家出少年と誘拐事件
翌日、孤児院の庭から雪が減った。氷の滑り台や雪洞も無くなった。
憲兵隊が飛び散った血を何とかしてくれた結果だ。誰も何も言わなかった。
さらに数日後、シスレー夫人が実家に送り返されたと聞いた。夫婦で話し合いは為されたが、結局離婚されたのだという。
シスレー会長は息子も勘当しようとしたが、部下たちに宥められたらしい。今回の件は流石の会長も怒り心頭で、多少冷静さを欠いていると説得された。これから更生するという証文を取り、少しでも違反すれば即叩き出すという厳しい条件付きで、コートは辛うじて父親に許された。
結局、レグルスの根回しは空回りに終わった…というわけでもないらしい。
我慢してご近所さんたちを味方につけ、元シスレー夫人を爪弾きにするという所まで、既に完了していた。ご近所さんたちの仕事が、レグルスの想像を上回っていただけだ。今回のコートの悪ふざけも度が過ぎた。シスレー宅を訪れた主婦連合を前に、シスレー夫人がいつも通りの居丈高に振る舞えたのは最初だけだったという。
詳しい話は知らない。「もう大丈夫よ」と微笑む彼女たちに礼を述べれば、彼女たちもそれ以上を話さなかった。
それよりも気になる話題もある。
「誘拐事件も、早く解決すればいいんだけどねぇ」
転移魔法を用いた女子供の誘拐は、未だに解決に至っていない。
先日一人の憲兵が、浚われそうになった女の子を突き飛ばし、身代わりになって消えたという。
国は何をしているのかという不満と不安が、王都内に蔓延しつつある。
レグルスは王宮を見上げる。
宮殿というより城塞といった外見の王宮は、一見して平穏そのものだ。王旗が城門に翻っている。
今日は司祭と共に王都の中心街へ買い物に来た。他にも数名の子供が一緒だ。
孤児院では、食料品も日用品も普段は配達してもらっている。だがどうしても不足したり、店で直接確かめて購入したいものもある。子供たちに買い物の仕方やお金の計算などを教える意味もある。
中央広場で、レグルスの足が止まる。じっと王宮を見上げるレグルスに、他の子供たちもそちらを見る。
王宮は高い塀に囲まれている。王の住まうという宮殿が直接見られるわけではない。ここから見えるのは、王が演説する際に使用されるバルコニーを備えた外宮。それにいくつかの尖塔だ。
「年越しの時にね、皆で来たんだよ」
「…はい?」
「王様のお話聞きにね、皆で来たんだ。人がいっぱいで、王様は良く見えなかったけど」
「ねー」と顔を見合わせる。
レグルスは司祭を見上げた。すると司祭は苦笑いを零す。
普段は子供の夜更かしを許さない司祭だが、年越しは別だ。孤児院の支援を感謝するという意を込めて、国王の新年祝辞を聞きに行く。
その話を聞き、レグルスはここが人で埋め尽くされる様子を思い浮かべた。それだけでげんなりする。
皆が笑う。
「…僕、年が変わるときに鐘が鳴らされることを知らなくて……」
鐘の音だけは毎年、塔の中で聞いていた。どういう訳かその時だけはレグルスの意識が先に起きてしまい、毎年怖い思いをした。
人々の歓声も怖かった。唸り声にしか聞こえなくて。
けれどそれは言わない。
「今年も、年越し前に眠ってしまって。鐘の音で起こされました」
「レグルスは、王様のお話聞きに来なかったの?」
「あれは国の基礎となり支えてくれる民に向けられるもので、貴族は……」
言いかけて、口を閉ざす。今のレグルスは「何も持たないもの」だ。
黙ってしまったレグルスの頭を司祭が撫でた。腰にセイルが抱き着く。
レグルスは仄かに笑った。
「…年頭の挨拶が別にあるそうです。王宮に出仕する者は参加できます」
そんな話を聞いた。勿論下っ端は貴族でも参加できないが、要職に就くものなら平民でも出席しなければならないらしい。
話をしながら、司祭に連れられて店に出向く。今日は手芸用の糸や布を置く店と、魔具の店だ。
途中で二手に分かれた。司祭と女の子たちは手芸店へ、男の子たちは魔具店へ。
「こんにちはー」
セイルの手を引いたレグルスは、少年たちの後について店に入る。
店内は薄暗かった。小さな店内にショーケースのようなものはない。カウンターに気難しそうな男がいるだけだ。
男は子供たちの姿を見て、僅かに眉を寄せた。
「…おう。今日はどうした?」
「幾つか割れちゃったんだー」
先頭にいた少年がレグルスを振り返る。レグルスはポシェットから預かっていた麻袋を取り出して、カウンターに置いた。
男が麻袋を開ける。布を敷いた器に取り出した。それからカウンターに置いた灯りにかざす。
魔具にはどれもヒビが入っていた。
「経年劣化だな。買い替えをお勧めする」
「新しいのはある?これで足りる?」
「ん…ちっと待ってな」
財布の中身を確認すると、男は奥へと引っ込んでいった。カウンターの奥に部屋があり、沢山の木箱が並んでいるのが見える。
レグルスは男越しに見える奥の部屋の様子を、カウンターに乗り出すように眺めていた。
やがて男が戻ってくる。白いローブ姿の子供がカウンターに張り付いているのを見て、少し戸惑ったようだ。
それでも気にしない様子を取り繕い、馴染みの少年へと話しかける。
「これな。割れたのと同じもんだ。灯り用が三つ、かまど用が一つ、水道用が一つ。空だから、使う前に魔力補充しろよ。その分、値引きしとく」
男は代金分を財布から取って、少年に返す。新しい魔具は空になった麻袋に入れた。
「レグルス、これしまっといて」
「はぁい」
レグルスは麻袋を再びポシェットにしまう。ふと気づいたように顔を上げる。
「お兄さん、これも視てもらえますか?」
そう言って、カウンターに魔具を一つ置いた。
男が眉を上げる。それは孤児院の子供が持っていていい品でないことが、一目瞭然だったからだ。
その魔具はベルトなどに引っ掛けられるように金具が取り付けられている。ただの金具ではない。芸術といっていい装飾だ。
慎重に取り上げ、灯りにかざす。魔具は魔力がほぼ空だった。
「良い品だ。使い切っちまったか」
「皆で補充したけど、魔力が溜まらないのです」
「そりゃそうだ。こんだけの品じゃ、普通の人間にゃそう簡単に溜めらんねぇよ。多少でも魔法を学んでる奴じゃないと」
「魔法使いさんに頼まなきゃ、ダメですか?」
「出来ればな。こういうのは、普段の生活で使う魔具とは質が違うんだよ」
全員初耳のようで、男に好奇の目を向けてきた。
男は溜息を吐き、説明してやる。
「いいか?一口に魔具っつっても、二種類ある。一つはお前らがいつも使ってる『魔道具』。これは一般市民でも使いやすいように改良に改良がなされて、少ない魔力で長くもつ様に作られている。それから、別の道具に組み込んで使うから、魔具そのものは『光る』とか『高温を出す』とか、単純な動作しかしない。
もう一つは、魔法の代用品としての『魔宝具』だ。魔法の効果そのものを閉じ込めたものだ。そのまんま使う分繊細な動作を求められるから、組み込んである術式も複雑だし、使う魔力もでかい」
道具を介する魔道具と違い、直接発動させる魔宝具はそのままでは使用者も巻き込んでしまう。飛ばす・囲うなど、効果範囲を指定する術式も組み込まなければいけない分、どうしても魔力を必要とするのだ。それも一回ではなく、何回分も魔力を込めなければならない。
そうした道具は一般人に魔力補充は難しい。高い魔力を持ちながら高位魔法を覚えず、魔具への魔力補充を生業とする者もリスヴィアには存在する。
レグルスが持ち出した魔具は、グランフェルノ家のお抱え魔術師が魔力を込めてあったのだろう。或いは兄か。それだけ貴重な道具を、レグルスは考えなしに使い切ってしまった。
皆の怪我を治したことに後悔はない。けれどもう少し怪我の程度を選別すべきであったのではないかという、打算的な考えが沸き上がる。
へにょりと眉を下げたレグルスは、男から魔具を返してもらった。ポシェットにしまう。専門業者に魔力補充を頼むのは、それなりにお金も必要なのだ。
男の眉間に深い皺が刻まれる。
「お前さんがどうしてそんなもんを持ち歩いてるのか知らんが…そりゃ貴族の持ちもんだ。平々凡々な一般人なら、お目にかかる機会もないんだぞ」
「……これは僕のなのです」
レグルスはギュッとポシェットを抱きしめる。
勝手に持ち出したことは許されないかもしれないが、これらは確かにレグルスに渡されたものだ。一緒に入っている金貨も、いざという時そのまま持ち出すようにと言われて、ポシェットを渡された。
男が睥睨していると、間に少年が割って入った。白いローブ姿が後ろに隠れる。少年は後ろを振り返る。
「どうする?それ、魔法使いのところに持ってくか?」
レグルスは首を左右に振った。
「お金ないです」
「おっさ~ん。補充の相場って、どれくらい?」
「人による…が、五千からってトコだな。上物だと金貨が飛ぶ」
子供たちがげんなりとした顔になった。結構な金額だ。
男がふと思いついたように、再び奥に戻った。幾つかの魔具を持って戻ってくる。それらをカウンターに並べる。
「これが上物だ。どれも空だがな」
「…どこが違うの?」
「魔道具は特注でない限り、大きさは一定だ。込める魔力の大きさもな。けど魔宝具は、何かに填め込んで使うってことがない分、魔席の形状は自由だ。後は中に組み込まれた魔法陣を見れば一目瞭然だ」
男は子供たちにも見えるように、灯りに透かす。子供たちの頭が寄ってくる。
「細かくて、よく見えない……」
「その『よく見えない』ってのが、込められてる魔法が複雑なものって証だ」
「せーるも!せーるもみう!!」
子供たちの足元で幼子がカウンターの壁を叩く。仕方なくルオーが抱えて、灯りの前に寄せた。セイルが「ふおぉ」という妙な歓声を上げる。
おろされたセイルが再びレグルスにしがみつく。満足げにレグルスに笑いかけた。
「きらきら、きれーね?」
レグルスは返事をしなかった。そもそも、男が見せてくれた魔具の中にも反応しなかった。彼の目は男が持ってきた別の魔具に釘付けだった。
セイルが身動きしないレグルスに、不思議そうな目を向ける。
「にいに?ねえ、にいに?」
バシバシと叩かれて、我に返る。そして僅かに顔を顰めた。
「セイル。そんなに強く叩かれたら、痛いです」
「あうっ。ごめんなしゃ~い……」
セイルは両手で顔を覆い、手の隙間からレグルスの顔を窺い見る。
ふっとレグルスは表情を緩め、セイルを抱きしめた。
セイルはくすぐったそうに笑い、レグルスにしがみつく。腹辺りに顔を摺り寄せる。
いつもの体勢に戻ったところで、レグルスはカウンターに視線を戻す。
「おじさん、それを見せてもらってもいいですか?」
「ん?おう」
レグルスが指さしたのは、沢山の魔具が鎖状に繋がれたものだ。魔具は小粒で、とても巨大な魔法が閉じ込められているとは思えない。形状から、腰に巻き付けて携帯するのだろうと思われる。
レグルスは慎重にそれを取り上げた。魔具をなぞり、凝視するようにそれを確かめる。
その表情があまりに真剣だったため、誰も声をかけられない。店主でさえ頬杖を突き、レグルスを見つめていた。
シャラリと、レグルスの手の中で魔具が音を立てる。ゆっくりと視線が上げられた。
「おじさん、これは幾らですか?」
男は目を丸くした。しばらくレグルスと見つめ合ったのち、にやりと笑う。
「八十万イクル。一イクルだってまからんぞ」
レグルスが一瞬だけ怯んだように見えた。だが、すぐに意を決したようで、ポシェットに手を突っ込む。中から金貨を取り出した。それをカウンターに突き出した。
男の手から、乗せられていた顎が落ちる。孤児院の少年たちも同様だ。セイルだけが今の状況を理解せず、ギュッとレグルスに抱き着いている。
レグルスが取り出したのは大型の高額金貨だ。一枚百万イクルという、金貨の中では最高額だ。
「足りますよね?」
「おう……」
男は金貨を取った。ひっくり返してみたり、重みを確かめてみるが、どう見ても本物である。
そして目の前の少年に視線を戻す。手を伸ばし、フードをずらした。再び目を見張る。
レグルスはされるがままだった。驚いた男が再びフードを戻すまで、身動き一つせずに男を見上げていた。
男が溜息を吐く。そして奥に引っ込むと、小ぶりの金貨を二枚持って戻ってきた。カウンター下から取り出した一枚の紙と共に、レグルスに渡す。
「紹介状だ。その釣銭で、魔力補充してもらえ」
レグルスはパッと笑顔になる。紙の裏には地図も載っていた。
魔具を受け取り、嬉しそうに握りしめる。
ルオーが訊ねた。
「それ、何なんだ?」
高価な魔具であるのはわかる。恐らく実戦で使うことも。けれど一般的な形状ではない。
レグルスはそれを知っていて、なおかつ執着を見せた。嬉しそうと同時に、懐かしむような表情だ。
しっかりと握り、レグルスは店主を見上げた。
「おじさん、ごめんなさい」
「ん?」
「きっとこれは、八十万イクルなんかじゃ買えない、もっと高価なものです」
男は眉を顰める。
レグルスは苦笑いを零した。
「これが何故この店にあったのかわかりませんけれど、これはココノエ侯爵家に伝わっていたはずのものです。これは『守護天使の翼』なのです」
室内の空気が凍った。
彼は戦場において、常に先陣を切っていた。
けれど彼は騎士ではない。戦い方は暗殺者のそれに似ている。故に、他国からは「死神」と呼ばれたのだ。
騎士ではない彼は、王国守護隊長の双剣と共に大量の魔具を使用していた。彼の保護者であった賢者・ルーグ手製の魔具で、戦場では彼の周りに無数の光の粒として発動待機していた。
待機状態の魔具の光が、彼の動きに合わせて揺れ動く。時に素早い彼の背を追うように。
その姿が翼のように見えたという。
だから彼は国内で、「守護天使」と呼ばれたのだ。
賢者の作った魔具。それを使用した英雄。
オークションにかければ、それこそ白金貨が何十枚と動いただろう。
守護隊長の剣と共に、これはレグルスに必要なものだ。店主に金額を聞いた時、あまりの安さに驚いたほどだ。だが、これなら手持ちで買えると歓喜した。
少々卑怯な手段だとは思ったが、言い値で買い取ったのだから問題はない筈だ。
「何でそんなもんが出回って……」
「聞いた話ですが、先々代様の頃に火事場泥棒の被害に遭ったそうです。その時に盗まれた物じゃないかと」
「と、盗品……」
店主が呆然とした様子で呟いた。
貴族の家から盗まれたようなものを扱っていたとなれば、店の信用にも係わる。
レグルスはにこりと笑った。
「歴代当主が手放した可能性もありますし、これは僕のものです。気にする必要はないです」
「……おう」
もう売り払ったものだ。後は知らぬ存ぜぬで通す。
男は乾いた笑いと共に、レグルスから視線を逸らした。
少年たちは待ち合わせ場所の噴水に来た。だが、司祭と少女たちはまだ戻ってきていなかった。
彼らも店に大分時間をかけたし、小さなセイルを連れている分、ゆっくり歩いてきた。
「女の買い物は長いんだよー」
「売り物にするもんだし、仕方ないだろ。もう少し、その辺見て回ろうぜ」
「僕は疲れたので、ここで休憩してます」
レグルスは噴水の淵に腰かける。レグルスと離れたくないセイルも隣によじ登った。
ルオーとウォーレンはぐるりと回ってくるからと、噴水から離れた。
冬の噴水は水がない。ただのオブジェとして雪を被っている。
二人並んで足を揺らす。セイルが顔を上げた。
「にいに、おうたうたおー」
「一緒に歌いますか?」
「あいー」
何度も聞かせたせいか、レグルスの歌は孤児院の子供たち全員が歌えるようになっていた。
セイルと一緒に歌いだす。客引きと間違えられないように、セイルと向かい合って歌う。それでも行き交う人の中には足を止める者があった。
その中に王宮から出ていた一団もいた。彼らは子供が二人だけで噴水に座っていることに、顔を顰める。歌が途切れるのを待ち、声をかけた。
「坊やたち、親御さんは?二人だけ?」
黒いローブを羽織った男に、セイルが驚いてレグルスに張り付く。
レグルスも一瞬戸惑い、それから首を左右に振った。
「僕たちはエルー地区にある教会でお世話になっているものです。女の子たちと一緒に手芸のお店に行った司祭様を待っているのです。後二人、男の子が辺りにいる筈です」
「えっと…じゃあ、大人の人が来るまで、一緒にいてもいいかな?」
「何故です?」
レグルスが首を傾げる。セイルも何かを感じ取ったのか、不機嫌そうに顔を歪める。
不審者扱いに気付いたのか、ローブの男も慌てたように言葉を足した。
「あのね、最近子供の誘拐事件が増えてるのは知っているだろう?子供だけでいるのは、危険なんだよ」
「…お兄さんは、宮廷魔導士さんですか?」
「いや、俺は魔術協会の魔術師だよ」
「不老の魔術師様ですか!?」
パッとレグルスが笑顔になる。
フード越しでははっきり見えないかっただろうが、目の前の少年が嬉しそうになったのは判っただろう。ローブの男も笑顔になる。
「そうだよ。よくわかったね?」
「リスヴィアの宮廷魔導士さんたちは、とっても優秀だって聞いたことがあります。その手に負えずに協力を要請したなら、きっと不老の魔術師様だろうと思ったのです」
両手を頬に当ててにこにこと笑うレグルスに、ローブの男も気を良くする。
ローブの男の後ろにいた少年がじっとそれを見つめていた。そして小首を傾げる。
「レグルス様…?」
びくりとレグルスが肩を震わせた。恐る恐るそちらに目を向ける。
少年が驚いた様子で、目を真ん丸にしていた。
「やっぱりレグルス様!こんなところで何をなさってらっしゃるんですか?」
「リュカ…」
ほんの一か月前に会った少年は、当時の悲壮な様子は全くなく、溌剌とレグルスに駆け寄ってきた。
リュカは戸惑うレグルスに苦笑いを浮かべた。
「お父上に少しだけ聞いてます。お元気そうで良かった」
「知り合いか?」
ローブの男が訊ねると、リュカは頷いた。
「僕の恩人です。でもお父上と喧嘩して、絶賛家出中だそうです」
父公爵はどんな話をしたのか。
レグルスが顎に手を当てると、リュカは小さく噴き出した。曖昧に微笑むので、そういう事にしてくれたのだと理解する。
ローブの男もその周りも、それで納得したようだ。
レグルスはふいっと視線を逸らせた。そしてセイルがいつの間にかいないことに気付く。慌てて辺りを見回した。
「セイル!?」
幸いにも人気は少なく、すぐに噴水から遠ざかっていく小さな姿を発見する。急いで後を追う。
「セイル!勝手にどこかに行っちゃダメです!!」
セイルはレグルスの声にも気づかず、一生懸命何かを目指して走っていた。意外と足が速く、追いつけないままセイルが路地へと入っていく。
魔術師たちが焦りの表情になった。例の魔法陣は、大通りから一歩入った路地に多いのだ。
レグルスの先を走っていた魔術師の一人が、ふっと姿を消した。そして一瞬で路地の手前に姿を現す。そのまま路地へと走っていった。
レグルスはほっと息を吐く。彼がセイルを捕まえてくれると思っていた。
突然現れた大人は怪しい人ではないらしい。
そう確認したセイルは、すぐに退屈してしまった。落ち着きなく辺りを見回せば、遠くに猫が歩いていた。
「にゃんにゃ」
ぴょこんと噴水の淵を下りれば、一目散に猫を追う。途中で名前を呼ばれた気もするが、それよりも猫が逃げてしまう方が一大事である。
路地に入っていった猫を追いかけ、セイルも路地に入る。猫は先を悠然と歩いていた。
「にゃんにゃ~」
セイルは猛然と追いかける。
すると猫は無邪気な追跡者に気付いたのか、足を止め、一瞬振り返った。びくりと身を竦ませ、体勢を低くしたと思ったら、脱兎のごとく逃げ出す。
あっという間に姿が見えなくなったのだが、セイルは構わず追いかけようとした。その前に何かが出てきて、視界が途切れる。セイルは足を止め、顔を上げた。
「坊や、一人なの?お母さんは?」
年配の女性が腰を屈めて話しかけてきた。彼女の後ろには身形の良い少女がいる。
セイルは首を横に振る。
「おかーしゃん、ないの。せーる、こじぃんにすんでうのよ」
「まあ…ごめんなさいね。ここへは誰と来たの?一人では危ないわ」
はたとセイルは我に返る。そして辺りをきょろきょろと見まわした。
すると後ろから追いかけてきたローブ姿の男が、彼らの前で足を止めた。膝に手を付き、息を整える。
「坊主…お兄ちゃんが呼んだら、止まんなきゃダメだろ……」
「ご兄弟ですか?」
「いえ。私ではなく、付き添いの子が……」
ローブの男を不審に思ったのか、婦人はセイルを自らの方へ引き寄せた。
セイルは不思議そうに女性を見上げ、辺りをきょろきょろと見まわした。再び猫を発見する。
「にゃんにゃ!」
するりと女性の手を抜けると、走り出そうとした。けれど再び捕まってしまう。
婦人の後ろにいた少女が、セイルの行く手を阻んだ。彼女はにっこりと笑う。
「一人でどこかに行っちゃダメって、誰かに言われなかった?」
「あうっ!にいににおこやえう……」
セイルは出かける前に言われたことを思い出し、両手を頬に当てた。泣きそうに顔を歪ませる。
少女は小さな笑い声を上げた。
「じゃあ、もっと怒られる前に戻りましょう。一緒に謝ってあげるから、ね?」
「あい~……」
少女が何かする前に、セイルが彼女と手を繋いだ。少女の顔が綻ぶ。
向こうから追いついてくる一行が見えた。
そこまでだと少女はセイルの手を引いて歩きだした。大人たちの前に立ち、数歩進んだ。
ぞわり
不意の少女の足が竦んだ。同時に足元に光の筋が走る。
「下がって!!」
そう叫んだのは誰なのか。
わからないまま、少女はその場に崩れ落ちた。
セイルの泣き声が耳に届いた。
「にぃに~!!」
「セイル!立って!!」
声を張り上げたが、大泣きするセイルには届いていない。倒れた少女の隣に座り込んでいる。
周囲の声が聞こえていなかったのは、レグルスも同じだったのだろう。一斉に足を留まらせた魔術師たちを置き去りに、発動しようとする魔法陣に飛び込んだ。
途端、全身の力が奪い取られるような感覚に襲われる。その場に両膝を付いた。
「う、わ…」
「レグルス様!」
「リュカ!構わず読み解け!!」
魔術師の怒声にリュカは顔を歪める。それでも己の仕事を全うすべく、肩から下げていた紙挟みを構え、貰い物の万年筆を素早く走らせていく。
光の線が魔法陣を形成していく。止めることは出来ない。これが唯一の機会かもしれないのだ。魔法陣完成の瞬間に壊す用意をしながら、魔術師たちは距離を取る。
だが、不意のレグルスの足元で光が止まった。魔術師たちが目を剥く。
それはレグルスも同様で、止まった部分に目を向ける。そこにはポシェットがある。
(あ…空の、魔具……)
重い体を動かして、ポシェットの中身を取り出す。
購入したばかりの魔宝具。それを光を遮るように地面に押し付けた。空の魔宝具が魔力を吸い込んでいく。
少しだけ体が軽くなる。
「セイル…こっちにこれますか?」
座り込んでいたセイルも動けるようになったのか、よたよたと立ち上がってレグルスに近づいてくる。しゃくりあげながらレグルスに抱き着いた。
手を離せば吹き飛ばされそうな魔具を抑えているため、抱き返すことが出来ないまま、レグルスは微笑む。
「セイルは良い子ですね。そのまま歩いて、魔術師のお兄さんたちのところまで行けますね?」
セイルはこくりと頷いた。鼻をすする。そしてレグルスの服を掴んで引っ張った。
「にいにもぉ」
「僕はあの女の子を助けないと。セイルは先に行って、待っていてください」
「う~……」
セイルはますます泣きそうになりながらも、レグルスから手を離した。よたよたと歩いて、魔法陣の外へ出る。待ち構えていた魔術師がすかさず抱きかかえて、魔法陣から離れる。
魔法陣が発動しようとする力と、魔具が魔力を吸い込む力が拮抗して、現状を維持している。
レグルスは倒れた少女に目を向ける。
(魔法陣…誘拐の魔法陣は通行人の魔力を吸い取って、発動できるだけ溜まると、その次に通った『条件に合う人』には発動するなら……魔力を吸い取っている今なら、発動しないはず。なのに発動しようとし続けているという事は……あの女の子が魔力の供給者!)
頭の中で一生懸命考える。
(これだけの魔法陣を発動させるだけの魔力を持つとか、どんだけですか!?不老の魔術師様並みってことでしょうかね!!)
レグルスは倒れたまま動かない少女を見つめる。うつ伏せに倒れているため、顔はわからない。けれど服装から裕福な家の生まれなのだろうと推測できる。
(せめて意識が戻ってくれれば…!)
レグルスもなけなしの魔力を奪われている。意識が薄れそうになるのを必死で耐えている状態だ。
事態は膠着している。控えている大人たちは皆魔術師で、魔力を奪われ、これ以上魔法陣発動を加速させることを恐れて近づけない。
レグルスはぐっと足に力を入れた。足で魔具を押さえ、何とか立ち上がろうとして眩暈に襲われ失敗する。
「…ぁ……」
少女から小さな呻き声が聞こえた。
レグルスが期待を込めて視線を上げれば、そこに予想を超えた悲鳴――否、絶叫が響いた。
少女の体が痙攣し、何かに突き動かされるように上体がのけぞる。その顔は血に塗れていた。口からは血の混じった泡を吹き、目からも赤い涙が零れている。皮膚がぼこぼこと泡立つ様に波打ち、姿を変形させていく。
「マデリーン嬢…?」
変貌を遂げる前の顔を、レグルスは知っていた。目の前でのたうち回る少女に、レグルスの顔からさあっと血の気が引く。
魔法陣を発動させようとする魔力は、全て彼女から吸い取られている。けれど、彼女がそれほど高い魔力を持つとは聞いたことがない。
(後天的な魔力発現……)
このまま放置すれば、彼女は自分の魔力に殺される。
レグルスは唇を噛みしめた。気力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がる。足で踏んだ魔具は、徐々に流れ込む魔力を吸い込まなくなっている。
「リュカ!!」
レグルスは精一杯叫ぶ。
必死で解析に向かっていたリュカの手が止まった。顔を上げると、レグルスと目が合う。
「貴方を信じています!!」
「レグルス様…?」
ふっとレグルスが表情を緩めた。それは極一瞬のこと。
足元の魔具を拾う。少女に駆け寄る。苦しさに暴れる彼女の背後から抱えると、勢いよく体を回し、魔法陣の外へ投げ出した。
後で考えれば、よくそこまで動けたものだと感心してしまう。まさしく火事場の馬鹿力だった。
少女が投げ出されるのと同時に魔法陣が完成した。辺りが強い光に包まれる。
「レグルス様!!」
複数の声が叫んだ。同時に一つの影が光の中に飛び込む。
全ての光が消えた時、魔法陣は全て黒い焦げ跡に代わり、その中には何もなかった……
「レグルス様…ルオー……」
ぽつりと誰かが呟く。
セイルを抱えていた魔術師が視線を下げれば、新たに少年が一人増えていた。呆然とした様子の彼はその場にへたり込んでしまう。
「うそだぁ…」
辺りが騒然とする中、少年の声が痛々しいほど魔術師の耳に残った。
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