宴の庭 2
華やかなドレスを纏った貴婦人たちが笑いさざめく。
今日はグランフェルノ公爵夫人の誕生日会である。時期が時期なので、例年は毎年領地で家族だけで慎ましやかに開いている。親しい友人を招いて、もう少し華やかに行っていた時期もあった。だが、レグルスが行方不明になってから、人を集める行事は屋敷全体で避けるようになっていた。
今年これだけ盛大に開かれたのは、無事に見つかったという報告の為。そして目出度く纏まった長男の婚約披露の為だ。
とはいえ、昼間のガーデンパーティ。夜会とは違い、女性の衣装は露出が少ないものがほとんどだ。スカートの膨らみも抑えられ、ごく自然に広がるものが多い。
膝丈のドレス姿なのは、小さな子供たち。袖や襟ぐりにふわふわとしたレースをふんだんに使ったそれも、幼いから許される。
男性陣の衣装も様々だ。夜会のように細かい規定がない分、色も明るいものを使った長衣や緻密な刺繍が施されたベストなど、個性が反映されている。
その中で、レグルスの白いローブは異様である。それを摘まんで歩く、マデリーンも。
トレーに飲み物を乗せて歩いていた侍従が、ローブ姿のレグルスを見つけて慌てたのは言うまでもない。客の間をすり抜け、主の子息の前で身を屈める。
「どうなさいました!?何か問題が?」
「まいごなのです。レリックおじさまをみませんでしたか?」
レグルスの背後に控えていた少女に、侍従は表情を緩ませた。辺りを見回す。近くの同僚を呼び寄せ、侯爵の居場所を尋ねた。
「先程、広間でお見かけしました。そうそう。お嬢様が見当たらないと……」
「いってみます。ほかのばしょでごかぞくをみかけたら、ひろまできゅうけいしていると、つたえてもらえますか?」
「かしこまりました」
侍従は頭を下げる。
レグルスはマデリーンを連れ、広間へと向かった。
夜会などが行われる広間は、大庭園と繋がっている。今日は休憩所として椅子が運び込まれていた。談笑の場としても使われている。
袖にかかる力が強まった気がして、レグルスは後ろを振り返った。
「つかれましたか?もうすこしですから、がんばってください」
幾ら向こうで休憩したからといって、結構な距離を歩いている。貴族の子女には辛いだろう。少し足を引きずっているだろうか。
歩くペースを更に落として、レグルスは広間へ向かう。
「あー!ヘーミンだ!!」
突然上がった声に、マデリーンが足を竦ませた。レグルスも立ち止まる。
声の方向を見れば、数人の少年たちがこちらを指差していた。
「何戻ってきてるんだよ!」
「出てけー!」
囃し立てる声に、マデリーンの顔が歪む。
レグルスはポンポンと少女の頭を撫でた。こちらを見た彼女に小さく頷く。
「ないちゃダメですよ。せっかくなおしたおけしょうが、とれちゃいます」
マデリーンはギュッと袖を握った。レグルスは再び頷く。
「だいじょうぶです。ぼくにまかせてください」
そう言って、彼女の前に立った。
少年たちが怪訝そうな顔をする。
「…なんだよ、お前」
「ここは貴族しか、入れないんだぞ」
レグルスはわざとらしく息を吐く。貴族の子弟というのは、皆こんなに馬鹿なのか。
「ひとのなをきくばあいは、まずじぶんからなのる。きぞくのマナーもしらないのですか?」
ぐっと彼らは言葉を詰まらせた。顔を赤くするのは、恥じらうよりも怒りによるもの。
レグルスは首を傾ける。
「ここにいるのはすべて、グランフェルノけの、おきゃくさまです。あなたがたが、どうこういうあいてでは、ありません」
平民であろうと貴族であろうと。公爵家が厳選し招待した相手に、ケチをつけるのか。
レグルスは言外にそう告げたのだが、少年達には伝わらなかったようだ。
「ここは公爵様のお宅だぞ!下賤な奴が立ち入っていいわけない!!」
「そうだそうだ!家畜は家畜小屋にいるべきなんだ!」
平民を家畜呼ばわりとは。市井の民が居なければ、貴族など成り立たないのに。
確かに、今日は貴族の他にも、いつも懇意にしている商人も招待されている。だが、別の庭に案内された筈だ。こういう貴族たちとの争いを避けるために。
孤児院の関係者も呼ばれた。彼らはパーティの支度を手伝うという名目もあって、招待客より早く来て、奥の庭に隠されるように通された。
レグルスは盛大な溜息を吐く。グランフェルノ家は名家だが、現公爵は実力主義だ。向上心があれば家柄など気にしないし、逆にその上に胡坐を掻くようであれば血縁であっても容赦ない。
そもそも、レグルスたちを平民扱いしているのも間違いなのだ。それに気付きもしない。
フードの下で、レグルスの瞳が冷たく光った。
「ここ、ぼくのおうちですけど?」
「えっ?」
少年たちが呆気にとられた。
レグルスは手を腰に当てる。
「ここはぼくのおうちです。かちくごやですか…へぇ」
周囲を見回す。
広い庭。立派な屋敷。これが家畜小屋というのなら、彼らの家はどれほどの御殿なのか。
思わず冷笑が漏れる。幸いにもフードが全て包み隠してくれるが。
マデリーンを振り返る。
「かのじょは、ぼくのちちのおさななじみである、こうしゃくさまのおじょうさまです。なにをどうして、へいみんというのですか?」
少年たちが目をまん丸にするのと同時に、周囲からざわめきが起こる。
(ではあの子が……)
(公爵様の?)
(ではあちらはココノエ侯爵の……)
(まあ、あの噂は本当なのかしら?)
微かな囁きが聞こえてくる。子供の喧嘩は、既に周囲の目を集めている。
マデリーンは不安げに辺りを見回す。すると、掴んでいた袖が引かれた。レグルスの隣に並べば、耳元でそっと囁かれる。
「…そろそろ、ごかぞくも、みつかりますよ……」
「マディ!」
甲高い声が聞こえた。ミントグリーンのドレスが駆け込んでくる。
「お姉さま!」
袖が軽くなった。マデリーンが離れて行く。
マデリーンの姉・アリステアは、しっかりと妹を抱きしめた。くしゃりと顔を歪める。
「心配したのよ!!いなくなっちゃうから!どこ捜してもいないから!」
「だって…出て行けっていわれて……お姉さまもいないし……」
マデリーンは鼻をすする。
アリステアはキッと少年たちを睨んだ。妹を背後に隠し、少年たちに指をつきつける。
「女の子を集団でいじめるなんて、最低!」
「べ、別にいじめてなんて……」
「いじめてなければ、なんなの?貴族のくせに、弱い者いじめしか出来ないのね!」
少年たちはしどろもどろになる。アリステアは更に言葉を募り、彼らを詰る。
(わぁ、強~い)
レグルスは他人事のように彼らを眺めていた。が、突然アリステアがこちらを見た。睨まれている。
「貴方もよ!」
「はいっ?」
「そんな恰好で!一緒にいたら、ますますからかわれるのが分からないの!!」
レグルスはフードの奥で眉を寄せた。八つ当たりも甚だしい。
自分が異様な事くらい、理解している。だから、この大庭園に出ることを拒否した。
言いたいことは理解できるが、だからといって怒られる謂われはない。
姉の後ろの隠れる少女は、真っ青になっていた。姉を止めようと、袖を引く。
「やめて、お姉さま。その方は、私を助けて下さったのよ」
「方法ってものがあるのっ。顔も見せないなんて、気味悪く思われたって仕方ないのよ」
姿を見せた方が気味悪がられることがあるのだ。
レグルスは踵を返す。ふわりとローブの裾が翻った。
さっさと歩きだした彼を、マデリーンは追いかけようとした。姉に阻まれる。それでも必死に手を伸ばす。
「レグルスさま…!」
辺りのざわめきが大きくなった。一目見ようと、大人たちが集まってくる。
その間をすり抜けるように、レグルスは足を速める。
「レグルス」
男性の声が彼を呼びとめた。そのまま立ち竦むレグルスに、再度呼びかけの声がかかる。
「レグルス。せっかく来てくれたのに、紹介させてくれないの?」
「………シェルにいさま……」
渋々といった様子で振り返った彼に、シェリオンは穏やかに微笑みかけた。両手を差し出され、戻らざるを得ない状況に追い込まれる。
溜息を一つこぼして、レグルスは兄のもとまで戻った。兄は身を屈めて、嬉しそうに笑う。こんな顔をされては無碍に出来ない。兄に抱きつく。
フード越しに頭を撫でると、シェリオンは姉妹の方へ向き直った。
「こんな恰好でごめんね、アリス。この子はレグルス。俺の下の弟だよ」
アリステアは何も言えず、顔を引き攣らせた。
「格好に関しては、許してあげてくれないかな?長く栄養状態が悪かったから、すっかり痩せ細ってしまっていてね。逆に怖がらせてしまうからと、姿を晒す事を嫌がるんだ」
にっこり笑って言われれば、アリステアは頷くしかない。不承不承といった様子の姉に、妹は袖を引っ張る。
続いて、シェリオンはレグルスに話しかけた。
「レグルス。ココノエ侯爵家のご令嬢で、アリステアとマデリーンだよ」
「さきほど、マデリーンじょうには、ごあいさついただきました」
「そう。マディはお前より二つ年下だよ。大人しいけれどしっかりした子だから、お前と気が合うかもしれないね」
そう言って、兄は少し意地の悪い笑みを浮かべる。レグルスは冷やかに兄を見上げた。
「にいさまも、じゅうぶん、とうさまのこです」
兄にだけ聞こえるように呟けば、兄の笑みが深くなる。全く堪えていない。レグルスの不満が溜まる。
シェリオンはクスクスと笑って、弟の肩に手を添える。そして軽く前へと押し出した。
「アリスも、仲良くしてあげてね?君の方がお姉さんなんだから」
「そうだな。事情も知らずに、恩人に罵声を浴びせるなんて、失礼極まりない」
やんわりと窘める声に、アリステアはびくっと身を竦ませた。恐る恐る顔を上げれば、父侯爵がそこにいた。
ココノエ侯爵は腰に手を当てている。
「迷子の妹を連れて来てもらって、姿にまで難癖付けるのはどうかと思うぞ?」
「お父様…どこから聞いてたの?」
若干恨みがましい目を向けてしまう。ココノエ侯爵はぽふんと娘の頭を叩いた。
「その前に言うべきことがあるんじゃないのか?」
僅かばかり、口調に厳しいものが混ざっただろうか。
アリステアはそれでも口を尖らせた。レグルスを見、躊躇うように辺りを窺う。
それに焦れたのか、マデリーンが先に頭を下げた。
「レグルスさま、ごめんなさい」
「ちょっと、マディ!?」
「私が心配させてしまったから、お姉さまは少しいらついてしまったの。本当はやさしいお姉さまなのよ」
慌てる姉を他所に、マデリーンは深々と頭を下げる。
ココノエ侯爵が面白そうに笑った。
「しょーがないお姉ちゃんだなぁ…妹に謝らせるなんて」
「マディが何でもかんでも謝り過ぎるの!」
アリステアは頬を膨らませた。妹の手を引き、どこかへ行こうとする。
その行く手を阻んだ者がいた。
「…だからといって、貴方が謝らなくていい理由にはならないのよ?」
そこに立っていたのは、二人の母・クリスタルだ。悲しげに瞳を揺らしている。隣にはグランフェルノ公爵夫人もいて、困ったように笑っていた。
アリステアがうっと言葉を詰まらせる。
クリスタルは身を屈める。
「ちゃんと謝りなさい。そうでなければ、マデリーンを泣かせた男の子達と何も変わらないわ」
マデリーンに手を振り払われた。妹はそのまま母に縋りつく。
最初唖然としたアリステアだったが、不満そうに口をへの字に曲げる。
それを黙って眺めていたレグルスは、ふっと息を洩らした。
「べつに…もういいのです」
小さく呟けば、兄が視線を下げる。
「いいの?許してあげるの?」
「いみをわかっていないのに、あやまってもらっても、こまるのです」
レグルスは顔を伏せる。ぴったりと兄に張り付いて、離れようとしない。
不審に思ったシェリオンが僅かにフードを上げて、様子を伺う。レグルスは目を閉じていた。眉が下がっている。
「意味が分からないわけじゃないわ!」
アリステアが喚けば、レグルスは首を振る。
「にいさま…もう、おくにもどってもいいでしょう?」
「…ここは、嫌?」
訊ねれば、弟はしっかりと頷いた。少し、呼吸が荒くなっている。兄に縋らねば、立っていることも難しいようだ。
シェリオンは寂しそうに微笑む。
「せっかくだから、一緒にお祝いして欲しかったけれど…仕方ないね。ハーヴェイ、連れて行ってもらっても?」
「わかった」
ふわりと、レグルスの体が浮いた。後ろに控えていたハーヴェイが抱き上げたのだ。ぐったりと次兄の肩に頭を凭れかけさせる。
「シェルにいさま、ギーねえさま…ごめんなさい……」
「気にしなくていいのよ。疲れてしまったのね」
傍で見守っていたギネヴィアは、そっとレグルスの頭を撫でてくれた。僅かに背伸びして、フードをずらして、レグルスの頬にキスを落としてくれる。
レグルスは弱弱しく笑った。
「うふふ。けがのこうみょう、です」
「ヴィー、ソレ落としていいぞ」
「男の嫉妬はみっともないぞ、兄上」
周囲から控えめな笑い声が上がった。僅かに緊張していた空気が和んだ。
ハーヴェイはレグルスを抱え、庭を後にしようとする。
「まって」
マデリーンが声を上げた。小走りに駆け寄ってくる。彼女はハーヴェイの足元で止まると、レグルスを見上げた。それからドレスを摘まんで、一礼する。
「助けて頂き、ありがとうございます」
「…もう、ないちゃ、ダメですよ。おんなのこがなくのは、にがてです……」
マデリーンは頷く。
レグルスは頭を撫でてあげようとして、失敗した。手が届かなかったのだ。諦めて、次兄の肩に手を戻す。
「いつかぼくにも、わらったおかお、みせてくださいね」
マデリーンは固まった。そのまま動けずにいると、ハーヴェイの手がポンポンと軽く頭を叩いた。
去っていく彼らを硬直したまま見送る。その周囲から、生温かい視線が送られていることなど、気付きもせずに。
父に連れられ、母と姉の所へ戻る。
アリステアはすっかり肩を落としていた。意地を張り過ぎて謝る機会を逃してしまった事を、後悔しているのだろう。
公爵夫人が微笑む。
「気にしなくていいのよ?あの子は聡い子だから、きっと解っているわ」
「でも……」
「気にするのなら、また遊びにくればいいのよ。あの時はごめんなさいって。そう言ったら、許してくれるわ」
今だって、怒っているわけではないのだから。
アリステアは妹を見た。マデリーンはキョトンとしている。何故姉に恐々といったような目を向けられねばならないのか、わからない様子だ。
ここにはグランフェルノ公爵家のほぼ全員と、ココノエ侯爵家が揃っていた。視線も集まる。
「レグルスは注目されるのを嫌う。騒ぎで視線が集まったせいで、気分を悪くしただけだ。アリスのせいではない」
グランフェルノ公爵が言った。
それは事実だ。
レグルスの貴族嫌いはある意味、決定的になっている。好奇の視線に緊張して、すぐに具合を悪くするのだ。孤児院に遊びに連れて行った際、近所の大人に遠巻きに囲まれて、同じように立っていられなくなってしまった。少人数であれば話をし、多少打ち解ける事も出来るのだが。
家族が傍にいれば和らぐかと思ったが、全く効果はなかったらしい。顔には出さないが、気落ちしているのはシェリオンも同じだろう。
ココノエ侯爵が小さく息を吐く。
「悪いな。娘たちが迷惑をかけた」
「ふ…それこそ気にするな。子供は大人に迷惑をかけて成長するものだ」
グランフェルノ公爵は目を細めた。
「ごめんなさい…ありがとうございます……」
アリステアが、今更のようにポツリと呟いた。俯いていると、父に肩を叩かれた。母がギュッと抱きしめてくれる。
「大丈夫だよ」
シェリオンが笑いかければ、ハッとしたように、マデリーンが口元に手を当てた。
「司祭さまの仰ったとおりだわ……」
「え?何?」
「今日はシェリオンお兄さまも笑ってくださるって…本当だわ」
全員の視線がシェリオンに集まる。
どう言い訳をしようか考えていると、ツンっと袖を引かれた。アルティアだ。
「お兄様…五年間の無愛想のツケがここにもありましてよ」
「そうだね…どうしようか?」
「瞳の色のせいか、無表情だと冷徹に見えるというのに……だから『氷の貴公子』なんて呼ばれるのよ」
「え、初耳」
ギネヴィアの言葉に、シェリオンは目を丸くする。
その反応に、周囲が瞠目した。
「知らないの?自分の異名」
「嘘だろう……」
「噂話も情報の一つだよ?」
「感情と一緒に、何か別のものも凍らせちゃったんじゃないの?」
散々な言われように、シェリオンはかなり落ち込まされるのであった。
ハーヴェイに抱えられたレグルスは、奥庭の離宮へ戻って来ていた。自室に戻っても、世話をしてくれる相手がいないのだ。使用人たちはパーティで忙しい。
昼寝用の寝台に寝かされたレグルスは、真っ青な顔をしていた。ルオーは顔を顰める。
「軟弱な」
「…ひどいです……」
応える声も弱い。
ルオーは留め具を外し、ローブをはぎ取った。上着も脱がせ、シャツのボタンも緩める。靴やらベルトやらも素早く取り上げ、ブランケットをかけておく。
「レモン水でいいか?それとも紅茶?」
「おみず…」
「わかった」
ルオーは庭に出て行く。
ハーヴェイは腕を組み、深く頷いた。
「うむ。見事」
「すっかりお世話係が板についてしまって…今では一番頼れるお兄ちゃんですよ」
司祭がレグルスの上着を掛けながら言った。レグルスに様子を窺い、乱れた髪を直す。
ハーヴェイは司祭に向かって頭を下げた。
「お手数おかけしてすまないが、弟たちを頼む」
「はい。お預かりします」
司祭は答えた。
額に触れれば、レグルスが目を開ける。
「にいさま…」
「使用人の手が空いたら、迎えを寄越すからな。大人しく休んでろよ」
「はい」
僅かに笑い、再び目を閉じる。
ハーヴェイは頭を撫でてやり、それから離れた。ハーヴェイも傍についていてやることは出来ない。主催側として、客人をもてなす役目があるのだ。
羊の安眠枕に顔を埋め、ほのかに漂う軽やかな香りを吸い込む。
(あう…おれいをいいそこねました……)
この枕を贈ってくれたのは、ココノエ侯爵夫人だ。会えたらお礼をと思っていたのに、すっかり忘れていた。けれど、またすぐに会う機会はあるだろう。
体を丸める。
ソファはふかふかで、ブランケットは柔らかい。枕からはいい香りが漂い、外からは賑やかな声がする。
ウトウトとまどろんでいると、額に冷たいものが乗せられる。
「ホラ、レモン水」
「…ありがとうございます」
司祭に起きるのと手伝ってもらい、ルオーからコップを受け取る。レモン果汁で風味をつけた水は、さっぱりとしていて気分もすっきりする。
レグルスは半分ほど飲んで、コップをルオーに返す。そして再び横になった。
「すこし、ねむります……」
「はい、おやすみなさいませ」
司祭に撫でられ、レグルスの意識は急速に遠のいていく。完全に眠りに落ちる前に脳裏を過ったのは、泣いてばかりの少女の顔。
レグルスの顔に笑みが上る。
(ぼくのおよめさんこうほは、かわいいおじょうさまたちでした)
マデリーンは勿論、アリステアも。妹思いの感情表現が素直な子だと、レグルスは思っている。不快な思いをしたのは最初だけだ。
(つぎは、ふたりともわらって…くれ、ますか……ねぇ………)
女性が泣くのは苦手だ。虚ろな目も。
それは前世からの記憶。息子を、夫を、恋人を亡くした女性たちの、責める言葉が今も消えずにここにある。
リスヴィアの守護天使――或いは死神。
うっかり覗いてしまった彼の記憶。彼が最も苦手とした事は、そのままレグルスの苦手な事になった。
夢も見ないほど深い眠りに落ちるレグルスは、目が覚めた時、皆が笑っていればいいと秘かに願った……
誤字脱字の指摘、お願いします。
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ついでに感想を頂けると踊ります(は?)
次は『レグルスくん、再び王宮へ行く(仮)』ですかねw