閑話 手紙に心を
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レグルス坊ちゃまへ
坊ちゃまをお見送りしてから、三年が経ちます。
坊ちゃま、今どちらにいらっしゃいますか?
元気にしていますか?お腹は空いてませんか?お怪我はしていませんか?病気になどなったりしていませんか?
セレンは坊ちゃまのお帰りをお待ちしながら、毎日、そんな事を考えて過ごしております。
あの日「行ってらっしゃいませ」とお見送りした坊ちゃまが、いつかお戻りになると信じて、お待ちしておりました。
けれど、それももう出来ないようです。
セレンは嫁ぐことになりました。遠い街へ行く為に、お勤めも辞する事になってしまいました。
本当はこのお屋敷でいつまでも、レグルス坊ちゃまのお戻りをお待ちするつもりでした。でも叶いませんでした。
夫になる方はとても素敵で良い方ですし、旦那様と奥様も喜んで下さっています。感謝こそすれ、我儘を言ってはいけませんね。
でもセレンは、レグルス坊ちゃまにどうしても申し上げたい一言があるのです。
だから最後に、このお手紙を残していきます。
坊ちゃま、お帰りなさいませ
どうか無事にお戻りください。
それがセレンのたった一つの望みです。
セレン・フィート
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セレンは窓から外を眺めていた。
大通りに面したこの家は、窓を開けば外の喧騒が聞こえてくる。
その声に耳を傾けていた彼女は、不意に聞こえた赤ん坊の声に視線を移す。
赤ん坊の声は外から聞こえたのではない。この家の中からだ。
不安に顔を顰めれば、部屋の扉が開いた。
「セレン。調子はどうだい?今日は具合が良いって聞いたけど」
入ってきたのは彼女の夫だ。セレンは微笑む。
「はい。お医者様に、無理しない程度なら歩いても良いと」
「そっか。ユージンも早くお母さんに会いたいと、泣き喚いているよ」
家中に響く、赤ん坊の声。
半年前に生まれた、彼らの子だ。ちなみに男の子である。
子供は無事元気に生まれたが、母はそうはいかなかった。産後の肥立ちが悪く、長く寝込んでいる。
体の丈夫さだけが取り柄だった彼女だが、出産という大仕事は一筋縄にはいかなかったようだ。
それでも体調を悪化させていく事はなく、何とか回復へと向かっている。
だが乳を与えるどころか、ロクに抱き上げてもやれない自分が情けなくて、セレンは視線を伏せる。
「ごめんなさい……」
「責めているわけじゃないよ!早く元気になってくれと言いたいだけで……!!」
夫は慌てて弁明を始める。元気になったら、家族三人でピクニックに行こうとか、買い物に行きたいとか、必死で言葉を重ねる。
が、ふと己の手に持つものを思い出し、彼女の前へと差し出した。
「そうだ!グランフェルノ公爵夫人から、手紙が届いたんだ。君へだよ」
「奥様から?」
夫は何度も頷く。
セレンはそれを受け取り、宛名と封蝋の印を確認する。間違いなく、グランフェルノ公爵家の家紋だ。
夫からペーパーナイフを受け取り、慎重に封を開く。
季節の挨拶から始まったそれは、セレンの近況を尋ねる文章へと変わり、彼女の容体を心配する言葉へと移る。そして公爵家の近況を知らせるものになった。
同時に彼女の眼が見開かれる。手紙を凝視したかと思うと、大きな眼にたちまち涙が浮かぶ。
夫は更に慌てた。
「ど、どうしたの?何か悪い事が?」
セレンは首を左右に振った。便箋を捲る。
彼女は更なる驚きに落された。
夫がそれを覗き込む。
書かれていたのは、ごく短い文章。ミミズがのたくったような、拙い文字。
けれど夫にはそれで理解した。彼女の頬を伝う涙を拭い、体を抱きしめる。
グランフェルノ家に関する話はこの街にも届いている。帰りを待ちわびる彼女を半ば強引に連れ出してしまった事も、夫は理解していた。
「良かったね」
セレンは頷いた。鼻をすすって、手紙を抱きしめる。
夫は彼女から離れると、にっこりと笑った。
「だったら、ますます早く元気にならなくちゃ。元気になったら、一緒に王都へ行こう。会いに行こうよ」
「…お仕事は良いんですか?」
「今から頑張る。だから君も早く元気になって?」
そう言って片目を閉じる夫に、セレンは微笑む。
「はい。約束ですよ?」
「うん!頑張るよ!!」
結局夫が妻に発破をかけられる形になったが、夫は気にせず上機嫌で部屋を出ていった。
一人になったセレンは、手紙を読みなおした。読みなおすほどの文は書かれていないのだが、胸に込み上げてくる感覚は変わらない。
そっと手紙に口づける。
「お帰りなさいませ、レグルス坊ちゃま。ありがとうございます」
そう呟いて、セレンは手紙を大事にしまった。
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セレンへ
ただいまです
けっこん、おめでとうございます
レグルスより
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セレンからの返事を受け取ったレグルスは、確かに最初、嬉しそうな顔をしていた。
それが一変したのは、封蝋代わりに押された印鑑を見た瞬間である。
「レブナントしょうかい……」
「レグルス様は本当に記憶力が良いですね。セレンの嫁ぎ先ですよ」
執事は感嘆すれば、レグルスが文字通り、地団太を踏む。
「レブナントしょうかいの、あの男!なんどもぼくのセレンに言いよって!!人のいないあいだにもってくなんて、ひきょうです!!」
子供の姿そのままに悔しがる姿に、執事は「おやまあ」と苦笑を洩らした。
グランフェルノ家の御用商人の嫡男は、どうやらレグルス坊ちゃまから嫌われていたらしい。ささやかな初恋から来る、嫉妬によって。
それを聞いていた使用人たちは、じたばたと暴れる坊ちゃまの姿を生温かく見守るのだった。
(まあ、初恋は実らないものですからね)
誤字脱字の指摘、お願いします。
閑話というより小話ですね。
成長記録は、産みの苦しみを味わっております…もう暫くお待ちください。