13.五年前の記憶
ココノエ侯爵は黄昏の塔へ来ていた。
最上階の部屋。三メートル四方ほどの、小さな部屋。陽が沈んだ後、明りのないこの部屋は暗闇に覆われる。
今は、侯爵の持ちこんだ魔具の明かりが広がっている。
晩夏の夜。昼間の熱は静まり、石造りの部屋は冷気が漂う。
もう数ヶ月もすれば雪が降る。そうすればこの部屋は更に気温が下がるだろう。外気と大して変わりがないとすれば、氷点下だ。
あの後、改めて塔全体が検分され、清掃された。空気の入れ換えにもなり、あのすえた臭いは消えている。
誰がこんな場所に、幼子を閉じ込めたのか。
何の為に。
ココノエ侯爵の手の中で、鍵の束が重苦しい音を立てる。
ここの鍵を持つのは、全ての牢鍵を預かる鍵番。そして王族の生活を預かる侍従長。
しかし、この二つの鍵は厳重に管理されている。簡単に持ち出しは出来ない。
もう一つ、食事を運ぶ為に最初の入り口の鍵だけが別にあるが、これだけでは上に閉じ込めるのは不可能だ。
知られない鍵の存在があるのか、この二つの鍵のどちらかが秘密裏に持ち出されたのか。今となってはそれも解らない。
侯爵は侍従長に無理を言って、鍵を借りてきた。
「オレのせいか?」
小さな呟きも、この静かな場所ではよく響く。
ココノエ侯爵は天を仰いだ。
「オレが、あの子を選んだから?」
「ンなわけあるかい」
思わぬ返答があった。
扉へ目を向ければ、国王が仁王立ちしていた。目を吊り上げている。
「見つかって『めでたしめでたし』にならんのは仕方ない。犯人が捕まってないんだからな。だけどさぁ……」
「身にならない自己嫌悪はやめろ、でしたね」
国王が盛大な溜息を吐いた。そして己の髪を掻きまわす。
ココノエ侯爵は苦笑した。
「でもね、陛下。原因不明のまま五年ですよ?オレや家族に手を出してくるならともかく、なんだってグランフェルノだったのか……」
そしてよりにもよって、あの一番幼い子供だったのか。
勿論、二人が若い頃からの友人同士という事実はある。今でも家族ぐるみの付き合いだ。
グランフェルノ公爵家にちょっかいをかければ、もれなくココノエ侯爵家もついてくるのは解りきっている。
それでも。
「レグルスが攫われたのは、ただの偶然だとは思えない」
「根拠は?」
「ありません。強いて言うのならば、ただの勘です」
国王は眉を顰めた。
勘を笑う事は容易い。それを容認できないのは、ココノエ侯爵の勘が外れた事がないからだ。
侯爵は視線を落とす。
「レグルスをオレと結び付ける要因はただ一つ。あの子をオレの後継者に求めた事。それだけです」
もし選ばなかったら…どうしてもその考えに戻ってしまう。
国王が首を振る。
「もっと先を見ろよ。過去を振り返ったって、解決しないぞ」
国王は軽く身を震わせた。夜気がますます温度を下げている。
「降りるぞ。こんなとこに何の解決策も無い。それなら、嫌われる覚悟で本人に事情聴取した方がマシだ」
サラリと言われた言葉に、侯爵は肩を竦めた。
仕方ないというように後に続き、塔を出るのであった。
◆◇◆◇◆◇
「っていうことで、来た」
「前置きの意味が分かりません…」
ココノエ侯爵が頭を抱えている。
目の前に座る子供は、無表情のまま国王を見ていた。やがて、隣の母に視線を移す。
「だぁれ?」
「国王陛下、よ。それとココノエ侯爵様。レリックおじさまよ」
グランフェルノ公爵夫人も、困った様子である。頬に手を当てている。彼女もまた、国王の前置きの意味が分からずにいた。
レグルスは再び国王に目を戻した。ぺこりと頭を下げる。
「はじめま・して。へーか。おひさしぶり・です、おじさま」
「堅苦しいのは抜きでいいぞ」
警戒心のない笑顔を向ければ、抱えていた小ぶりのぬいぐるみに顎を乗せ、首を傾ける。
見た目はかっさかさに乾いた干物のようだが、仕草は妙に愛らしい。
国王は顔には笑みを浮かべたまま、レグルスと同じように首を傾けて見せる。
「お前に聞きたい事があってな」
「ききたい・こと・ですか?」
「そ。お前が誘拐された時の事」
「陛下、それは…!」
公爵夫人の顔から血の気が引いた。息子を抱き寄せる。
あんな辛い目にあった直後に聞きだす事ではない。だが、時間がたてば記憶は変質する。ただでさえ、五年の歳月が経っているのだ。五歳児の記憶など、曖昧に決まっているのに。
少しでも情報が欲しい。が、夫人の反対も理解出来る。だから、嫌われる覚悟を決めて、ここに来た。
レグルスは抱きしめる母の体を押した。
「だいじょーぶ・です。おはなし・できます」
「レグルス……」
「強い子だ」
国王は緊張を緩めた。ココノエ侯爵もほっと息を吐く。
グランフェルノ公爵夫人だけが、顔を強張らせている。
レグルスは母を見上げた。
「だいじょーぶ、です。ぼく・だって、このまま・は・いやです」
「…そう。解ったわ……」
グランフェルノ公爵夫人は表情を強張らせたまま、立ち上がった。
国王に頭を下げる。
「私は下がらせて頂きます。お話が済みましたら、お呼びください」
「いてくれて、構わんぞ」
「いえ…聞いていれば、口を挟みたくなりますので」
顔を上げると、彼女はココノエ侯爵へ視線を向ける。小さく微笑む。「後はよろしくね」と、無言で告げて退出しようとすれば、スカートを掴まれた。
下から見上げる目は、無表情のままだ。だが。
「かあさ・ま。いっちゃうの・ですか?」
か細い声に、母は目を丸くした。すぐに笑みに取って変え、身を屈める。
「終わったら戻ってきますよ。ちゃんとお話ししなさい。嘘はダメよ?」
レグルスはしばらく母を見ていたが、やがて力なく手を離した。小さく頷く。
そんな我が子の頭を撫で、彼女は出て行った。
扉が閉まるまで、レグルスは母から目を離さなかった。無表情ながら、不安そうな気配は漂っている。
姿が見えなくなって、ようやく前に向き直る…と、目の前に居た国王がいなくなっていた。
「ありゃ?」
間抜けな声が出た。
ソファがたわむ。隣を見れば、国王が座っている。
国王は満面の笑みを浮かべた。
「じゃ、聞こうか」
「なにから、ですか?」
「そーねー。まずは、誰がお前を塔に連れて行ったか…覚えてるか?」
レグルスは首を振った。
「きがつい・たら、とうのなか・でした」
「眠らされたのか…お前が最後に一緒に居たのは、シェリオンだったな?」
「はい。そのあと、きしさまに・あいま・した」
「騎士?」
レグルスは頷いた。そしてココノエ侯爵を指差す。
「あのふくを・きた・きしさま・です」
侯爵が現在着用しているのは、近衛師団の制服だ。彼は国王の近衛騎士でもある。
国王はレグルスの頭を乱暴に撫でた。
「よしよし。よく覚えてんな~。騎士の顔は覚えてるか?」
これには首を振る。
それもそうかと、国王は一人納得する。家族の顔も覚えていなかったのだ。仕方ない。
とはいえ、ここまで仔細を覚えているのに、人の顔だけが悉く抜け落ちているのが腑に落ちないのだが。
国王の手がどけられると、レグルスは髪を直した。長いがサラサラなので、特に絡まる事は無い。
美しい青銀の髪を一房摘む。
「その騎士に何か言われたか?」
「はい。とうさまが、よんで・いるから、いっしょに・きてくだ・さいって」
「それで付いて行ったと」
「はい。かあさまには・もう・おはなしして・あるからって…いわれたの・です」
視線が下げられた。髪が顔を覆い隠す。
国王は苦笑する。
「責めているわけではない。まさか嘘を吐かれるなんて、思わないもんな」
ぬいぐるみを抱える小さな手が震えていた。
手が震えるのは、怖い時や悲しい時。侍女の話は聞いてる。
先を促す様に、頭をポンポンと叩いてやれば、顔を上げないまま話し始める。
「それからは・よく・おぼえてま・せん。でも、おこるこえ・が・きこえたと・おもうのです」
「怒る声、ねぇ…」
誰かが見咎めたのだろうか。だが、あの時行方不明になった大人はいない。強いて言うのであれば、ある騎士が急病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったくらい……
俯く顔を覗き込むように身を屈めれば、父親譲りの瞳が閉じられていた。顔にかかる髪を掻き上げる。
「閉じ込められてからは?誰か来たか?」
これは否定の動き。
「ごはん」
何の脈絡もない呟き。
思わず訝しんでしまい、眉間に皺が出来た。
「さいしょは、いちにち・にかい・でてきたの・です」
「食事か…聞いた話では、一日一回だけだったな」
正式な報告書はまだ上がってきていない。過去に遡って調査をしている為だ。
黄昏の塔への食事係は、とにかく頻繁に人間が変わっている。一年以上勤めた者はいないのだ。ようやく一年半ほど辿れたという報告が上がっている。
国王は己の顎を撫でる。
「二食が一食になったのは、いつごろか分かるか?」
「さむく・なったころ・です」
「…秋か、冬が来たくらいか?」
「あついあいだ・は・ちゃんとした・ごはん・でした」
あんな所では、日付の感覚もあっという間に無くなっただろう。
閉じ込められたのは、社交シーズンの始まりを告げる立夏の宴の直前だった筈だ。
「さむくなって、いっかいだけ・に・なって、かたいパン・と・スープだけ・に・なりま・した」
「質も変えられたのか……」
これは誰かの指示があったとは限らない。使用人の間で勝手に変えられた可能性が高い。
レグルスの目はいつの間にか開かれ、国王を見つめていた。薄い水色の瞳。そこに険しい自分の表情が映っていた。
ふっと、国王は表情を和らげる。
「ここの飯は?旨いか?」
「はい。とっても」
レグルスも目を細めた。味を思い出したのか、両手を頬に当てる。
料理人に特別に作らせた、病人食だ。味より栄養といわれるが、職人である料理長が妥協するわけがない。
「あさのおかゆ・が・おいしい・です」
「え~…アレ、旨いか?糊だろ」
「おいしい・ですよ?いろも・きれい・です」
「・・・・・」
違う。自分が食べた事のある病人食の粥と、絶対違う。
後で侍女に聞こう。
それは内心に留めておいて、質問を戻す。
「近衛師団の制服を着た騎士なんだけどな。会った事は無い奴だよな?」
「はい。しらないひと・です」
「レグルス。それは、本当にこの制服だったのかい?」
今まで黙って立っていたココノエ侯爵が、自分の服を指して訊ねた。
レグルスは頷いた。
「はい。おじさまと・おなじ・です。いつも・おそとにいる・きしさまたち・とは・ちがい・ます」
ココノエ侯爵の顔が強張った。
国王はよしよしとレグルスの頭を撫でる。
「つまり、濃紺の制服。で、装飾が銀だったと」
「はい。おそとの・きしさま・は・しろい・です」
「服装は覚えてるんだなぁ」
レグルスの記憶のポイントが分からない。
そんな事を考えつつ、言葉の重大さに溜息が出そうだ。
近衛師団…主な任務は、王族の警護だ。王族の住まいの警備も含む。
近衛師団に所属する騎士は『近衛兵』と呼ばれる。特定の王族を主とする近衛兵は『近衛騎士』と呼ばれ、区別される。
レグルスが見たのは『近衛騎士』の制服。
そして五年前から現在に至るまで、近衛師団が護る王宮に居る王族は、国王と王太子しかいない。
五年前から、国王の近衛騎士は変わっていない。王太子の近衛騎士にハロンはいなかった。成人前の王太子を護っていたのは……
「メレディス……」
誤字脱字の指摘、お願いします。
サブタイトル、最初に思いついたのが「おっさんと子供」でした。
それはねぇだろ。