救いの手をもう一度 1
カーテンを開けば、明るい日差しが部屋に入り込む。ここ数日雪が降り続いたから、久しぶりの太陽だ。
すうっと息を吸い、後ろを振り返る。
「おはよう、レグルス。今日はとってもいい天気よ」
グランフェルノ公爵夫人は、明るい笑顔で言った。
ベッドの上には末息子が眠っている。声をかけても体に触れても、ピクリとも動かない。
今日で一週間。あの雪の中で倒れてから、全く目覚める気配はない。
夫人は構わず我が子の額に口付けた。
「今日も変わらずお寝坊さんね」
僅かに乱れた髪を直し、ベッドの傍らに用意された椅子に座る。そして用意していた本を開いた。
「昨日の続きからね」
しおりを挟んだページからゆっくりと読み始める。
レグルスの好きな冒険の物語。
読み聞かせを始めたのは、眠り始めて三日目の朝からだ。外部からの刺激が有効と聞き、始めた。本当は話しかけるのがいいらしいのだが、眠り続ける相手に一方的に語り掛けるのは辛かったのだ。
最初は薄い絵本を読み聞かせていたのだが、マリスからレグルスの好きな本を聞き、そちらの方面に変えた。一冊読むのに時間はかかるが、その分長く一緒にいられる気がする。
夫人の朗読の声が耳に心地よく響く。
「熱心だな」
ページを捲ったところで、公爵が声をかけた。
夫人は朗読を止め、顔を上げる。
「これからお仕事ですか?」
「今日は遅くなる」
「無理なさらないでくださいな」
「ああ。王都で頻発している件さえ解決すればな……」
「そういえば、近く魔術協会の方々がいらっしゃるとか」
「行方不明に他国が関わっているとなると、流石に宮廷魔導士だけでは手に余る」
公爵はそう言って、レグルスの顔を覗き込む。身を屈め、額を付き合わせた。
「行ってくる」
軽く頬を撫でて、公爵は踵を返した。
夫人が立ち上がり、後姿を見送る。扉が閉まり、彼女はそっと息を吐いた。椅子に座ると、レグルスに微笑みかける。
「王都では今、沢山の人が行方不明になっているの。お父様やお兄様は今、その対応に忙しくなさっているのよ」
去年から続く失踪事件は、今年になって目撃者が現れてようやく進展を見せた。だが根本的解決にまでは至らず、未だに行方不明者は帰らない。
「皆、無事で戻ってくれたらいいわね……」
夫人は本を開く。そして読み聞かせを再開した。
◆◇◆◇◆◇
辻馬車を降りれば、目の前に大きな門扉が立ちふさがる。
司祭は一番小さな子供の手を引き、正門脇の小さな扉の前へ移動する。中には既に老執事が待っていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、司祭様。お待ちしておりました」
門扉を開いた執事は、彼らを招き入れた。
扉をくぐる際、一番小さな子供はぺこりと頭を下げる。
「おじゃましましゅ」
「ご丁寧にありがとうございます」
執事は慇懃な動作を崩さず、幼子に柔らかな笑みを浮かべた。
そして邸内に案内される。子供たちは緊張した面持ちで、司祭たちの後をついてくる。
執事は彼らを奥棟まで案内し、そこで侍従と交代した。
侍従は更に廊下を進み、ある部屋の扉を叩く。中から女性の声がして、彼は扉を開く。
「いらっしゃい」
「グランフェルノ公爵夫人。訪問を快く快諾いただき、誠にありがとうございます」
「「「ありがとうございます!」」」
司祭が深く頭を下げ、続いて子供たちもお辞儀をする。
公爵夫人はにこりと笑った。
「いいえ。孤児院の皆に遊びに来てもらおうかと、丁度主人と相談してしたところなのよ」
「左様でございましたか。ですがご迷惑にならなければよいのですが……」
司祭は僅かに表情を曇らせ、子供たちを振り返る。司祭の視線を受け、子供たちは一斉に不満そうな顔をする。
夫人は声を立てて笑った。
「いい刺激になると思うわ。あの子は孤児院の皆に遊んでもらうのが大好きだったから」
夫人は立ち上がり、奥へ続く扉へと向かった。案内の侍従が扉を開く。扉の前で夫人が振り返る。
「さあどうぞ」
「失礼します」
司祭に連れられ、子供たちは奥の部屋に足を踏み入れた。
明るい部屋だった。椅子やテーブルをはじめとするすべての家具が、部屋の主に合わせて、低めに設えられている。
窓の近くには大きなベッドが置かれている。
「れぐぅしゅしゃま!」
司祭の手を振り払い、幼子が走り出す。ベッドによじ登ろうとするのを、慌てて他の子供たちが止める。
「やー!れぐぅしゅしゃま、せーるでしゅう!!あしょーでくだしゃー!!」
「セイル、落ち着け!」
「ベッドは上っちゃダメ!!」
「あらあら」
夫人は口元に手を当て、くすくすと笑う。
年長の子供たちに取り押さえられたセイルは、ベッドに上ることは諦めたが、不満そうに口を尖らせて唸っている。
ベッドの上のレグルスは、相変わらず普通に眠っているように見えた。
用意された踏み台に上り、セイルがレグルスの顔を覗き込む。それから徐に、ベッドを叩き始めた。
「れぐぅしゅしゃま。おっきよー」
「セイル、ダメだってば!」
「いいのよ。その為に招待したのですもの」
夫人がセイルの後ろの立つ。柔らかな髪を撫でれば、セイルは不思議そうに夫人を見上げた。
「れぐぅしゅしゃま、おっき、ない?」
「お寝坊さんで困っているの。セイル、起こしてあげてくれる?」
「あーいっ」
満面の笑顔を浮かべ、セイルは盛大にベッドを叩く。ほかの子供たちは戸惑いつつ、レグルスに話しかけ始めた。
何度も名を呼びながら、セイルはベッドを叩く。だが一向に目覚めないレグルスに、だんだんと不機嫌になってくる。それでも更に叩き、やがて目に涙が浮かべた。
「れぐぅしゅしゃまぁ…しぇーうなのよぉ……おっきしてぇ……」
ぐずぐずと泣き出したセイルは、再びベッドに上る。傍らにぺたんと座り、両手をレグルスの上に乗せて一生懸命揺する。それでも起きる気配はなく、セイルは顔を歪める。暫くぐずっていたが、突然布団を捲った。もぞもぞと中に入ろうとする。
「「「セイル!?」」」
子供たちは止めようとしたが、大人たちに阻まれた。
夫人はべそをかきながらレグルスに張り付くセイルに、そっと上掛けをかけ直した。
「夢の中までお迎えに行ってくれるの?良い子ね」
「おむぅ…?」
「逢えたら伝えてくれるかしら?早く起きないと、おやつがなくなっちゃうわよって」
「あい~……」
セイルは目を閉じた。夫人にあやされて、あっという間に眠りに落ちてしまう。
「さあ、皆はおやつにしましょうか。料理長が皆の為に、美味しいケーキを用意してくれたのよ」
夫人は立ち上がると、隣の部屋に戻るように促した。唖然としていた子供たちは、何とも言えない表情のまま寝室を出た。
だが、一人だけ立ち止まる。
「司祭様。オレ、こっちに残るよ」
「セイルなら暫く起きませんし、お邸の方が付いてくださいますよ」
「残る」
首を左右に振る。司祭は苦笑した。
「おやつはいいのですか?」
「うん。セイルの分はとっといてあげて」
「貴方の分も取っておきますよ、ルオー」
司祭は軽くルオーの肩を叩くと、訝しむ子供たちを促して隣室に戻っていった。
扉の向こうから微かに香った甘い匂いに後ろ髪を引かれつつ、ルオーはベッドの傍に戻る。セイルがレグルスに縋りつくように眠っている。
「仕方のないヤツ」
そう呟いて、ルオーは上掛けの中にしまわれていたレグルスの手を引っ張り出した。しっかりと握る。
意識のないレグルスの手が、微かに握り返してきた。
ふっとルオーは笑う。ベッドに頬杖をついて、レグルスの寝顔を覗き込む。
「仕方ねぇなあ。迎えに行ってやるから、待ってろよ」
暫く後、様子を見に来たマリスは、三人仲良く並んで眠る子供たちに、少々呆れ気味の溜息を漏らしたのだった。
◆◇◆◇◆◇
見知らぬ少年に突き飛ばされた彼は、困惑気味に少年を見上げた。
「上手く王族に取り入ったからって、大きな顔できると思うなよ!」
「お前なんてお情けで王宮に置いてやってるだけなんだからな!」
大きな顔をしたつもりはないし、王太子殿下のご厚意でここで生活できていることは知っている。それを快く思わない貴族たちがいることも知っている。
但し、その貴族たちが自分の何を恐れて、やたらと排斥したがるのかは解らない。十一になったばかりの子供の何が目障りなのか。
だから目の前の少年たちが、何を今更なことを言いながら自分を突き飛ばしたのかも解らない。
彼は首を傾げた。
「だから?」
「はあっ?いい気になるなよ!!」
「いい気になった事は一度もありません。殿下のご厚意に感謝することはあれど、付けあがって利用するつもりはありませんし、後見となってくださった魔導士長様には精一杯お手伝いさせて頂くつもりです。貴方方は何を不満に思われているのですか?」
少年たちは、王族に取り入らなければならないような状況にはないように見える。宮廷魔導士たちの手伝いがしたいようにも感じられない。
与えられ、傅かれ、少年たちは何が気に入らないのだろう。
彼は琥珀色の瞳でじっと少年たちを見つめた。
少年たちが怒りに顔を赤く染めた。
「異界人のくせにっ」
「来たくて来たわけではありません」
「だったら出ていけ!!」
「僕が元の世界に帰る手段をご存知ですか?」
「…いいから、出てけよ!!」
少年が手を振り上げた。
彼はその手の動きを瞬きさえせずに見ていた。だから、避けずに済むことも解っていた。
「はいは~い。そこまでにしとけ、坊主ども」
少年の手を掴んだのは、一人の騎士。他にも二人ほどいて、彼と少年たちの間に割って入る。
深い赤色の制服は、確か赤燕騎士団だったか。
騎士たちの後姿を眺めながら、彼はのんびりと考えていた。
少年たちはその後もしばらく何か騒いでいたが、騎士たちに軽くいなされ、まるで脅し文句のような言葉で諭されて、渋々引き下がっていった。
「や~。最近のお子様は物騒ですなぁ」
鮮やかな赤い髪の男がおどけた様子で言う。
「昔も今も、大して変わらないデショ」
淡い茶色の髪の男が、呆れた様子で返す。
「ちゃんとしてる子はちゃんとしてるけど、我儘坊ちゃんは我儘坊ちゃんだよなぁ」
白銀色の髪の男は肩を竦める。
そして彼らは一斉に振り返った。
「お前さんが召喚されたらしいって子か」
「ふ~ん。本当に黒髪なんだ。綺麗だね」
「災難だったな、面倒なのに絡まれて」
騎士たちの言葉を聞いてから、彼は丁寧に頭を下げた。
「助けてくださり、ありがとうございます」
騎士たちが顔を見合わせる。そして徐に、彼を担ぎ上げた。
「えっ!?」
「それじゃあ」
「一名様」
「ごあんな~い!」
「なにがですかあああぁぁぁぁぁ!!!」
彼の叫びも虚しく、三人の騎士は彼を連れ去ったのである――赤燕騎士団の詰め所まで。
これが最初の出会いで、それから付き合いは続いた。
赤燕騎士団の団長以下、全員に彼は可愛がってもらった。過酷な訓練にも付き合わされたし、斥候にも使われた。突撃隊の先陣を切らされたことさえある。街中の歩き方を教えてくれたのも、街中の施設やお金の使い方を教えてくれたのも、全部彼らだった。
赤燕騎士団は彼に、この世界での生き方を教えてくれた教師たちだった。
同時に、友人で、仲間で、兄で父で、大事な家族たちだった。赤燕騎士団の宿舎や詰所は、彼にとって最も居心地の良い場所だった。
コーレィの戦いで、全滅するまで。
「アンタが死ねばよかったのよ…何が守護天使よ……」
悄然とした女が呟いた。手に煌めくものを握りしめている。
彼はじっとそれを見つめていた。避けることは容易い。けれど、気力が既に尽きていた。
「この疫病神!アンタさえいなければぁ!!」
ナイフを振りかざし、彼に突進してくる。辺りから上がった悲鳴さえ、どこか他人事のように聞こえた。
最後の衝撃から僅かに意識を逸らそうと目を閉じる。けれど、いつまでたっても痛みは襲ってこない。
「…止めとけ。あいつらが死んだのは、リョーヤのせいじゃないだろ」
代わりに聞こえたのは、どこかで聞いた声。そっと目を開く。
まず見えたのは微かな動きに揺れる袖。視線を上げれば、鮮やかな赤。
「ジャンさん…」
戦争で片腕を失くした男は、残った右腕で女の手を抑えていた。軽く捻って、女の手からナイフを落とす。
遅ればせながらようやく到着した憲兵たちに、彼女を引き渡すと、男は彼を振り返った。
と、同時に拳が降ってきた。
「馬鹿かお前は!」
痛みに悶える中、更に怒鳴られる。
「避けろよ!エミーの罪を増やしてどうする!?アルフレッドにどうやって顔向けするつもりだ!!」
「ごめんなさい」
「あーもー!ちゃんと飯食ってんのか?どうやったらこんなに痩せられんだよ。国王補佐官だって体力勝負だろーが!!」
責められると覚悟したのに、続けられたのは心配する言葉。おまけにぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。涙が溢れる。
まるで子供のように泣きじゃくる彼を、元騎士の男は変わらぬ笑みと共に抱き寄せた。
「しょうがねぇ奴だなぁ…」
そんな風に呟いて。
いつだって、本当に困った時は助けてくれる人がいた。
弱り果てた時は、真っ先に駆けつけてくれた。
腕に抱えた子供を見つめながら、彼は思う。
(…貴方もいつか出会うのですよ。そんな相手に……)
ポロリと零れた心の欠片が足元に転がった。まるで星のように瞬いている。
彼はふと視線を上げた。その口元に笑みが上る。
「いえ、もう出会っていたのですね……」
いつでも助けに来てくれた、赤燕騎士団の騎士たち。その魂を受け継ぐ者たち。
暗闇の向こうから力強い光が近づいてくる。それはやがて、二つの人型となった。
「…癇癪持ちを迎えに来たぞ」
「ご苦労様です」
黒髪の青年は微笑みながら、二人を迎え入れた。
誤字脱字の指摘、お願いします。
沢山の拍手、ありがとうございます。
そして前回の誤字報告、ありがとうございますっ!(汗)