北国の王様
いつもより文字数多め。
新しい年も一月ほど過ぎ、市井はすっかり日常を取り戻している。
大国といえど、寒さの厳しいリスヴィア王国では冬の旅行者は少ない。王都セランディアルトでも、行き交うのは住民ばかりだ。
その中に男は紛れていた。金髪碧眼の美丈夫。身なりは良かったが、貴族の街歩き程度にしか思われていないのだろう。特別目立つ事は無く、堂々と歩いている。
男が歩いているのは市場だ。少し時間をずらしたため、人はそれほど多くはない。目に付いた店を覗き、店主に声を掛けられ、人好きする笑みを浮かべて愛想よく相槌を返す。そして店主から試食と称して、売り物にならないものを一つ二つ渡される。
そんなこんなで、通りを抜ける頃には何やら大量に抱えていた。
――何故こうなった。
男は苦笑交じりに、荷物を抱えなおす。そして再び歩き出した。
通り過ぎた路地から、微かな声が聞こえた。争うような声だ。
男はとととっと後ろ歩きで角まで戻る。覗き込むが、そこには誰もいなかった。声も聞こえない。首を傾げれば、更に奥の方から金属音が聞こえてきた。
男は路地へ足を踏み入れた。
生活道路である路地は酷く狭い…というほどではないが、広くはない。馬車は通れないが、人が並んで歩いてもすれ違うのに体をよじる必要はない。
声が聞こえた。複数の男の声だ。訛りから、この国の人間ではないと思われる。
男は生活道路の更に細い道の真ん中に立った。
「何をしている?」
突然かけられた声に、ならず者達の肩が一瞬跳ね上がった。彼らの向こうには地に伏せる青年。そして彼らの肩には女性と思しき布に包まれた人。長い髪が布からはみ出ている。
男は溜息交じりに言った。
「おいおい、勘弁してくれよ。何だってこんな北国まで来て、わざわざ人攫いなんかするんだよ」
ならず者達が視線を交わし合う。そろって武器を抜いた。
男は肩を竦める。恐れた様子はない。すうっと目が眇められる。
ならず者は五人。それが一斉に襲いかかってくる。だがそこは狭い裏道。せいぜい二人一緒が限度。剣なんて振り回せば、さらに狭い。よほど息を合わせなければ無理だろう。しかも一人は大きな荷物を抱えている。
綺麗に一列に並んでくれたならず者の先頭が、剣を振り上げる。
男は慌てず騒がず、ガラ開きになった腹に蹴りを喰らわせた。反撃など予想もしていなかったのか、ならず者は思いっきり吹き飛んだ。後続を巻き込んで。
しかし最後尾まで届かなかったようだ。
――そういえば、人質がいたんだった。
男ははたと我に返る。
ならず者の小汚い剣が、地に伏せていた青年の首元に当てられる。呻きながら立ち上がった男が、落とした荷物にも。
男は舌打ちを洩らす。黄金の髪に手を突っ込み、無造作に掻き回す。
その様子に、ならず者達が歪んだ笑みを浮かべた。体勢を立て直し、倒れていた者たちが男に剣を向ける。
それでも男は慌てた様子を見せなかった。空を仰ぎ見る。
「捕えろ」
『御意』
どこからともなく声が聞こえたと思えば、突風が吹き荒れた。ならず者達が堪らず悲鳴を上げる。だがその声も風に掻き消された。
やがて風が微風に代わり、男の髪を撫でて流れていった。辺りに静寂が戻る。
あれだけ強風が吹き荒れたにもかかわらず、全く被害はない。そしてならず者達の姿が消えていた。残されるは攫われそうになっていた二人。
青年が起き上がろうとしていた。だが、力が入らないようで再び伏してしまう。
男は青年に近付いた。
「何か薬でも使われたか?」
手を伸ばせば、青年が渾身の力で振り払った。それが精一杯だったが。意識が薄れていく。
男は青年に呼び掛けた。
「おいっ。こんなところで気絶すんな!二人も運べん!!」
肩をゆするが、青年はピクリとも動かなかった。
男はぴしゃりと額を叩いた。それから辺りを見回す。人通りはない。
青年はそのままに、女性の状態を確認する。意識はないが、呼吸はしっかりしている。特に怪我をしている様子もない
「さあて…どーすっかなぁ」
男は低く呟いた。
グランフェルノ家の執事は、突然の来客如きで動じる性格ではない。
たとえその客がこの国で最も尊き存在だとしても。何故か荷車を曳いてきても。その荷車に載せられていたのが、古布に包まれたエルフだとしても。
一仕事終えたような清々しい笑顔で現れた男を、執事は慇懃に迎え入れた。
◆◇◆◇◆◇
里に謎の奇病が発生したのは、二年前になる。
肌の変色から始まるそれは、やがて爛れていく。そして酷い苦痛を伴い、骨や内臓までも溶かしていった。
原因は不明。勿論治療法もない。医学に長けた仲間や人間の医者までも頼ったが、病は一向に収まる気配はなかった。それどころかどんどん広がっていく。
患者を隔離する処置はすぐさま取られたが、それでも緩やかに、病は里を侵食していった。
里にはたまに、人間も訪れる。しかし、彼らにうつる気配はなかった。種族の違いなのか、それとも……疑念が湧く。
だがその時、病に苦しむ仲間を献身的に見てくれていたのは、老いた人間の医者夫婦だった。彼らの後を継いでいるという息子も人間の町と里を行き来し、情報や珍しい薬草を入手してきてくれた。そんな彼らまで疑うのは忍びなく、誰もが口を閉ざした。
そして一年半ほどが過ぎた頃、息子医師がある情報を持ってきた。
――北の国の競売会に、『生命の水』という薬が出品されているという――
それは伝説の薬だという。万病に効く、赤い水……
話自体は知っている。しかし、それは人間に伝わるものだ。薬が仲間たちに効くとは限らない。
彼も…老医師の息子もそう言っていた。
『生命の水』がエルフに使われたという話は無い。そもそも、その『生命の水』が本物という保証もない。
それでも。
見慣れぬ天井は、華やかな文様が描かれている。
ぼんやりと見つめていると、姉の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。それに子供のはしゃぐ声。
すいっと目の前を何かが通り過ぎた。風の精霊だと気付くのに、そう時間はかからない。彼らの起こした風が、ふわりと室内を流れていく。
「わぁ…いい香りです~」
「そうでしょう?精霊の悪戯は、人を困らせる物ばかりではないのよ」
何となくぼんやりしていた声が、鮮明になってくる。手を握ったり開いたりを繰り返し、体に力が入るのを確認した。ゆっくりと上体を起こす。
意識をなくす前の事は覚えている。妙な男たちに絡まれて、変な匂いが辺りに充満して、全身の力が抜けた。姉はあっという間に気を失い、彼も為す術なく地に伏せた。
そんな時に現れた、奇妙な男。仲間かと思ったが、そうではなかったらしい。
奇妙な技を使う男だった。魔法による突風が吹き荒れたと思えば、ならず者達が消えた。
不審に思い、手を振り払ってしまった。が、それ以降の記憶がない。気付けばこの部屋だ。
子供が水を掬うように両手を合わせれば、その手の中に精霊が収まった。子供が笑う。
「きれいなのです」
精霊は好き嫌いがはっきりしている。いくら姉が側にいるからと言って、何をされるかわからない相手の手の内に座るような真似はしない。
姉に促され、子供が精霊を乗せた手をかざす。精霊はふわりと浮かびあがり、子供の周りをクルクルと回った。緑の光の残像が子供を囲む。子供が手を叩いて喜んでいる。
青銀の髪に、薄い水色の瞳。服装から少年だと解るが、少女にも間違えられそうな淡麗な容姿。精霊の好みそうな子供だ。
自分を包む光に見惚れていた子供の顔がこちらを向いた。目が合う。その目が驚いたように見開かれる。
「…起きて、大丈夫ですか?」
その言葉に、姉が勢いよく振り返った。険しかった顔がくしゃりと歪み、目に涙が浮かぶ。
「……イシュ」
「フィーアラナ。ここはどこだ?」
イシュルタールはぶっきらぼうに訊ねた。フィーアラナは涙を拭う。
「貴族の家。助けてくれた男性が連れて来てくれたの」
「あの男の家か」
「いいえ。その人の従弟だって。彼の家より、ここの方が近かったからって言ってたわ」
イシュルタールはベッドの端に座った。サイドテーブルに彼の付けていた上着や装飾品が、綺麗に並べられている。
それらを眺めながら、改めて訊ねる。
「ラナは?もういいのか?」
「ええ。私はすぐに気を失ってしまったから、眠り香を吸った量が少なかったみたい」
「なら良かった」
沈黙が下りる。
そんな中、微かな衣擦れの音がした。子供が床に手をついて、立ち上がっている。
「ルー小父様に伝えてきます」
パタパタと扉に駆けていく。重そうな扉を掛け声一発押しあけて、向こう側に姿を消した。
見送りながら、変な子供だと思う。貴族の子供なら、ベルで使用人を呼んで言付けて終わりだろうに。
フィーアラナも優しい目で見送っていた。視線を戻せば、呆れ顔のイシュルタールと目が合う。彼女は気まずそうに顔を背ける。
「可愛いでしょう?レグルスっていうんですって」
「ここの子供か?」
「末っ子のせいか甘えん坊で困るって、人間の魔法使いさんが苦笑いしてたわ」
突然の来客に興奮して、午後の授業の半分を棄てたとは言わない。家庭教師を兼ねた魔法使いは、目を覚ました彼女から離れない生徒に、全てを諦め代わりに提言した。彼女の里の話や精霊魔法を見せてあげて欲しいと。
だから先程の精霊か。
イシュルタールは溜息を吐く。
自然と共に生きる彼らにとって、精霊は生まれながらの友である。彼らの力を借りることは息をするより容易い。だからと言って、むやみやたらに使っていい力ではない。里を出るとき、床に伏した長たちにも散々言い聞かされたというのに。
「ラナは甘い」
「あの人たちは話を聞いてくれたの!」
フィーアラナは声を張り上げた。泣きそうな顔でイシュタールを見つめている。涙を零すまいと、顔に力を込めている。
「聞いて、くれたの…ただ、聞いてくれた…だけなのっ……」
か細い声は震えていた。
彼らの住むフィッツエンドは島国だ。複雑な海流が渦巻く海を越え、一カ月かけてこの国に来た。
『生命の水』や、それが出品されるという競売会の話を聞く為、色んな人に声をかけた。森の奥に住み、世間知らずな彼らに真面目に答えてくれる者もあったが、騙そうとする者も多かった。嘘を騙られ、資金を巻き上げられそうになったのは、手足の指、全て使っても足りない。
やっとの思いで競売会に行ってみれば、今回それは出品されないという。次に可能性のあるのは、半年後だという。絶望が彼らを襲ったのは言うまでもない。
それでも待ってみようと、二人で意地になっていれば今回の事件である。
身も心も疲れ果てていた。小さな優しさに縋ってしまうほど。
扉が叩かれる。気合の声が上がり、扉が開かれる。
「お姉さん、お兄さん。ルー小父様がお話したいそうです。お兄さん、立てますか?」
顔を出したのは、先程の子供だ。レグルスと言ったか。
イシュルタールはゆっくりと立ち上がり、状態を確認する。
「ああ、問題ない…ってか、そのルーおじさんというのは誰だ?」
「えーっと、ルー小父様はぼくの父様の従兄です」
「それは聞いた。お前の父親は何者だ」
「ぼくの父様は、リスヴィアの筆頭貴族です」
身なりを整えようと、サイドテーブルに手を伸ばしたイシュタールが固まった。ぎこちない動作で、レグルスを振り返る。
レグルスは涙ぐむフィーアラナに驚いていた。慌てた様子でポケットを探る。取り出したのはハンカチで、フィーアラナの目元をポンポンと拭う。
「お姉さん、どうしたのですか?お兄さんに苛められましたか?」
涙を拭ってもらったフィーアラナは、首を左右に振った。にこりと微笑む。
「安心しちゃったの。驚かせて、ごめんなさい」
「それならいいのですけれど……」
僅かばかり、非難がましい目がイシュルタールに向けられた。がっつり無視するが。
それよりも、イシュルタールには先程の衝撃が抜けない。
この国に来て半年が経つ。リスヴィア国内の情勢というのも、嫌でも解ってくる。
「お兄さん?」
呼びかけられて我に返った。急いで支度をする。
北の大国リスヴィア王国の筆頭貴族、公爵グランフェルノ家。ある時は畏敬を込め、またある時は皮肉を込めて呼ばれる別名は『第二の王家』。
イシュルタールの身支度が整うと、レグルスが奇妙な気合の声をかけて、扉を押す。全身で扉が閉まらないように踏ん張る。
そんなに重いのかと軽く押してみた。が、ピクリとも動かない。
「何でこんな……」
「お兄さんたちは不審人物ですっ」
「……なるほど」
二人が廊下に出ると、レグルスは扉から体をずらした。重い扉はゆっくりと閉まっていく。実際の重みは全く感じさせない。
どんな造りをしているのかは分からないが、信用できないがもてなさねばならない。そんな面倒な相手を緩やかに閉じ込めておく場所。そんな部屋が当たり前のように準備されている屋敷。
イシュルタールはそれとなく、辺りを窺う。姿は見えないが、人の気配がする。一つや二つではない。その意識の全てがこちらに向いている。
先を歩く子供は知っているのか。姉の手を引き、嬉しそうに廊下を進む。
やがて、扉の前に騎士が立つ部屋に辿り着いた。彼らは苦笑を洩らす。
「従僕にお任せ下さいと申し上げましたのに…」
「やです」
レグルスは殊更にっこりと笑い、扉を開けさせた。
「ルー小父様!お連れしました」
「おう」
中年の男が顔を上げる。青い目を細め、ちょいちょいとレグルスを手招きした。
レグルスはパッと笑顔になると、フィーアラナの手を離し、男へと駆け寄った。当然のように飛びつけば、膝に抱えられる。
膝に乗せられて喜ぶような年ではないように見えるのだが、見た目より幼いのだろうか。
イシュルタールは不思議に思った。しかしレグルスはルー小父様に寄りかかり、上機嫌である。
「座りな」
男は二人を促した。フィーアラナは素直に従い、イシュルタールは顰め面ながらも座った。その様子に、フィーアラナが軽く小突く。
レグルスは両手を口に当て、クスクスと笑う。
男がレグルスの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「オークション会場で、お兄さんが突き飛ばされてたのを思い出したのです」
「ほう?」
「お姉さんが思いっきり突き飛ばしたのです」
二人が固まった。
男は面白そうに口元を歪めた。レグルスはそれに気付かず、クスクスと笑い続ける。
「そしたらお兄さん、転んでしまって。床がつるつるだったから、綺麗に滑っていったのです」
「それは災難だったなぁ…」
「生温かい目でこっち見るな!」
半笑いの男に、イシュルタールは怒鳴りつける。耳まで真っ赤だ。
隣のフィーアラナも両手で顔を覆っている。
男はレグルスの頭を抱えて引き寄せる。
「競売会は、何か面白いもんがあったか?」
「はいっ。父様に、日記を買ってもらいました」
「日記?誰の?」
「初代ファランド公爵様の日記です」
公爵家の初代となれば、王族のはずだ。ファランド家は既に途絶えているが、その初代は誰だったか。
男が考えていると、レグルスが顔を上げた。
「初代様は、イルネージュ殿下です。初代ココノエ侯爵と同じ時代の人です」
「なるほど」
ポンポンとレグルスの頭を撫でる。レグルスは嬉しそうに笑う。
何故かほのぼのしている男と子供に、イシュルタールが苛つく。
「それで、話って?」
彼らの話を遮って、乱暴に訊ねた。
男の片眉が跳ね上がった。レグルスを抱えなおし、片腕を肘掛に置く。
イシュルタールの眉間に深い皺が刻まれた。
男が纏う空気が変わった。笑顔のままなのに、先程子供に向けていたものとは全く違う。
子供だけがキョトンとしている。
「さて…どーすっかなぁ……」
ぼそりと呟けば、イシュルタールの体がビクリと揺れる。だが、彼は負けじと尚も睨みつけた。
「ふんっ。俺たちの目的は姉から聞いたんだろう?それとも、アンタが用意してくれるっていうのか、国王陛下?」
「イシュっ」
姉から叱責が飛ぶが、そんな事はイシュルタールに関係ない。目の前の男がただただ気に入らない。
こうしている間も、里の仲間たちは苦しんでいる。あれから何人死んだのかも分からない。そもそも、『生命の水』に関してだって、どれだけ効果があるものなのかも分かっていない。それが本物なのか、一族にも効くものなのか。全てが不確かだ。
けれど、その不確かなものに頼るしかなくて、自分たちはここにいる。
それを弄ぶかのような男の態度に、腹が立っていた。
睨んでいると、男の目がふと和らいだ。
「今は国王じゃないぞ」
「…は?」
「遊び人のルーさんとでも呼んでくれっ」
「・・・・・」
男が目を輝かせて、そんな事を叫んだ。イシュルタールの思考が一瞬停止したのは、仕方ない事だ。
子供が死んだような目で男を見上げる。
「ルー小父様…それ古臭いです」
「何だと!古来からお忍びの貴人が名乗る常套句だろうっ」
「古来過ぎて、聞いてる方が恥ずかしいです」
ピシャリと言って、子供が溜息を吐く。頬に手を当てた。
男は口を尖らせた。
この国の筆頭貴族の従兄弟。それは国王に他ならない。
玉座に座り、三十年ほどが経つ。混乱期に即位した王は、若いながらも卓越した手腕で国を治めてきた。北の大国、魔術王国と名を馳せるリスヴィアを現在まで、長く平和に導いている。
正式な名は、ルージュ・ディアマン・スーク・スヴィエ。
賢王として近隣の国々にも一目を置かれる、白き王国の主。
それがこんなふざけた男だとは思わなかった。イシュルタールは頭を振る。
ルージュが口角を上げる。
何か言おうと口を開きかけた時だった。廊下が騒がしくなった。
ルージュが小さく噴き出す。
「帰ってきたようだな」
そんな事を言った。一瞬の間を置き、扉が乱暴に開かれる。
現れたのは、レグルスと同じ青銀色の髪の男だった。年はルージュと同じくらい。酷く不機嫌そうな顔で、ルージュを見ると眉間のしわが更に深くなった。
「降りろ」
「はぁい」
男の不機嫌とは対照的に、レグルスは無邪気に答えた。するりとルージュの手から抜け出すと、男に向かって駆け寄る。
「お帰りなさい、父様」
「うむ」
飛び付かれれば、男の表情が僅かに緩んだ。大きな手がレグルスの頭を撫でる。
レグルスの父。となれば、この屋敷の主。この国の筆頭貴族。
彼は腰にレグルスをひっつけたまま、従兄の隣に立った。不機嫌な様子を隠さないまま、テーブルに小さな箱を置く。
「ご苦労」
ルージュが尊大に声をかければ、彼の額に青筋が浮かんだ。何かを言いたそうに従兄を見下ろすが、結局何も言わずに視線を移した。息子を抱きあげる。
視線が高くなったレグルスは、父の肩に手を置いて頭に顔を寄せた。ふにゃりと笑う。
安心しきった様子に、ルージュが肩を竦める。だがすぐに視線を戻した。
「話を進めようか」
置いてきぼりにされていたエルフの二人はその視線を受け、居住まいを正した。
ルージュは箱を取った。蓋を開ける。
中は布張りになっており、小さなガラス瓶が三本収められていた。瓶の中には赤い液体。
二人が腰を浮かせる。
「それは…!」
「やはり国の管理か!」
歓喜の声を上げたフィーアラナに対し、イシュルタールは忌まわしそうに顔を歪めた。
イシュルタールの言葉を、ルージュは正しく理解したのだろう。後ろに控えていた公爵も溜息を吐いた。
「そんな物、おいそれと出回せる訳なかろう」
「…そうだな。権力者が独占して、富を得る道具だもんな」
皮肉を込めれば、公爵の視線が冷ややかになる。つっと視線を逸らされる。
「無知とは幸せなものだ」
「何をっ!?」
勢い良く立ち上がれば、ルージュが軽く手を当げた。イシュルタールを制止する。そして背後の従弟を窘める。
「無駄に煽るな」
「何のことやら」
澄ました様子で応えられ、ルージュは肩を竦める。
レグルスがそっと父の頬を摘まんだ。「めっ」と小さな声で叱れば、父は苦笑いを零す。ポンポンと背を叩かれたレグルスは、再び父の頭に顔を乗せた。
ルージュは箱の中身を一つ取りだした。
「『生命の水』の材料は、貴重でな。材料の入手は年に二回。一回に八本ずつしか作れん」
「…それだけあっても、足りないと」
「怪我に振りかければ、たちどころに癒してくれる。治癒魔法が届かない傷でも」
これさえあれば失われずに済んだ命は少なくない。チャプンと『生命の水』が揺れる。
落石や賊の襲撃で甚大な被害を受けた場所に、密かに送られている。勿論、知る者は少ない。
加えて、これは国内だけで独占しているわけではない。魔術協会から要請がくれば、遠い国にも送っている。
「オークションに出すことの方が稀だ。去年は提供者の要請で、一本渡しているしな」
提供者。それは貴重な材料を占有している者がいるという事か。
イシュルタールは苛立つばかりだ。隣のフィーアラナが眉を下げた。胸のあたりで両手を重ねる。
「…もし……」
フィーアラナが恐る恐る口を開く。戸惑う心を抑え、真っ直ぐに目の前の男に目を向ける。
「もし、その提供者様の了承を得られたら、私たちにも『生命の水』を分けて頂けるのでしょうか?」
「ラナ!」
イシュルタールが怒鳴った。だが、フィーアラナは引かない。
見つめられたルージュは、面白そうに笑う。
「さて。それは、提供者の居場所を教えなければならないってことだよな」
「あっ……」
フィーアラナは俯いた。ギュっと眉根が寄せられる。
「でも、私たちに用意できるのは、自分自身とお金くらいしか…」
「ラナ!何てこと言うんだ!!」
イシュルタールが立ち上がった。姉の肩を掴む。
「原料を独占してる奴なんかに身を売る気か!」
彼女は怒る弟を引っ叩いた。部屋に高らかな音が響き、イシュルタールはよろめく。
叩かれたのは弟だが、目に涙を浮かべたのは姉の方である。
何故叩かれたのか理解できず、イシュルタールは目を丸くしていた。驚くばかりの彼に、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
ルージュが腹を抱えて笑っていた。
「あははははははは!見事な張り手!!」
足をばたつかせて笑っている。
何がそんなに面白いのか。それとも人の不幸が楽しいのか。
公爵が溜息を吐く。
「こうなったら長いぞ。しばらく止まらん」
「え?」
公爵は椅子に腰かけた。膝に息子を座らせる。
レグルスは不思議そうに、笑い転げるルージュを眺めている。そして父を見上げた。
「ルー小父様は笑い上戸ですねぇ」
「幼い頃から厳しく育てられてきたせいか、箍が外れると止まらん。暫くこのままだろう」
「…なんだか、酸欠で死にそうですよ?」
「案ずるな。死にはせん」
呆れを含んだ声で答えると、公爵は二人に目を戻した。
彼らは公爵の視線を受け、気まずそうに座りなおす。
場違いな笑い声が響く中、公爵は話を続ける。
「森の民には、我らの面倒なやり取りは解り辛かろう。率直に話そう」
息子の頭を撫でながら、僅かに視線を伏せた。そっと耳を覆う。
レグルスは顔を上げる。
「父様?」
「少しばかり、聞かぬふりをしていろ」
きょとんとしているレグルスをよそに、公爵は話し出す。
「その薬を見て、思うことはなかったか?」
「…赤い」
「そうだ。何かを連想しなかったか?」
イシュルタールは口を引き結んだ。
確かに思った。思い起こさずにはいられないほど、鮮やかな赤だったのだ。『生命の水』の名は伊達ではないのかと。
顔を強張らせたイシュルタールに、公爵は重々しく頷いた。
「それの材料は、人の命。死なせないギリギリまで削って、作られている」
可哀想になるくらい血の気が引いた。
提供者は独占しているわけではない。たまたま、原料となるものを持ってしまっただけだ。
「『賢者の石』を知っているか?」
「…『生命の水』と同じ程度には」
「『賢者の石』は魔術式を重ねて作られる。適正は何千、或いは何万に一つらしいがな」
公爵は我が子を見下ろした。手で塞いだところで、全てを遮るわけではない。あどけない瞳が大きく見開かれている。
「術式が完成すれは、それは不老不死となる。但し、一つ手前で止まれば恐ろしく寿命が短くなる」
「……」
「当時、まだこの子より幼かった。そんな幼子が言ったのだ。誰もいない世界で永遠に独りぼっちで生き続けるくらいなら、両親を泣かせても今死ぬ、と」
公爵の手が息子の耳から離れる。ずしりと重みが増し、公爵は苦笑交じりに抱えなおす。ゆっくりと頭を撫でる。
レグルスは体を反転させ、父親にしがみついた。
ようやく笑い声が止む。
思ったよりも早かったなと、公爵は従兄を見た。ルージュは目に浮かんだ涙を拭っている。
「要るか?」
座りなおしながら、ルージュは訊ねた。
二人とも言葉に詰まる。
これは買っていいものではない。だからといって、他に渡せるものもない。自身だけだ。
希少価値の高いこの身なら…フィーアラナがそう思うのも無理はない。
沈黙が続いた。
それを打ち破ったのは、やはり能天気なルージュの声である。
「頭の飾り、綺麗だな」
そういって指さしたのは、フィーアラナの額を飾るサークレットだ。
「大事なものか?」
「は…いえ。気に入っているものですが……」
フィーアラナはサークレットを外した。立ち上がり、ルージュに渡す。
受け取ったルージュは、くるくると回してみたり、光にすかしてみたり、暫く手の中で弄んだ。
「レグルスに似合いそうだな。おいで」
ちょいちょいと手招きをする。
父の肩に顔を埋めて震えていたレグルスが、無表情で振り返った。父に促され膝から降りれば、よろめいて転びそうになる。父に支えられていなければ、そのまま転んで机にどこかをぶつけていただろう。
よたよたと歩いて何とかルージュの膝に手をつけば、頭にサークレットが乗せられた。女性のものとはいえ、小さなレグルスにはサイズが合わず、頭からずれ落ちる。
レグルスは両手でそれを抑えた。すると、レグルスの頭の大きさに合わせるように、輪が収縮した。ぴったりと納まる。
「お?」
「一族の業物です」
自然の魔力を集めたそれは、使用者のサイズに合わせて変化する。悪いものを遠ざけ、精霊の加護を授けてくれるというものだ。
フィーアラナは両手を合わせ、微笑んだ。
「本当に似合っているわ。かわいい」
彫刻の施された銀の輪に、青い石が填められている。頭を振れば、細い鎖の先についた石が揺れる。
ルージュが、束ねていたレグルスの髪を解く。青銀色の髪が広がり、精霊たちが現れる。
レグルスの顔に笑みが戻る。精霊に手を伸ばせば、小さな彼らはレグルスの髪を舞わせ、頬に口づけをして消えていく。
「うふふ。精霊さんにキスしてもらっちゃいました」
両手を頬にあて、ふにゃりと笑う。ほんのりと頬が色付いている。
そして父のもとに駆け戻る。
「父様、父様。精霊さんがたくさん出てきて、ちゅって」
「綺麗だったな。ああ、それもよく似合っているぞ」
公爵は髪を撫でる。サークレットに触れれば、涼やかな音を立てる。
ルージュがその様子を眺めながら、顎を撫でた。
「ふむ…取りあえず、それでいいか」
彼は薬を箱にしまうと、蓋を閉じた。それを二人に差し出す。
「ほれ。持ってけ」
「え…?」
「時間がないんだろ?」
呆ける二人に、ルージュはほれほれと箱を振る。慌ててイシュルタールが受け取る。
思わず受け取ってしまったが、恐る恐るといった様子で正面を見る。
ルージュはひらひらと手を振っている。
「代金はソレでいい。お前らに効くかどうかもわからんしな」
「ですが!」
「ちゃんと効果が出たら、改めて支払いに来い。金じゃなくて、お前らの特産品持って来いよ」
エルフたちの作る品は、どれも特殊なものばかりだ。小さなスカーフ一枚が、金貨何十枚で取引される。
けれど、それは彼らの日用品だ。レグルスに預けたサークレットのように、制作に時間がかかるものもあるが、人の間でやり取りされるような高価なものにはならない。
ルージュが立ち上がる。同時に扉が叩かれた。
「ご歓談中、失礼します。ルージュ様のお迎えの方がお見えになりました」
「おう。すぐに行く。リギィ、後は頼むわ」
公爵は溜息を吐き、渋々ながら頷いた。
ルージュは二人に片目を閉じてみせる。どこまでも調子が軽い。
「じゃあな」
そう言って、呼びに来た執事とともに部屋を出ていく。
公爵もレグルスを抱えて、立ち上がった。
「今日は泊まっていくといい。部屋を用意させよう」
「先ほどの部屋で……」
「あの部屋は、幽閉の間だ。客間じゃない」
公爵が初めて彼らに向ける表情を緩めた。
◆◇◆◇◆◇
頭を振れば、シャランと涼やかな音がする。
帰路につく二人を見送って、レグルスは頭の飾りに手を当てた。「また会いに来る」という約束を思い出せば、自然と顔が緩む。
昨夜は二人から様々な話を聞いた。最初は険悪な態度だったイシュルタールも、話しているうちに笑顔を見せてくれるようになった。天然な姉一人に任せると、どこまでも妙な方向に話が逸れていくからという理由もあったのかもしれないが。
姉と二人、まるで絵本の物語のような彼らの生活を、あれこれ質問しながら沢山聞いた。
頬に手を当ててにまにましていれば、後ろから非情な声がかかった。
「さて…昨日休まれた分を取り返さねばなりません。今日の休憩時間はないと思ってくださいね」
「あうっ」
家庭教師の言葉に、レグルスは衝撃を受ける。しかし、我儘を通した自覚はあるので、反論できない。それでも言い訳はする。
「だって…マナーの授業は好きではないのです……」
「将来困るのはご自分ですよ」
ため息交じりに言われ、レグルスはしょんぼりと肩を落とす。それから恐る恐るといった様子で、エミールを見上げる。
「マナーもエミール先生ではダメなのですか?」
「私は貴族ではありませんから、そこまでは……」
貴族に仕えるエミールだが、平民の出身だ。魔術師の性質で蓄えた知識によって教えられることは多々あるが、貴族の作法までには及ばない。どんなにきれいな所作でも、使用人は使用人だ。
深い溜息を吐くレグルスに、エミールは苦笑いをする。
「そんなにお嫌いですか?ダンスの授業はそんな事おっしゃらないのに」
ダンスの授業も別の講師を招いている。なかなか強烈な個性の持ち主で、指導も結構厳しい。しかし、筋肉痛で呻くことはあっても、授業自体に不満を言ったことは無い。
レグルスは首を左右に振る。
「シリル先生は口調があれなだけで、嫌ではないのです。厳しさで言ったら、うちの騎士たちのほうが容赦ないです」
日々厳しくなるのは武術訓練も同じで、打ち込みの練習を始めてから生傷が絶えない。一回だけ顔に傷を作ったときは、奥方以下女性使用人一同から騎士団に非難が飛んだ。以来、彼らも顔にだけは傷を作らないように、慎重になっているらしいが。
レグルスは再び大きな溜息を吐く。
「ディディエ先生はやたら触られるので、好きではないのです」
エミールの目が僅かに眇められた。
レグルスはそれに気づかず、さらに続ける。
「何が悪いのかちゃんと教えてくれないし、上手にいくおまじないとか言ってあちこち触られるし…マナーの授業って、そういうものなのですか?」
「いえ…講師を変えましょう」
レグルスの視線を受けたエミールは、殊更優しく微笑んで見せた。レグルスはぱちくりと目を見開く。
「でも…それは……」
「講師というものは相性もございます。レグルス様には合わないようですし、早急に別の方を探しましょう」
「不当解雇ではないですか?」
「いいえ。契約に、生徒との関係に問題があるようであれば、一方的に打ち切りにする事が出来るとあります。レグルス様に合う講師を探しましょうね」
そう提案すれば、レグルスの表情が明るくなった。ほっとしたのか、肩から力が抜けるのが見て取れた。
ふっとエミールは笑う。
「もっと早く仰ってくださればよかったのに」
「だって、先生に文句を言ったら怒られると思ったのです」
「怒りませんよ。そんな事を言ったら、兄君たちはどうなります」
教える者が気に入らないと授業を逃げるはサボるわで、両親から使用人から皆で苦労した。当時から家庭教師を務めるエミールは何故か、自分の担当外でも捕獲を命じられて大変だった。何しろ、早朝から捕まえておかねばならない。
レグルスは逃げ出すことがない分、楽である。
エミールはレグルスの頭を撫でた。
「では、昨日のマナー授業は最初から無かったことにしてしまいましょう。今日の午前中は書庫で世界史と公用語の勉強を。午後はホールでダンスのレッスンですね」
「はいっ」
元気良く返事が返ってくる。
エミールはレグルスに、先に言って支度を整えてくださいとお願いした。素直に従ったレグルスが、足取りも軽く書庫に向かう。
エミールはすばやく踵を返し、事態を報告すべく、執事のもとへ向かうのだった。
誤字脱字の指摘、お願いします。
今までサイトで使用していた拍手を、サイト閉鎖に伴い、ここに持ってきました。現在小話一本。