閑話 宴の終わり その後に
おにわのじいや、しっていますか?おはなには、はなことばというものがあるのです。このおはなのはなことばは、「しあわせのさいらい」というのだそうですよ。
招待客を見送り、グランフェルノ公爵邸に静けさが戻る。
夜も更ける頃、鏡の前で寝支度を整えていた公爵夫人に、女中が来訪者を伝える。
「レグルスが?」
「ええ。もうお部屋の前まで」
「どうしたのかしら?入れてあげて頂戴」
女中が廊下へ出ていく。
本来なら、もう眠っていておかしくない時間だ。昼間、具合を悪くしてひと眠りしたせいで、目が冴えてしまったのだろうか。
再び扉が開き、女中がレグルスを伴い戻ってきた。
夫人は立ち上がる。
「こんな時間にどうしたの?眠れなくなってしまった?」
レグルスは首を左右に振る。そしてじっと母を見上げる。
「なぁに?」
「……いいそびれていたのです」
夫と同じ、薄い水色の瞳が細められる。
ふと、その瞳が遮られた。夫人の眼に白い小さな花が飛び込んでくる。
「かあさま。おたんじょうび、おめでとうございます」
「まあ…!」
それは小さな花束だった。緑の葉に小さな白い花。スズランだ。
夫人は顔を綻ばせた。花束を受け取り、息子の額に口づける。
「ありがとう。でも、こんな夜更けに……」
「だって。あさはバタバタするでしょう?ひるまは、おきゃくさまで、いっぱいだし……ぼく、ちゃんとおめでとうを、いいたかったのです」
レグルスは手を組み、視線を下げた。
「かあさまのおすきな、しろいおはななのです。でも、きれいなおくりもののなかでは、かすんでしまうでしょう?どこかにまぎれてしまうのは、いやだったのです……」
息子の可愛い我儘に、夫人の表情は緩みっぱなしだ。隠す様に、口元に花束を寄せる。
レグルスはちらりと上目遣いに母を見た。
「…おこってますか?」
「怒る?どうして?」
「ぼく…どうしても、かあさまのおたんじょうびには、スズランをおくりたかったのです。ぼくのだいすきなおはなを」
だが、スズランは春の花だ。今の時期は咲いていない。
だからレグルスは『お庭の爺や』に無理を言って、温室のスズランを花束にしてもらった。白い小さな花を好む母の為に育てていた、スズランの鉢植えを。
本当は鉢植えのままの方が、長く楽しめただろう。だが、鉢植えでは贈り物にはならない。どうしても花束が良かったのだ。
レグルスの言葉に、夫人は喜びを隠せない。手を伸ばし、息子を抱きしめた。
「嬉しいわ」
「…ほんとうですか?」
「どうして嘘だと思うの?離れて何年も経つのに、お母様の好きなお花を覚えていてくれて、本当に嬉しい」
レグルスがようやく安心したように、ふにゃりと顔を緩めた。母に抱きつく。
「おうじさまのおにわで、ミントのおはなをみたのです」
「ミント?」
「はい。しろくて、ちいさなおはなです。あれをみたとき、かあさまをおもいだしたのです。かあさまがすきなおはなも」
母の胸元に顔を擦り寄せながら、幸せそうに微笑む。
夫人は目元が熱くなるのを感じた。抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「…うれしい……」
ポツリと呟く。
レグルスが本当に幼かったころ。小さな手を引いて、外を散歩した。花壇の花を見て、レグルスが指をさす。
夫人は花の前でしゃがむ。
「これはね、スズランよ。スズラン」
「しゅじゅらん?」
「よく言えました。お母様が好きなお花の一つよ。白くて、可愛いでしょう?」
「ぼくもしゅき。まぁるいの、かあいい」
舌足らずに笑う姿は、スズランにどこか似ていた。思わず抱きしめてしまう。
「勿論、レグルスの方が好きよ」
「ぼくもかあしゃま、だぁいしゅき~!」
小さな手を伸ばし、レグルスは母に抱きつき返した。
それは暖かくなってきた頃の記憶。三つになるかならないかくらいの、昔の思い出。
名残惜しくなりながら、我が子から体を離す。花束を見、柔らかな微笑みを零す。
「枕元に飾ってもらえる?明日、目が覚めたら、真っ先にこの花を見たいわ」
「かしこまりました」
女中は花束を受け取る。そして部屋の奥へと入っていった。
レグルスは欠伸を零した。
「やっぱり、もうおねむなのね。無理して起きていたのでしょう?早くお休みなさい」
「あい…かあさま、おやすみなさいです……」
「おやすみなさい。また明日、ね」
ふっとレグルスが目を細めた。両手を口元に当てる。
「またあしたも、あえるのです。うれしいのです」
そう言って、レグルスは部屋を辞していった。
扉が閉まった瞬間、夫人の瞳から一筋の涙が零れる。女中が驚いて、夫人の背を撫でる。
「奥様?どうされましたか?」
夫人は首を左右に振り、涙を拭った。
寝室へ入れば、小さな花瓶にスズランの花が活けてある。ベッドに腰掛け、花瓶を見つめる。
魔具の灯りを、白い花がぼんやりと反射する。
夫人は微笑みながら、飽くことなく眺めていた。
「ん…?それは?」
いつの間にやってきたのか、公爵が傍に立っていた。
夫人は顔を上げる。
「さきほど、レグルスが持って来てくれたの」
「こんな時間に?」
「ええ。他の贈り物に紛れて、忘れられたくなかったのですって」
「ほう…?」
公爵は口元を奇妙に歪めた。夫人は眉を吊り上げた。
「今日の一番嬉しい贈り物よ。勝手にどこかにやらないで」
「……わかっている」
憮然とした様子で、公爵はベッドにもぐりこんだ。妻に背を向ける。
夫人は笑った。
「なぁに?息子にやきもち?」
「…べつに……」
盛り上がった布団に、夫人は身を寄せた。肩の辺りに顔を乗せる。
「あの子ね、私が白い花を好きだって、王子宮の庭で思い出したのですって」
「……」
「ミントの白い花を見て、私を思い出してくれたの。とっても嬉しかったのよ」
「………」
「帰り際に、また明日ねって何気なく言ったの。そしたらあの子、何て言ったと思う?また明日も会える、嬉しいって…そう言ったのよ」
夫人が鼻をすすった。キュッとシーツを握る。
「家族なんだから、当たり前の事なのに……あの子にはまだ、日常じゃないのよ」
公爵が体を起こした。すすり泣く妻を抱き寄せる。
夫人は夫の胸に頬を押し付けた。涙が止まらない。
「…あの子は幸せだ」
公爵がポツリと呟いた。
夫人は顔を上げる。夫の視線はどこか遠くを見つめている。
「当たり前の事が、当たり前ではない事を知っている。日常が、容易く崩れてしまう事を、誰よりも解っている。だから、何気ない日々に、幸せを感じることができる」
「そんな……」
「あの子は今、誰よりも幸せを感じている。それの何が悪い?何を悲しむ必要がある?」
夫人は眉を下げた。夫の言うことに間違いはない。だが、どこか詭弁だと感じる自分がいる。
公爵は妻を布団に引っ張りこんだ。肩まで被せて、子供にするようにポンポンと叩く。
「俺たちの役目は、その幸せを永く感じさせてやることだ。嘆く事ではない」
夫人は暫く夫を見つめていたが、やがて小さく頷いた。体を寄せる。
「…おやすみなさい」
「おやすみ。明日は笑って出迎えてやれ」
「はい」
夫の優しい温もりの中、夫人は微かに笑んだ。そして穏やかな眠りへと落ちていったのである。
年内更新はこれで最後になるかもしれません。ごめんなさい。
ダメージが大きすぎました……