失われた時の意味 1
レグルスは広い屋敷の廊下を、とてとてと頼りない足取りで走る。
これが今の精一杯で、全速力である。証拠に、呼吸が荒い。
「かあさま。ねえさま…!」
何とか辿り着いた玄関ホールの上階。手すりの隙間から下を覗き込む。
ホールでは母と姉が、出掛ける準備を整えていた。
声に気付いて見上げた母が、頬に手を当てる。
「まあ、レグルス。どうしたの?」
「かあさ…っ、あう?」
レグルスは急いで階段を下りていた。少なくとも自分では、最大の速力で。
結果として、体が浮いた。別名「階段から飛ぶ」という荒技。
あわやのところで、レグルスを追ってきた侍従が引っ掴む。侍従は自身の体を階段に滑らせ、浮いたレグルスを引き寄せた。踊り場で何とか踏み止まる。
悲鳴を上げた姉は息を吐き、母はへなへなとその場に崩れ落ちた。
二人を見送りにいた執事と女中が、慌てて階段を駆け上ってくる。
「レグルス様!ご無事ですか!?」
「ご、ごえ…ごめんなさいいぃぃぃっ」
誰に言っているのか解らないが、裏返った声でレグルスが叫んだ。下敷きになった侍従を見て、真っ青になっている。
侍従は痛みにしばらく動けずにいたが、やがて苦笑を浮かべた。ゆっくりと起き上がり、腰をさする。
クリストフが顔を覗き込む。
「見事です」
「…ありがとうございます」
侍従は痛みを堪えつつ、小さな主人を執事へと渡した。
レグルスは顔を歪めている。
「ごめんなさい。ごめんなさい…いたいですか?」
さすっていた腰のあたりに手を当て、ふわふわと撫でる。
侍従は笑った。
「大丈夫ですよ。頑丈だけが取り柄ですので」
「むりはだめです。かいだんからおちたら、すりむく・だけじゃ・すまない・の・です」
「ならば次からは、階段から飛び降りないで下さいね?」
侍従ににっこり笑って諭されれば、レグルスはうっと言葉に詰まる。
悲鳴を聞いて駆け付けた仲間の手を借り、名誉の負傷をした侍従は下がっていった。
クリストフに手を引かれ、レグルスは階段を降り切る。
姉のアルティアが駆け寄ってきた。レグルスをぎゅうっと抱きしめる。
「もうっ。寿命が縮むかと思ったわ!」
「ごめんなさい……」
すっかり意気消沈して肩を落とすレグルスに、アルティアは笑った。
「無事で良かった。でも、そんなに急いでどうしたの?」
「そうです!ねえさま、かあさまとおでかけするって……!!」
母も女中の手を借りて立ちあがっていた。まだ顔は強張っている。
レグルスに向かい、険しい表情を見せた。レグルスはビクリと身を竦ませる。
「そうよ。いつも冬は領地に戻って過ごすのだけれど、今年は王都に留まる事にしましたからね。折角だから、孤児院にも改めて挨拶をしに行くのよ」
「…こじいん?ぼくは、つれていってもらえない・のですか?」
恐る恐ると言った様子で、母の様子を窺いながら、言葉を紡ぐ。
母は目を丸くした。腰を折り、息子の顔を覗き込む。
「貴方も行きたかったの?」
「…ひとりでおるすばんは、いやです……」
「まあ……」
母が口元に手を当てる。
レグルスは母がそれほど怒っているのではないと判断して、手を伸ばして腰に抱きついた。
母から笑みが漏れ、頭を撫でてくれる。
「連れて行ってあげたいのはやまやまだけれど…今日はダメ」
「…だめですか?ぼくはじゃまですか?」
そう言って眉がハの字になる。
母は首を左右に振る。優しく微笑み、息子と目の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「孤児院の子は、親を亡くしたり捨てられたり…酷い目に遭った子も沢山いるの。今の貴方の姿は、そんな嫌な事を思い出させてしまうかもしれないのよ」
「……」
「でもね、孤児院の皆も貴方も、同じ辛い経験をしてきたから、きっとお友達になれると思うの。だから今の貴方の状態を伝えて、連れてきてもいいか聞いてこようと思っているの」
「…ぼく、おともだちつくれます・か?」
「ええ。貴方は優しいから、きっとみんなも仲良くしてくれるわ。でも、時間をかけてね。貴族を信用してない子もいるのよ」
レグルスはしょんぼりと肩を落とした。母から離れる。
代わりに後ろから姉が抱き込む。
「早く帰ってくるわ。エミール先生とお勉強していたら、あっという間よ」
「…はい。つぎはつれていって・ください・ね?」
「孤児院の皆が、貴方に会いたいって言ってくれたらね」
アルティアは悪戯っぽく笑って、レグルスに額をつけた。
寂しそうなレグルスを置いて、二人は馬車に乗り込んだ。扉が閉められる。
娘は大きな溜息を吐いた。
「いきなりは、連れていけないわよね」
「ええ」
母は短く応え、そっと視線を伏せる。
グランフェルノ家が支援する孤児院は、王都の外れにある。
小さな教会に併設されたそこには、レグルスの偽物として連れて来られた子供も大勢いた。
孤児や奴隷だった子供だけなら、まだ良かった。中にはこの目的の為、親に売られた子供もいるのだ。
そして最大の問題が一人……
孤児院の前に止まった馬車に、庭掃除をしていた女の子が機敏に反応した。
急いで教会内に戻る。
「司祭様!グランフェルノ公爵様の馬車が着きました!!」
少女の声が教会内に響き渡る。
祭壇を掃除していた司祭は少女を振り返る。
「早かったですね。今行きます」
司祭は掃除用具を置き、長い袖を括っていた紐をほどく。
そのまま出ていこうとする司祭を、一緒に掃除をしていた数名の子供が慌てて止めた。
「司祭様、前掛け!」
「司祭様、ほっかむりも取って!!」
司祭は「おや?」と頭に手をやり、自分の体を見る。
子供が飛びついて、ちょうちょ結びにされた前掛けの紐を解いた。頭に被っていた布を司祭が外すと、子供が奪って前掛けと共に祭壇裏に隠す。
若干皺の寄った衣服を寄ってたかって叩いて伸ばして、何とか様にする。
司祭は苦笑を洩らし、教会の扉を開いた。
門扉の向こうに止まった馬車から、丁度二人の貴婦人が降り立ったところだった。
「こんにちは、司祭様」
「ようこそおいで下さいました、シェーナ様。アルティア様」
二人の微笑みに、司祭は深く頭を下げて応えた。
教会の内から、外から、子供たちが飛び出してくる。
「シェーナさま!」
「アルティア様、こんにちは!!」
「はい、こんにちは」
「ふふ。みんな元気ね」
二人の周りを子供たちが取り囲む。いち早く駆け寄れたものが手を握り、一緒に孤児院へと向かう。
司祭も傍に行けなかった子供たちと共に、ゆったりと二人の後を追った。
孤児院は二階建てだ。一階には応接室と食堂、図書室などの共同スペース。二階には皆で眠る寝室に、司祭の私室。幾つかの個室は、馴染めない子供たちや思春期の子供たちの逃げ場だ。
アルティアは食堂に向かった。子供たちとお喋りを楽しむ為だ。
シェーナは子供たちをアルティアに託し、司祭と応接室に向かう。もうすぐ孤児院を出なければならない年の子が一人、ついてくる。
席に着くと、司祭は僅かに顔を引き締めた。
「お話は届いております。お子様のご様子は如何ですか?」
「元気よ。体力はないのだけれどね。屋敷中走り回っているわ」
出掛ける前の事を思い出し、小さく溜息を吐いてしまう。だが留守番が嫌だという可愛い我儘も思い出し、自然と笑顔が戻った。
司祭はシェーナの表情に自身も顔を緩める。
「落ち着きましたら、是非こちらにもお連れ下さい。皆楽しみにしております」
「そうなの?」
「ええ。見つかって良かったと、素直に喜んでいましたよ」
司祭は微笑んだが、シェーナの瞳は不安げに揺れた。胸を抑えている。
司祭の後ろに控えていた少女が身を乗り出す。
「大丈夫です!ゼノもウォーレンもカールも…他にもいっぱい!男の子たちは、今度は自分たちが守ってやるんだって、張り切ってましたから!!」
「そうなの。フレア…ありがとう」
シェーナが微笑みかければ、フレアは顔を真っ赤にして俯く。
フレアは両親を事故で亡くし、この孤児院へ来た。厭味な親戚をたらい回しにされなかった分、マシな方だと自分で考えている。
シェーナが言った。
「本当はね、あの子も来たがっていたのよ」
「そうなんですか?連れて来て下されば良かったのに……」
「皆の話を聞いてからにしようと思ったの。それに、本当に体力がないのよ。皆と遊んだら、あっという間にへばってしまうわ」
はしゃいで遊んで、すぐに追い付けなくなって、寂しそうに母のもとへ帰ってくるのが目に浮かぶ。
口元に手を当ててクスクスと笑う。
その様子に、司祭は小さく頷いた。
「明るくなられましたね」
「え…そう、かしら?」
「憂いが晴れたのですから、当たり前なのですが…良いお顔をするようになられました」
司祭は穏やかにそう言い、席を立つ。
「そろそろ子供たちのもとへ行ってあげて下さい。後で不満をぶつけられてしまいます」
「…そうね。ありがとう」
シェーナも立ち上がり、フレアを連れて、部屋を出ようとする。その前に足を止めて、司祭を振り返った。
「今年の冬は王都で過ごす事になったのよ。レグルスも連れてくるわね」
「わ!楽しみです」
フレアが素直に喜べば、シェーナがその手を握った。突然の事に、フレアが固まる。
「ふふっ。貴方がそんな風に言ってくれるなら、きっと大丈夫ね」
にこにこと笑顔を振りまくシェーナに、フレアは真っ赤になった。
大貴族の奥方であるにもかかわらず、こうやって孤児である子供たちに躊躇いなく触れてくる。美しい面に、優しい笑顔を浮かべて。
そんな彼女はフレアだけでなく、孤児院の少女たちの憧れである。こうやって彼女の方から手を繋がれれば、正常でいられる筈がない。
歩き方までぎこちなくなったフレアを連れ、司祭の部屋を出た。
アルティアは、ヨチヨチと頼りない足取りで外へ出ようとする幼子を抱き上げた。パタパタと手足を動かして逃げようとするのを優しく窘め、膝の上に座らせる。
座らせられると安定したのか、大人しくなった。不思議そうにアルティアを見上げる。
「あう~?」
「いい子ね」
薄い水色の瞳は、父や兄と同じ色だ。キョトンとこちらを見る表情は、弟を思い出させる。言葉は遅いが、弟よりふっくらしていて、見た目は可愛い。
この子も、弟の身代わりとして連れて来られた。五年前に攫われた子が、何故二歳児になる…と、家族で連れてきた者へ冷たい視線を送ったのは、ほんの四か月前。
当時、染められていた髪も、今では綺麗なはちみつ色に戻っている。実の両親は生活に困って、子供を売り飛ばしたらしい。
この子で偽物は最後になるだろう。けれど、不幸な子供が減るわけではない。
幾らグランフェルノ家が支援しているからと言って、この孤児院で助けられる数には限りがある。
アルティアは小さな子供の髪を撫で、他の子供たちを見回す。
全員が落ち着いたのをきっかけに、一人が口を開く。
「ねえ、アルティアさま?弟さまが見つかったって、本当?」
「本当よ」
アルティアが応えると、歓声が上がった。
次々と質問が上がる。
「どんな子ですか?」
「ここにも連れて来てくれる?」
「いっしょに遊んでもいい?」
「今は何をしているのですか?」
「いっぺんに質問されても、答えられないわ!」
アルティアが苦笑交じりに首を振れば、子供たちが顔を見合わせて笑いあう。
だが、中には微妙な表情をしている子供もいる。
アルティアの隣に陣取った少年もそうだ。指先で彼女のドレスの袖を摘む。
「アルティアさま。もうこない…?」
「え?」
「おとうとさま、みつかったから…もうこなくなっちゃう?」
不安で顔を歪ませる少年を、アルティアは笑い飛ばした。
「そんなわけないじゃない!また来るわ。今年の冬は王都に留まるから、いつもよりたくさん遊びに来るわよ」
「…ほんと?」
「勿論よ。弟も連れてくるわ。そしたら、意地悪しないで一緒に遊んでくれる?」
少年は小さく頷く。膝に乗せた子供が、両手を上げる。
「お~!」
「ふふっ、セイルは遊んでくれるのね。ありがとう」
ギュッと抱きしめれば、解っているのかいないのか、幼子はキャッキャッと無邪気に喜んでいた。
少年もはっとしたように、アルティアの腕に縋った。
「ぼくもあそぶ!いじわるなんてしないよ!!」
「レグルスも喜ぶわ。あの子、お友達がいないから、皆に会えるのを楽しみにしているのよ」
「おれも!」「わたしも!」と子供の声が続く。
アルティアの顔が綻ぶ。
その一方で、食堂の隅に一人座る少年の存在にも気が付いている。目を向ければ、素っ気ない態度で視線を逸らされた。そのまま、食堂を出ていってしまう。
知らずうちに寂そうな顔になってしまったアルティアに、膝の上の幼子が声を上げた。
「あーしゃ。うー!」
「はあい」
アルティアは傍にいる子供たちに意識を戻した。
本を読んだり、庭に出て遊んだり……半日子供たちと存分に過ごし、孤児院を後にする。
体調次第になるが、次はレグルスを連れてくることを約束して。
門の前に整列して見送る子供たちに手を振り、馬車に乗り込む。
走り出すのを待って、アルティアが口を開いた。
「ルオーとお話出来なかったわ」
「ええ……でも、賢い子だもの。ちゃんと解っている筈よ」
母は、不安そうなアルティアを元気づけるように言った。
誤字脱字の指摘、お願いします。
せっかく書きあがっているのだから、出し惜しみしてどうする。
更新出来ない辺境作家なんて、フォロワーのいないツイッターと同じことよ!!(意味不明)