南の王国 2
時は遡る。
レグルスは一人、別室に連れていかれた。
明らかに格が違う部屋に通され、顔を顰める。
「言いたいことは色々あるだろうが、今は我慢してほしい」
苦い顔のノクターンに、レグルスは頷く。
広い浴場に案内されたが、使用人の手は断った。埃と返り血を洗い流し、用意された着替えを前にレグルスは首を傾げる。取り敢えずゆったりとした上下を着て、もう一つの衣装はそのままにした。
濡れた髪はそのままに部屋に戻れば、ノクターンに呆れた顔をされる。
「会長さん?」
「まず食べようか」
先ほどまでなかったテーブルに、豪華な食事が並んでいる。
空腹を覚えていたレグルスは素直に座った。スプーンを取って、変わった匂いのする料理を口に運ぶ。
ノクターンが溜息と共に、布を持ってレグルスの後ろに立った。髪を拭き始める。
レグルスは肩を竦めた。
「ありがとうございます」
「手入れ出来ないなら、切ればいいのに」
「母のお気に入りなのです」
頭上で鳴った舌打ちは気付かないフリだ。レグルスは黙々と食事を続ける。
一皿片づけて、次の皿を引き寄せる。肉料理なのだが、これまた野性味が強い独特な味だった。だが顔色一つ変えず食べ進める。
ノクターンはしっとりと水気を帯びた布を放り、あらかじめ用意してあったブラシを取った。青銀色の髪を梳く。
「君にはこれからスランダードの国王に会ってもらう。リスヴィアの王子として」
「王子様?僕が?」
レグルスは顔を上げた。それでも食事の手を止めず、切り分けた肉の欠片を口に入れる。
ノクターンが苦笑する。
「スランダードには貴族という地位がないんだ。血統による権力を持つのは、王族のみ。嫁入りした王女の血筋も全て王族とされる」
「それなら、僕も王子様ですね」
レグルスが顔を下げる。見たことのない野菜を口に入れ、顔を顰めた。あまりの苦さに水に手を伸ばす。
グランフェルノ家の始祖はリスヴィア建国の王の兄弟だ。現在までに何度も王女が降嫁している。時に一人娘に王子が臣籍降下してきた。第二の王家の名は伊達ではない。
ノクターンはブラシを置いた。
「君は従者と共に城を抜け出し、街歩きをしていたところで魔法陣に巻き込まれた。いいね?」
「連れは従者ですか?」
「兄弟でも良かったんだけどね。所作が違い過ぎた」
たとえ五年のブランクがあっても、レグルスは貴族の生まれだ。幼い頃から馴染んでいるものが違う。
ノクターンは赤系の糸を編んで作られた組紐で、レグルスの髪を束ねた。
「食事が終わったら、さっきの服に着替えてもらうからね」
「…暑そうです……」
煌びやかな刺繍の施された、リスヴィアの礼装。
レグルスには見慣れた服だが、ここの気候には合わない。着たら絶対暑い。
ノクターンは向かいの席に座り、にっこりと笑う。
「我慢」
「あうぅ……そもそも、あの服はどこから調達してきたのですか?」
「君の実家」
「いつ着せるつもりだったですか……」
レグルスは悲し気にしつつも、皿を積み重ねた。メインから、果物の皿に移る。飾り切りにされた果物を手で摘まむ。
「美味しい?」
「…美味しいです」
たっぷりとした果汁と含まれる甘みに、思わず笑みが漏れた。
子供らしい笑顔に、ノクターンの表情も自然に緩む。
合計八皿ほどを空にして、レグルスは食事を終えた。
ノクターンの手を借りて礼装に着替え、国王との面会を待つ。頭には、いつかエルフの女性から預かったサークレットが煌いている。
髪は解いて、背に流した。
「安売りする必要はないけれど、使えるものは何でも使わないと」
レグルスの姿はこの国で好色の目で見られるだろう。
レグルスが不貞腐れたのは僅かな時で、案内役が現れるころには感情は消していた。僅かに目線を下げ、魔術師のローブに隠れるような位置に立つ。
ノクターンが口元を吊り上げた。
「参りましょう、殿下」
初めての呼びかけに、レグルスは黙って頷いた。内心では居心地の悪い思いをしている。
ふわりと白い外套が舞う。シャラリとサークレットの飾りが動きに合わせて揺れる。
先導する案内役に付いて歩き出すと、後ろに魔術師が控える。ノクターンの他にもう一人現れた。腰に剣を下げている。
「ガイアス・イェーリ。宮廷魔導士です」
リスヴィアから派遣された魔導士なのだろう。剣を下げているという事は、騎士叙勲も受けているという事か。
レグルスは小さく頷いた。
「イェーリは確か…伯爵家でしたか?」
「よくご存じで」
「母方の祖母の生家として覚えています」
「はい。私の父は公爵夫人の従兄に当たります」
つまり青年は血縁者。レグルスの無表情が僅かに揺れた。
ガイアスは更に言葉を続ける。
「シェリオン様とは今も親しくして頂いております」
「…ガイアスさ…も、魔法剣を使うのですか?」
「いいえ。私はあくまで魔法の補助としての剣術です。魔力を剣に纏わせるのは中々難しいのですよ」
レグルスが後ろに視線を向けると、ガイアスは嬉しそうにニコニコしていた。思わずキョトンとしてしまう。
けれど問いかける時間はなかった。案内役の足が止まったのだ。
彼らは大きな扉の前に立つ。扉の左右には槍を携えた兵士が控えている。
ノクターンがレグルスの隣に並ぶ。身を屈め、耳元に顔を寄せた。
「絶対に頭は下げないで。膝をつくのもなし。何だったら、口は一切開かなくてもいいよ」
「お飾りですね」
「違う。高貴な王子様は、下賤な民とは言葉なんか交わさないんだ」
不遜な言葉だ。普段のレグルスなら、決して頷かない。けれど茶目っ気たっぷりのノクターンに、レグルスも僅かに笑う。そして一つ、首を縦に振った。
それでも、レグルスは従うつもりはないのだが。
軽く目を閉じる。異国の言葉が耳に届き、微かな風が流れる。
「どうぞ、お進みください」
ノクターンの声に目を開く。室内に足を踏み入れる。左右にずらりと人が並んでいる。
居並ぶ人々がどよめいた。ほうと溜息を吐く音も聞こえる。
ノクターンが苦笑いを零す。
「負けず嫌い」
そんな言葉が聞こえ、レグルスは目線だけを向けた。悠然と微笑んでみせる。
奥から誰かの歓声が上がった。目を向ければ、喜色満面といった様子で手を打つ男がいる。何かを言っている。ノクターンが顰め面になった。
おそらく、あれが国王なのだろう。大きな玉座の上で胡坐をかいている。左右に厚い布が掛けられているのだが、その後ろに人の気配を感じる。
レグルスはマントを翻し、広間の中ほどで足を止めた。王を見上げる。
『リスヴィア王国王子殿下である。控えよ』
『ははは、これは失礼した。して、殿下の御名を伺ってもよろしいだろうか?』
ノクターンは険しい表情で、王の言葉をレグルスに伝える。最初に何を言ったのかは教えてくれなかった。
レグルスは仄かな笑みを浮かべたまま、ゆるりと首を左右に振った。シャランと頭の飾りが鳴る。
「見知らぬものに名乗る名はありません」
ノクターンは頷き、そのまま王に伝える。王が眉根を寄せた。更に言葉を続ける。
『北側の上流階級では相手の名を尋ねる場合、まず己から名乗るのが礼儀だ』
『ほう?余が王であってもか』
『殿下はひどくご立腹だ』
王は目を瞠った。まじまじとレグルスを見てくる。
レグルスは王を見つめ返す。薄い笑みは揺らぎもさせない。
その張り付けた笑みに、王は不機嫌そうに頬杖を突く。そして何かを言った。
ノクターンが目を眇める。
「…何と?」
「知らない方が幸せという言葉がある」
「そうですか」
レグルスは僅かに首を傾けた。そしてすっと手を上げた。
「僕は貴方に人の言葉を求めません」
ノクターンが顔を引き攣らせた。額に手を当て溜息を吐いた後、言葉を伝える。
周囲に一瞬で緊張が走り、何人かが怒声を上げた。王も不愉快そうに顔を歪める。
レグルスは殊更冷やかに、酷薄な笑顔を作る。
「弟一人御せない王と、何を話せというのです?その言葉に、貴方の存在そのものに、何の意味があると?」
王宮内で行われた罪を、弟とその周囲に被せて終わりにしようとする浅はかさ。
それがこの国のやり方だと言われたらそれまでである。だがそれこそ、リスヴィア王国との格の違いというものだ。
ゆっくりと、周囲に視線を巡らせる。冷酷な笑みを張り付けたまま。
「宮殿は貴方の住まいで、玉座は貴方の椅子なのでしょう。けれど、貴方は何も支配できていません…可哀そうな国王陛下」
憐みの言葉は、蔑みの視線と共に投げつけられた。
ノクターンは通訳しなかった。レグルスの言葉を告げたのはガイアスだ。
辺りが殺気立った。何人かが武器を構える。
さてどう出るか――レグルスは王に目を向ける。
王は射殺さんばかりにレグルスを睨んでいた。肘掛けに乗せた手が固く握られ、怒りの為か小刻みに震えている。
ゆらり…と玉座の左右に掛かっている厚い布が不自然に揺れた。大きく布が揺れたと思ったら、上で留めていた何かが外れて一部が落ちた。向こう側が見える。
向こう側にいたのは、薄衣を纏った女性たち。彼女たちも驚いた様子で、身を寄せ合っている。
王は煩わし気に彼女らを下げようと手を振りかけた。だが動きを止める。
レグルスが彼女たちを見て、顔を強張らせていたのだ。
「…なんで……」
絞り出すような声に、ガイアスも我に返る。止めようと伸ばした手は間に合わなかった。
シャランとサークレットの飾りが揺れる。
走り出したわけではない。幽鬼のようにふらりと足を進めたわけでもない。
明確な意思を持ち、玉座に近づいた。その顔に先ほどまでの笑みはない。発動させた『守護天使の翼』の光が彼を取り巻いている。
その威力を知っている側近たちも兵士も近づけずに、歩みを止めることが出来なかった。
レグルスは上段に上がると、固まる王は一瞥しただけで隣をすり抜けた。彼は身を寄せ合う女性たちの前に立った。
その中で、一人の女性だけがまっすぐにレグルスを見上げていた。その眼には涙が浮かんでいるというのに、必死で笑顔を作ろうとしていた。
「ユリアナ」
それはほんの数か月前、まだみすぼらしい姿だったレグルスを、親身に世話をしてくれた女性。偽者と疑われたレグルスを庇い、筆頭貴族である公爵に意見した勇気ある女性だ。
リスヴィア王国の王宮侍女。それも数か月前まで国内いた女性が、こんな遠く離れた国にいる筈がない。この国にまともなルートで来るとなると、一年以上かかるのだから。
ジャラっという重い音が鳴る。それは首元に繋がっている。
レグルスは言葉もないまま、鎖に手を伸ばした。羽を一枚鎖にぶつける。鎖は音もなく崩れ去った。彼女の前にしゃがみ込む。
「怪我は、ないですか?」
手を伸ばした。首に触れると彼女は一瞬身を竦めた。だが必死で歪んだ笑みを作り、大きく頷いた。
そんな動きに反して、首は赤くなっていた。金属製の拘束具は、擦れて肌を傷つける。レグルスにも身に覚えがあるものだ。大分薄れたとはいえ、レグルスの右足首には未だ痕が残っている。
背に微かな空気の動きを感じた。翼が動く。硬質的な音が響き、何かが弾かれた。
レグルスが顔を顰める。腰に着けていた結界の魔具を彼女に握らせる。驚く彼女に微笑みかけて、立ち上がる。
振り返った時には、既に表情はなかった。父や長兄と同じ薄い水色の瞳に、仄暗い影が落ちる。
「…ふざけた真似をしてくださいましたね」
口元が弧を描く。緩慢な動作で一歩、足を踏み出す。光の翼が追随する。
王が立ち上がった。飾り剣の柄に手をかけながら、後退る。
『戯れが過ぎたな、王よ』
ノクターンがため息交じりに言った。
彼はただ成り行きを見守っていただけではない。それなりに兵士たちを牽制していたのである。ガイアスも同様だ。
ガイアスがその場から姿を消す。そしてレグルスの背後に現れた。即座にレグルスの通訳として付く。
『リスヴィア王国はかつて、魔国とも呼ばれ、恐れられた国。今でもその脅威は健在だ。我ら魔術協会でも敵に回そうと思わない』
『古くは、追放された犯罪者の集まりではないか!!ただの奴隷国だろう!!』
『彼らを罪人にした神聖帝国が滅んで、どれほど経ったと思っている?未だに古き因習に縛られるか』
『スランダードは彼の帝国の末裔!彼らの意志は我らに宿っている!!』
「…へえ?」
怒鳴る王に冷やかな一言が聞こえた。視線を移し、唖然とする。
レグルスはにっこりと笑った。
「じゃあ、リスヴィア建国王の血を受け継ぐ僕が、貴方に反抗するのも当然ですね」
ガイアスがレグルスの言葉を告げる。しかし、王は呆けたように目を見開いたまま、全く動かない。
ふっと王の視界からレグルスが消えた。次の瞬間、頭部に衝撃が走る。前に上体が持っていかれた後、更に背に一撃が入り、玉座から転がり落ちた。何が起こったのか正しく理解できないまま、先程まで自分がいた場所を見上げる。
「売られた喧嘩は高く買い上げましょう」
玉座の上から、氷の瞳が王を見下ろす。
唖然と見上げる王の前から再び姿が消えた。そして現れた先は真上だった。
王を蹴り倒し、踏みつけたレグルスは、ますます冷めた目を王に向けた。
最初こそ痛みと重みで呻いた王だったが、炎の気配にぎょっと目を剥いた。
光の粒から、次々と炎の球が上がる。それらはレグルスの手の上で渦を巻く。
「古の帝国のように、今一度滅びなさい」
我先にと逃げ出す家臣たちには目もくれず、レグルスはただ王を見下ろしている。
炎が収縮を始めた。次いで、色が変わり始める。凝縮された炎は温度を上げ、青白く輝き始める。
レグルスが炎を掲げた。
けれど炎は音もなく掻き消える。腕を取られ、引っ張られたのだ。
レグルスは驚いたように後ろを振り返った。
「…ユリアナ?」
彼女は一生懸命首を横に振る。それからレグルスを抱きしめた。
「…だ、め…です」
精一杯絞り出す声に、レグルスは目を見開く。彼女は構わず、掠れた声で訴える。
「ひ、とを、ころし…て…は、だめ…です……」
暫く、レグルスは彼女の腕の中でじっとしていた。
人が少なくなった広間は静まり返っている。その中で溜息を吐く音が酷く大きく響く。
レグルスはポツリと呟くように言った。
「ユリアナがそう言うのなら」
軽く彼女を押し、体を離す。
ユリアナが微笑む。レグルスは視線を落とした。
後方で喚きたてる声が聞こえ、何とか落ち着かせようとする感情が再び荒れ始める。ユリアナの手を掴んだ。
「うっさいです!罪人に成り果てた輩が!!」
そう言い捨てて、レグルスはユリアナの手を引っ張って大広間を出た。
後に残された魔術師が盛大な溜息を吐く。
『…あの子は奴隷じゃない。金や宝石で買えるものじゃない』
『ならばどうすれば、傍に置ける?あの青い炎の如き美しく輝く王子!どうしたら手に入る!?』
『無理ですよ。あの方はリスヴィアのお方。こんな南の三流国家に収まる方ではない』
『嫌だ!欲しい!!』
「……やんねぇよ、ゲスが」
低い声は母国語に戻っていて、喚く王には理解できなかった。
魔術師たちは顔を見合わせ、再び大きく息を吐きだすのだった……
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