偽りと思い出
レグルスの元気がない。一応気を遣っているのか、いつも通りに振る舞っているつもりなのだろうが。
意欲も集中力も欠けた生徒に熱心に教えるほど、グランフェルノ家の教師たちは優しくない。
勉強もマナーも、剣の稽古も強制終了になり、レグルスは一人部屋に籠っていた。
大好きな冒険の物語も、内容が頭に入ってこない。早々にテーブルに投げ出し、椅子の上でぼんやりする
父と共に王宮に赴いてから、レグルスの様子は変わってしまった。言葉は僅かな返事ばかりで、自分から積極的にお喋りすることをやめてしまった。食もだんだん細くなってきている。
夜もあまり眠れていない。夜中に頻繁に起きるようになった。眠りが浅い様子で、昼間もうつらうつらとしていることが多い。
そのせいで授業に身が入らないのではと言われるが、本人にもどうしようもない。
レグルスは欠伸を一つ、噛み殺す。
起きていても眠っていても、レグルスには辛いことしかない。現と夢の境を往復するこの微睡みの時が、今のレグルスの唯一の安らぎの時だ。
起きていれば退屈を持て余し、眠れば過去の孤独を思い出し、受けた悪意に襲われる。
――お前に兄などと呼ばれる謂れは……
――お前が間違いなく本物の……
――途中で入れ替わったという可能性もある
――…誰が証明する?
「ぼくは、だぁれ……?」
――いてもいなくても同じ……!
「ぼくが、いなくても……いなくなれば良かった………?」
「馬鹿な事を仰らないでください」
冷ややかな声に、レグルスは泡沫の時から現実に戻る。
のろりと顔を上げ、声の主へ仄かに笑いかける。
「マリス。どうかしましたか?」
「……」
マリスの眉間に深い溝が刻まれる。しかし彼は余計な事は言わなかった。
「奥様が観劇にお出かけになられるそうです」
「…劇……?」
「レグルス様もご一緒にと仰っておいでです。準備いたしましょう」
出かける気分ではないが、逆らう気力もない。
レグルスは促されるまま椅子を降り、外出着へと着替えさせられた。手を引かれて、玄関に向かう。
ホールでは既に支度を整えた母親が姉と共に待っており、レグルスの姿を見つけて微笑んだ。
「早かったのね」
「……」
レグルスは無言で母を見上げる。マリスに外出用のフード付きの外套を羽織らされれば、全ての準備は整った。
母が差し出す手を取る。
「姉様は行かないのですか?」
「これからお友達が来るのよ。だから行けないの」
姉が拗ねた様子で言った。レグルスは首を傾げる。
「本当はティアと一緒に行くはずだったの。でも行けなくなってしまったから、レグルス、付き合って頂戴」
「楽しみにしてたのに!もうっ。ホントに間が悪いわ!」
姉が地団太を踏む。そしてぎゅうっとレグルスを抱きしめた。
「代わりに楽しんでいらっしゃい!つまんなかったなんて言ったら、承知しないから!!」
「……」
「最近評判が上がってる役者が出るのですって!感想聞かせてねっ」
「ふふっ…はい、姉様」
心底悔しそうな姉に、レグルスは苦笑いを漏らした。アルティアは口を尖らせつつ、レグルスを放した。
母と共に馬車に乗り込む。並んで腰かければ、母に肩を抱き寄せられる。
「今日はまた冷えるわねぇ」
「母様、ぼくは湯たんぽじゃありませんよ」
「うふふ。子供は暖かくていいわね」
体に両手を回され、きゅっと抱えられる。文句を言いつつも体を寄せれば、母はゆったりとした手つきで頭を撫でてくれた。
再び睡魔が手招きを始める。
母にも姉にも気を遣わせていることに、レグルスは気付いている。けれどどうしようもない。
時々顔を上げて母を見る。母は小首を傾げるが、何も言えずに再び俯いてしまう。ぴったりと体をくっつければ、「まあまあ」と笑い、ギュッと抱きしめてくれる。
自分の考えが間違っていることは知っている。けれどどうしようもなく、それを打ち消せない。出来るのは、束の間の微睡みの世界で、考えることそのものを放棄することだった。
うつらうつらとすれば、馬車がはねて目を覚ます。それを数回繰り返した後、馬車は目的地へと到着した。
今日は前回と違う劇場だった。規模も王立演劇場に比べれば小さい。王都最大規模の劇場と比べるのは浅はかだが。
母と共に降り立ったレグルスは、ぐるりと劇場内を見渡した。
華やかだが重厚感もあった王立演劇場とは、やはり違った。華美が過ぎて、どこか安っぽい。
外套を脱ぎ、やはりフード付きのローブ姿となったレグルスに、係員が驚く姿はいつもの事であるが。
客層も少し違うように思える。あの時も観客は貴族ばかりではなかったが、もう少し洗練された落ち着きがある人が多かった。年配の老夫婦が多かったようにも思う。
今日は随分と若い娘たちが集まっているようだ。あちこちで上がるきゃあきゃあという甲高い声が騒がしい。上流貴族の娘たちは、こんな場所で騒ぐ行為ははしたないと躾けられるから、下位貴族か裕福な家柄の娘たちだろう。
「…質が落ちたわねぇ」
どこからかそんな声が聞こえてくる。
レグルスは耳をそばだてた。
「支配人が変わったせいかな?」
「前の方は、王立劇場へ抜擢されたのでしょう?」
「新しい方はどうも…ねぇ?」
ひそひそと交わされる言葉に、レグルスは握られる手に力が籠った事に気付いた。顔を上げる。そこに僅かに柳眉を顰める母の顔があった。
レグルスはそっと手を引っ張る。
「母様、席に行きましょう?」
母は我に返ると、我が子に微笑んだ。
まだ時間はあるが、これ以上ここにいてもあまり良くなさそうだ。公爵夫人は息子の手を引き、さっさと桟敷席へと入ってしまった。
中には夫人の姿を見つけた知人もいたが、無理もないと首を左右に振って話しかけることを諦めた。
個室に入ってしまえば、中にまでやってくる無粋なものはいない。レグルスは置かれた椅子を引っ張り、二つが隙間なく並ぶようにくっつけた。
「今日はどんなお話なのですか?」
「歌姫と海賊の恋物語よ」
「海賊…」
レグルスは意外そうに目を見開いた。
恋愛物なのは女性だから仕方ないとして、野蛮な輩を英雄視した劇を母が見るとは思わなかった。
蛮族や犯罪者を題材にした劇は多い。だが、貴族の好みは別れるという。所詮は賊と、快く思わない者が多いらしい。
母は物語は物語ときっちり分けていそうではあるが、何となく、そういうものは好まないように思っていた。
「レグルスは海賊のお話も好きね?」
「はい…でもお話の海賊は、とってもいい人に描かれていますから」
「そうね。今日のお話の海賊は、善い人ではないわねぇ」
母はくすくすと笑いながら、レグルスの頭を撫でている。
レグルスが読む物語の海賊は、無駄な争いはしない。私腹を肥やす役人を懲らしめたり、横暴な貴族たちから平民を守ったりするのだ。だから面白い。
現実は違う。海賊は海賊なのだ。商船を襲い、荷を奪う。その結果、多くの船員が死に、商人たちが困窮する。
父母はそういった現実を知っているからこそ、敢えて観ないのではないかと思いこんでいた。
「とある港町の劇場の人気女優だった歌姫を、海賊の頭が気に入って、無理矢理浚ってしまうの」
「……ひどいです」
「ええ。歌姫はとっても怒って……あら、これ以上言ってしまったら面白くないわね。後は見てのお楽しみ」
母が指先でチョンと額をつついた。
劇は前よりずっと見やすい話だと教えてくれた。元は、舞台に興味のない人や子供たちが見やすいよう、解りやすく作られたものだという。それにしては話の展開が面白いので、広く人気のある舞台なのだそうだ。
興味をそそられたのか、少しだけレグルスの表情に変化が出た。肘掛けに手を置き、前のめりになってくる。
「姉様おすすめの役者さんはどんな人ですか?」
「お母様も噂でしかまだ存じ上げないの。だから今日姿を見れると聞いて、楽しみにしてきたのよ」
「エルドやフィルは出ないのですか?」
「ふふふっ。レグルスはあの二人がお気に入りね。残念だけど、今日は出ないわ」
「なんだ……」
「でも、また気に入る役者が出るかもしれないわ。期待しましょう」
あからさまにがっかりするレグルスに、母は顔を近づけた。額を合わせる。
「アルティアも言っていたでしょう?楽しんでいらっしゃいって」
「…怒られちゃいますか?」
「顔を真っ赤にして怒るわね」
目を合わせ、二人でくすくすと笑った。
母が上体を起こす。レグルスが未だ被っていたフードを外し、ゆるく束ねた髪を解く。
レグルスは首を傾けた。
「母様。解くと邪魔なのです」
「劇が始まる前にまた結んであげるから、大丈夫よ」
さらさらと流れる髪を、母は手櫛で梳く。感触を楽しんでいるようだ。
レグルスも、母の細い指で撫でられるのは嫌いではない。目を細めて、肘掛けに体を乗せる。
椅子はくっつけたが、肘掛けの分、どうしても間が空くのだ。大人にとっては大した幅でなくても、子供で、しかも体の小さいレグルスには結構な距離に感じる。
撫でろと言わんばかりのレグルスに、母は声を立てて笑う。
「貴方が生まれた日のことを思い出すわ」
「ぼくが?」
「男の子だって聞いて、少しがっかりしたのだけれどね」
レグルスが眉を下げれば、母はコロコロとよく笑う。
「だって、女の子じゃなきゃと思ったのだもの」
「…姉様がいるじゃないですか」
「そうよ。頑張って生んだ娘なのに、アルティアも旦那様に似てるんですもの」
「……姉様は、母様にも似てますよ?」
「上二人に比べればね」
母はほうっと溜息を吐く。空いた手を頬に当てる。
「母様はね、母様に似た子が欲しかったの」
「はい?」
「シェリオンが生まれた時、あんまりに旦那様にそっくりで…がっかりしてしまったの」
母は盛大な溜息を吐く。自分に似たところを探すが、年々父親に似ていき、未だに一つも見つからないと嘆く。
もちろん、母とて最初からそんな事を望んだわけではない。けれど見事なくらい父親の遺伝子しか受け継がなかった長男を見て、少しくらい自分に似てもいいじゃないかと嫉妬したのである。
次男と長女は髪と瞳の色を受け継いでくれたが、容姿に関してはやはり父親の方が濃い。
母はレグルスの髪を撫でる。
「髪と目の色はやっぱり旦那様に似ちゃったのだけれど…母様に似てくれて嬉しかったわ」
生まれたばかりの赤ん坊を見て、どちら似か見分けられるのは、やはり親の愛情のなせる業だろうか。
母は微かに笑ったが、すぐに表情を曇らせる。
「でも男の子なのよ」
「…ぼく、要らなかったですか……?」
「男の子が女親に似ても、嬉しくないでしょう?私がもう少し厳めしい顔なら良かったのだけれど」
一瞬顔を引きつらせたレグルスだったが、そのあとに続いた言葉に慌てて首を左右に振った。
「そんな事ないです!母様に似てるって言われて嫌だったことは無いのです!!」
「でもごめんなさいね。美人になっちゃって…少しでも方向転換して、凛々しくなってくれたらいいのだけれど」
「美人さんでもいいのですっ。いかつい母様は嫌ですぅっ!」
必死の訴えに、母は小さく噴き出した。きゅっと抱きしめる。
「そう…よかった」
「母様は綺麗で優しくて柔らかいのがいいです」
「私が母様で良かった?」
「はい」
レグルスはふにゃりと笑う。つられるように母も笑った。
そろそろ頃合いかと髪を結び直す。息子に後ろを向かせ、髪を束ねる。リボンを結ぶと、椅子に座り直させた。
丁度良く、開演時間が近いことを告げる鐘が鳴る。今まで外にあったざわめきが劇場内に移動してくる。
レグルスは大きく欠伸をした。再び睡魔が襲ってくる。だが今は微睡むことは許されない。頭を振って、眠気を払う。
隣から笑い声が聞こえてきた。
「退屈だったら眠ってしまいなさい」
「でも……」
「アルティアに怒られそうになったら、役者のせいにしてしまいなさいな。下手な役者さんのせいでつまらなかったって言えばいいわ」
手を握られ、レグルスは目を細める。ギュッと握り返した。
照明が落とされ、舞台に光が集まる。
二人は舞台の方へと視線を移した。
海賊の頭が、港町の歌姫に恋をした。彼は力で歌姫を奪ったが、彼女は激高した。海賊の脅しに一歩も怯まず、逆に海賊を翻弄する。
『ああ嫌だ。こんな汚い船室で過ごせというの!?』
『歌えですって?こんな場所で?冗談はよして頂戴』
『私の歌が聞きたいのなら、場所を整えてから言いなさい!!』
そんな強いヒロインに、海賊たちはたじろぐばかり。
特に彼女をさらった頭は、惚れた弱みもあって振り回される。
力づくで言う事を聞かせようとすれば、彼女は吼える。
『嬲りたければ、好きにすればいい!殺したければ殺しなさい!私の魂はそんなものに穢されはしない!!』
平民であるはずの歌姫は、まるで女王の如く毅然と海賊たちに対峙する。
けれど、彼女も女性。狭い船室に閉じ込められ、辺りに人気がなくなれば、ひっそりと涙を零す。
『人は誰も、いつかは死ぬ…それが早いか遅いか。大往生するか、志半ばで逝くか。それだけの違いよ……』
一人呟いた言葉を、扉の向こうで海賊の頭が聞いている事も知らずに。
灯りが戻ってくる。休憩時間に入ったようだ。
いつの間にかのめり込むように見ていたレグルスは、はっと現実に返った。隣を仰ぎ見る。
母はおっとりと微笑んだ。
「面白かった?」
「はい!」
歌姫と下っ端海賊たちのやり取りはまるで漫才を見ているようだった。合間に挟まるシリアスとのギャップも楽しい。
母が立ち上がるので、レグルスも椅子を降りた。個室を出る。
外は既に騒然としている。
ホールには軽食や飲み物が用意されていて、幾つかの塊が出来ていた。
公爵夫人はグラスを二つ取ると、不安げに辺りを見回すレグルスに一つ手渡した。中身は果実水のようだ。一口含めば、甘い香りが鼻を抜ける。
思いのほか喉が渇いていたらしい。レグルスはあっという間にそれを飲み干してしまった。まだ物足りなくて、辺りを伺う。
母が新しいものを渡せば、レグルスの頬が緩む。小動物を思わせる様子で、こくこくと果実水を飲んでいると、公爵夫人の知り合いらしい女性たちが集まってきた。
「ご機嫌よう、シェーナ様」
「ご機嫌よう。リリアーヌ様も、今年は王都でお過ごしになられたのかしら?」
「一度は戻りましてよ。公爵家のパーティに呼ばれましたでしょう?偶には王都で一冬越してみるのも一興かと思いまして」
「うふふ。リリアーヌ様ったら…本当の事を仰い。単に旦那様と喧嘩中なだけでしょう?」
「まあ…!あのお優しい伯爵様を怒らせたの?」
「ペネロピー…後で覚えてらっしゃい」
リリアーヌという女性は恨めし気にペネロピーを睨み、ツンと顎を上げた。口元を扇で隠す。
母とほかの女性たちが顔を見合わせ、くすくすと笑いだす。
どうやら彼女たちは母の親しい知人のようだ。話しぶりからして、少女時代からの友人ではないかと思われる。
レグルスは邪魔にならないよう、壁際まで下がろうとした。ふっと頭上に影が落ちる。
「えいっ」
少女の高い声。共にフードが落ち、甲高い歓声が上がる。
レグルスが視線を上げれば、満面の笑みを浮かべた少女がいる。レグルスは理解できなかった。なぜこんなにも視界が広いのか。成人して間もない年頃だろう少女が、こんな笑顔を見せているのか。
「……え………?」
「すっごい!綺麗な子ぉ!!」
「何で隠したりするのかしら?」
「やだ。エミリアってば、いい仕事したわね!!」
唖然としたままレグルスが頭に手をやれば、さらりと髪がこぼれ落ちた。フードを取られたことに、ようやく自分でも気付く。慌てて被り直そうとすれば、少女の手に邪魔される。
「どうして被るの?そのままでいいじゃない」
パンっという高い音が響き、少女が悲鳴を上げた。
レグルスが顔を上げれば、表情を消した母がいた。少女の手を打ち据えた扇を開き、口元を覆う。レグルスの視線に気付けば、ふわりと微笑んだ。フードを持ち上げ、被り直させる。
レグルスは母にしがみ付いた。震える手で、しっかりと母のドレスを掴む。
「ちょっと、何するのよ!」
「乱暴ね!」
少女の金切り声がホールに響き渡り、公爵夫人は柳眉を顰めた。息子の肩を抱き寄せ、少女たちに冷ややかな視線を向ける。
「何を仰っているのかしら…?」
「いきなり人を叩くなんて失礼じゃないの!」
「……仰る意味が解らないわね」
ゆっくりと言葉を紡ぐ公爵夫人は、後ろに控えていた友人たちを振り返る。
「ねえ?こちらの方々は、どちらのお生まれなのかしら?皆様、言葉の意味を理解出来て?」
「いいえ、公爵夫人」
「わたくしも。共用語くらいなら出来ますけれど、野蛮な民衆の言葉まではちょっと……」
蔑むような視線と共に、くすくすという笑い声が漏れる。
少女たちがいきり立つ。
「何ですって!貴族だからって、偉そうに……!!」
「アンタたちなんて、中年のおばさんじゃない!!」
「あらあら。お顔が真っ赤」
「お猿さんみたいね」
「あら?着飾らせたら、お猿の方が可愛いわよ」
「そうねぇ…ああ。もちろん母様にとって、一番可愛いのは貴方よ」
そう言ってレグルスを両手で包み込む。
母に抱きしめられて、レグルスはほっと息を吐く。少女たちの金切り声が辺りに響くが、母の腕に阻まれて遠く聞こえる。
微笑ましい母子の姿だったが、貴婦人たちに和んでいる暇は無かった。さりげなく動いて、公爵夫人の前に出る。
「なんて野蛮な」
「見知らぬ者の衣服を、いきなり剥ぎ取るなんて」
「夜盗の家か?」
「身の程知らずにも程があるわ」
ひそひそと囁きあう声。
少女たちの耳にも届き、辺りを見回す。そこは既に非難の視線しかなかった。
少しでも上流階級を知るものならば、グランフェルノ公爵夫人の姿は必ず覚える。貴族であれば、ここに集まった貴婦人たちを敵に回そうなどと考えない。
社交界を牛耳る貴婦人達。必要とあれば、情報を操作し、好評も悪評も変幻自在に操る事が出来る女性たちという意味でもある。
彼女たちはただ守られるばかりのか弱いご令嬢ではない。まして、姦しく騒ぎ、罵声を浴びせることしかできない少女たちとは雲泥の差だ。
狼狽えだす少女たちを後目に、公爵夫人はレグルスの背を撫でていた。ようやく落ち着いてきたのか、ドレスに顔を埋めていたレグルスが目線を上げる。
「もう帰りましょう。お母様、気分が悪くなってしまったわ」
母の提案に、レグルスは素直に頷いた。舞台の続きは気になるが、また観る機会はあるだろう。
レグルスが母の手を握る。母はにっこりと笑って、その手を引いた。
「皆様、ごめんなさい。失礼しますわ」
「また今度、ゆっくりお話しいたしましょうね」
ある種のパニック状態だったレグルスは、ようやく我に返った。母の友人である夫人たちに何も挨拶をしていない。せめてこれだけでもと、ぺこりと頭を下げる。
彼女たちの目が優しく微笑んだ。
「ご子息も。ご挨拶が受けられる日を楽しみにしておりますわ」
それを聞いたレグルスは唐突に理解した。彼女たちは最初から自分の事も解っていて、母にだけ声をかけたのだ、と。母も解っていて、自分を紹介するような事はしなかったのだと。
母を見上げれば、小さく頷かれた。
温かいものを注がれたような気がして、胸の辺りを抑える。
だが、そこに冷水を浴びせかける者がいた。
「な、によ…どうせニセモノなんでしょ!!」
レグルスの足が止まった。顔が強張る。
叫んだ少女に視線が集まり、辺りがざわめいた。少女はレグルスの素性を推測したらしい。グランフェルノ家の青銀の髪は有名な話だし、行方不明の際は大掛かりな捜索も行われた。レグルスの容姿は少なからず出回っているのだ。
少女が苦し紛れの嘲笑を浮かべる。
「知ってるんだから。グランフェルノ家の末息子は、真っ赤な偽物。公爵家は家族は勿論、使用人までみ~んな騙されてるって」
「……今すぐ口を閉じなさい。ミレー・ブランカ」
地を這うような声に、レグルスでさえ身を竦めた。
公爵夫人がゆっくりと振り返る。氷のような視線が少女を貫いた。名を呼ばれた少女からはさあっと血の気が引いていく。
少女たちの暴言は、夫人たちが自分たちの素性を知らないと思っていたからこその言葉だ。全てを知られれば、そのあとに待ち受ける運命は簡単に想像がつく。
ミレー・ブランカの家は大手の商会である。公爵夫人がお茶会で一言、「あの家の娘は良くない」と言えば、商会にまで被害が及ぶのは目に見えている。
ふっと公爵夫人が微笑む。
「噂話が楽しいお年頃なのはわかるけれど…ねぇ?口にしなければ理解出来ないほど愚かなのかしら、ミレーは」
少女は激しく首を左右に振った。震える足で何とか立っている。
公爵夫人は笑みを深くする。
「解って貰えて嬉しいわ」
公爵夫人が視線を外す。すっと踵を返せば、我が子の手を引いてエントランスへ向かった。
途端、少女がその場に崩れ落ちる。その場で泣き始める。
しかし彼女に手を貸す者はいない。友人であったはずの少女たちさえ遠巻きに眺めるだけだ。厄介ごとに巻き込まれたくないというのがありありと解る。
やじ馬たちはひそひそと言葉を交わしながら、そそくさと客席へと戻っていく。貴婦人たちも例外ではない。冷たい一瞥を少女たちに残し、扉の向こうに消えた。
公爵夫人は息子に外套を着せると、自分も毛皮のコートを羽織って建物を出た。
外は再び雪が降り始めていた。馬車が来るのを待ちながら、夫人はレグルスを抱き寄せた。
御者のリッティには夫人の具合が良くないと告げた。心配そうな彼に夫人は「大したことはないの」と笑って告げた。
レグルスは馬車に乗り込むなり、母の膝に頭を乗せた。顔を伏せ、ギュッとドレスを掴む。
「おばかなお嬢さんがいたものね。母様がレグルスを間違えるわけないのに」
母はレグルスの頭を撫でながら、くすくすと笑う。
けれどレグルスの様子が変わることは無く、母に縋りついた手は小さく震えていた。
「私の可愛い坊やは甘えん坊さん。歩くときは頼りなくて、走るとすぐに転んじゃうの。でもね、坊やは強い子だから、絶対泣かないのよ」
まるで歌うような声が上から降ってくる。
「でもおめめに涙をいっぱい溜めて、情けな~いお顔で母様を見上げるの。いたいです~って、母様に抱き付いてくれるのよ。それがたまらなく可愛いの」
レグルスは少しだけ顔を上げた。
「悪趣味です……」
「うふふ。だって可愛いんですもの」
相変わらず母からはレグルスの顔は見えない。ゆっくりと頭を撫で続ける。
「でもね、可愛い坊やが痛がっている姿を見るのは、やっぱり辛いわ。だから必ずおまじないをしてあげるの。坊やが笑ってくれますようにって」
母の手が頭から背中に移った。円を描くように、背を撫でる。
「いたいのいたいの飛んでいけ。遠いお山に飛んでいけ」
そう言って、背中から何かを払うようにポンポンと叩いた。
レグルスは上体を起こす。そして母を見上げた。
「お山が『痛い』って泣いちゃったら、どうするのですか…可哀想です」
「ふふふっ。お山は大きいから大丈夫よ」
「でも…」
「お山の地面を思いっきり削ったって、お山の形は変わらないわ。小さな貴方の傷なんて、掠り傷にもならないのよ」
母がレグルスを抱きしめる。そして背を丸く撫でながら「飛んでけ、飛んでけ」と囁く。
レグルスはへにょりと眉を下げ、母の胸に顔を埋めた。
誤字脱字の指摘、お願いします。
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