救いの手をもう一度 3
着替えを済ませたレグルスは、机の引き出しを探る。
隠すように奥にしまった革袋を取り出すと、二三度、袋を振る。チャリンと金属がぶつかり合う音がした。それを斜め掛けにしたポシェットにしまう。
準備万端にして、後ろを振り返る。そこにはぐずるセイルと、何とかなだめすかそうとするルオーがいる。
「遠いから、お前を連れて行くのは無理なんだよ。レグルスだって、体調が万全じゃないし……」
「や~!いっしょにいくぅう……」
セイルが泣きだし、ルオーは仕方なく膝に乗せる。そしてゆらゆらと揺れた。
ここから孤児院までは、歩けば大人でも一時間はかかる。レグルスと二人でも大変だろうに、幼いセイルまで連れて歩くのは辛い。
ルオーは何とか聞き分けさせようとするが、セイルは頷かない。
ずっとこの調子だ。早くしなければ、誰かが来てしまう。
「セイル」
レグルスが声をかければ、セイルは涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。悲しそうに顔を歪める。
ふっとレグルスが笑う。
「後から行きますから、先に帰って皆を説得してくれますか?」
「せっとくぅ?」
「はい。家出しても、皆が孤児院にいてもいいですよって言ってもらえなければ、僕は居る事が出来ませんから」
セイルには少し難しい話だったのか、こてんと首を傾げる。ハンカチで涙と鼻水を拭い、顔を綺麗にしてから、レグルスは先を続けた。
「孤児院の皆が、孤児院で一緒に暮らしてもいいよって言ってくれるように、お願いしてくれますか?」
「…れぐぅしゅしゃま、せーるといっしょ?」
「はい。夜、一緒に寝ましょうね」
「いっしょにねんねできうの?」
「はい。だからセイル、先に司祭様と一緒に帰って、皆にお願いしてくれますか?」
ぱあっとセイルに笑顔が広がる。
「いーよお。せーる、がんばうのよぉ」
「お願いしますね」
セイルはルオーの膝から降り、レグルスに抱き付いた。抱きしめ返せば、セイルは満足げに笑う。
レグルスはもう一度クローゼットに戻り、中から肩掛けケーブを一枚取り出した。それをセイルにかけ、リボンを結ぶ。
「これはセイルにあげます。お守りです」
「おまもり?」
「セイルを守ってくれますよ」
セイルはニコニコと笑い、ケープの様子を楽しんでいる。
その間にルオーがそっと窓を開けて、外の様子を伺う。一面の銀世界である奥庭に、人の気配はない。
「誰かが来るまで、いい子でここにいるんですよ」
「はぁい」
「また後で会いましょうね」
「うんっ」
セイルを残し、二人は外へ出た。残していく事に不安はあるが、時間はそれほどないだろう。
ルオーがレグルスを振り返る。
「突っ切るか?」
「バカ言わないでください。木立を抜けます」
建物に沿って歩き、離れの脇を通り抜け、雪に覆われた木立に入る。小枝を折りながら灌木を抜け、屋敷を囲う鉄柵にまで来た。柵の間は狭く、子供でも抜けることは難しそうだ。
レグルスは一本一本柵の間を確かめ、ある場所で止まった。徐に頭を突っ込む。すると、すんなりと敷地の向こう側に頭が抜けた。体を横にすれば、あっさりと公道へと出られた。
ルオーもそれに倣う。彼はレグルスより体が大きいため少し苦労したが、それでも何とか通る事が出来た。
ルオーは後ろを振り返る。
「なに、コレ」
「秘密の抜け道なのです」
広い王都屋敷を囲う柵の中で、どういうわけかここだけ、隙間の広さが違う。大人が抜ける事は出来ないが、十歳くらいまでの子供なら通れる。
グランフェルノ家の子供たちが一度は…というか、生涯に一度だけ使う事が許される、公然の秘密の抜け道だ。レグルスの兄姉たちも父親も、悪戯で一度だけ通ったことがあるという。
ルオーは不思議そうにレグルスを見る。
「何で一度だけ?」
「小さくないと通れないからというのと、外に出ても碌な事がなかったから二度と使う気にならないというのが理由みたいです」
ルオーは納得した。
この辺りは高級住宅街で、色々な商店などが集まる中心部から離れている。しかも見回りなども厳しく、子供が一人だけで出歩いていればすぐに保護されてしまうだろう。しかもその後、こっ酷く叱られるのが目に見えている。
よほどの下準備をしなければ、抜け出しても面白い事は何もない。けれど、隠れて準備が出来るような年頃にはもう、ここは通れなくなっている。
何とも面白い抜け道に、ルオーは笑ってしまった。
「グランフェルノ家の遊び心か?」
「さあ…何なのでしょうね?もう何百年とあるものですけど」
レグルスも小さく笑う。
「…ぼくも、初めて使いました」
「じゃあ、もう通れないな。行こう」
ルオーは軽く言って、レグルスの手を引いた。
二人で石畳の道を歩き出す。
歩きながら、レグルスは不安に駆られるのか、何度も後ろを振り返る。けれど手を引かれるまま、前に歩き続ける。
何度目かの角を曲がる頃には、振り返る事は無くなった。
◆◇◆◇◆◇
――探さないでください――
テーブルの上に置かれたメモにはお決まりの一文。思わず握りつぶそうとして、何とか耐えた。
マリスが部屋を離れたのは十分ほどだ。その間に、ベッドで眠り続けていた主が消えた。
「素早すぎる……」
「あの二人が揃うと、意外なほどの行動力を発揮しますね」
のほほんと応えたのは、共に消えた子供を連れてきた司祭だ。腕に一緒に寝ていたはずの幼子を抱えている。
セイルは目に涙を浮かべている。
「あう~…れぐぅしゅしゃま、いっしょいったもん」
ケープにつけられたフードを深く被りぐずぐずと鼻を啜るのは、既に怒られたからだ。ポンポンと司祭に背を叩かれ、肩に顔を埋める。
公爵夫人が困った様子で眉を下げている。
「本当に家出しちゃったのねぇ」
溜息を吐きメモに視線を落とす。頬に手を当てる。
「行先は孤児院かしら?」
「セイルが言われたことが本当なら」
マリスに怒られて大泣きしていたセイルを宥めて何とか聞き出した話から、どうにかこうにかそれだけは判断した。
家出はルオーが提案したようだ。
「おほしゃま、あぅめたの。おほしゃま、れぐぅしゅさまのここおなの。ここぉ、こわえちゃったかられぐぅしゅしゃま、おきえないって、おにーしゃんが……」
そんな事をしきりに訴えていたのだが、全く理解できなかった。
とにかく、ルオーが一緒に家出をして、夜はセイルと一緒に寝ようと約束をしたらしい。だから行先は孤児院だろうと予測した。
取りあえず暗部に捜索させている。だが、連れ戻すようには命令できなかった。見つけたら、そのまま姿を現さず護衛するように言いつけてある。
セイルが司祭の肩を叩く。
「ししゃしゃま、もうかえろ?」
「帰りますか?」
司祭が訊ねると、セイルはこくんと頷いた。
「れぐぅしゅしゃまのおねがいなの」
「お願い?」
「みんなにねぇ、れぐぅしゅしゃま、いっしょにいてもいいよぉっておねがいすうの」
司祭は暫く考えた後に、にっこりと笑った。
「そうですね。早く帰って、皆に教えてあげないと。お迎えする準備もしなければ」
「受け入れるおつもりですか?」
眉間に深い皺を刻んだマリスが、唸るように尋ねる。
司祭は殊更に悠然と笑む。
「無暗に説得を重ねるより、落ち着くまでお預かりした方が良いかと」
司祭はそう言って、セイルを抱えなおした。夫人に向き直る。
「レグルス様は賢い方です。いずれ答えを自ら導き出すでしょう。ただ、その答えに辿り着くためには、些か世界が狭い」
「…出した答えが、私たちと世界を異なるものとしなければいいのだけれど」
夫人は眉を下げる。
生きてくれていればいいと思う。けれど、一緒に生きていきたいと願ってしまう。
僅かに潤んだ瞳を拭い、公爵夫人はすっと背を伸ばした。
「…フラメル司祭様。どうぞ、レグルスをよろしくお願いします」
「お預かりしました」
司祭はセイルを抱えたまま、廊下に出た。
そこには不安そうな子供たちが待っていた。別室に待機させていたはずなのだが、こちらまで出てきてしまったらしい。
司祭は身を屈める。
「帰りましょうか」
彼らは不安そうに顔を見合わせ、そしてまた司祭に視線を戻した。
「…司祭様……大丈夫?」
「何がですか?」
いつものように穏やかな笑みをうかべ、司祭は首を傾ける。
子供たちは何かを聞きたそうに口を開くが、うまく言葉に出来ないようで黙ってしまった。視線を彷徨わせる。
司祭はそんな彼らを促して、玄関に向かわせる。
用意された馬車に乗り込む頃には、セイルは再び眠ってしまっていた。
「あんだけ寝て、まだ寝るの……」
誰かが呆れたように呟く。
丸まった小さな体を抱えたまま、司祭は苦笑いを浮かべる。
「大物になりますよ、この子は」
「…怖いもの知らずなだけだと思う」
「ふふ。将来が楽しみです」
「先行き不安が募るだけだよ……ルオーも」
「心配しなくても大丈夫。あの子は意外と世渡り上手ですよ」
クスクスと笑う司祭に対して、子供たちは更なる不安を覚えるのだった。
◆◇◆◇◆◇
辺りはすっかり真っ暗で、高く積もった雪の壁が仄かに浮かび上がっている。
すっかり歩き疲れたレグルスの手を引き、ルオーは見慣れた地区までようやく戻って来た。レグルスに合わせて休み休みだった為、思ったより時間がかかっていた。
「もう少しだから」
振り返って声をかけるが、明確な返事は返ってこない。頷いたのかもしれないが、この闇ではその確認も難しかった。
しっかりと手を繋ぎ直す。
王都でも端の方に位置するこの辺りは、街道に出る大通り以外は深い雪が残っている。住民が獣道のような細い通り道分だけ雪かきをするだけだ。
凍った雪に足を取られて滑れば、彼らの背丈より積もった白い壁に埋まる事になる。
慎重に歩を進めれば、手前に黒い影が現れた。さっと端に寄る。
「レグルス、壁際に寄って。横歩きして」
狭い道では、人一人すれ違うのも一苦労だ。幸いに彼らが子供であったことと、前から来たのも小柄な男であった為、比較的すんなりと通り抜けられた。
男が持っていた魔具の灯りに、一瞬目を眩ませる。
「おつかいか?暗いから、気を付けて帰れよ」
男は顔見知りだった。ルオーは頷く。
「もうすぐだから大丈夫」
「もうすぐだから気を付けろって話だよ。最近、誘拐事件が多発してるらしいじゃねえか」
男は乱暴にルオーの頭を撫でた。
「お前なんか、珍しい髪色だから高く売れるだろうって、嫌な話してる奴らもいるんだぜ。ちょっと前まで、孤児院のガキが人買いに売られるなんてザラだったしな」
「わかってるよ」
ルオーは顔を顰めた。再び歩き出す。後ろで男が「ホント、気を付けろよー!」と声を張り上げたので、軽く手を上げておいた。
再び静かな時間が戻ってくる。聞こえるのは互いの微かな足音だけだ。
ギュッと手を握られたので、ルオーも握り返す。
「もうちょっとだから。そこの角曲がったら、もう見えてくるから」
知らず内に歩みが早くなる。白い息を吐き出しながら、角を曲がる。
細い道の向こうに灯りが揺れていた。
足が止まる。
「……しさいさま?」
後ろから小さな声が聞こえた。
灯りを持つ人物もこちらに気付いたようで、灯りが大きく揺れた。ゆっくりと近づいてくる。
二人もゆっくりと歩き出す。
やがて向かい合う。
「お帰りなさい」
司祭は微笑みかけると、ルオーの頬に手を当てた。
「すっかり冷えて。レグルス様もお疲れでしょう」
司祭はくるりと向きを変えると、来た道を引き返していった。二人も後に続く。
孤児院もすっかり雪に埋もれていた。いつもは閉ざされている門扉も埋まって、役目を果たしていない。
建物の中に入ると、ほんのりと暖かい。
レグルスがほっと息を吐いた音が聞こえた。
「お鼻の頭が真っ赤ですよ」
司祭がそう言って、レグルスの鼻をつついた。レグルスはびくりを首を竦める。
「…お腹が空いたでしょう?丁度夕飯の時間ですから、食堂に行きましょうね」
「あ…ぼく……」
「まずは食べましょう」
司祭は二人の背を押して、食堂へ入った。中にはもう大勢集まっていて、視線が一斉にこちらを向いた。
レグルスはすかさず司祭の陰に入った。司祭が苦笑を漏らす。
「あー!れぐぅしゅしゃま!!」
セイルの甲高い声が食堂に響く。パタパタと軽い足音がして、レグルスの腰に衝撃が走った。
「ひゃ~!ちゅめた~い!!」
飛びついたセイルが慌てて離れる。辺りから笑い声が上がった。
セイルはぷうと頬を膨らませる。
「暖炉の前、あけてやって」
「もうあいてる~」
「セイルの分も取ってやって」
「はいよ」
そんなやり取りが聞こえる中、二人は上着を脱がされた。司祭が壁にかける。
暖炉と言っても、火を起こして薪をくべる様なものは贅沢品で、貴族の家にしかない。一般家庭にあるのは魔具を埋め込んだものである。四角く組んだレンガの隙間から温風が出る仕組みだ。
一番暖かい場所に二人が座ると、木製の器に盛られたシチューが運ばれてくる。
セイルも隣に移ってきた。レグルスが視線を向けると、満面の笑みを浮かべる。
食事前に司祭が祈りの言葉を唱え、皆で唱和する。そして一斉に食べ始めた。
「れぐぅしゅしゃま、おいしいねぇ」
「はい」
シチューは公爵家で出されるものよりあっさりとしていて、いくらでも食べれそうだった。もちろん、そんな事はしないが。
ゆっくりと時間をかけて一皿を完食する。
ようやく食べ終わった頃には、半分以上の子供が食べ終わっていた。皆こちらを気にしているのがわかる。
ルオーもとうに食べ終わっていた。皿を持って立ち上がる。
「食べ終わったら、皿は洗い場に持って行くんだ。洗うのは当番制」
「はい」
「小さい子は届かないから、一緒に持って行って、洗い場に置いてあげること」
「はい」
洗い場には水を張った大きな桶が置いてあった。中に皿と匙を沈める。セイルの分も受け取って、桶に入れた。
「今日はここまででいいですよ」
いつの間にか傍に来ていた司祭が言った。レグルスの頭にふわりと手を置く。
「今日はまだお客様ですから」
「おきゃくさま…」
「レグルス様。まだ起きていられますか?お話は出来ますか?」
笑みを深くする司祭に対し、レグルスは硬い表情で頷いた。
正直、長時間歩いたためにクタクタだ。。体は休息を欲していたが、まだ眠れない。
レグルスに張り付くセイルをルオーに預け、司祭はレグルスだけを連れて応接用の部屋へ入った。
レグルスを座らせ、自分の向かい合う位置に腰かける。
「思ったよりやんちゃ坊主でした」
いきなりそんな事を告げられ、レグルスは目を丸くした。
司祭は構わず先を続ける。
「シェーナ様が心配されていらっしゃいましたよ」
「…ごめんなさい」
「心配をかけることは理解していらっしゃったのですね」
少しばかり厳しい口調に、レグルスは体を強張らせた。小さく頷く。
司祭はふうと溜息を吐いた。
「おかげで、セイルが侍従殿に怒られました」
「ごめんなさい……」
「謝るなら、侍従殿に」
レグルスがぐっと眉根を寄せた。
きっと心配させただろう。あんな無茶をした後にずっと眠って、やっと起きたと思ったら姿を消して。
けれど直接謝るという事は、家に帰るという事だ。それは出来ない。
司祭の顔さえ見れず、レグルスは俯いたままだ。
「……レグルス様は、本当にこちらで生活されるおつもりですか?」
びくりと肩が震える。
「貴方は公爵家の御子息なのですよ。たとえ跡を継がなくとも」
「……そんなの、わかんないのです……」
小さな声が反論した。
司祭も、レグルスが自身の真偽を疑っていることは知っている。司祭は疑っていないが。
レグルスがギュッと拳を握る。
ふっと司祭は表情を緩めた。
「明日から、ここので生活のルールを教えますね、レグルス」
「…え……」
「ここにいるのは、親のない子たちです。何も持たない子でなくてはいけません」
レグルスは恐る恐る顔を上げる。司祭は笑みを深めた。
「貴方が公爵令息に戻ると決めるまで、ここではただのレグルスです。いいですね?」
レグルスに安堵の表情が広がる。それはゆっくりと笑みへ変わる。
「はいっ、ありがとうございます!」
「掃除も洗濯も、皆と一緒にやるんですよ?」
「がんばります!」
扉の向こうで歓声が上がった。バタバタと幾つかの足音が遠ざかっていく。
司祭が苦笑する。
「困った子たちだ。さて、レグルスは沢山歩いて疲れたでしょう。今日はもう休みましょうね」
立ち上がった司祭が手を差し出す。
レグルスはほっとしたような笑みを浮かべ、その手を握った。
司祭の手は、孤児院の子供たちのものだ。だからレグルスは、今まで司祭と手を繋いだことは無い。
何となく嬉しくて、同時に寂しさも募って。
レグルスは司祭を見上げる。視線に気づいた司祭は僅かに首を傾けた。
「ここは大きなお風呂があるんですが、今日は体を拭くだけにしましょう。着替えも用意しますね」
レグルスは頷いて、司祭と共に応接室を出た。
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