家出少年と……
昼間の出来事もあり、子供たちは疲れ切っていた。
おまけに夕食時に、怒鳴り込まれたのだ。
怒鳴り込んできたのは、シスレー夫人。昼間に犬を放った悪童、コートの母親である。
憲兵隊が犬の屍骸をシスレー家に運び、厳重な注意をしたらしい。犯人が子供であるが故にそれだけで済んだのであるが、夫人は納得できなかったようだ。
我が子の無実を訴え、孤児院の子供たちに罪を被せようとした。親のない彼らを「汚らわしい犯罪者の子」と一括りにし、「卑しい存在」と貶した。その上で「親思いの優しい我が子」が人を傷つけるようなことをするわけがないと、自慢げに言い放ったのである。
普段物静かな司祭を、どれほど怒らせているのかも気付かずに。
一見して穏やかな笑みが、あれほど恐ろしいものとは誰も知らなかった。
その後夫が連れ戻しに来るまで、司祭の冷やかな毒舌は続いた。
夫人はそれでもなおしばらく喚いていたが、最後は夫に引っ叩かれ、離縁を告げられていた。愚かな妻子の行動に怒り心頭といった様子で帰る夫の後を追いかけて行ったから、その後は知らない。
皆早めに就寝に支度をし、司祭にお休みなさいの挨拶をして、ベッドに潜り込んだ。
レグルスも例外ではない。セイルを抱えて倒れ込むように眠った。
ふと目が覚めたのは、夜も更け、日付も変わって数時間たった頃だ。
辺りは真っ暗だったが、あちこちから聞こえる寝息とすぐ傍にある温もりに、居場所を見失うことはなかった。
何かの気配を外に感じ、そっとベッドから降りる。
「…レグルス?どうしたの……?」
誰かの寝ぼけ声が聞こえた。
「お手洗いです」
「ん、そう…一人でだいじょーぶ?」
「平気ですよ~」
もごもごという声はもう言葉になっておらず、辺りは再び眠りに包まれた。
レグルスはそっと部屋を出る。音を立てないように廊下を歩き、階段を下りる。裏口を通って、外に出た。
裏口の向こうにひっそりと佇む影が見えた。
「…来たな、孫坊ちゃん」
「タナトスおじいちゃま?」
一度だけ会った高齢の老人は音もなくレグルスの傍に来ると、レグルスの手を取った。
「丁度良いところに来た。ちょっくら止めてくれや」
囁くような声なのに、なぜかしっかり聞こえる。レグルスは不思議そうに首を傾げた。
タナトスに手を引かれ、孤児院と教会の間に連れていかれる。
そこには二つの人影があった。タナトスが声をかける。
「そこまでにしとけや、フォン」
「フォン…?」
人影の一つが、ゆっくりとこちらを振り向いた。丁度雲が切れ、月明かりに姿が浮かび上がる。
黒曜の髪、白磁の肌。金色の瞳がレグルスを捉え、驚きに見開かれる。
それはレグルスも同様である。目を真ん丸にして彼を見つめていた。
タナトスが頭を掻く。
「その女、ここに火をつけようとしたんだよ」
「・・・・・」
「それを偶々ヤツが見つけちまってなぁ……」
「…一生の不覚です……」
「ん?」
ぼそりと呟いたレグルスの言葉に、タナトスが訝しむ。視線を下げれば、俯き、肩を震わせるレグルスがいる。
「僕としたことが…フェティエ如きを間違えるなんて……」
「…孫坊ちゃん?」
「最悪です。ありえないです。あの程度のはずがないのに…!!」
ばっとレグルスが顔を上げた。そこには蕩ける様な微笑みがあった。両手を伸ばして駆けだす。
「フォン!」
レグルスは危険な気配を纏ったままの男に飛びついた。ギュッと抱きしめる。
「はう~…眼福なのです~……」
「お~い、孫坊ちゃ~ん。帰ってこ~い」
タナトスの呼びかけも届かない。レグルスはうっとりとフォンを見上げていた。
フォンはといえば、驚愕の表情のままレグルスを見下ろしていた。固まったまま、まったく動かない。
レグルスは目を細め、フォンの顔に手を伸ばす。
「ふふっ。変わらず美人さんですねぇ」
小さな手に引き寄せられるかのように、フォンは身を屈めた。手が頬に触れる。
「フォン。会いたかったです」
「……ワタシもですヨ、おチビちゃん………」
白魚の指がレグルスの髪を梳き、金色の瞳が細められた。これ以上ないくらい艶やかな笑みに、レグルスの頬がほんのりと赤く染まる。
包み込むように抱きしめられ、レグルスの表情は緩みっぱなしだ。
傍で見ているタナトスが唖然とする。
「なんてこったい。孫坊ちゃんにはそっちの気が……」
「ないですよ。僕は美人さんが大好きなだけです」
「それもどうなんだ」
「フォンは僕の好みのど真ん中なのです。女性じゃないのが残念ですが、愛でて楽しいのです」
「…似たセリフを、大昔に聞いた気がする……」
確かあれは二代前の当主…と、タナトスの目が遠くを見つめる。それが縁で、フォンはグランフェルノに召し抱えられたのだが、知るのはもうタナトスだけだろう。
フォンは膝をついた。
「おチビちゃんも美しくなったネ」
「う。そこは言ってはならないのです」
「お母上譲りだヨ。ホント、将来が楽しみネ~」
「楽しみでも、お前のものにゃならんからな!?」
はたと我に返ったタナトスがフォンを牽制する。フォンは嫣然と微笑む。
「分かってるっテ~」
「フォンが僕のものなのです!」
「おいぃ!?」
何だかもう突っ込むだけ無駄な気がして、タナトスは肩を落とした。
レグルスがフォンの顔を両手で挟んで、じっと見つめる。
「だからね、これはダメです」
急に様子が変わった。レグルスは僅かに首を傾ける。
レグルスの後ろには、シスレー夫人がいる。恐怖で顔は引き攣ったままだ。恐らくフォンに切り刻まれる直前だったのだろう。
「これはダメ」
「でもねぇ、おチビちゃん?このオンナ、油撒いて、火を点けようとしたんだヨ?」
「ダメです。これは僕の獲物です」
レグルスは名残惜し気にフォンから手を離し、後ろを振り返った。途端、顔から表情が消える。
シスレー夫人はその場に尻餅をついたまま、後ろに後ずさろうとした。しかし、後ろはもう壁である。微かな油の匂いが鼻に付く。
氷の視線が夫人を貫く。
「…腹立たしい事です。お前のような成り上がりの田舎女如きに、手を煩わされるとは」
「ひっ…!」
喉を引き攣らせるような、微かな悲鳴。
レグルスは夫人の前に立つと、無邪気に笑いかけた。
「お家に帰りなさい。今はまだ時ではありませんから、見逃してあげます」
さあっと風が吹いた。月が再び陰る。
夫人は声もなく、無様に這いながら逃げていった。
誰も見送るわけではなかったが、しばらく動かなかった。
やがてレグルスが二人に視線を戻す。
「ごめんなさい」
「おチビちゃん…?」
「自分で出て行ったのに……」
名を出すことはしなかったが、利用した。そもそも、もう気軽に話しかけていい存在でもないのに。
俯くレグルスに、フォンはゆっくりと近づいた。頭を撫で、頬を撫でる。
レグルスが顔を上げれば、やっぱりそこには優しい笑みを浮かべる美しい顔があった。
「そんな顔しないで、ネ?」
「フォン…」
「主の言いつけを破っておチビちゃんに会いに来た、ワタシの方がずっと悪いことをしてるヨ」
今にも泣きだしそうなレグルスを、フォンは宥めるように撫で続けた。
そこに薄くなった頭を掻きながら、タナトスが割って入った。
「良い雰囲気のところ悪いんだけどよ…」
すっと視線を横に向ける。
「司祭さんがお迎えに来たぜ」
ひょっこりと建物の向こうから司祭が顔を覗かせた。小さく「申し訳ありません」という声が聞こえた。
彼らは教会へ場所を移した。司祭が暖かい飲み物を用意する。
温かいミルクに、レグルスはふにゃりと表情を緩める。
「おチビちゃんは相変わらずミルクが好きネ」
「だって、甘くておいしいのです」
二人には珈琲が渡された。貰い物なのだが、苦くて飲めない子が多い。
ふうふうと息を吹きかけるレグルスの隣で、フォンは珈琲をすする。
「コレ、ミルクたっぷり注ぐとイイヨ。後は甘くしてあげれば、小さい子でも飲めるネ」
「そうなんですか?頂き物なので、飲み方がよくわからなくて……」
「夜はやめた方がいいけどな。南方では眠気覚ましにも使われる」
タナトスが答える。司祭とタナトスで、珈琲の使い方談議になった。
一方レグルスはといえば、フォンと二人で見つめ合う。ふんわりとした空気になる。
「…ねえ、おチビちゃん」
「はい?」
「おチビちゃんが家出した理由は、噂話だけ?」
レグルスが体を強張らせた。
それが答えで、フォンは苦笑する。
「主は相変わらず何も言わないし。ねぇ、おチビちゃん。おチビちゃんは、何を恐れているの?」
「……」
「ワタシの目は誤魔化されないヨ?ワタシたちがいたらなかったせいで、偽物扱いされて悲しかったのは確か。でも、それだけで逃げ出したりしないヨ。おチビちゃんは主が大好きだからネ」
レグルスはカップを握りしめた。ミルクの表面が小さな波を立てる。
フォンは顔を寄せた。
「おチビちゃんが一番怖いのは、主に嫌われることだよネ?」
レグルスがこくりと頷いた。
「主に嫌われると思ったから、家出したんだよネ?」
「…ちょっと、違います……」
「違うの?」
「もう、耐えられなかったのです……」
過去に言われた言葉を思い出し、また同じ言葉を投げつけられることに。
レグルスはカップに口をつけた。ミルクの甘みがほんの少し心を落ち着けてくれる。
「…父様には、まだ言わないでくれますか?」
「いいヨ」
あっさりと了承され、レグルスは表情を緩める。フォンを見上げた。
「これは父様も知っていることです。僕の王位継承権が、第二位に引き上げられるのだそうです」
「ハイィ!?聞いてませんヨォ!!?」
「まだ内緒の話みたいです。でも、議会では承認寸前とか」
極秘に進められている話で、世間には一切出回っていない。相当な緘口令が敷かれているらしい。
公爵が言わなければ、当然フォンには入ってこない情報だ。
フォンは額に手を当てた。レグルスが小さく笑う。
「同時に、僕の偽物説が流され始めました…もうわかるでしょう?」
「……待て、孫坊ちゃん。その噂は主に市井で流れているもので、貴族たちはどっちかっつーとそこら辺は信じてないぜ」
貴族の間では王位、平民の間では真贋。交われば困ったものだが、まったく違う場所で流れる分には、意味は持たない。
レグルスはタナトスを見た。
「本当に?貴族が誰一人として、その噂を知らないわけではないでしょう?」
「そりゃあ……」
「僕が本当は何者でも、もう関係ないのです。その二つを利用すれば、グランフェルノを消すことが出来るんです。僕を守れば、確実に」
レグルスが首を左右に振った。
「でも、そんなの絶対にダメなのです。父様も兄様も、グランフェルノが潰されるような決定は、絶対にしません。そうなった時、僕は…!僕、は……」
項垂れ、小さくなるレグルスの肩に、フォンは手を回した。抱き寄せて、頭を撫でる。
フォンは小首を傾げ、二人に視線を向けた。タナトスと司祭が難しい顔をしている。
彼らもまた、理不尽な五年を過ごさねばならなかった少年を守りたいと思っている。けれど、守れなくなる可能性は考えていなかった。
グランフェルノ家は、決して優しくない。家の為にならない子供を平気で切り捨てることが出来るのも、またグランフェルノ家の当主なのだ。
レグルスもそれを理解しているから、家にいられなくなった。認めてくれた父親に、捨てられる言葉を言われることを恐れて。
そして差し出された手に縋り、家から逃げた。
「…ちぃっと、調べてみっかな……」
「爺、大丈夫カ?」
「隠居爺だからな。お前がやるよりゃ、問題ねぇだろ」
主を疑うような行動は、フォンには許されていない。
タナトスはレグルスの傍までやってくると、ちょっと身を屈めた。
「なあ、孫坊ちゃん。なんで俺が今日ここにいたか、わかるか?」
レグルスは首を左右に振る。涙の出ない瞳で、タナトスを見上げる。
「公爵は、今現在グランフェルノ家全員に、孫坊ちゃんとの接触を禁じている。家族も、使用人も。屋敷にいる者、全部」
「そうですか…」
「でもな、本当は公爵が一番心配で仕方ねぇんだ。隠居した連中集めて、孫坊ちゃんの護衛を頼んでくるくらいに」
レグルスの目が大きく見開かれた。
タナトスはにかっと笑って、乱暴にレグルスの頭を撫でる。
「いつでも呼びな。誰かしら来るだろうよ。ちなみにソイツはただの命令無視だ」
フォンは僅かに柳眉を寄せ、レグルスの視線から逃れるように顔を背けた。
タナトスはミルクを全部飲むように勧め、それから教会を出て行った。フォンは最後にもう一度抱きしめてから、司祭にレグルスを渡す。
「おチビちゃん。あのオンナ、ホントに放っといてイイノ?今ならお手頃価格でヤっちゃうヨ~」
「何がお手頃なのかは怖いので聞きませんけど、放っておいてください。仕掛けはほとんど済んでますし、もう自滅するだけでしょう」
「そお?じゃあほっとく~。またネ~」
ひらりと手を振り、フォンの姿が闇に消える。
レグルスは寂しそうな表情を見せた。司祭が手を繋ぐ。
「さあ、もう眠りなさい。貴方がいないと、またセイルが騒ぎますからね」
レグルスは頷き、司祭と共に寝室に戻った。
セイルの隣に潜り込むと、司祭がちゃんと布団をかけてくれる。
「大丈夫ですよ。ここにいる間は、ゆっくり眠りなさい」
「……はい………」
レグルスが瞼を閉じる。ぽんぽんと肩口を叩かれ、気配が遠ざかっていく。
もぞりと隣のセイルが身じろぎをした。ぎゅうぎゅうとひっついてくるので、抱えるように腕を回す。
皆の寝息が聞こえてくる。それにつられるように、レグルスも意識を微睡ませていった……
誤字脱字の指摘、お願いします。
本当はここまでで一つの話でした。流石に希望文字数の三倍はない。