年越しの宴~その前に 前編
一年の終わりを明日に控えた日。
レグルスはようやく、エミールから書き取りの及第点を貰っていた。約四カ月。ようやく人前で書いても恥を掻かない程度になった。
「もっとかかると思っておりましたが…よく頑張りました」
エミールが優しく微笑む。レグルスもつられて返した。
エミールは口には出さないが、レグルスの学習能力には舌を巻いていた。実技はさておき、基本的な学力は既に出来上がっていたのだ。算数の計算なら小数点も分数も問題なくこなし、リスヴィアの歴史も表面的な部分ならすらすらと答える。普段拙い言葉で話しているが、ほんの少し気合を入れるだけで、上流階級の子弟らしい言葉使いも出来る。
天才と言って過言でもないが、それは決して言わない。レグルスが努力している姿も知っているからだ。
「書き取りの授業は来年からなくしますが、他の授業で取る記録の様子次第で、再開させますからね?」
「う…がんばるのです」
レグルスが努力するのは、それが苦手だからだ。嫌いなものは早く終わらせたいから、集中的に頑張る。
だが文字に関しては、それでは困る。
ただ、もっと困る事態が迫ってもいる。
「年明けから春になるまで、マナーとダンスの授業が増えると思っていて下さい」
「春まで?」
随分短い期間限定に、レグルスは首を傾げる。
この二つは外部から別の先生を呼んで、授業を受けている。筋は良いと言われているし、問題があるとも聞いていない。
エミールが表情を引き締めた。
「暖かくなる頃に、レグルス様の誕生日がございます。そこで、レグルス様の正式なお披露目を行います」
レグルスの顔が強張る。
エミールはそれを無視し、更に続ける。
「貴族のお子様方は、大抵五歳の誕生日にお披露目の会を設けます。他家のお子様方との交流も、本来ならここから始まるのですが…レグルス様の五歳の誕生日の時、公爵様が不在だったのを覚えていらっしゃいますか?」
「はい。フィッツエンド王国の新しい国王様の即位式に、陛下の名代で出席されたのです。お土産ががっかりだったのです」
ぷっとエミールが噴き出した。小さく笑う。
「そこは公爵様にとって、忘れて欲しい部分でしょうが…はい、その通りです。その為、レグルス様のお披露目は、社交シーズンに行われるグランフェルノ家主催の夜会でと、延期されました。ですが、レグルス様はその前にいなくなってしまわれた……」
悲しげに瞳が揺れる。
レグルスは笑顔を作った。
「でも、ちゃんと帰ってきたでしょう?」
「…はい。ですから、レグルス様のお披露目は、正式に行われた事はないのです」
「……うー…別に、やらなくたって……今更なのです……」
ブツブツと言いながら、レグルスは嫌そうに足をぶらつかせた。お行儀が悪いと怒られるのは承知の上だ。
エミールは首を左右に振る。
「公爵家としてはよろしくありません。無事発見されたと聞いた方々から、沢山の贈り物が届けられたでしょう?その御礼もせねばなりません」
「父様たちが、お礼のお手紙を出して下さったのではないのですか?」
「勿論。ですがそれは最低限の礼儀であって、レグルス様から皆様に直接お礼を申し上げなければ、品位にも関わるのです」
へにょりとレグルスの眉が下げられた。上目遣いに、エミールを見る。
「……出なきゃ、ダメですか……?」
「レグルス様のお誕生日ですよ」
「あう~……」
これだけ嫌そうな顔をするのも、初めてかもしれない。エミールは困った様子で、ほんの少し笑みを浮かべる。
どうしようか悩んでいると、扉が叩かれた。返事をする前に扉が開かれる。
「レグルス」
「父様!?」
今朝仕事へ行ったはずの父が、ひょっこり顔を出したのだ。
レグルスは椅子から飛び降りた。父に飛びつく。
飛びつかれた公爵は、いつものようにレグルスを抱きあげた。そしてエミールへと視線を移す。
「持っていっていいか?」
「公爵…レグルス様は物ではありませんよ」
溜息をついて、それからエミールは片手を差し出す。
「どうぞ。次の授業は、二日の午後からです」
パッとレグルスの顔が輝いた。
「ありがとうございます!」
こんな嬉しそうな顔をされては、嫌味の一つも言えなくなるではないか。
エミールは幼子のように父親にしがみ付くレグルスに、穏やかな微笑みを向けた。公爵に確認をする。
「お出かけですか?」
「うん。街が賑わってきたからな」
「護衛は……」
「マリスを連れていく」
ならば大丈夫だろう。
エミールは二人を送り出した。
レグルスは街歩き用の服に、上から防寒用のフード付きのローブをはおっている。勿論フードはしっかり被る。手にはミトンの手袋だ。
中心市街地まで馬車に揺られた後、待合所で降りる。公爵が後でまた迎えに来るように指示して、馬車は帰した。
レグルスは物珍しそうに辺りを見回す。大通りには多くの人が行き交っている。ぽふんと頭を叩かれた。
「父様」
「行こう」
並んで歩きだす。だが、余りの人の多さに、レグルスは父のコートを掴もうとした。つるりと滑る。
背を撫でられた感覚に、父が立ち止まって振り返る。
レグルスはもう一度コートを掴もうとして、同じようにコートに逃げられた。
「…掴めてないぞ」
「あう……」
レグルスは眉を下げた。厚手のミトンを嵌めた手を、握ったり開いたりしている。
公爵が苦笑と共に、皮手袋をはめた手をレグルスに差し出す。
パッとレグルスが笑顔になった。父の手を握る。
「はぐれるなよ」
「父様と手をつないでたら、大丈夫です」
ご機嫌で応える。
公爵は小さく笑って、息子の手をしっかりと握り直した。
年越しを前に、大通りには数多くの出店が並んでいた。元ある商店も、店舗の前にまで売り場を広げている。
レグルスはきょろきょろと落ち着きなく、店を窺う。
「いい匂いがします」
「そうだな。だが、まず落ち着けるところで何か食おう」
昼食もまだである。
街歩きに慣れた者なら屋台の食べ歩きでもいいが、人混みに慣れないレグルスには無理だ。
公爵は息子の手を引き、ある店を訪れた。大通りから一本引っ込んだ通りにある、古い食堂だ。扉を押し開けば、女将の威勢のいい声が飛んでくる。
「いらっしゃい!開いてる席にどうぞ!!」
公爵が慣れた様子で、奥にある二人掛けの席を取った。手袋をはずし、コートを椅子の背もたれに掛ける。レグルスもそれに倣った。
大きな食堂だが、昼から少し遅い時間である為か客は少ない。憲兵らしき二人組と、何かの職人らしき男が一人。以上だ。
恰幅の良い女将がやってくる。
「何にしましょうか?」
「昼がまだなんだ。何が残ってるかな?おすすめはあるか?」
「今日は鹿肉のローストだね。こっちのお子さんにだったら、グラタンもお勧め」
「焼き立てパンは残ってる?」
「モチロン!サラダとスープも付くよ」
「じゃあそれで。レグルスはグラタンでいいか?」
レグルスはこくりと頷いた。
「じゃあ、ちょっと待っておくれ!」
大きな体を揺らし、女将が奥へと引っ込んでいく。
見送ったレグルスは、正面へと目を戻した。
「よく来るのですか?」
「偶にな。王宮から近いから、宮仕えの文官や騎士たちにも人気の店だ。量があるのに、安くて美味い」
「ふうん……」
レグルスは店を見回す。年季は入っているが、清潔な店だ。念入りに清掃しているのだろう。使いこまれた様子が、懐かしい雰囲気を漂わせる。居心地が良いのだ。
夜は酒場にでもなるのだろう。カウンターの奥の棚には酒瓶が並び、樽が積まれている。
公爵は物珍しそうに辺りを窺うレグルスを、微笑ましく眺めていた。
「街に出たら、何か見たいものはあるか?」
「…よくわからないです……」
何があるのか、よくわからない。へにょりと眉を下げる。
公爵は笑った。
「さて…お前が興味を示しそうなものは何かな。工芸品を扱う雑貨屋に、菓子屋もいいな。文具店も行ってみるか?」
「全部連れて行ってくれるのですか!?」
「勿論。時間はたっぷりある」
「わぁ……」
レグルスの顔が綻んだ。両手を頬に当てる。
「楽しみです」
ふんわりと笑うレグルスは、本当に性別が分からなくなってきた。
公爵は息子に会わせて笑顔を作りながら、心配になってきている。
もともと妻に似て、男児でありながら美少女と呼ばれる子だった。が、最近ますます美しくなってきたと言われる。それは本人の耳にも入っている。その度に顔を顰めるのだが、その姿も愛らしいと言われる始末だ。おっとりとした性格のせいもあるのだろう。笑う姿は可憐な少女、そのものだ。
将来に不安を感じていると、料理が運ばれてきた。
「おまちどうさま!」
女将の声を合図に、料理が並べられていく。湯気を立てたそれらは、食欲を誘ういい香りを放っている。
レグルスは目の前に置かれたグラタンに、小さな歓声を上げた。
「熱いから、気をつけるんだよ。器にもね」
「はい。ありがとうございます」
にっこり笑って、女将からフォークを受け取る。早速グラタンに突き刺した。
グラタンの中身は芋で、チーズをたっぷりかけてある。息を吹きかけて冷ましながら、それを口に運んだ。
「ん~!おいしいのです」
「そりゃ良かった。ゆっくりお食べ」
女将は満足そうに頷いて戻っていく。別の客が声をかけ、会計を済ませて出ていけば、また別の客が現れる。昼過ぎでも、閑古鳥が鳴く事はないようだ。
レグルスが心底美味しそうに食べるのをしばし眺め、公爵もフォークとナイフを取った。鹿肉のローストは柔らかく、掛けられたソースとも良く合っていた。一切れを更に半分に切り、レグルスに差し出す。
「あ~ん」
「あう」
差し出されたレグルスは、何の迷いも無く口を開けた。ぱくりと食べる。そして、自分のグラタンを取った。
「父様も」
「ん」
差し出された芋の欠片を食べる。ふっと顔を緩ませる。
「うちのホワイトソースより美味いかもな」
「鹿肉も柔らかくて、ソースがおいしいのです。料理長は、まだまだしょうじんが必要ですね」
声を潜めてそんな事を言い合えば、自然と笑い声が漏れる。
勿論、決して料理長の料理が未熟なわけではない。偶に食べるだけだから、庶民の食べ物が妙に美味しく感じてしまうのだ。
食事も半分ほど終えた頃。食堂の扉が大きな音を立てて開かれた。
「おう!酒だ!!麦酒を持って来い!!」
大声を張り上げたのは、三人組のいかつい男たちだ。入り口側の丸テーブルに陣取る。既に酔っているらしく、大声で会話し出す。内容は下品で、卑猥なものだった。
レグルスは一瞥したが、すぐに食事へ戻る。正面を見れば、父が小さな嘆息を洩らした。他の客も似たような様子だ。憲兵の二人組は、会計を済ませて出て行った後である。
女将が奥へ引っ込んだ。注文の品を持ってくるのかと思いきや、そうではなかった。奥から、更にいかつい男を引っ張ってきたのだ。店主である。店主は彼らの隣に立つ。
「…ここはメシ屋だ。騒ぎてぇなら酒場に行きな」
「あん?酒はねぇのかよ」
「空気読めよ。メシ屋でメシ頼まねぇヤツに出す酒はねぇ」
三人組は一瞬いきり立ったが、何か言う事はなかった。店主の威圧感は、三人を超えていた。
彼らは舌打ちを洩らし、口の中で何か呟いた。が、店主に睨まれ、そそくさと店を出ていく。
レグルスはほっと息を吐いた。パンを千切り、余り気味のソースに付けて食べる。あまり好きでは無い黒パンだが、これはおいしいと思った。
気を抜いていると、突然頭に衝撃が走った。痛みはなかったが、ドスンと重みがかかったのだ。
「あうっ!?」
「…久しぶりだな、リギィ」
低い声が降ってきた。
レグルスが無理矢理顔を上げれば、そこに店主がいた。肉厚で大きな手が頭の上に乗っているのだ。店主の目線は公爵に向けられている。
「お前の子か?」
「そうだ」
「似てないな」
「母親似だ」
「美人な嫁だな」
ぐしゃぐしゃとレグルスの頭を掻きまわす。頭が振られる。
「おお~う。目が回るのです~」
「む。すまん」
手が離れる。
店主はレグルスを見下ろした。あまり感情の窺えない顔だ。作りが怖すぎる。
「細っこいな。ちゃんと食ってるか?」
「食べてます。これから大きくなるのです」
「それはすまん」
何故か謝られて、レグルスは些かムッとする。言外に、体質的に大きくなるのは無理だと決めつけられた。むくれながら、グラタンをもりもり食べ始めた。
公爵が苦笑する。
「このいかついおっさんが、そのおいしいグラタンを作ってるんだぞ」
「料理に罪はないのです」
「・・・」
店主は無言で、再びレグルスの頭を掻き回した。レグルスは首を回され、「お~ぅ」と食事を中断させられた。
女将が朗らかな笑い声を上げる。
「珍しい子だね!子供は皆、旦那を見て号泣するっていうのにさ」
「おいしい料理を作ってくれる人に、悪い人はいないのです」
「あはははは!確かにね!アンタ、良かったねぇ」
勢い良く、店主の背を叩く。恰幅の良い女将の平手を受けても、ビクともしない。
店主の手が離れ、レグルスはぐしゃぐしゃにされた髪を解いた。手櫛で梳けば、サラサラと流れていく。結び直そうとするが巧くいかない。
悪戦苦闘していれば、女将が後ろに回った。髪を撫で、軽く纏めてくれる。ふくふくとした手が、器用に革紐を結び直す。
「綺麗な髪だねぇ。羨ましくなっちゃうわ」
「ありがとうございます」
女将を振り返り、レグルスはにっこり笑って礼を言う。女将の手もまた、レグルスの頭を撫でた。但し、手つきは全く違ったが。
新たに客が入って来て、女将たちは仕事に戻っていった。
気付けば父は食べ終えていて、レグルスは慌てて残ったグラタンに取り掛かったのである。
スミマセン。思ったよりも長くなったので、二つに分けました。