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遠い記憶の守人  作者: 名波 笙
幼年期
10/99

9.歓喜の陰






 不十分な食事による極度の栄養失調。不衛生な環境による皮膚炎などの幾つかの病気。閉じ込められていたが故の、知能や発育の遅れ。

 王宮医師の見立てでは、栄養失調以外、命にかかわるような重大な病気は持っていないとの事だった。

 ただ、発見があと数カ月遅れていたら、生きていたかどうかは分からないという。それほどギリギリの状態だった。


「ただの風邪でも、命にかかわる可能性がございます。とにかく栄養のあるものを摂って頂き、清潔な場所でゆっくり休んで頂くこと。それが何よりもの薬かと」


 医師の診断の後、レグルスと思しき子供はすぐに風呂へと連れていかれた。

 小さな病気が生死に係わるとあっては、僅かな気温差も油断できない。浴室は充分暖められ、裸でも寒い思いをしないように気が配られる。

 何年も洗われていない体は酷く汚い。だが、皮膚への微かな刺激も子供には耐えがたいらしく、何度も小さな悲鳴を上げていた。

 侍従や侍女が入れ替わり立ち替わり、湯を運ぶ。石鹸も大量に消費された。


「大丈夫ですよ~、綺麗になってきましたからね~」

「申し訳ございません、痛かったですか?お怪我をされていらっしゃるのでしょうか……」

「湯がしみる場所はございませんか?あれば後でもう一度医師に診て頂きましょう」


 タイルの床に座った子供へ、侍従・侍女たちは絶えず言葉をかける。

 ようやく石鹸の泡があまり濁らなくなってきた。乾燥しているが、白く透けるような肌が現れてくる。髪も、在りし日の色を失っていなかった。

 子供は疲れてきたのか、コックリコックリと舟を漕ぐ。

 様子を覗きに来たハロンが、思わず苦笑を洩らした。


「程々にしろよ。どうせ一度には落ちきらんだろ。シェリオンが待ちきれずに突進してくるぞ」


 侍女たちは頷き、ある程度見られる姿になった所で諦めた。髪や体に香油を擦り込み、木綿の肌着を着せ、ゆったりとした絹のシャツとズボンを履かせて、ヤキモキと待っていた兄のもとへと連れて行った。

 シェリオンは侍女から弟を受け取ると、すかさず膝の上に乗せた。僅かに湿り気の残る髪に頬を寄せる。

 泣きそうではあるが、確かに微笑んでいる。

 ヴェルディには久しい表情であるが、付き合いの浅いハロンにとっては初めての表情だった。


「お前、笑えるんだな……」


 思わずそんな言葉が口を衝いて出る。あまりの衝撃だったのだ。

 シェリオンも苦笑いになった。


「そうだね。俺も、すっかり忘れてしまったと思ってたけど…ちゃんと残ってたみたいだ」


 膝の上のレグルスが欠伸をする。閉じようとする瞼を必死で持ち上げるが、度々かくんと頭が下がる。

 シェリオンが抱え込んだ。


「眠っていいよ。傍にいるからね」


 レグルスは素直に目を閉じた。頭を撫でてやれば、胸に顔を押し付けてくる。

 すっかり見た目は変わってしまって、かつての面影はない。けれど動作に残る微かな癖に、懐かしさを覚える。

 長い髪を背に流してやり、寝息を立てる弟の顔を覗き込む。可愛いとは言えないが、愛おしさが募る。

 ヴェルディは黙ったまま、それを眺めていた。

 シェリオンの表情は穏やかで、冷徹無私ないつもの彼の姿はない。ハロンなど今の彼を信じられず、半ば呆けたような顔をしていた。


「…家族は領地へ戻っているんだったな」

「はい。上の弟は先日より所属する騎士団の演習に。父には伝令を送りましたが…どんなに急いでも、到着まで二日はかかるかと」

「その間は城で様子をみよう。父上の許可も取った。お前も泊まり込め」



 シェリオンが頷くのを確認して、立ち上がった。


「今日はもうゆっくり休め。シェリオン、お前も」

「…ありがとうございます」


 ハロンだけを連れて、部屋を出る。

 王子の住まう宮の一室。本来側近に与えられる部屋を急遽、客室替わりに設えさせた。部屋の前には騎士を立たせている。

 誰がどんな目的でレグルスを攫い、塔に閉じ込めたのか…犯人も理由も分からない以上、警備は厳重にする必要がある。

 王太子が私室に戻ると、そこには意外な人物が待ち構えていた。思わず目が丸くなる。


「父上。ココノエ侯爵も……」

「どうだ?様子は」


 父王はソファに座り、ゆったりと寛いでいた。ココノエ侯爵が申し訳なさそうに、目礼する。

 ヴェルディは溜息を吐いた。


「ご自分で確認すればよいでしょう?」

「そうしたいのは山々だがな。衰弱している者の前に、見知らぬ人間が大勢で押し掛けるものじゃないと、宰相に怒られた」

「賢明な判断です。ですが、だからって、何故こちらに?言われずとも、報告は上げますよ」

「その方が速かろう?」


 茶目っ気たっぷりに父王は言った。王太子は額に手を当てる。

 ハロンとココノエ侯爵は苦笑するしかない。

 ヴェルディは父王の前にの椅子に腰かけた。


「とりあえず、大分身綺麗になりましたよ。髪と瞳の色は兄と同じでした。今度こそ、間違いないかと」

「様子は?取り乱したりはしていないか?」

「長時間洗われて、疲れてしまったようです。シェリオンの膝ですぐに眠ってしまいました。今頃、寝室に運ばれているでしょうね」

「ふうむ。全く体力がないようだな」

「見た目も十歳になったとは思えません。行方不明になった時より多少、背は伸びているのでしょうけれど、体重はそれ以下になっているかと」


 国王はやりきれないというように、首を左右に振った。真剣な眼差しで、息子を見る。


「シェリオンはどうだ?」

「…弟だと信じて、疑っていません。アイツが笑うのを五年ぶりに見ました」


 シェリオンは十五で近侍として、王宮に出仕した。その頃には性格は一変し、感情は殆ど動かなくなっていた。

 以前は、厳しいが柔和な表情をする少年だったのに。

 放っておけば自室に引きこもってしまう彼を、ヴェルディは王族の権威で呼び出しては、取るに足らないような雑用を押し付けてきた。そうしなければ、最低限の義務も放棄してしまいそうだったからだ。

 近侍に取り立てたのも主に、そんな同情に似た理由からだ。勿論、優秀だったというのもある。

 レグルスの失踪に、ヴェルディも少しだけ責任を感じていたという理由も。


 あの日、自分が素直に広間に行っていたら、こんな事件は起こらなかった。

 せめて逃げなければ、幼馴染が弟を置いて自分を追いかけるなんて事にはならなかった。

 レグルスがあんな姿になってしまったのは、自分にも責任はある。

 あの日から、ヴェルディは決められた公務から逃げ回る事をしていない。決められる前に抗議はしても、決まった事には沿う形で行動するようにした。

 それがせめて、自身の過失で弟を失ったと思いこんでいる幼馴染への、免罪になればと思ったのだ。

 

 ヴェルディはギュッと眉を寄せる。


「偽物なんていうことは、ありませんよね…?」


 思わず不安が漏れた。

 国王も渋い表情になり、後ろに控えるココノエ侯爵を見る。


「私も本物だと信じております。ですが、あの疑心暗鬼に囚われた男がどう判断を下すかは、私には判りかねます」


 侯爵はそう言って、肩を竦めてみせた。

 ヴェルディが視線を下げる。


 五年という歳月は決して短くない。五年で変わったものは、あまりにも多かった。それはとにかく悪い方向で。

 ヴェルディは、あの哀れな子供がこれ以上傷つかない事を、心から祈った。




 国王が去った後、ハロンも部屋から下がった。

 家に帰ろうか迷って、やめた。王子の宮で与えられた部屋に戻る。

 寝台に書物机、丸テーブルに椅子が二つ。クローゼットには着替えが収められていて、ベッド脇の台に置かれた呼び鈴を鳴らせば、侍従か侍女がすぐさまやってくる。

 ハロンは、有能な騎士を多く輩出した家の出身である。だが、それほど身分が高いわけではない。所詮は野蛮な騎士と、貴族のボンボンに馬鹿にされた事もある。

 それでも実家はそれなりの大きさを持っているし、執事もメイドもコックも、庭師だって雇っていた。

 騎士たるもの、自らの行いは自ら責任を取るべし――そんな家訓の一環で、身の回りの事は一人でやっていたが。

 服を着るのも女中数人がかりという、貴族のボンボンとは違う。そう思っていた。


 あんな場所で、あんな小さい子供が、五年も一人で過ごしていただと?


 あったのは朽ちかけた寝台と粗末なテーブルに椅子のみ。足には鎖。食事は一日一回だけ。それだって十分な量ではない。

 自分ならば耐えられず、とっくに狂っていただろう。

 他の部屋も調べた鍵番の兵士は、全ての部屋が空だったと報告している。家具の置いてあった部屋もあったようだが、扉自体が錆びついて、子供の力で開けられるものではなかったようだ。

 背に冷たいものを感じる。

 寝台に腰かけていたハロンは、上体をそのまま後ろに傾けた。仰向けになり、天井にも張られた壁紙の模様を眺める。


 アレは本当にグランフェルノ公爵家の三男か?

 

 シェリオンは信じている。

 ヴェルディは願っている。

 国王は子供が長期間あんな場所に閉じ込められていたという事実を問題としていて、ココノエ侯爵の真意は測れなかった。

 ハロンは到底信じられない。何を考えているのか全く分からない、あの色素だけは薄い、暗く濁った大きな眼に見つめられると、どうにも落ち着かない。

 頭を掻き毟る。


「あ~!!ダメなんだよ。解ってんだよ!あんな境遇で生きなきゃならなかったヤツの事なんて、オレに解るわけねぇっての!!」

 

 腹筋で上体を起こす。そして部屋を出た。向かったのはレグルスのいる部屋。どうしてももう一度、見ておきたかった。

 番兵に挨拶をして、扉を開ける。

 陽が沈んですっかり暗くなった部屋には、魔具による明りが灯っている。しかし、この部屋にいる筈の二人の姿がない。

 寝室へと続く奥の扉を叩いた。中からシェリオンの返事か聞こえた。

 中を覗き込む。


「すまん。寝てたか?」

「いや。大丈夫だ」


 薄暗い部屋の中、シェリオンは寝台から降りた。彼自身は添い寝をしていただけで、眠ってはいなかったようだ。服もそのままだった。

 確かに普通に考えれば、寝るにはまだ早い時間だ。

 彼は寝室を出ると、扉を薄く開いた状態で止めた。


「どうした?何か問題でも?」

「いや…強いて言うなら、陛下がココノエ侯爵を伴って、殿下の部屋で待ち構えてたってことくらいか」

「侯爵が?」


 シェリオンが目を瞠る。

 ハロンは肩を竦めた。


「子供のこと、一応心配して来たみたいだぜ。ココノエ侯爵も」

「…そうか」


 シェリオンの表情が曇る。


「仲、いいんだっけ?」

「父の、若い頃からの友人だ」

「ふうん…ところで、弟の様子は?寝たまんま?」


 扉の方を窺えば、シェリオンは表情を緩める。


「よく寝てるよ。でも、お腹が空いて目を覚ますかもしれないな」

「いつ目を覚ましてもいいように、頼んでおこうか?」

「頼む。俺は出来るだけあの子の傍を離れたくない」

「わかった…なぁ、顔見てってもいい?」


 訊ねれば、不思議そうな顔をされた。

 だが、扉は開かれた。


「いいけど…可愛いって思えるものじゃないぞ?」

「酷い兄貴だな。可愛い弟だろーが」

「俺にとってはね。他人から見たら、不気味だよ」


 声を潜めながら、寝台に近付く。

 大人四・五人は余裕で横になれそうな天蓋付きの寝台のど真ん中に、小さな盛り上がりがある。

 起こさないように傍に寄れば、カラカラに干からびた子供がいた。


「確かに不気味だ」

「ミイラみたいだよね」


 あっけらかんと言われ、思わず噴き出しそうになった。子供を起こしてはいけないと、必死で自制する。

 素早く寝台から降り、シェリオンを睨んだ。


「笑わせるなよ。起きたらどーすんだ」

「起こしたら問題が?」

「可哀想だろーが!せっかく熟睡してるのに…なんて酷い兄貴だ」


 これも全て小声でやり取りして、ハロンは溜息を吐いた。

 シェリオンが小さな笑い声を上げる。

 その様子を思わず凝視してしまう。ハロンには馴染みのないものだった。

 シェリオンは微笑む。


「大丈夫だよ。俺も、この子も…心配してくれて、ありがとう」


 誰だ、コレ。

 そんな考えが脳裏を過った。だが口にしない分別は持ち合わせている。

 もう一回溜息を吐いて、一人で寝室を出た。そっと扉を閉める。


 ミイラのような子供。それでも確かに胸は上下し、呼吸をしていた。

 シェリオンは、それで十分なのだろう。生きていてくれた、それだけで。


 応接室も出て、騎士に挨拶をして、ハロンは侍女の控室へ向かった。

 そこにいた侍女たちに、レグルスが目を覚ました時すぐに食事の対応してもらえるよう頼んで、彼は私室に戻ったのである。






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