幾重に包んでも
時を少し遡る。
一人留守番をする羽目になったアルティアのもとには、生まれて以来の付き合いがある友人が訪れていた。
レオンティーヌ・グラフェル。
グラフェル家は何百年前かのグランフェルノ家から出来た、分家の一つである。その後も婚姻だの養子縁組だので、それほど薄い血縁でもないが。現在は本家の広大な領地を間借りして、領主代理で綿花を育てて収入を得ている。貴族としての地位は本来持たない。現当主がそれなりのやり手で、本家からバフェル卿の名を預かるに至っている。
その娘・レオンティーヌは、きりりとした雰囲気の少女だ。女性にしては長身なのと、父親譲りの切れ長な目元が中性的な印象を与える。尤も、根幹はもう少し違う場所にあるが。
不機嫌なアルティアを見越して、彼女は手土産を持参していた。王都でも有名な菓子店の生菓子である。真冬の寒い中でも行列を作る店の限定商品だ。
女中がお茶と共に早速それらを皿に盛ってくると、さすがに表情が和らいだ。友人の視線に気づき、すぐにはっと眉を寄せてみせるが。
「べ、別に!こんなもので許したわけじゃないんだからね!重要な話があるって言うから、仕方なくなんだから!!」
「解ってる。わざわざありがとう」
レオンティーヌはにっこりと笑った。
アルティアはツンと顎を聳やかし、視線を逸らせる。それでいて、ケーキの乗った皿をさりげなく自分の方へ引き寄せる。
レオンティーヌはティーカップを取った。
「ところで、今日はおば様は?出かけられたのか?」
「お芝居を観に行ったわ。本当は一緒に行くはずだったのに!」
アルティアは掴んだフォークをケーキに突き立てた。
レオンティーヌが僅かに表情を強張らせた。
「…お一人で?」
「いいえ。代わりにレグルスを連れて行ったわ。あの子、最近塞ぎがちだから」
「マズいかもしれないな」
レオンティーヌは険しい顔でカップを置いた。
ケーキを口に運んで、アルティアも姿勢を正す。
「どうしたの?」
「話っていうのは、レグルスに関してなんだ。最近、あの子の悪い噂が出回っているの知っているかい?」
アルティアの目が大きく見開かれた。それは直ぐさま怒りの表情にとって代わる。
レオンティーヌも苦い表情で話し始めた。
それは彼女の母が、とある商工会の婦人会に出席した折の事。
お茶会には各商家の娘たちも参加しており、随分華やいだ雰囲気であったという。グラフェル夫人も娘が成人を迎えていればと、少し残念に思ったらしい。
だが、それは最初だけ。商家の娘たちは、何というか…手に負えなかった。
「知っているかい?普段王都は冬の間、裕福な家柄の娘たちが幅を利かせているんだ」
「そうでしょうね。有力な貴族の娘たちは、それぞれの領地に帰ってしまうもの」
「けれど今年は違う」
「聞いているわ。お母様が王都に戻ったことで、親しい方々や、公爵家に取り入りたい貴族たちが多く居るって」
「そうだ。いつもならこの時期、我儘し放題の裕福な家の娘たちが、思う存分我儘できずに鬱憤が溜まっている」
「……その原因がレグルスだと?」
アルティアの目が眇められた。すうっと辺りの空気が冷える感じがした。
レオンティーヌは顔を強張らせたまま頷く。
「グランフェルノ家の末息子が発見なんてされたから、自分たちが自由に遊べない。しかも、それは本物かどうかも怪しい…彼女たちは母の前で堂々と宣ったそうだよ」
不愉快そうに眉を顰め、アルティアは視線を逸らせた。テーブルに置いた扇を取り、顔の半分ほども覆う。
本来、親しい友人の前で扇は必要ない。けれどそれを取ったということは、よほど顔を取り繕う自信がないという事だろう。同時に、怒っている相手はレオンティーヌではないという意思表示にもなる。
小さな唸り声が聞こえた。
「それで…それはどこのお嬢さん方なのかしら?」
何とか怒りを抑え込もうとする、低い声。
レオンティーヌは一枚の紙片を取り出した。それを広げて、テーブルの上に置く。怒り狂った彼女の母が、帰ってくるなり書きつけたものだ。
「ここに全て。向こうは告げ口されているとは知らないよ。分家が下手に騒いで、更に悪化しても困るしね」
「…両親に伝えるわ。わざわざありがとう」
パチリと音を立てて扇を閉じる。そして再びフォークを取った。突き立てるを通り越し、ケーキを串刺しにする。丸っと持ち上げると、そのまま大口を開けて放り込む。
栗鼠のように頬を膨らませてもごもごしているアルティアに、レオンティーヌは肩を竦める。
ある程度咀嚼して、アルティアは口の中のものをお茶で流し込んだ。息を吐く。
「そいつらは、演劇鑑賞なんて趣味があるの?」
「見目の良い役者は、ティアも好きだろう?」
「一緒にしないでくれる?」
「正直、あんなもののどこが面白いのか、理解できなくてね」
レオンティーヌにとって、舞台で繰り広げられるあれこれは、まだるっこしくてイライラとするものだ。同時に強烈な眠気も誘う。
つまらなさそうにケーキの上のフルーツを指でつまんだ友人に、アルティアが小さく噴き出す。
「レグルスだってちゃんと観るのに」
「あの子は昔っからのんびり屋さんだったから。おば様とよく、庭の散歩してたよねぇ」
「今もしてるわよ。一人で」
「何が楽しいんだい、それ?」
花は綺麗だが、その前でいつまでも立ち止まって観賞する意味が、レオンティーヌには解らない。舞台も音楽も同様だ。それなら小作人に混ざって、畑仕事をしていた方が何倍も楽しい。
それはさておき、だ。
現在、レグルスは劇場に行っている。その娘たちと鉢合わせる可能性が高い。公爵夫人が傍にいる為、大きな問題は起こらないだろうが、それでも。
アルティアの眉間に再び深い溝が刻まれた。
「気分転換させるつもりだったのに……」
小さな問題でも、今のレグルスには深い傷を負いかねない。ただでさえ良くない方向へ傾いている今は。
使いを出して呼び戻すことも考えたが、すでに芝居は始まっている時間だ。そろそろ幕間の休憩が終わる頃だろう。
アルティアが深い溜息を吐く。
するとレオンティーヌが頭を下げた。
「すまない。話を聞いた後、すぐに来るべきだった」
彼女も彼女の両親も、怒りはしたが、それほど緊急を要する事態だとは思っていなかったのだ。助け出された末っ子はまだ療養中だと聞いていたし、十一歳の誕生日に行うお披露目までは外に出さないと、当主自らが公言していたためだ。
実際は姿を晒さないだけで、度々外出しているのだが。
悪い噂を流す娘たちとその仲間を調べているうちに、半月ほど経ってしまったのだ。
そんな事は後回しにして、まず報告を上げるべきだった。それも分家当主から、本家へ。
項垂れるレオンティーヌに、アルティアは首を左右に振った。
「気にしないでちょうだい。もしかしたら杞憂に終わるかもしれないのだし」
しかしその願いはすぐに泡と消えたのだった。
悪い報せは、予定より大分早い母の帰宅を告げる女中によってもたらされた。
◆◇◆◇◆◇
帰りは日が暮れてからと聞いていた。まだ明るい外に困惑しながら、マリスは玄関にいた。外出した主人を迎えに来たのだが、どうにも悪い予感しかしない。
馬車の扉が開かれる。最初に降りてきたのは公爵夫人だ。彼女が振り返り、後に続いて出てきた我が子に手を伸ばす。
母の手を借りて馬車を降りたレグルスは、出かける前よりさらに顔色が悪くなっているように見えた。
「お帰りなさいませ」
執事が何事もないかのように一礼し、夫人から外套を受け取る。
夫人がレグルスの外套を脱がせ、内側に着ていたローブも脱がせた。
レグルスはその間、俯いて佇んだまま、自分から動くことは無かった。全てが終われば、母の腰にしがみ付く。
夫人は「あらあら」と笑っていたが、明らかに様子がおかしかった。
奥からバタバタという慌ただしい足音が聞こえてきた。アルティアが走ってくる。
「レグルス!」
「…姉様?」
レグルスは顔を上げたが、姉が一人ではないことに気付き、表情を強張らせた。
公爵夫人も「あら」と小さく声を上げる。
「お客様はレオンだったのね」
「レオン…?」
虚ろな目を姉たちに向け、首を傾げる。何かを思い出しそうだったが、今の鈍った頭では何も考えられなかった。レグルスは母からも離れ、マリスに駆け寄った。
「お部屋、帰ります」
「はい」
「夜はごはん、要らないです」
「それは駄目です」
マリスはにっこりと笑って、身を屈めた。
「料理長にお願いして、お腹に優しいものをご用意してもらいましょう。お部屋にお持ちしますから」
「……」
レグルスは渋々といった様子で頷いた。そして見慣れぬ人物を避けるように、駆け足で奥へ戻っていく。
マリスは執事を見た。相手が小さく頷くのを確認し、レグルスの後を追う。
走っていたレグルスだが、途中の階段で躓き、何もない廊下でよろけ、角が曲がれず転んだ。
そこでマリスが追いついた。
レグルスは手助けされる前に立ちあがり、再びよろよろと走り出そうとする。
「レグルス様」
不敬と知りつつ、マリスはレグルスの首根っこを掴んだ。尚もバタバタとするので、荷物の如く肩に担ぎあげる。
途端大人しくなり、ゆらゆらと揺られながら運ばれる。
部屋に着くと、ソファに下ろされた。ローブを取られ、上着も脱がされる。
レグルスは既にうつらうつらしている。マリスが傍に膝をつくと、虚ろな目が向けられた。
「少しお昼寝されますか?」
レグルスはのろりと首を横に振る。それから少しだけ笑った。
「マリス。おちゃ、くださいな」
「…すぐにご用意いたします」
立ち上がるマリスに、レグルスも顔を上げた。
「あまいのがいいです」
「ミルクティーになさいますか?」
「ううん。あまくて、いいかおりがするのです」
「かしこまりました」
どことなく拙い喋り方が気になりつつも、マリスは席を外した。壁際にフェリトが控えていることを確認して。
フェリトは去年の春からこの屋敷に勤め始めた、まだ成人したての使用人だ。当然、行方不明前のレグルスを知らない。元気のない主を単純に心配して、傍らにしゃがんだ。
「レグルス様~?また誰かに苛められましたか?」
「…ううん。だいじょうぶなのです」
「どう見ても、大丈夫じゃないですよぅ」
フェリトはこてんと首を傾けた。彼の方が泣きそうな顔をしている。
レグルスは仄かに笑う。
「皆、心配し過ぎなのです」
「そりゃそうなりますって。レグルス様はご自分の人生の半分、お邸にいらっしゃらなかったんですよ」
「でも帰ってきたでしょう?」
「だからです。やっと帰ってきてくださったのに、またいなくなられたら大変です」
「…いなくなったら、困りますか?」
「困りません」
フェリトはくしゃりと顔を歪めた。みるみるうちに目に涙が溜る。
「泣きます。皆で泣きますから」
ぽたりと涙がこぼれる。
レグルスはあわあわと、辺りを探った。何もないので仕方なく、袖を引っ張ってしゃくりあげるフェリトの目元を拭う。
「フェリト、泣いちゃダメです。大人なんだから」
「だっ、だっで、レグルスさばがっ…いなくっ、いなくなるっ、なんでっ、ごと、おっじゃるっがら…!うわああぁん!!」
「ごめんなさいっ。いじわる言いました。だから泣かないでください~!」
椅子から飛び降りて、フェリトの肩に手を回す。ぎゅうっと抱きしめた。それから、いつも家族にやってもらうようにポンポンと肩を叩く。
だが、フェリトはぐずぐずとしゃくり上げるばかりで、全く泣き止む様子がない。
すっかり困ってしまったレグルスは、幼子のように泣くフェリトに僅かな羨ましさを感じながら、よしよしと頭を撫でる。
「…何、やってるんですか?」
お茶の支度を整えて戻って来たマリスが、呆れた声をかけた。
レグルスが情けない顔で、マリスを振り返る。
「マリス、助けてくださ~い……」
「うえぇぇぇ…」
マリスは眉を顰めた。
取りあえずレグルスからフェリトを取り上げ、首根っこを掴んで引っ張り立たせた。涙で酷い顔になっている。
「顔を洗って来い。少し落ち着け」
「洗面所、使っていいですよ」
「レグルス様もこう仰っている。有難く使わせて頂いてこい」
そう言って、隣の水場へ追いやる。パタンと扉を閉じ、今度はレグルスの姿を見る。
ヨタヨタと立ち上がるレグルスは、すっかり疲れ果てていた。視線を落とせば、シャツが濡れている。涙だけなら我慢もするが、どう見ても鼻水もついている。もしかしたら涎も付いてるかもしれない。
「…マリス、お着替えをください」
「はい」
マリスは笑いを堪えながら、初めてのレグルスからの着替えの要求に応えた。
着替えてさっぱりしたところで、ようやくお茶を貰えた。
甘い香りのお茶は、フルーツのフレーバーを混ぜたお茶だ。今日はオレンジティーだという。
そこにいつもより多めの砂糖を溶かし、レグルスはご満悦である。料理長お手製のオレンジを練り込んだマフィンも添えられている。
久しぶりにふにゃりと頬を緩ませて、お茶を楽しむ。カップを置いてマフィンを取れば、そのままかぶりついた。美味しくてあっという間に平らげてから、はたと我に返る。
「……あれ?ぼく、夜ごはん、いらないって言ったのに……」
「…もう一つ、召し上がりますか?」
「いただきます」
差し出されたマフィンに、反射的に手を伸ばす。それからレグルスはやはり首を傾けた。だがもぐもぐとマフィンを食べ始める。
やっぱり夕飯は軽めでいいなと、三つ目のマフィンを用意しながらマリスが内心でほくそ笑んだ。
結局マフィンを五つ平らげ、夕飯は部屋でスープのみになった。
執事からその報告も受けつつ、グランフェルノ公爵は妻から昼間の話を聞いていた。彼の目の前には分家の娘が持ってきたというリストがある。
妻がにっこりと微笑む。
「こちらは私がお預かりしてもいいでしょう?」
「お前が?」
「ええ。女性は女性同士の方がお話しやすいでしょう?」
「・・・・・」
その会話に持ち込むまでの過程が気になるが、敢えて何も聞くまい。
「好きにすればいい」
それだけ言って、溜息を吐く。
その理論でいけば、男は男同士で話が通じやすいはずだ。だが、王位継承の話を知られて以来、公爵はレグルスとほとんど話をしていない。話をしようと思って早く帰っても、部屋から出てこないのだ。
大人の理屈を押し付けていると解っている。そうしてしまった原因の一因が自分にあることも。
椅子に沈みこんだ公爵に、妻が困った様子で笑う。
「あなたはレグルスとお話しませんの?」
「……そのうちな」
「あらまあ、弱気なこと。家出されても知りませんよ?」
妻の言葉が心に刺さる。
あれから議会に何度も撤回要請を出しているが、傾いた天秤を戻すのは難しい。まして、それから逆方向に傾かせようなどと。
再び溜息が漏れた。
「あなた、眉間に皺。またレグルスに伸ばされるわよ?」
「伸ばしに来てくれるなら、喜んで作るさ」
姿を見かけただけで、泣きそうな顔で逃げていくのだからどうしようもない。以前は両手を伸ばして飛びついてきてくれたというのに。
真逆の状況も自業自得だ。
たとえ第二位の継承権が与えられても、あの子をこの家から出すつもりはない。王宮で教育をと言われているが、こちらに教師を呼べばいいだけだ。あの子からグランフェルノの名を取り上げるのは、万が一…本当に最悪な事態になった時だけだ。
それはもうレグルスに伝えてある。けれど、あの子の表情が晴れることは無かった。
その根底に、かつての自分が放ってしまった一言があることは、容易に推測できる。偽物かもしれないという噂は、貴族間でも実しやかに流れ続けている。
深い溜息が出る。
心は逸っていた。近衛に一目もくれず、自ら扉を開けてしまうほどに。そしてその後ろ姿に。声もかけずに前に回り込んだ。そして変わり果てた姿に言葉を失った。
そんな中でかけられた一言に、心は一瞬で凍り付いた。
今なら解る。
あの時レグルスは、光の差し込む窓際で本を読んでいた。そこに自分が光を背に立つ。明るさになれた瞳は、急に出来た影を正確に映すことは無かったはずだ。まして逆光の中では、顔は勿論、髪と瞳の色も真黒に染まっていただろう。
ふと、手に温かいものが触れた。視線を向ければ、妻の手が重ねられていた。
彼女は穏やかな笑みを公爵に向ける。
「それでもレグルスは『父様』が大好きなのよ」
公爵の手を撫でながら、笑みが苦笑いに変わる。
「こんな人なのにね。仕方のない子」
「…そうだな。こんな父親なのにな」
公爵は妻の手を握った。それからやはり溜息を吐く。
そして妻に手の甲を抓まれるのである。
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沢山の拍手、ありがとうございます!