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遠い記憶の守人  作者: 名波 笙
成長記録
60/99

こわれていくもの






「おなか、きもちわるい…です……」


 レグルスはむくりと起き上がった。枕元のランプが動きに反応して灯る。

 マフィンを食べ過ぎて、夕飯のスープさえ辛かった。料理長気遣いの具沢山で、胃が重い。少し食べてごちそうさまをしようとしたら、何かのスイッチが入ったフェリトが泣きそうになるものだから、完食せざるをえなかった。

 その後ベッドに入って明りを消したが、やはり腹が圧迫されて苦しい。全く眠れない。

 レグルスはベッドから降りた。腹をさする。さすりながら、部屋の中をぐるぐると歩き回る。


(腹ごなしに、お庭歩きたいです)


 レグルスは既にカーテンの引かれた窓に目を向ける。

 悩みはした。今外に出れば、確実に怒られる。呼び鈴を鳴らして、誰かを呼ぶべきだ。けれどそんな事をすれば、まずい薬を飲まされる事も解っている。外も歩けない。

 両手を頬に当て、少し考えて、レグルスはクローゼットに向かった。ずらりと並ぶ白い防寒着の中から、特に暖かそうなものを選び、寝間着の上に羽織った。


「…羊のコートでした、これ……」


 着てから気付いたが、他に着替えるのも面倒だったので、そのままボタンを留める。

 庭を一回りするだけのつもりなので、帽子も手袋も要らない。見つかる前に戻る事を考えれば、クローゼットの中からいろいろ取り出すのは良くない。

 レグルスは灯りの魔具を持ち、そっと窓を開けた。

 外はチラチラと雪が降っていた。空はどんよりとした雲が覆っているのだろう。けれど雪明りで真っ暗ではない。

 サクサクと雪を踏みしめ、歩き出す。

 昼間はまだそれなりだったが、夜の外は温度が下がり氷点下だ。リスヴィア生まれの者でも流石に寒いと騒ぐ気温である。だが、レグルスはそれほど感じない。羊のコートだけで体はぬくぬくだ。

 白い息を吐きだしながら、散策路をほてほてと歩く。手に持った魔具の灯りがゆらゆらと揺れる。

 半分ほども来たころ。

 行く手に黒い影が見えた。ぎくりと体を強張らせる。使用人の誰かに見つかったら、大事になる。

 しかし、影は動かなかった。

 不審人物も考えたが、グランフェルノ家の警備を通り抜けられる猛者がいるとは考えにくい。

 レグルスは灯りを掲げる。恐る恐る、声をかけた。


「…誰ですか?」


 影が揺れる。同じ雪の上を移動しているのに、音一つ立てずに。

 影が灯りの届く範囲に入った。

 それは細身の青年だった。長い黒髪を背で束ね、金茶色の瞳がこちらを見下ろしている。扁平にも取られがちなあっさりとした顔立ちは、レグルスの中にいる彼とも違う。

 レグルスは彼の顔を覚えていない。けれど特徴を知識として覚えていた。


「フォン…?」


 グランフェルノ家の暗部を束ねる長。しかし、どこか違うように思う。年より若く…というより幼く見られがちな人物だが、目の前にいる青年は本当に若いようだ。

 レグルスはにこりと笑った。


「フェティエ?」


 青年は肩眉を跳ね上げる。どうやら正解だったようだ。

 フォンの息子のフェティエ。フォンは結婚しておらず、実子かどうかも怪しいという話だが、同じ東方民族だという事は姿形から判断できる。幼い頃、訓練を逃げ出した彼に、よく遊んでもらった記憶がある。

 レグルスは彼に駆け寄ろうとした。


「来るな」


 動きを察知した青年が、低い声でレグルスの足を止めさせる。

 レグルスは不安気にフェティエを見上げた。拒絶するような冷ややかな視線に、足が竦む。

 そこにレグルスの心を更に抉るような一言が降り掛かる。


「確かに、見た目はよく似ているようだな…気味が悪い」


 レグルスは泣きそうに顔を歪めた。

 悪意ある言葉は幾つも受けてきたが、これはその中でも一番効いた。


「ぼくは『レグルス』ですよ」

「どうだか。あのレグルス坊ちゃまが、あんな場所で五年も生きられたとは、到底思えない」

「…がんばったのです……」

「気力で何とかなる問題じゃない」

「……でも、ぼくは………」

「黙れ!」


 突然の怒鳴り声に、レグルスはびくりと身を竦ませた。

 フェティエはレグルスを睨みつけている。


「記憶を刷り込まれただけの偽物だろうが!それがあの子と同じように喋るな!!不愉快だ!!」


 フェティエの一言に、レグルスは自分の足元が崩れていくような感覚を覚えた。

 それは確かに、常日頃レグルスが考えていた事だ。偽物を指摘されて以来、もしかしたらと恐れていた部分でもある。

 けれど第三者に突き付けられる事が、これほど辛いものだとは認識していなかった。

 レグルスはぎこちなく首を左右に振る。震える声で、懸命に言葉を紡ぐ。


「ち、がいます…だって、とうさま…が……」

「旦那様まで丸め込んで。お前の真意は何だ?」

「しんい、なんて…!ぼくは、ただ……!!」


 レグルスの言葉を遮るように、ヒュッと耳元で何かが風を切った。背後で微かに乾いた音が鳴る。

 突然熱を持った耳に手をやれば、赤い液体が手に付いた。レグルスの顔から血の気が引く。


「ふん。今聞き出せるとは思っていない。だが、覚悟しておくんだな」


 フェティエはレグルスに背を向けた。闇に消えていこうとする。

 レグルスは手に付いたものを眺めながら、全てが遠くなっていくような感覚に陥っていた。


(僕は、何を願っていたのでしょうか?これが現実なのに、いつまでも夢を見て…あの日の続きがあると信じて……)


「ふっ…ふふふっ、はは…あはははははは!!」


 突然の哄笑が辺りに響き渡った。

 フェティエの足が止まる。驚きの表情を浮かべて振り返る。

 レグルスが笑っていた。闇夜に向かって。狂ったように。


「何だ…?」


 ぼそりと呟けば、笑い声が止まる。

 レグルスは天を仰いでいた目を、ゆっくりと彼に向けた。風が長い髪を乱す。


「ふっ…偽物だというのならば、さっさと殺せばいいじゃないですか」

「……」

「出来ませんよねぇ?だって、貴方は所詮その程度の腕しかないんですから!」

「何だと!?」

「うふふっ。知っているんですよぉ?暗部の長の息子のくせに、全ての才に置いてマリスに勝てないって」


 フェティエの顔が引きつった。

 レグルスが口元に浮かべた歪んだ笑みを深くする。


「あははははっ。お前は何も出来ません!風に乗れない、哀れなちょうちょさん!!」

「貴様ぁ!」


 フェティエが一瞬で間合いを詰めてきた。レグルスの手から灯りが落ちる。

 レグルスは顔を顰めた。フェティエの手が視界の一部を遮るが、怒りに満ちた相手の顔はよく見えた。地面に落ちた灯りが雪に反射され、より明るく照らしている。

 喉に当てられた刃がひんやりと冷たい。

 それよりも更に冷たく、レグルスの心が温度を失くしていく。


「…死にたくなければ、愚かな発言は控えることだ」

「馬鹿ですか、お前」


 レグルスは素気すげ無く言い放った。小刀を持つ手を掴む。


「なっ」

「ぼくは殺せと言っているんですよ」


 小刀を固定し、逆に喉を押し当てる。

 フェティエが目を見開いた。慌てて手を引こうとするが、レグルスの手を振り払えない。下手に動かせば喉を切り裂いてしまう危険に気付き、動かす事が出来なくなった。

 それでも刃が皮膚に食い込み、赤い雫が零れた。


「やめろ!」


 顔を掴んでいた手で押しのけようと試みる。だが、こんな小さな体のどこにと思うくらいの強い力で、阻む事が出来ない。切っ先を逸らすのが精一杯だ。

 フェティエは懸命に叫ぶ。


「自殺の手伝いなんて御免だ!」

「だったら、さっさと掻っ捌けばいいでしょう!!」


 フェティエが小刀を引くだけで、全てが終わる。けれど出来ない。

 ただの脅しのつもりだった。偽物に違いないと確信しているが、今すぐ殺そうとは思っていなかった。何とか黒幕の情報を引き出そうと思っただけだ。子供の正体がわかれば、あるべき場所に返せばいいだけと、安易に考えていた。

 刃が深く入っていく。


「坊ちゃん、やめて」


 ぐいっとレグルスの体が後ろに引かれた。小刀が喉から離れる。

 ようやくフェティエがレグルスの手を払った。同時に小刀が雪の中に落ちる。

 レグルスは顔を歪めた。


「なんで…」

「ダメだよ。坊ちゃん、お願いだから」

「だって、ぼくは」

「この体は本物だから。お願いだから、レグルス坊ちゃんの体を傷つけないで」


 レグルスの体を抱きしめたクレオは、大きな溜息を吐いた。


「オレ、言ったじゃん。生きててよかったって。何で?何で死のうとすんの?」

「…だって、ぼくは生きてたって、なにも……」


 レグルスの目は闇に向けられ、何も映していていない。辺りに人が集まっていることも知らないだろう。

 騒ぎを聞きつけた面々は、レグルスの狂気を前に、誰一人として声をかけられなかった。ふらふらと前に出たのはクレオだけだ。

 クレオはレグルスの喉に触れる。傷は思ったより深く、まだ血が滲んでいる。


「坊ちゃん、傷治してもらおっか」

「やめてください!」


 レグルスは声を荒げた。そしてクレオの腕の中から抜け出る。

 呆然としていたフェティエは、動いたレグルスの先にあるものを思い出した。慌てて雪の中に落ちた小刀を拾い上げる。その耳に小さな笑い声が聞こえた。


「…何故、邪魔をするのですか……?」


 何の感情も示さない声。背筋がゾッとする。

 レグルスの口元が弧を描いている。

 さくりと雪を踏みしめる。


「ぼくが何かなんて、もうどうだっていいじゃないですか」

「え…」

「ぼくは生きてちゃダメなんですよ」


 にこりと笑って、両手を差し出す。


「それ、貸してくださいな」

「坊ちゃん!」

「…ぼくの目的は果たされました。もういいでしょう?」


 一歩、フェティエに向かって踏み出そうとすれば、クレオに阻まれた。見上げれば、クレオは一生懸命首を左右に振る。

 レグルスは眉を下げた。


「ぼくはただ、お家に帰りたかっただけなのです」

「……」

「もう一度家族に会いたかった。お迎えに来てほしかった。あの場所から出してほしかった。その為に生きてきたのです」


 抱きとめるクレオの手を撫で、レグルスは視線を下げる。ぐっと眉根が寄せられた。


「偽物にされるためじゃありません…!」


 全てを諦めて静かだった心に、どうしようもない怒りや悲しみがこみ上げてくる。

 レグルスは顔を上げた。フェティエを睨む。


「助けに来てくれなかったくせに!ぼくがどんなに泣いて叫んで、あの扉を叩いても!誰も開けてくれなかったじゃないですか!!」

「っ…」

「どうしてっ。なんで!?ぼくの父様は、いつだって優しかったのに!兄様も!!呼んだらすぐに来てくれたのにっ!!どうして来てくれなかったの!!?」

「それは…っ」

「お屋敷のみんなも!!いつも遊んでくれて、危なくなったらかけつけてくれてたのにっ。誰も来てくれなかったっ!誰も助けてくれなかった!なのに、どうして!?なんでニセモノっていうの!?ぼくがんばったのに!!いつか助けに来てくれるって、信じてきたのに!!」


 フェティエがたじろいだ。血の付いた小刀を思わず後ろ手に隠す。

 レグルスは知っている。自分を偽者かもと疑っているのは、何もフェティエだけではない。特に裏の人間たちに多いことも。

 その全てを黙らせて、レグルスはなおも叫ぶ。


「こんなところ、ぼくのおうちじゃないっ。ぼくをほんとうのおうちにかえして!ぼくの父様はどこ!?母様は?みんな、どこにいるの!!?」


 クレオの手を振りほどこうと、レグルスが暴れ出す。傷が開くのを恐れ、クレオは力ずくで抑え込もうとした。


「きらいきらいきらい!こんなところ、だいっきらい!!さっさとしんじゃえばよかったんだ!!」

「レグルス坊ちゃん…!落ち着いて!!」

「ぼくなんていらないっ!こんなもの、すべてこわれちゃえ!!」

――…もういいですよ。疲れたなら、戻ってらっしゃい……――


 レグルスの動きが唐突に止んだ。大きく傾いで、その場に崩れ落ちる。

 クレオが支えたが、レグルスに意識は無かった。頬を叩いて呼びかけるが、返答はない。

 ようやく我を取り戻した使用人たちが、一斉に動き出す。


「レグルス」


 取りあえず部屋に戻そうと抱えられたレグルスに、公爵が呼びかけた。クレオから小さな体を受け取り、大事に抱きしめる。

 公爵の顔は苦しげに歪んでいた。


「レグルス様のお体は大分冷えております。傷に障りますので、早くお部屋に」

「わかった」


 マリスに促され、公爵はレグルスの部屋に向かう。

 ベッドに横たえれば、白いコートの襟もとが真っ赤に染まっていた。下の寝間着もだ。思わず息を呑む。

 エミールが治癒の術を施し、湯に浸した布で血を拭えば、何事もなく元に戻る。

 処置を施される間、公爵は黙って傍らに佇んでいた。

 公爵を振り返ったエミールは、何とも言えない表情で公爵に告げた。


「レグルス様の眠りは、大分深いものに思われます」

「…問題が?」

「突然意識を失われたことと併せて考えると、レグルス様はこのまま意識を戻さない可能性がございます」

「起きないという事か?」


 エミールは頷いた。

 ただ穏やかに眠っているようにも見えるレグルスに、視線を戻す。


「レグルス様のお心が壊れてしまっては、お目覚めは叶わないでしょう」

「そうか」


 公爵は短く答え、ベッドに近づいた。エミールが脇に避ける。

 息はしている。血色も悪くない。手を伸ばして頬に触れれば、温もりが伝わってくる。

 けれど、二度と目覚めないかもしれない。

 手が震えた。その場に膝をつく。

 レグルスに再会したあの時、言えなかった言葉がある。自分を覚えていなかったと思い込み、勝手に幻滅して、言わなかった言葉だ。大した言葉ではない。まず自分から呼んであげればよかっただけの言葉。

 もし一言、名を呼んであげていれば。


「レグルス」


 今更呼んでみたところで、応えはない。

 公爵は深い溜息を吐いた。

 後ろから声が掛けられる。


「旦那様。フェティエの処遇ですが……」

「任せる。但し、殺すな」

「ですが……」

「行き過ぎた行為であったが、ここまで悪化させた原因は私にある。フェティエが何もせずとも、いずれ誰かの手でこうなっただろう」

「畏まりました」

「最後の処分は、この子が目覚めたら決めさせる。そのように対処しろ」

「御意」


 後ろの気配が消える。

 公爵はレグルスの頭を撫で、深く息を吐きだした。






 ぼくのなにがわるかったの?いきのびてしまったから?でもぼくだって、おうちにかえりたかったのです。とうさまにだっこしてもらって、かあさまにぎゅってしてもらって、みんなにあそんでもらいたかったのです。だめだったの?ぼくはきえなきゃいけなかったの?


 突然後ろに引っ張られたレグルスは、意識だけ深い闇の中にいた。ぽたりと涙が零れるたび、心が一つ、欠けていく。

 レグルスを包むものは、零れ落ちて更に深く落ちていく心の欠片を、ただ静かに見送った。







誤字脱字の指摘、お願いします。


毎度拍手と評価、ありがとうございます!

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