4.王宮へ
レグルスはシェリオンに手を引かれていた。
初めての場所に興味津々なのか、落ち着きなく辺りを見回している。
それに対し、シェリオンの表情は険しい。少し気を抜けば、すり抜けて駆け出しそうな弟の手をしっかり握る。
「あら?シェルじゃない」
後ろから聞こえた少女の声に、シェリオンは足を止めた。弟も振り返る。
そこには鮮やかな赤毛の少女がいた。見事な縦ロールである。纏うのは瞳の色に合わせたような、スカートがふんわりと広がる淡い緑のドレス。
「ギネヴィア」
「貴方も呼ばれたの…って、当たり前か。筆頭貴族の嫡子ですものね」
「もってことは、ギーも?」
ギネヴィアと呼ばれた少女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。それから視線を下げる。
少女が微笑んだので、レグルスも笑い返す。
すると彼女は、身を屈めてレグルスと視線の高さを合わせてきた。
「はじめまして。わたくしはオーゴット伯爵の長女、ギネヴィア・オーゴットと申します。貴方のお名前は?教えて下さる?」
「はじめまして、ギネヴィアさま。ぼくはレグルス・グランフェルノです。シェルにいさまのおとうとです」
レグルスの返答に、ギネヴィアは鈴のような笑い声を立てた。
「噂通り、しっかりした弟様ね。まだ五歳でしょう?」
「可愛いだろ?」
「ええ、とっても。わたくしのことはギーって呼んでちょうだい、レグルス?」
「はい。ギー…さま?」
「敬称なんていらないわ。わたくし、貴方のお兄様のお友達なのよ」
レグルスは手を口元に当て、考え込む。
他家の令嬢を呼び捨てには出来ない。しかし、彼女は自分と親しくしたいと思っている。友人が可愛がっている弟として。
首を僅かに傾け、レグルスはギネヴィアを見る。
「じゃあ…ギーねえさま」
ギネヴィアの目が見開かれた。シェリオンも驚いたように弟を見下ろしている。
ギネヴィアの視線が逸らされた。僅かに頬が赤らんでいるように見える。
レグルスは失礼だったかと心配になり、繋いだ兄の手に力を込める。
シェリオンは空いた手で、弟の頭を撫でた。
「嫌ならはっきりそう言うから、大丈夫だよ」
ギネヴィアには兄が一人いる。が、「ねえさま」などと呼んでくれる人はいない。
恥ずかしくなってしまったのだろうと、シェリオンは推測した。
レグルスの手を引く。
「行くよ」
「はい、にいさま」
「ちょ…っ、待ちなさいよ」
ギネヴィアが後を追う。
レグルスを連れているので、歩調は元からゆっくりだ。
シェリオンの隣に並ぶ。
「ハーヴェイとアルティアはどうしたの?」
「ヴィーは騎士団の訓練場へ見学に行ったよ。ティアは母上と一緒」
「リガール小父様は?」
「仕事だって」
「…王太子殿下は?」
シェリオンの表情が曇った。視線を逸らせる。
その様子に、ギネヴィアが溜息を吐く。小馬鹿にしたような笑みを乗せて。
「い~い迷惑よねぇ。誰のせいで集められてるんだっていうの」
「全くだ」
レグルスは何も言わず、連れられるがまま歩く。どこへ連れて行かれるのか、彼も解っていない。
初めての王宮は、レグルスにとって少々居心地が悪いものだった。
頭上で不穏な空気が流れ始める。
「それで?貴方は弟を連れて散策?」
「という名の捜索だね」
「目星は付いていないの?」
「幾つか覗いてみたんだけどね。外れだった」
「でも、何故この子まで?小母様に預けてきた方が良かったんじゃない?」
「見たがってたから、餌になるかなって思ったんだけど……」
シェリオンは弟を見下ろす。
ゆっくり歩いているが、あちこち連れ回して疲れてきただろうか。表情が冴えない。
足を止める。
「レグルス、疲れた?」
弟は首を左右に振った。しかし、まさか「にいさまたちがこわいです」とは言えない。
五歳児は笑顔を取り繕った。
ギネヴィアがその顔を覗き込む。
「ムリしないで。一度戻りましょう。ね?」
「でも、おうじさまをさがすのでしょう?」
「見つからなくても、問題ないから大丈夫だよ」
兄はばっさりと切り捨てて、踵を返した。来た道を引き返す。
今日は兄弟揃って、王宮に登城した。父母に伴われてだったのだが、控室に妻子を送り届けると、父はそのまま仕事に行ってしまった。
控室とはいうが大きな部屋で、様々な年頃の子どもたちが、親に付き添われて集められていた。上はシェリオンと同じくらい、下は赤ん坊もいた。
母は一番小さいレグルスの手を引き、壁際に並べられた椅子に腰かけた。中央は大きく空けられ、子供たちが遊んだり、おしゃべりしたりしている。大人たちは談笑している。
母が座ると、人が集まってきた。それはあっという間に人だかりになる。
兄姉はその輪に巻き込まれまいと、母が座る前に傍を離れていた。手を繋がれていたレグルスだけが取り残された。
「グランフェルノ公爵夫人、お久しぶりですわ」
「まぁ、キャリア子爵夫人。本当に、ご無沙汰でしたわね。もうお加減はよろしいの?」
「ええ。ご心配おかけしましたわ……そちらが末のお子様?」
「レグルスというのよ。人見知りする子ではないのだけれど、囲まれて、すっかり委縮しちゃってるわね」
母のドレスをしっかりと掴んで、ぴったりと身を寄せている。
母は軽く背を撫でた。そして小さな体を押しやる。
「ここは退屈になるでしょうから、皆と遊んでいらっしゃい」
「みんな?」
同じ年頃の子どもとほとんど交流のないレグルスは、どうしたらいいのか分からずにいた。
ここにいてもどうしようもない。だが、母の傍を離れたくなくて、押された手に縋る。
すると、人混みをすり抜け、シェリオンが現れた。そして弟の手を引く。
「おいで。紹介してあげる」
「シェルにいさま」
レグルスが兄に連れて行かれるのを、大人たちは微笑ましく見送った。
「シェリオン様は良き兄君ですわね」
「レグルス様も慕っておられるのね。羨ましいわ」
「年が離れていらっしゃるせいかしら?うちは喧嘩ばかりよ」
「うちもよ。上の子はすぐに手が出るし、下の子は悪戯ばっかり」
優雅な笑い声が満ち、グランフェルノ公爵夫人も目を細めた。
少しばかり離れた場所で、レグルスと同じ年頃の子供の集団へ、シェリオンが声をかけていた。そしてその中にレグルスを押し込む。
囲む夫人たちと会話をしながら目で追っていると、程なくして解け込んだようだ。同じくらいの男の子から渡された玩具を手にして、笑っている。
母はその様子に内心ほっと息を吐くと、夫人たちの会話に全ての意識を戻したのである。
そもそも、なぜこの日、貴族の子供たちが集められたのか。
それは王太子の「ご友人」作りの為。
滅多な事で王宮から出られない王太子は、放っておけば大人としか接する機会がない。気心が知れた友人を作る事が出来ないのである。
出入りできる貴族も限られている。
そこで貴族階級に限られるが、普段登城することのない子供たちを集めて、接する場所を作ったのである。
だが。
いつまでたっても場所が変わるわけではない、王太子が現れるわけでもない状況に異変を感じたのは、ごく少ない王太子の友人・シェリオンである。
すぐ下の弟ハーヴェイが、他の子弟数名と騎士団の訓練を見に行くと出ていった僅か後。部屋の隅に彫像のように佇む衛兵に訊ねたのである。
「ヴェルディ王子は?まだいらっしゃらないのですか?」
「はっ。連絡がまだ……」
衛兵の目が泳いだ。
シェリオンは知っている。ハーヴェイ達が外に出る際、衛兵たちの間で手話による連絡がなされていたことを。
シェリオンの目が眇められた。
「逃げられましたね」
「…は……」
衛兵の顔が強張る。シェリオンは小さく息を吐き出した。
「探してきます。護衛は要りません」
衛兵は深く頭を垂れた。
シェリオンは真っ先に母のもとへ向かった。席をはずす旨を伝え、末弟と外を散歩してくると嘘を吐いた。
母は嘘に気付いていると思われる。だがにっこりと微笑んで頷いた。「気をつけて」と一言告げて。
そして冒頭に戻る。
控室の傍まで戻って来て、レグルスが急に足を止めた。外庭に目を向ける。それから首を傾けた。
シェリオンが軽く手を引く。
「どうしたの?もう少しだよ」
「ん~?」
レグルスが不思議がるような声を出す。そして空いた手で外を指した。
「にいさま、あそこ~」
指す方向を見るが、特に変哲もない木々が並ぶだけで、何もない。
ギネヴィアがレグルスの視線まで、身を屈めた。
「どぉこ?」
「きのうえです。ひかってます」
ギネヴィアが目を凝らす。と、確かにちらちらと、陽を反射するものが見える。途端、彼女の目と口が大きく開かれる。
シェリオンも気付いたようだ。
「いたー!」
「ヴェル!お前、いい加減にしろよ!?」
今まで沈黙を続けていた木々の一枝が大きく揺れた。ザザッという音と共に、光っていたものが落ちてくる。
それは金色の髪の少年だった。シェリオンと同じくらいの年頃だろうか。苦々しい表情を浮かべている。何も言わず彼らに背を向けて走り出す。
二人はすぐさまそれを追おうとしたが、レグルスの存在を思い出す。
「わたくしが行くわ!シェルは先に連れて行ってあげて!!」
「頼む!」
ドレスを翻し走り出す後ろ姿に、シェリオンは何とも言えない雄々しさを感じた。
女性特有の踵の高い靴は、走るのに向かないと聞くのに。そんな様子は微塵も感じない。もしかしたら、下手な騎士より早いかもしれない。
感心ばかりもしていられない。
シェリオンは弟の手を引いた。
「さ、母上の所へ戻ろう」
「ぼく、ひとりでもどれますよ?」
レグルスが兄の手を離そうとする。
「かどをまがったら、もうすぐです。にいさまは、おうじさまをおいかけてください」
「だけど…」
「ギーねえさまひとりでは、たいへんです。ねえさまがころんでケガしたら、どうするのですか?」
レグルスの手が離れた。
確かに、控室は目と鼻の先だ。辺りに人気はないが、王宮の奥に問題があるとは思えない。
シェリオンは苦笑を洩らし、レグルスに顔を近づけた。
「寄り道しないで、真っ直ぐ戻るんだよ?」
「あい」
レグルスは頷き、兄に手を振る。
兄はすぐさま二人の消えた方向へ走った。途中、一度だけ足を止めて振り返れば、弟が曲がり角の奥へ消えて行くところだった。
大丈夫、もう控室の扉は見えているのだから。
そう自分に言って聞かせ、逃走王子の捕獲に意識を向けた。
その僅かな時が一生の後悔に繋がると、この時は知らないまま。