。
久しぶりに思考が戻った二人は、食事のあとまたすぐに眠るという事をしなかった。
ならばと、世話役の魔術師の勧めで風呂に入った。魔術協会のある都市はリスヴィアより南にあって、冬でも雪は降らない。せいぜい風花が舞う程度だ。
暑いせいか、随分汗を掻いている。服も着たきりで、幾分汚れていた。
用意してもらった服に着替えると、手持ち無沙汰になる。
「それなら、少し探検でもしてくるといいよ」
世話役の勧めで、部屋の外に出ることになった。
世話役の話では、ここは魔術協会を訪れた客が宿泊する棟の一つらしい。取り敢えずこの棟から出なければ、どこに行ってもいいと言われた。今は特に重要な客はいないそうだ。
レグルスはルオーと手を繋ぎ、廊下の端から端まで進んだ。階段が現れたので、顔を見合わせる。
「上?」
「下でしょう?上行っても、部屋しかないと思います」
レグルスの推測で、二人は一階へと降りた。
この棟は三階建てで、通されるのは主に王族や貴族たちだそうだ。その為全体的に華美に仕上げられている。家具の類は勿論、廊下には花や美術品が飾られている。
下に降りると、広い廊下が続いている。道なりに進むと、更に空間が開けた。
そこは吹き抜けになっていた。高い天井にステンドグラスがはめられ、光を通して輝いている。ぐるりと囲う壁には絵画。合間に大きな彫刻や壺のような陶器が置かれていた。その先に続く通路もあるが、別の建物へ続く道だろう。
まるで美術館のような光景に、レグルスは目を輝かせた。
「わあ…綺麗なもの、いっぱいです」
こうした美術品を眺めるのは、レグルスが好む物だ。ルオーの手を引いて間近な陶芸品から鑑賞していく。
置物には小さな説明文が付いていた。けれど北方公用語で書かれたそれを、二人は読めない。
だが、レグルスにそれは必要なかった。
「わ、セイ帝国の白磁です!」
小さな歓声を上げて、巨大な飾り皿に顔を寄せる。
ルオーは首を傾げた。
「セイ帝国って?」
「東大陸の一番大きな国です。東大陸はこちらとは全く違う文化や風習を持っていて、あちらの国で作られた陶磁器はとっても高値で取引されるのですよ」
「皿なんて、こっちでも作れるのに?」
「質が違うのですよ。このお皿はとっても白いでしょう?透明の釉をかけて、凄い高温で焼き上げるとこうなるらしいのです」
「ただの白い皿」
「もー…職人さんの技術なのですよ。これは多分数百年は経っているはずの物です。今では貴重なものなのですよ。絵付けの品が人気になった時、白磁は有名作家の贋作作りに使われてしまったりして、殆どが失われてしまいましたから。最近はまた流行出したみたいですが、昔の物の方が価値が高いのは言わずもがなです」
レグルスはうっとりと白い皿を見つめる。
ルオーは首を傾げるばかりだ。スイッと隣に視線を移す。
「オレはあっちの絵の方がきれいだって思うな」
「あれは…ミゼラの絵ですね!」
それは誰かの肖像画らしく、白いドレスを着た美しい女性が描かれていた。
その前に移って、二人で絵を見上げる。
「セーラ・ミゼラ。今でも珍しい女性の画家です。彼女の描く肖像画は当時のご婦人たちの間でかなりの人気で、描いてもらうのに最大で二年待ちだったとか」
「詳しいな」
「家に一枚だけ、彼女の描いた絵があるのです。えーっと…かなり昔の当主夫婦の、婚礼衣装の絵です」
「かなり昔」
「んーと、三百年位前でしたか?」
何しろ建国の王の兄弟が祖となる家である。家の歴史がそのまま国の歴史と言ってもいい。
家には、有名無名の作家の絵をはじめ、美術品が大量に所蔵されている。美術学の授業として、特別講師を招いた授業もあった。姉と受けたそれは、レグルスにとって存外楽しいものだった。
ミゼラの絵はその時に見た。
「ご先祖様のお嫁さんもとっても綺麗でした」
「この人も花嫁なのかな?」
「どうでしょう?花嫁衣装が白という決まりはありませんから。若い女の人ですし、社交界デビューの時かもしれませんね」
綺麗な女性は穏やかな微笑みでこちらを見下ろしていた。
レグルスもニコニコとそれを見上げている。
ルオーは飽きたのか、隣の絵へと目線を移した。そうしてレグルスの興味も移っていく。
それを何度も繰り返した。中には当然レグルスの知らないものもあり、二人で説明文に顔を寄せて、名前らしきものや呼び名らしきものを探し当てるという作業をした。
その内に、一番広く場所を取っているところに行きつく。そこには緞帳がかけられていた。奥には絵画があると思われる。
二人は顔を見合わせた。
「何でこれだけ?」
「修復中とか?」
二人で首を傾げる。辺りを見回すと、横に緞帳を開くための紐があった。そこに視線が集まる。
「見たいな」
「見てもいいでしょうか?」
「…ダメでも、子供のイタズラで済まされないかな?」
「……取りあえず引いちゃいましょうか」
レグルスが紐に近づいた。一応辺りを見回し、人がいないことを確認する。ルオーを見、二人で頷きあった。
勢いよく紐を引く。緞帳が左右に割れ、中からは大きな一枚の絵が現れた。
ルオーは目を見開く。
それは今までと趣の違う絵だった。人物でも静物でも、風景でもない。躍動感あふれる、それでも殺伐とした絵。
赤と黒の戦場の絵だった。
ルオーのところまで駆け戻ったレグルスが、呆然としたように呟く。
「ナハトの人物画……」
巨大で不気味な絵は、長閑な風景画を得意としたナハトの作風とは全く違っていた。
描かれたのは沢山の騎士、兵士。生きて剣を振るうものも、死して地に付したものも。翻るのは二つの国旗。そして光の翼。
「守護天使?」
歴史に疎いルオーでも知っている、異世界から来た英雄。黒髪に黒いマントをたなびかせ、魔具の光を纏って先陣を切る。
レグルスの中で白い靄が跳ねた。胸元を押さえる。前に意識を乗っ取られた時のような感覚はない。何かうねっている様子が伺える。
内側に意識を向けていたレグルスの目の前に、ルオーの顔が飛び込んできた。
「どした?具合悪くなったか?」
蘊蓄を語り出さないので、心配になったようだ。
レグルスは首を横に振る。大きく深呼吸をし、顔を上げる。
「バルツァー・ナハト。リスヴィア出身の、正体不明の画家です」
「正体不明?」
「彼は人前に一切出なかったのです。肖像画なども手掛けなかったため、彼がどんな人間か知る者は、口の堅い画商以外いなかったそうです」
もちろんレグルスは知っているが、敢えてそこは口にしない。あくまで一般的に知られている事だけを話す。
「けれど彼の描く風景画は幻想的でどこか懐かしいと、当時から高い人気を誇って…今も高値で取引がされています」
「風景?」
これも風景なのだろうかとルオーは不思議そうな顔になる。
レグルスが苦笑いを浮かべる。
「これは人物画です。彼の死後現れたと言われています。でもその数はごく少数で贋作も多いです」
レグルスは巨大な絵を見上げる。
ルオーは暫くその横顔を見つめ、視線の先を辿った。まるで宙を舞うような位置に描かれた英雄の姿を捉える。
(あれ?)
ルオーはどこかで見たことがあるような気がした。だがリスヴィアには黒髪の人間は少ない。ルオーの知り合いにはいない。隣に視線を戻した瞬間、脳裏に何かが閃いた。
黒髪に黒いマント。けれどこの絵のような殺気立った様子はない。穏やかに微笑んで、幼子を抱きかかえていた。
気付いた途端、心の中で何かがすとんと落ち着いた。
(そうか、この人なんだ……)
知らずうちに口元に笑みが上る。いつの間にか離れていた手を繋ぎ直す。レグルスが視線を絵から離さないまま、ギュッと握り返してきた。
レグルスは必死な様子で絵を見つめていた。沢山の人の足音に気付かないほど集中していた。
だから、後ろからの沢山の足音に気付かなかった。繋ぐルオーの手が緩んだのも。
頭上に影が落ちる。レグルスはようやく絵から目を離した。顔を上げる。ステンドグラスから差し込む陽射しに目が眩む。レグルスは目を眇めた。
「どなたですか?」
「……レグルス」
どこか笑いを含んだ声に、レグルスの目が見開かれた。ついでに口もあんぐりと開けられる。
影を作っていた人物がすっと身を屈めた。視線が下がり、顔がしっかり見える。
「とお、さま?」
「うん?どうした、しばらく会わぬうちに父の顔を見忘れたか?」
酷薄に見える薄い水色の瞳が、優しく細められた。大きな手がレグルスの頭に置かれる。
レグルスの頭はまだ混乱していた。
ここはリスヴィアではない。まだ遠く離れた異国の地だ。それなのになぜ父がここにいるのか。仕事だって沢山あるはずなのに。
ぐるぐる考えてみるが、答えは出ない。けれど頭を撫でる大きな手は暖かく、本物だという事を教えてくれる。
へにょりと眉が下がった。
「父様」
「うん。久しぶりだな」
「父様…父様、とうさっ……」
不意に声が詰まった。俯いて、服の裾を握りしめる。その手の上に雫が落ちる。
驚いたのはグランフェルノ公爵だ。レグルスはずっと泣けずにいた。少なくとも起きている時は。だから長い幽閉生活の中で、涙の流し方がわからなくなってしまったのだと思っていた。
声を押し殺し、ぼろぼろと涙だけ零す息子に、公爵は苦しげに呟いた。
「そうか…お前の涙を奪ったのは俺だったのだな」
あの時こうしていれば、レグルスはあの場で泣いたのだ。泣きながら父親に手を伸ばした。
それなのに間違えた。間違えたから、今度は無防備に縋りつけずにいる。
「…っ、う……」
唇を噛みしめ、ギュッと眉根を寄せ、何とか涙を堪えようとしている。
公爵は両手を伸ばして、我が子を抱きしめた。
「無事で良かった…おかえり、レグルス」
「と…さま」
裾を握っていた手が公爵の上着を掴む。同時に大きな泣声がエントランスに響き渡った。
それを遠くに眺めながら、フラメル司祭もまた腰に抱き着く少年を宥めるのに苦労していた。
レグルスと関わるようになってから、年長者の自覚が出てきたのか随分しっかりしてきていた。けれどまだまだ子供だ。司祭の服に顔を埋めて、こちらを見ようともしない。覗き込むことも許さないようで、屈むことが出来ないようにしっかりと抱き着かれている。
司祭は苦笑いを零す。
「セイルは無事ですよ」
小さく頷いたようだ。
「皆、貴方の帰りを待っています」
もう一度頷く。
「ウォーレンがかなり落ち込んでますから、帰ったら慰めてやってくださいね」
もう一度。
「帰りましょうね」
「…うん……」
鼻をすする音と共に微かな声が答えた。
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