揺らぐ心に巡る闇 1
レグルスは眼を覚ました。
辺りは真っ暗で、慌てて飛び起きる。すると、枕元のランプが反応して灯る。暗いうちに目を覚ますとパニックに陥るレグルスの為に、特殊な加工を施した魔具の灯りだ。
レグルスはほっと息を吐くが、心臓はまだバクバクいっている。羊の枕を抱きしめた。
時間は早朝というくらいなのだろう。外はまだ暗いが、動き始めている人の気配がする。
侍従がそのうち起こしに来るだろうが、目はすっかり冴えてしまった。ベッドから抜け出す。
魔具が部屋を適度な温度に保ってくれている為、寒くはない。寝間着のまま、庭へ出る事が出来る窓へと近づく。
カーテンを僅かに開ければ、外は雪が積もっている。月明かりを反射して、闇に白さが際立っている。
レグルスは窓を押しあけた。途端、外の冷気が入り込んでくる。身震いする。
外の雪は、まだ降り続いていた。それに誘われて、外に出る。
空を見上げれば、白い雪が次々と落ちてくる。それらは小さな光の粒のようだった。手を伸ばす。
ざわめいた心が凪いでくる。
レグルスは息を吐き出す。白い息が一瞬だけ空中に漂い、消えた。無表情だった顔に笑みが上る。
レグルスは足元を見た。足が雪に埋もれている。何度か足踏みを繰り返した後、その場にしゃがみ込んだ。地面に積もった雪を集め、手の中で固める。
「♪」
鼻歌を歌いながら雪を丸めて、まだ暗い庭で、一人遊び出した。
◆◇◆◇◆◇
「レグルス様!待ちなさい!!」
「や~ですよ~お」
外から賑やかな声が聞こえる。窓から庭へ目を向ければ、白い雪を蹴立てて、末の弟が駆け回っている。追いかけるのは我が家の従僕たちだ。
弟は灌木などを利用し、小回りを利かせて逃げ回る。奇声を上げ、楽しげにしているので問題はないが、従僕たちには早朝から苦労をかける。
「捕まえました!って、冷てぇ!!いつから外にいたんですか!!?」
「や~んっ」
追いかけっこに終止符が打たれる。まだまだ体力の足りない弟はあっという間にへばり、動きが鈍ったところを首根っこを掴まれていた。尚も暴れて逃げようとするから、担ぎ上げられている。
ブツブツと文句を言われながら、弟は私室へと連れ戻された。庭が静かになる。
これは父との朝食に間に合わないだろうな。大分汚れていたから、今頃風呂に放り込まれているだろう。
庭への窓を開ける。
弟が駆け回った庭は、無数の足跡が残されている。その向こうに小さな雪だるま群。幾つ作ったのか。
足跡は残るが、庭は深い雪に覆われている。ここ数年無かった大雪だ。
…いや、ここ数年が暖冬だったのだ。積もる日数も少なかった。
五年間、レグルスが生き延びたのは、暖冬も影響していたのかもしれない。何の暖房もないあの寒々しい塔では、凍死していてもおかしくなかった。
雪を踏みわけ、雪だるまたちに近付く。本当に、一体何時に起きて、何体作ったのか。手のひらサイズの小さなものから、そこそこな大きさなものまで乱立している。
「ふふっ」
思わず笑みが漏れる。
小さな一つを手にとって、自室の傍へと持って帰った。
◆◇◆◇◆◇
レグルスが食堂に現れた時、既に父と長兄は食事を終えていた。父に至っては、もうすぐ出勤の時間だ。
父に抱えられたレグルスは、ようやく早朝の行為が軽率だったと気付く。しょんぼりと眉を下げた。
父公爵がポンポンと背中を叩く。
「早く帰れるように努力しよう」
「夜はいっしょ、できますか?」
「…努力はする」
父の言葉は、何とも心もとない。
仕事で忙しい父に、我儘を言うのは憚られる。レグルスは父親に抱きつく事で、全ての返答にした。
執事が呼びに来て、公爵は息子を下ろす。そして頭をクシャクシャと撫でた。レグルスはくすぐったそうに、首を竦める。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
父公爵がちらりと共に朝食を取った長男を振り返る。シェリオンは僅かに眉を潜めた。
「朝議に遅れますよ」
「……ああ」
何の攻防があったのか、父が少しばかり残念そうにしながら出ていった。
レグルスが兄を見、首を傾げる。
「兄さまは、今日はお休みですか?」
「友人が来るんだ」
シェリオンは微笑む。
笑って誤魔化された気がして、レグルスはますます不思議そうな顔をした。だが、侍従に促されて食卓に付く。
椅子に座れば、朝食が並べられる。今日のメインはジャガイモ入りのオムレツだ。卵料理の大好きなレグルスが、顔を綻ばせる。最近お気に入りの胡桃入りのパンに、温野菜のサラダが付け合わせに、同じ皿に載っている。
レグルスは両手を合わせて「いただきます」と頭を下げる。そしてフォークを取った。オムレツに突き刺す。
家族が揃う夕餐ではテーブルマナーも厳しく指摘されるが、朝昼は細かく言わない。オムレツもナイフで切ってからなどと、小言は控える。
何しろ救出された直後のレグルスは、匙を握るくらいしか出来なかった。最初の食事で、おもむろにパンを千切りはじめたかと思ったら、それを全てスープの中に浸し始めた時は、シェリオンはただ驚くしかなかった。
塔で出されていたパンは硬く、そのままでは到底食べられるものではないと知ったのは、この時が初めてだ。薄い塩水のようなスープに長時間浸して、初めて食べられるようになるのだと。
後日、王太子と共に囚人の食事を試食したが、人の食べ物ではなかった。
レグルスがくるみのパンを千切りながら、傍の侍従に訊ねる。
「姉さまと母さまも、もうたべちゃったですか?」
「奥様とお嬢様は、お部屋でご一緒されるそうです」
「二人だけで?」
レグルスの眉が力なく下がった。千切ったパンを悲しげに見つめる。
侍従が困った様子で、レグルスの顔を窺う。
「女性には女性同士で過ごす時も大事なのですよ。レグルス様を蔑ろにしているわけではありませんから」
「レグルスは、俺と一緒は嫌?」
シェリオンが訊ねると、レグルスは慌てて首を左右に振った。
女中がシェリオンに食後のお茶を持ってきた。彼はこのままレグルスの食事に付き合ってくれるようだ。
レグルスはパンを口に放り込む。咀嚼して、飲み込むと同時に気持ちを切り替える。
「シェル兄さまといっしょするのも、ひさしぶりで、うれしいです」
「ふ…ありがとう」
シェリオンは父より早く出る事が多い。レグルスがどんなに急いでも、朝は見送るだけだ。
レグルスがニンジンにフォークを刺した。大きめのそれを一口で口に入れる。暫くもごもごと噛んでいたが、その顔に笑みが上る。頬に手を当てた。
「にんじん、おいしいです」
「レグルスは野菜が好きだね」
「おにくもおさかなも、大すきです」
「嫌いな物はあるの?」
質問をすれば、レグルスは次の野菜を口に運びながら、首を傾げる。
基本的に、レグルスは好き嫌いがないようだ。あまり食が進まないのは、辛い料理くらいだろうか。
レグルスはオムレツにフォークを差す。柔らかいそれは、あっさりと崩れる。
「かたいパン?」
思わぬ答えに、シェリオンの顔が強張った。胸の奥に湧き上がった苦いものを、お茶で流し込む。
レグルスはオムレツをパンの上に乗せた。一口で頬張り、顔を綻ばせる。
「そのパンは美味しい?」
「はい!とっても」
レグルスがにっこり笑う。シェリオンもつられた。
食事の時は出来るだけお話をしながら、ゆっくりと食べましょう。
食べ過ぎる傾向のあったレグルスにそう助言したのは、孤児院の司祭だ。元はそんなに食べる速度は速くなかった筈だと、彼は言った。助けられた直後の柔らかい食事で、早食いの傾向が出来てしまったのだろうと。満腹を感じる前に多く食べてしまうのだ。
それ以来、レグルスには柔らかいものでもしっかり噛むようにさせている。今も一生懸命オムレツを咀嚼している。
幸せそうな弟に、シェリオンは笑みを深める。
食べ終わったレグルスは両手を合わせる。
「ごちそうさまです!」
満足そうに笑うのだが、シェリオンには不思議に思う事がある。
この作法は、誰が教えたのだろう。食事の前と後に、レグルスは必ず手を合わせる。発する言葉は食事に感謝するようなものだし、問題ないと放置しているのだが。
レグルスが皿を下げる侍従を見上げる。
「ぼくにもおちゃをください」
「はい。すぐに」
侍従からの合図に、女中が動く。テキパキと準備をし、あっという間にレグルスの前に湯気の上るカップが置かれる。
レグルスは両手でカップを持つ。行儀が悪いが、片手で持つにはレグルスにとって、紅茶入りのカップは重いのだ。
お茶を飲んで、レグルスはほっと息を吐く。そして再び侍従を見上げる。
「マリス。あとで弓のれんしゅうをしてもいいですか?」
「はい。準備をしておきます」
「今日は勉強はないの?」
「今日はお休みでいいですよって、エミール先生が言ってくれたのです」
家庭教師は気を利かせてくれたらしい。
思わず苦笑が漏れる。レグルスはキョトンとしていた。
シェリオンは頬杖をつく。
「いつも一生懸命頑張っていると、聞いているよ」
「だって、がんばらないとおいつかないのです」
褒めたつもりが、レグルスは眉を下げる。
「追いつかないって…誰に?」
「だれにというわけではないのですが…十さいにもなって、字も書けないなんて。はずかしいことなのでしょう?」
「…誰かにそんな事を言われたの?」
「だれもそんなことは言いません。おうちのみんなはやさしいのです」
レグルスは知っている。家族も使用人も、皆が優しくて、弱い自分を守ってくれているという事を。
そして、その優しさに寄りかかっていてはいけないのだと。
「ちゃんとしないと…おいだされてしまうかもしれないのです……」
ぽそりと呟いたレグルスに、シェリオンは目を見開いた。
「そんな事しないよ。何でそんな事思ったの?」
「……」
レグルスの眉は下がったままだ。
シェリオンは、父親がまた何かを言ったのかと思った。が、すぐさまそれはないと否定する。たまに地雷は踏むが。
レグルスはお茶を一気に飲み干した。椅子から飛び降りる。
「いいのです。がんばることは、わるいことではないはずです」
「レグルス?」
小走りに扉へ向かう。まるで逃げるように、レグルスは食堂を出ていった。
後に残されたシェリオンは眉を潜める。
「シードル。何かあったのか?」
シェリオンは壁際に控えていた侍従に訊ねる。だが、彼は首を左右に振った。彼の表情もどことなく不安げだ。
「いいえ。何も訊いておりません」
「孤児院で何か言われたとか?」
「そこまでは分かりかねますが…あちらの子供たちが、レグルス様を傷付けるようなことを言うでしょうか?」
子供は些細な事で喧嘩をする。その際に、取り返しのつかない悪口を言ってしまうものだ。
だが、それであそこまで気にするとは思えない。
シェリオンは思案しながら顔を歪めたが、考えても結果は出ない。小さく溜息を吐き、彼も席を立った。
レグルスは庭に来ていた。侍従から弓を受け取る。
浮かない表情のレグルスに、マリスは身を屈める。
「どうされました?シェリオン様と喧嘩でもされましたか?」
レグルスは首を左右に振る。マリスを見上げ、泣きそうな顔をする。
マリスはしゃがみ込んだ。
「…今日は練習、お休みしますか?」
再びレグルスは首を横に振った。
マリスは小さく息を吐く。微かに笑って、両手を伸ばした。レグルスの体を抱き込み、ポンポンと背を叩く。
「朝は元気一杯で、お庭を駆け回っていらしたのに…困った坊ちゃまですねぇ」
「……ごめんなさい……」
小さな声が返ってくる。肩に頭が乗せられた。
ただの侍従であるマリスが、幼いとはいえ貴族の息子であるレグルスに気安く触れることは、本来ならば許されない。けれど精神的に幼く、不安定なレグルスは、誰かに触れる事で落ち着きを取り戻すことが多い。家族が傍にいれば任せるが、この場にいるのはマリスだけだ。柄ではないが、役目はこなさねばならない。それ以上に、萎れたレグルスは見ていたくない。多少面倒でも、元気に走り回っていて欲しいと思う。
「大丈夫ですよ。何だかんだ言って、皆、レグルス様がここに居て下さるだけで嬉しいんですから」
「…ぼくが、にせものでも?」
「他に現れたら考えますけれど、レグルス様は今のところ、ここに一人いらっしゃる方だけですからねぇ」
「ほんものは、もっとすなおでかわいくて、字も書けて、弓だってもっとじょうずに使えるかもしれませんよ?」
「でも、そんな人いないでしょう?ここに居るのは貴方だけですから」
「ほんものは、もういないかもしれませんよ?」
マリスは体を離し、にっこりと笑う。すっかり情けない顔をしているレグルスの頬を摘まんだ。
「偽者かもしれないという疑惑以上に、本物であるという確信を、この邸の誰もが持っております」
レグルスが大きく目を見開いた。
マリスが立ち上がる。そしてレグルスの体をくるりと回した。先には的が置いてある。
「さあさあ。今日も見事な腕前を披露して下さるのでしょう?」
にこにこと笑いながら、レグルスに矢筒を渡す。
それを腰のベルトに引っかけ、レグルスは再びマリスを見上げた。首を傾ける。
何か言いたげな様子だったが、恐らく何も言うまいと、マリスは距離を取った。促す様に手を振る。
レグルスが矢を取る。それを番える頃には、情けない表情は消えていた。
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やっと上がった……