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遠い記憶の守人  作者: 名波 笙
幼年期
12/99

11.グランフェルノの夜





 レグルスは夜中に目を覚ました。

 最初、目を開いた事が自覚できずに、辺りが真っ黒な事に動揺した。思わず飛び起きる。


「レグルス…?」


 闇を見回していれば、名を呼ばれた。隣に兄が寝ていた。

 瞬間、強張っていた体から力が抜ける。


「にいさ・ま……」

「どうした?怖い夢でも見たか?」


 手を差し出されて、レグルスは迷わずそれに飛びついた。兄の寝着に縋りつき、体を押し付ける。

 背に手が回る。ゆっくりと撫でてくれる。


「大丈夫。大丈夫だよ……」


 レグルスはただしがみつく事しか出来ない。泣き方は忘れてしまった。

 独りの夜なんて、幾つも越えてきたのに。

 頭部に温かいものが触れる。耳触りのよい声と体を包む温もりに、闇に怯えて過ごした日々が遠ざかる。


「兄様がここにいるから。大丈夫。今度はちゃんと守るから」


 再び眠気がやってくる。だが、なかなか眠れない。

 手が緩んで兄から離れそうになるたび、ハッと目を開く。そして握り直す。


「…何処にも行かないから。朝まで一緒にいるから。おやすみ」


 抱きしめられる力が強くなる。

 レグルスは眉根を寄せる。


「にいさま…」

「うん。ここにいるよ。レグルスが眠ってもちゃんと傍にいる。いなくならないよ」

「ゆぅめに、なぁら・なぁい?」

「これが夢だと思っているの?大丈夫。夢じゃない。今までが悪い夢だったんだ」


 笑いを含んだ声が、安心を誘う。


「まだ夜明けまで時間がある。お休み、レグルス」


 額にキスが落とされる。

 レグルスは目を閉じた。


(だって、なんどもゆめにみたのです。みんなが、むかえにきてくれるゆめ。おうちにかえるゆめを、みせてくれたのですよ)


 あの日、いつもと違う時間に開いた扉に、彼はようやく助けが来た事を知った。そしてレグルスに全てを返し、深い眠りに就いた。

 その彼が何度も見せてくれたのだ。深い精神世界に堕ちても、弱っていくレグルスに。

 少しでも希望を持たせる為に。

 彼がいたから、自分が今日まで生きて来れた事は分かっている。そして彼が大丈夫だと判断したから、レグルスは表層に出てきた。


 兄が辛抱強く、レグルスを宥めている。


(わかってます、にいさま。これはゆめじゃないのです。もうだいじょうぶなのです)


 自分に言い聞かせて、レグルスはゆっくりと意識を手放していった。




 手の震えが治まり、力が抜けてポトリと落ちる。規則正しい寝息に、安らかな顔。

 体を離したシェリオンは、ほっと息を吐く。


 夢と現実の区別がつかなくなった弟。

 何度、夢を見たのだろう。家に帰る夢を。

 そして何度絶望したのだろう。まだ冷たい塔の中に居る現実に。

 涙も枯れるほど。

 

 シェリオンは眠る弟の耳に顔を寄せる。


「…夢なんかじゃない。俺はお前が生きてるなんて思ってなかった。もういないんだって諦めてたんだから……これが夢である筈がないんだ」


 小さな体を抱き寄せて、布越しに伝わる温もりを感じる。

 ふっと笑みが漏れる。


(ほら、こんなに暖かい。心が戻ってくるんだ。夢であるわけがないだろう?)


 シェリオンはしっかりとレグルスを抱きしめて、自身も再び眠りに落ちた。






   ◆◇◆◇◆◇






 レグルスは室内で本を読んでいた。

 本といってもほとんど絵。その中に一文が添えられているような、ありふれた絵本。

 レグルスは字を読むというより、絵を眺めて楽しんでいた。


「ひつ・じ・さん。たくさん」


 そう言って目を細める。

 二日も一緒にいれば、侍女でも僅かな表情の変化に気付く。


 目を細める時は、機嫌の良い時。口元が動かないから解り辛いが、笑っているのだと思われる。

 恥ずかしい時は口元を両手で隠す。何かを持っていれば、それで隠す。そして目は伏せがち。

 考え事の時は顎に手を当てる。口に指先だけ当てる時もある。視線は上の方。

 驚いた時は口が開く。口が閉じたら終了。


 そんな時、侍女は思わず笑ってしまう。

 驚いた後、我に返って意図して口を閉じるのだ。


 怒ったところはまだ見た事がない。

 嫌がる時は両手で突っ張る。

 怖い時や悲しい時は、表情は全く動かない。その代わり、小さな手が震えている。


 レグルスは投げ出した足の上に本を置いて、ページを捲っていく。

 今読んでいるのは、羊飼いの女の子の話。物語を重視しているわけではなくて、ただ羊がたくさんいるよ~っていう、何が面白いのかよく解らないものだ。

 しかしレグルスは、この本がお気に入りのようだ。他の本も手に取るが、それが終わるとまたこの本に戻る。

 侍女が微笑ましくその様子を見守っていると、扉を叩く音がした。返事をすると、近衛兵が顔を覗かせる。

 近付くと、扉が大きく開かれた。入ってきた人物に侍女は目を見開く。慌てて脇に避けた。

 その人物は大股でレグルスの方へ歩いて行った。

 レグルスは本に夢中で、近衛兵や侍女が慌てる様子も、誰かが入ってきた事も気付かない。ふっと陽が翳った事で、ようやく顔を上げる。

 大柄な男性がそこにいた。

 レグルスはしばらくその男性を見上げていた。やがて首を傾ける。


「だぁ・れ?」


 その言葉に、侍女も近衛兵も固まった。

 男性は小さな溜息を吐く。そして至極簡潔に名乗った。


「リガール・レスト・グランフェルノ」


 レグルスの口が開く。じっと男を見上げる。

 男もまた、動かなかった。値踏みするかのように、痩せっぽちの子供を見下ろす。

 レグルスがぱくんと口を閉じた。


「とお、さま?」

「お前が間違いなく、本物の『レグルス・グランフェルノ』だというのなら、そうなる」

「ほん・も・の?」


 再びレグルスの口が開いた。目の前の男の言っている事が理解できていない。落ち窪んだ目が男を見つめるだけだ。

 侍女が蒼い顔で飛び出した。咎めは覚悟の上で、間に割り込む。


「あ、あんまりです!五年も…こんなお姿になっても、頑張って生きてこられたというのに……幾ら公爵様でも、お言葉が過ぎます!!」


 侍女の声は震えていた。両手は硬く握られている。

 そんな彼女に、グランフェルノ公爵は冷やかな視線を向けるのみだ。

 レグルスは首を傾げていた。グランフェルノ公爵の言葉がようやく頭に入ってきたようで、顎に手を当てている。


「ぼく・は、にせぇも・の・です・か?」


 公爵の眉が跳ね上がった。眉間に深い皺が刻まれる。

 真っ直ぐに公爵を見上げていた視線が、すっと下げられた。


「ぼく・は・だぁ・れ?」


 膝に置いた本を見ている。けれど、本当の目線はそこにないだろう。

 公爵の顔が険しくなった。

 侍女がレグルスを抱きしめる。彼女はボロボロと涙を流していた。


「レグルス様ですよ!王太子殿下も、シェリオン様も…レグルス様だって、仰ったじゃないですか!!」

「…誰が証明する?その子が五年間も同じ場所にいたと」


 公爵の声は低かった。

 侍女は顔を歪め、公爵を睨んだ。唇を噛み締める。

 そんな彼女に、公爵は更に続ける。


「確かにあの場所に、レグルス・グランフェルノは居たのかもしれない。しかし、途中で入れ替わったという可能性もある」

「入れ替わった…?」

「そうだ。先に居た子供は死に、良く似た子供が連れてこられたという可能性がある」

「何の為にですか!?」

「公爵家に暗殺者を入れる。実に有効な手ではないか?」

「こんなやせ衰えさせて!?そんな暗殺者はいません!」


 立場も忘れて言い返す。

 侍女はレグルスの耳を塞いでいた。だが、全ての音を防ぐことは出来ない。

 腕に痩せ細った手が触れる。ハッとして見下ろせば、首を傾げたレグルスが、侍女の腕を撫でていた。

 侍女の目に再び涙が溜まる。ぎゅうっと抱きしめて、しゃくり上げる。

 公爵は眉根を寄せたまま、二人を見下ろしていた。


「父上!」


 到着の知らせを聞いてすっ飛んできたシェリオンが、部屋に飛び込んできた。息を切らせている。

 彼は泣きじゃくる侍女と、彼女の腕の中で身動き一つしない弟を見て、父に厳しい目を向けた。


「父上!何を言ったんですか!?」

「偽物である可能性を説いただけだ」

「何てことを…!」


 淡々とした父に、息子が激高する。


 言い争う父と兄を、レグルスはどこかぼんやりと見上げていた。

 声が遠くに聞こえる。目の前で起こっている事の筈なのに、遙か遠くの喧嘩を見ているようだ。

 不意に体を掴まれた。




 ハロンは溜息を吐く。王子に命じられて追いかけて来てみれば、この有様だ。

 侍女に抱きしめられたレグルスは、何が起こっているのか理解できていない様子で、ただ茫然と二人を見ていた。

 侍女から取り上げて抱き上げる。すると驚いたように目が見開かれた。腕に座らせると、背中を撫でる。


「よしよし。ちょっと別のとこに移動しような」

「待て、ハロン!何処へ連れて行く気だ!?」


 すかさずシェリオンが止める。

 呆れた表情を隠す事もなく、ハロンは再び溜息を吐く。そして公爵に向かって言った。


「子供に聞かせる話じゃないですよ。殿下の部屋で待ってますんで、落ち着いてから来て下さい」


 返事を待たず、さっさと歩きだす。後から侍女が付いてきた。鼻をすすっている。

 扉が近衛兵によって閉められると、思わず舌打ちが漏れた。レグルスが体を竦めるので、苦笑に変える。


「ごめんごめん。怖かったな」


 背を撫でてやり、場所を移動する。廊下でも室内から声が聞こえてくるのだ。

 ハロンが抱き上げた時から、レグルスの手が震えていた。今も、体全体から振動が伝わってくる。

 侍女から公爵とのやり取りを聞く。脱力しそうになるのを、抱えるものの重みで必死で堪えた。

 う~んと唸りながら、落ち込んでいるのだろうレグルスにかける言葉を探す。


「なぁ、レグルス」

「…ち・がうの・です……」

「いいじゃん。呼ぶ時、不便だろ」


 ハロンはあっけらかんと言い放ち、レグルスをポカンとさせた。

 ハロンは笑う。


「親父さんもさ、怖いんだよ」


 大きな水色の目を見つめ、ハロンは言った。

 王太子の部屋に着くと、扉の前に立っていた近衛兵が扉を開けてくれる。

 中に入っても、ハロンはレグルスを下ろそうとはしない。目線を合わせて話しかける。


「お前がいなくなって、グランフェルノは探しに探した。些細な情報でも洩らすまいと、懸賞金までかけて探したんだ」

「……」

「見つかってほしいという家族の想いは、金に目の眩んだ欲深い連中に、何度も踏みにじられた。偽の情報なら可愛いもので、中にはお前の偽物を用意した奴らもいたんだ」


 膨大な報酬を掠め取ろうと、どこの誰とも解らない子供を何人も連れてきた。

 青銀の髪は珍しい。本物と同じ色を用意してくればまだいい方で、染められたものがほとんどだ。

 僅かな希望を持って会っては、絶望へと叩き落される。そんな事を何度も繰り返されたのだ。

 ハロンはそれを話に聞いた程度だ。それでも、あの同僚の姿を見ていれば、察して余りある。


「親父さんだって、お前が本物であって欲しいって願ってるさ。だけど、今までの経験がそれを許さない。怖いんだよ。またがっかりするのが嫌なんだよ」


 レグルスの震えは治まっている。今はハロンの目をじっと見つめていた。

 ハロンの笑みが、苦笑へと変わった。


「でも、お前だって嫌だよなぁ。やっと出てきて、偽物扱いなんて」

「…で・も……」


 レグルスが掠れた声を出した。視線を伏せる。


「ぼく・は、とお・さま・の・おかお・を、おぼえて・ま・せん・でした」

「しょーがない。五年も会わなきゃ、顔なんて忘れるさ。シェリオンの顔だって、覚えてなかっただろ?」


 ハロンの問いに、レグルスは小さく頷いた。

 ハロンはようやくレグルスをソファの上に置いた。レグルスを座らせ、自分は床に膝をつく。


「それとも、誰かの顔は覚えてるか?」


 レグルスは首を左右に振る。

 夢の中でもそうだった。触れる手の大きさや温かさは覚えているのに、顔はいつも曖昧で、見ようとすればするほど視界が暗くなった。

 覚えていない事は今日まで気付かなかった。それが悲しかった。偽物かもしれないと言われ、この記憶の全てが思い込みかもしれないと気付かされて、怖くなった。

 レグルスの眉尻が僅かに、本当にごく僅かに下げられた。


「でも、シェリオンが兄貴だって覚えてたんだろ?公爵の名前だって、ちゃんと覚えてただろ?父様だって、思い出しただろ?」

「あい。ちゃん・と・わか・り・まし・た」

「そうそう。それでいい。それだけで十分だよ」


 わしわしと頭を撫でる。髪があっという間にぼさぼさになる。

 ハロンが口角を上げた。


「ま、ちょっとした意趣返しがしたいなら……」


 悪戯っ子のように目を輝かせると、ハロンはある提案をした。

 それは些細な事で、ある意味レグルス自身も傷つくかもしれない事だったが、疑心暗鬼に囚われているだけの公爵には絶大な効果があると思われた。




 少し頭の冷えたグランフェルノ公爵は、ようやく落ち着いた長男を連れて、王太子の私室へ赴いた。遅れてきた王太子本人も一緒だ。


「情けない。筆頭貴族の公爵と嫡男が、本人の前で失言の嵐……」

「申し訳ございません」


 公爵が慇懃に頭を下げる。

 ヴェルディは眉を吊り上げただけで、返答はしなかった。

 部屋に入れば、レグルスに付けた侍女が首を垂れる。レグルスはソファに座っていて、傍らのハロンと何か話をしていた。

 ハロンが彼らの方を指差す。


「レグルス。遅くなってすまんな」

「おーじ・さま」


 レグルスがソファから飛び降りた。よろけたのを、ハロンが支える。

 頼りない足取りで、彼らの方へ歩いていく。そして公爵の前に立った。


「はじ・め・まして。ぐらん・ふぇるの・こーしゃ・く・さま」


 場の空気が凍った。



 意趣返ししたいなら、公爵を他人扱いしてみな。


 ハロンとしては、ただの提案。実際やるかどうかは、レグルスの判断次第。

 レグルスは実行した。それはレグルスなりに腹を立てていたという、確かな証拠。

 そしてそれは、かなりの効力を発揮したのである。



 グランフェルノ公爵は固まっていた。それは悲愴な顔つきで。

 自分から否定したくせに。相手から拒否されるとは思っていなかったのか。


 一歩。


 ふらりと公爵が前に進み出る。

 レグルスは二歩下がった。こちらは明確な意思を持って逃げている。

 ますます公爵の顔から血の気が引いた。

 何があったと、ヴェルディはハロンに目で訴えかけた。ハロンはすっとぼけるように肩を竦めてみせる。大笑いは腹の中にしっかり収めている。

 シェリオンの方が楽しげだ。

 侍女が明後日の方を向いて、肩を震わせている。こちらはハロンのようにいかなかったらしい。

 公爵は更に近づこうと試みるが、レグルスは一定の距離を保とうと更に後退りをする。

 しかし歩幅が違い過ぎる。距離は問答無用で縮まる。

 するとレグルスは、クルリと公爵に背を向けたのである。公爵から逃げ出し、頼りない足取りで駆け寄ったのはハロンのもと。

 王太子の近衛騎士は抱きつかれ、つい反射で抱き上げた。


「どうしました?お父上ですよ?」


 レグルスは首を左右に振る。ハロンの肩に顔を埋めた。

 ポンポンと背中を叩きながら、公爵には困ったように笑いかける。




 近衛騎士が止めを刺した。王子と近侍は後にそう語った。






誤字脱字の指摘、お願いします。


2日連続更新!って思ってたけど、何かいつの間にか日付変わってた…orz

この後、ちょっと更新滞るかもしれません。

ホント、厄年の威力がハンパない。

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