大脱走
(……暑いです………)
寝苦しさでレグルスは目を覚ました。
背中に当たる硬さに顔を顰める。そして石造りの素っ気ない天井に首を傾けた。
寝ぼけていた頭がゆっくりと覚醒をする。
「ルオー…」
「おう」
返事があった。苦笑しながら、ゆっくりと起き上がる。
「無事でしたか?」
「これを無事といえるんなら」
隣に座っていたルオーの視線につられ、そちらを見る。
彼らを覆う、薄い膜。その向こうに見える、浅黒い肌の男たち。
思わず乾いた笑い声が漏れる。
「どこまで飛ばされたんでしょうねぇ?」
「さあ?さっき結界殴りながら何か言ってたけど、さっぱり分かんなかった」
「…恐らく南大陸だろう」
低い声が答えた。
レグルスが驚いて振り返ると、鎖に繋がれた男がいた。目を見開く。
男は拷問を受けたのか、酷い怪我を負っていた。
「…大丈夫ですか?」
「見た目ほどではない」
男は僅かに口の端を上げて見せた。弱々しい姿は相手の油断を誘うための物らしい。
レグルスは異国人の男たちに背を向けて、彼と向かい合った。
「貴方も巻き込まれた人ですか?」
「少しばかりヘマをしてな。セランディアルトの南地区で憲兵をしている、ティル・ヴィオネだ」
「レグルスです」
座ったままペコリと頭を下げる。すでに挨拶済みらしいルオーはレグルスに尋ねる。
「憲兵さんの鎖、外せるか?」
「んと…多分、出来ると思います。お兄さんの傷も治せますよ」
レグルスはしっかりと握ったままの魔具を見て答えた。ポシェットの中も確認する。
ティルは頷いた。
「坊主を守っている結界ももうすぐ切れる。その直前に鎖の破壊と治癒…出来るか?」
「できます」
不測の事態だったが、魔具の魔力は補充されている。この中には金属を粉砕する魔術を組み込んだものも入っていた。『彼』は敵の武器破壊に使っていたが、拘束具の破壊にも使える筈だ。
ティルが視線を上げる。
つられて子供たちもそちらを見ると、上に続く階段が見えた。扉はない。
「出入り口はあそこだけだ。走るぞ」
「はい」
「わかった」
結界の外の男たちが突然大声を上げた。何やら怒っているらしいが、言葉が解らないので何に怒っているのか判らない。
ルオーが肩を竦め、レグルスは顔を上げる。
彼らを覆う薄い膜。これはおそらく、レグルス自身にかけられていた魔法だ。どういった仕組みなのかわからないが、レグルスが危険に陥った時に自動発動するようにされていたのだろう。結界からは良く知った気配が感じられる。
レグルスの顔が僅かに歪んだ。
「シェルにいさま…ごめんなさい……」
いつかけられたのか、いつからかかっていたのか。
知らず内に守ってくれていた守護魔法は、郷里から遠く離れた地でも確実にレグルスを護ってくれていた。そしてそれは今や消えようとしている。
(ごめんなさい、兄様。必ず帰ります。兄様が掛けてくれた魔法が護ってくれたから、必ず帰れます。何年かかっても、お家に帰りますから……)
結界が揺らぐ。
レグルスはまずティルの体の傷を治した。それから『守護天使の翼』を握る。
「発動!」
光の球がレグルスを囲む。視線でそれを追う。一つを探し出し、ティルの鎖に叩きつけるように手を動かした。光の球から飛び出した小さな粒が当たると、鎖は砂状に砕けて落ちた。
ルオーとティルは驚いたように目を見張ったが、もたもたしていられない。
結界が完全に崩れ去る。
「行きますよ!」
レグルスは別の光の球を褐色の肌の男たちに投げつけた。それは突風に代わり、彼らに襲い掛かる。
彼らは階段に向かって走り出した。後ろから罵声が追いかけてくるが、男たちは追ってこない。
階段の出口はすぐに見えた。微かな光につられて表に出る。
外は薄闇だった。夜明けなのか日暮れなのかはわからない。
それよりも目を引いたのは、綺麗に整備された広場だ。庭なのかもしれない。周囲をぐるりと柱の並んだ回廊が囲んでいて、大きな建物も見える。
てっきりうらぶれた貧民街か、山深い場所にでも出るかと思っていた一行は目を瞠った。
そしてすっかり囲まれていた。
「え~……」
ルオーが間の抜けた声を出す。ティルが苦笑いを零した。
武器を持った男たちが、にじり寄ってくる。揃いの服はお仕着せか。
レグルスは展開させた魔具の光で、彼らを威嚇する。
「黒幕はどこかの貴族ですか。本当に、腹立たしい……」
腹立ちまぎれにもう一発、風の魔術を発動させる。
異国の騎士たちは驚き、再び距離を開けた。何か言っているが、まったく言葉が分からない。
「無駄打ちをするな。大事な時に使えなくなるぞ」
ティルに窘められ、レグルスは肩を竦めた。
そうこうしている内に、挙がってきた男たちが合流し、更に敵が増える。
ティルが周囲を見回した。そしてレグルスに顔を寄せる。
「左後ろが薄い。道を開けるか?」
「やってみます」
「ついでに相手の武器を奪うことは?」
「…隙を作ることなら。後は自分で頑張ってください」
少し呆れた目でティルを見上げると、悪戯小僧の笑みが帰ってきた。
ティルの顔が離れ、レグルスはルオーに目を向けた。向こうもこちらを見ていて、落ち着いた様子で頷いてくる。
一つ息を吐きだす。迷っている暇はない。白い靄を引っ張り出す時間もない。
レグルスは一見どころかよく見ても違いの分からない光の粒から、あるものを探し出した。
『彼』はほとんど使わなかった。彼にとって魔法は、剣の補助をするためのものに過ぎなかったから。
けれどここに剣はなく、レグルスは彼のような技術も持っていない。
そして威嚇だけで、いつまでももつような状況でもない。
レグルスがゆっくりと光の球を指さす。
周りの男たちが身構えるのが分かった。彼らも馬鹿ではない。これが何か、もう理解しているはずだ。
「二人とも、耳をふさいでください」
相手に言葉が通じなくて良かったと思う。こちらも解らずに苛立つが、通じてしまうが故の言葉による交流を図ろうと試みなくて済む。
敵を、少しだけ――ほんの少しだけ――同じ人と見做さずに済む。
レグルスは笑った。
ティルに示された方向に光を投げつける。
それは炎の柱に代わり、敵を包み込んだ。爆音が悲鳴をかき消す。
混乱に陥る周囲を冷やかに見渡し、レグルスは隣のルオーの手を掴んだ。
「走れ!」
ティルが叫ぶ。
レグルスに引っ張られるように走り出したルオーだが、体格に差がある二人はあっという間に立場が逆転する。
炎に包まれのたうち回る人の横をすり抜け、回廊を横切り、建物の陰に逃げ込む。
ティルは途中で若干焦げた剣を拾う。
人気を避けるように逃げ続けていた彼らだが、分は悪い。全く見ず知らずの地で、出口も分からぬまま走っているのだ。
しかも、うち二人は子供。良くはすばしっこく逃げ回ってみても、体力に限界がある。
同年代の子供に比べて小さく、体力も全く追いつかないレグルスに、真っ先に限界が訪れた。足をもつれさせて転ぶ。
「…!」
追いかける騎士の手が伸ばされる。
だが、レグルスには届かなかった。悲鳴の後に怒声が上がる。
レグルスが顔を上げると、呆気にとられたようなルオーがそこにいた。いつ拾ったのか、大型のナイフを両手に握って。
刃から赤い雫が滴った。
「…あ…おれ……」
「下がれ、チビ!」
ティルが叫んだ。緩やかな曲線を描く剣を振るえば、襲い掛かってきた男が倒れる。
レグルスも何とか立ち上がる。
ルオーの手を取ると、ナイフをしっかり握ったまま震えていた。
レグルスは眉を寄せる。それから首を左右に振った。
(起きてください。僕ではダメなのです。貴方の力が必要なのです)
返答はない。白い靄はただ揺蕩うだけだ。
レグルスはルオーからナイフを引き剥がした。怯えたような目でこちらを見るルオーに、小さく笑ってみせる。
(起きてよ、ねえ…守護天使、起きて!!)
ふっと、レグルスの視界が一瞬暗くなった。そして辺りが闇に包まれる。
入れ替わったのだと理解するのは、容易だった。思わず笑みが漏れる。
「…わお」
外から声が聞こえる。あちら側では状況をすぐに飲み込めずにいるのだろう。
(ごめんなさい…でも、僕は生きて帰りたいのです。ここにいる全員で)
「その判断は正しいですよ。ですが、もう少し早く何とかできなかったんですか?」
呆れた声に、レグルスは頭を下げる。
(ごめんなさい)
「…仕方ないですね。貴方は頑張り屋さんだから」
苦い笑いを含んで。
彼は辺りを見回した。手持ちの武器を確認する。
「この体には少し重いですが…贅沢も言っていられませんね」
泣きそうなルオーの胸のあたりを軽く叩き、敵へと視線を移す。
「貴方は壁際に。何があっても動かずにいなさい」
「でも…」
「邪魔です」
彼はレグルスの顔で微笑んだ。
ルオーの表情が強張る。
彼は小首を傾げる。そしてルオーの腕を掴んだ。苦笑いをしつつ、建物の方へ押しやる。
「貴方を構っている時間がありません。何とか凌ぐまで、生きていてください」
ルオーはぎこちなく頷いた。今にも泣きそうだ。
彼はにこりと笑って、ナイフを握りなおした。
向こうではティルが善戦している。だが多勢に無勢。囚われていた時間もあるせいか、疲労の色も濃い。
彼の顔から表情が消えた。同時に魔具が、数個同時に発動する。
レグルスの姿が消えた。ルオーが目を瞠る。その耳に嫌な悲鳴が届く。そちらに顔を向ければ、青銀色の煌きが敵の真っ只中にあった。
白いローブに赤い染みが付く。
団子状に固まっていた敵に水流が襲い掛かり、一気に吹き飛ばされる。次いで、ティルと切結んでいた男を後ろから切り付ける。
誰かが怒鳴った。
『卑怯な!』
『人攫いが偉そうにほざかないでください』
彼が言い返す。
敵と共に、ティルが目を瞠る。
「わかるのか?」
「説明が必要ですか?」
「…いや」
ティルは大きく息を吐く。そして剣を構えなおした。呼吸も整える。
彼の活躍で、敵は再び距離を取っている。迂闊に近づけば犠牲者を増やすだけと、彼らも理解しているようだ。
彼が敵に向かって笑いかけた。ビクリと彼らが竦むのが見えた。
「おやまぁ。可愛らしい事で」
「お前誰だ?」
「説明が必要ですか?」
「……いや」
ティルが僅かに肩を落としたように見えた。
敵が何か話している。彼は耳を傾ける。
「……ドゥナム語ですね。北側で使う国はありません。やれやれ、中央山脈を越えましたか」
「何と言っている?」
「どうも私を女児だと思っているらしいですね。この見た目では致し方ありませんが」
(む~…)
中から不機嫌そうな唸り声が聞こえ、彼は仄かに苦笑する。
「…聞くに堪えません」
「綺麗なお嬢ちゃんに翻弄されてんのが気に食わねぇってか?ふん、解ってねぇなあ、アイツら」
「綺麗な女性に翻弄されるなら本望ですよねぇ」
「だよなぁ」
彼がティルを見上げた。そして微笑んで見せる。
ふっとティルが口の端を上げた。
「あと十年は必要だなぁ」
「十年経ってもグラマラスボディにはなりませんよ」
「姉はいないのか?」
「いますけれど、あまり似ていません。僕だけ完全に母似です」
「う~ん、十年前に会いたかった」
「ちなみに八つ上の兄がいます。僕は四番目です」
「…二十年も遡ったら、俺が九歳だ……」
ティルが悲しげに呟き、彼が思わず噴き出した。
その隙を突こうとしたのか、敵から怒声が上がる。だが逆効果だ。
魔具が発動し、結界に弾かれた。
二人が剣を構える。
「私が撹乱します。隙を見て、ルオーを連れて逃げてください」
「お前は?」
「確認したら適当に逃げますよ…この子は帰りを待つ人がいますから」
「……お前は?」
「私はただの亡霊ですので」
彼は笑った。
再び戦いが始まった。
ルオーは邪魔にならないよう、体を縮こまらせるしかない。手の震えが未だに止まらない。
人を傷つけるのは初めてだった。肉に刺さる生々しい感覚がまだ残っている。
なぜ、と思う。
何故彼らは、あんなにも簡単に、人の命を奪えるのか。
あのレグルスが、どうして……
超短距離転移の魔具を駆使し、敵を翻弄しつつ、確実に数を減らしている。
一人隠れているルオーを狙っているのか、こちらに来ようとする敵は、ティルが全て斬り伏せている。
視界が霞む。
怖い。ここにいたくない。早く帰りたい。こんな場所、ただの悪夢だ。
人の悲鳴さえ怖くなる。レグルスの真っ白なローブに付いた赤が何かなんて、考えたくもない。
耳を塞ぎたくなるのを堪え、目を拭う。
目を逸らさないのは、生きていろと言われたからだ。視界まで塞いだら、誰かに襲われても気付けない。いつでも逃げ出せるよう、恐怖を堪えてじっと待つ。それが今のルオーに出来る事だ。
守っているつもりで本当は守られていて、更に言われたことも守れないのは、あまりにも情けなさすぎる。
「ルオー!」
ティルがこちらに走ってくる。
ルオーはすぐさま辺りを見回し、壁から離れた。ティルに腕を掴まれる。
「逃げるぞ!」
「レグルスは?」
「後から来る!!」
追撃しようとする敵との間に、白いローブが舞った。ナイフが陽光に煌く――が、敵に届かず、その場でくるりと当人が回った。
「あ」
発したのはたった一音。それが酷く呑気に聞こえた。
「何やってんだよ!」
恐怖が振り切れ、怒りが上回る。ルオーが思わず怒鳴りつけた。
襲い掛かってきた敵は別の魔具で吹き飛ばしていたが、下手すればレグルスが怪我をしていた。
彼は眉を下げる。
「だって短いんですよ~」
「何が!?」
「手足が~」
「(相応!!)」
外と中から同時に返ってきて、彼は笑いだす。
「あはははは!短~い、やりにく~い」
突然ケタケタと笑いだした子供に、敵が怯む。
そこに第三の声が掛かった。それはリスヴィアの言葉だった。
「何、この状況…」
振り返れば、黒いローブ姿の男女が立っている。
呆れた様子を隠しもせず、先頭の男は首を傾けた。
「…なんか自力で帰ってきそうな雰囲気?」
「無理ですからね!」
一歩下がって控えていた別の男が叫ぶ。
他の一同もうんうんと頷く。
「そうだよな。ちょっと予想外だったんで、混乱した」
男の目が敵に向かって、すぅっと眇められた。
『魔術協会会長代行のノクターン・ジェズ・ココノエだ。転移魔法陣を使った誘拐事件を追い、ここに辿り着いた』
敵があからさまに狼狽えだした。
男の鋭い視線が彼らを貫く。
『説明してもらおうか。北の王国で発動した転移魔法陣の出口が、このスランダード王国の王宮内にある理由を!!』
恫喝に、敵が一斉に硬直した。
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