年越しの宴~鐘が鳴る
ゴオオォン…ゴォーン……
年越しの鐘の音と一斉に沸く歓声に、レグルスは飛び起きた。きょろきょろと辺りを見回す。
「あら、丁度良く起きたのね」
「母様」
「新年、おめでとう」
落ち着きのない息子を気遣ってか、そっと体を抱きしめ、額に口づけを落とす。
「おめでとうございます、レグルス様」
「おめでとうございます」
女中や侍従が、次々と挨拶をしてくる。
だがレグルスは反応できずにいた。ギュっと母にしがみ付き、離れない。不安そうに母を見上げる。
母は首を傾げた。優しい声色で訊ねる。
「どうしたの?」
「な、なんの、音、ですか……?」
「鐘の音のこと?新年には鐘を鳴らすと言ったでしょう?」
「ひ、低いう、ううな、うなり声、みたいなのは……?」
「唸り声?新年を祝う皆の歓声の事かしら?あらあら。寝惚けちゃったのね」
母はレグルスの頭に頬ずりをし、背を撫でる。周囲からはクスクスという笑い声が聞こえた。
レグルスは尚も母に縋りついたままだ。ドレスを掴む手が震えていた。
レグルスはこの音を知っている。低い轟きのような音も。真っ暗の塔の中で、何度か起こされた。誰も説明する者がない中、その瞬間は恐怖だけがレグルスを支配した。
それに気付いたのはアルティアである。レグルスを挟むように、反対側に座る。
「どうしたの?何にも怖い事なんてないのよ?」
「姉様…だって……」
「皆いるじゃない。夢じゃないのよ」
努めて笑顔で言った。
レグルスの強張った体から力が抜ける。それから改めて周りを見回す。
「…あれ?もう日付変わったのですか?」
「そうよ。レグルスったら、あっという間に寝ちゃうんだもの」
「寝ちゃったですか?あれ?ぼく、そんなにご飯食べてないです…?」
周囲から生温かい視線が注がれる。アルティアの笑顔が仮面のようになった事に、レグルスは気付かない。
母がレグルスの頭を撫でている。
「お腹が空いちゃったかしら。何か食べる?まだまだあるわよ」
「はい!リンゴのジュースも…あれ?」
言ってから、レグルスは首を傾げた。飲んでいたリンゴジュースはどこに行ってしまったのだろう。辺りを探すが、レグルスのカップが無い。
アルティア付の若い女中がジュースを注いだカップを差し出す。
「どうぞ!」
「…ありがとうございます」
「さあさあ、坊ちゃま。こちらにお取りしましたからね。沢山お召し上がりくださいな」
「ありがとうございます!」
皿に載ったのはローストビーフやマッシュポテトだ。レグルスの好きなオードブルも並んでいる。
嬉しそうに受け取ったレグルスから、先程までの疑問は吹き飛んでいた。そしてほっとする家族や使用人たちには気付かなかった。
お腹がいっぱいになったレグルスは、部屋に戻ろうと奥広間を出た。ふんわりと漂うのは酒の匂い。僅かに顔を顰めて、仄暗い廊下を行く。
灯りは少ないが、外に積もった雪が月光を反射して屋内に入り込むので、歩くのに問題ない。
だがそんな外の様子は、レグルスを誘う。後で怒られるのだが。
一応部屋まで戻った。しかし誘惑に駆られて、外に出る。
空は晴れ渡り、月が皓々と輝いている。その光に照らされて、白い雪が銀に輝く。
新しい一年が始まった。もう明日に怯えて過ごすことはしなくていい。目を閉じながら、幸せな夢を恐れる事もない。目が覚めれば、そこに続きが待っているのだから。
「――」
彼が歌ってくれた子守歌。レグルスの心を守ってくれたもの。決して彼に優しくなかった彼の世界で、彼を癒した優しい歌。
レグルスは初めてちゃんと歌った。鼻歌ではなく。彼が聞かせてくれたように。
歌うのは意外と楽しい。聞くのも好きだが、歌うのも楽しい。
一曲歌い終わると、満足げに息を吐く。更にもう一曲と、息を吸う。
拙い歌声が月夜に響いた。
微かに声が聞こえてきて、大広間から逃げてきた彼は足を止めた。辺りを見回し、導かれるように奥庭へ向かう。
幼い声は案の定邸の末で、月光の下、踊りながら歌っている。
見つかったらまた怒られるだろうに。だが、無邪気な様子に思わず笑みが漏れる。
歌いながらクルクルと回れば、白いローブがふわりと広がる。青銀色の髪が月光を反射し、不思議に煌めく。
見惚れていると、強い酒の匂いが鼻に付いた。我に返れば、後ろから羽交い絞めにされる。
「…っ!何を……!!」
「こんな所で何やってんのぉ?」
酔った同僚にしっかり抱え込まれた。引き剥がそうとするが、体勢が悪い。しかも何故か、首筋に顔を埋められる。
「気持ちが悪い!離しなさい、この酔っ払い!!」
「え~、いいじゃんかぁ。お前、そういう奴なんだろぉ?」
「何を…!」
「皆知ってるぜ?お前が元・男娼だって」
彼は一瞬、言葉に詰まった。その代わり、思いっきり足を踏んでやる。
同僚は痛みに呻いたが、手が離れる様子がない。それどころか妙な動きをし始める。
彼は顔を歪めた。
「とおっ!」
掛け声と共に、何かが同僚の横っ腹に激突した。流石に耐えきれず、同僚がよろめく。同時に腕が離れた。
彼が目線を下げれば、両手を腰に当てたレグルスが仁王立ちしている。
「何してるのですか?飲んだら奥棟には来ちゃダメでしょう」
「あ~、レグルス坊ちゃま……」
「二日酔いで怒られたくなければ、さっさと広間に戻りなさい。今なら黙っていてあげます」
まるで犬猫を追い払うかのように、軽く手を振る。
同僚は気まずそうに頭を掻き、軽くお辞儀をして表へと戻っていく。
彼はほっと息を吐いた。同時に、どさりと大きな音が響く。レグルスが廊下に座り込んでいた。何やら頭がふらふらしている。
「レグルス様!?」
「なんだか目が回るのです~」
慌てて助け起こせば、自力で立っていられないレグルスにしっかりとしがみ付かれた。
最初に飲まされたアルコールがまだ残っているのだろうかと、心配になる。あんなに少量だったのに。そういえば、レグルス自身は飲まされたことに気付いていないのだった。
彼はレグルスを部屋に戻るように促す。ふらふらとしているレグルスを一人に出来ず、支えて部屋へと運ぶ。
魔具の灯りがほんのりと室内を照らす。
レグルスをソファに座らせた。
「もうお休みになられますか?手伝いを呼んできましょうか」
レグルス付の侍従たちは無理だろうが、奥広間に素面の使用人たちがいる。仕事を忘れて騒ぐと言っても、幼い子供の面倒くらいは見てくれるだろう。
しかし、レグルスは首を左右に振る。
「大丈夫なのです…自分でできます……」
まだ気持ち悪いのか、腹をさすっている。
「お水を用意いたしましょうか?」
「う~ん…いらないのです……」
ちょっと迷った様子だが、それも断った。
彼はそっと背をさする。
「おかしいのです…これらいで気持ち悪くなったりしたことないのに……」
それは多分、まだアルコールが残っているからだと…とは、口が裂けても言えない。言えばきっと癇癪が発動する。
彼はレグルスの傍を離れ、水差しを取った。コップに注いで、レグルスの所へ戻る。
「食べ過ぎかもしれませんね。とりあえずお飲み下さい」
「う~…そんなに食べてないのです」
レグルスは反論しながらも、コップは素直に受け取った。水を飲む。
「いつもと違う時間に食事をなさったでしょう?胃もたれしているのかもしれません」
「…そういうものですか?」
「そういう事もあるという話です。今日はもうお休みになった方が宜しいでしょう」
彼はにっこりと笑った。
レグルスは溜息を一つ吐いて、腹をさする。そして頭を振った。そして怪訝そうな顔をする。
「アレ…?頭も痛いです…?」
「体調を崩される前に、着替えて眠りましょう」
あれっぽっちで二日酔いとか、笑えない。
彼は自ら着替えを手伝い、さりげなくレグルスをベッドに追いやった。そして更なる体調悪化を考慮して、枕元に色々と用意してきた。ベッドの下には桶を置く。今日はこの手の桶が大量に用意してあったので、探さずに済んだ。
レグルスも具合の悪さを自覚して、大人しく布団にくるまる。ただそれほど眠くは無いのだろう。出入りする彼の様子を眺めていた。
「シードル」
名を呼ばれ、彼は振り返った。
「何でしょうか?」
「シェル兄様の側にいなくて、いいのですか?」
彼はシェリオン付の侍従である。
だが、今日は仕事外だ。レグルスの側仕えが今ここにいないように、彼が主の側にいる必要はない。
すぐに応えずにいると、更なる質問が飛んできた。
「皆と騒がないのですか?」
「ああいった場は苦手でして……」
「シードルもお酒が嫌いですか?」
「いいえ。飲酒は好みますが、泥酔した方のあしらいが下手なのです」
彼は秀麗な面に、憂鬱そうな表情を浮かべた。
この顔は、老若男女問わず人を引き付ける。彼の意思を無視して。
レグルスは小さく笑った。
「酔っ払いの相手より、ぼくのお世話をしていた方がマシですか?」
シードルは眉根を寄せる。
「あれらをレグルス様を同列に並べるなど……」
「でもお前、ぼくが嫌いでしょう?」
彼の表情が強張った。レグルスの顔を凝視している。
レグルスはクスクスと笑う。
「気付かれていないと思っていましたか?」
「…いいえ。嫌いなどという事は……」
「自分で気付いていなかったのですか?お前はぼくが嫌いですよ」
はっきりと言い切られ、彼は困惑する。
嫌いではないと思う。お仕えする主の弟君だ。
「どうしてそうお思いになるのです?」
「この邸で、ぼくに出来るだけ関わろうとしないのは、お前だけです」
「私はシェリオン様の側仕えですから、なかなかレグルス様に関わる機会が……」
「機会はいくらでもありましたよ。でも、お前はシェル兄様の為だけにしか動きませんでした。両親や兄姉はあっても、ぼくにだけは絶対にありませんでした」
そんな露骨な事をした記憶はない。第一、レグルスの傍にはマリスがいて、彼が手を貸さなければいけないときなど、一度も無かった。
だが、レグルスは明らかな確信を持って、自分が嫌いだろうと言う。
戸惑いながら、彼はレグルスを見つめる。
レグルスは欠伸を洩らす。
「気にする事は無いのですよ」
「え…?」
「取ったりしません。どうせぼくは、いずれお家を出ていく身です」
水色の瞳が眠たげに細められた。もぞもぞと布団の中に潜っていく。
「兄様はぼくを可愛がってくれるけれど、頼りにしてくれているわけではないのです」
独り言のように呟いた。再び欠伸をする。
「酔っ払いが苦手なら、この部屋で休むといいですよ」
急に話題が戻った。ついて行けずにキョトンとしていると、眠たそうなレグルスが笑った。
「襲われそうになったら、ここに来ればいいです」
「…こちらに?」
「ぼくの部屋で事に及ぼうとするバカは、流石にいないのです。兄様のお部屋には逃げ込み辛いでしょう?」
シードルは泣きたくなった。こんな子供にしっかり見られた挙句、庇われようとしている。
レグルスが布団から手を出した。シードルへと伸ばされる。
「お前は兄様にとって、大事なものです。いずれ兄様を支えるのはお前なのです。グランフェルノの影になるぼくがお前を守るのも、当然の事なのです」
伸ばした手がポトリと落ちる。そこまで言ったレグルスは、唐突に夢の世界へと旅立つ。
しばし呆然と見送ったシードルは、そっと布団をかけ直した。巨大な羊のぬいぐるみに近付いて、ぽふんと頭を撫でる。ぬいぐるみの瞳が煌めき、魔具が発動する。
シードルは部屋を出ることはせず、椅子に腰を掛けた。
「…お言葉に甘えさせて頂きます」
そっと息を吐き出せば、緊張していた全身から力が抜けた。
確かに、ここなら大広間の酔っ払いたちは来ないだろう。大きな歓声さえ遠く、微かにしか聞こえない。
気が緩んだのか、眠気も襲ってきた。少しだけのつもりで目を閉じる。
そして次に気がついた時には朝で、主を起こしに来たマリスに、心配そうに顔を覗き込まれていたのである。
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あとはお片付け。