ホットショコラット
雪が降りしきる最後の月。凍てついた街クリレンデの一角、ブリュヌの図書館の屋根裏部屋で、マリヌはベッドに寝込み、曇った窓を見つめていた。
今日は市場が立つ日で、今月で二回目。市場は日付に四が付く日と決まっていた。交通の要所でもある クリレンデの裏通りは露店が所狭しと立ち並び、売り子の声が響く。
「マリヌ。気分はどうかね?」
ストーブに薪をくべに来たブリュヌが聞いた。
「はい。だいぶ良くなりました。あの、何から何まですいません」
マリヌは横になったまま言った。
「気にしないように。もう数日はゆっくりと休むことだね」
「はい。……あの、ルルドさんは?」
「ルルドはカミールと市場に出かけた。しばらくしたら戻ると思うけれど」
「そうですか……」
「ルルドが心配かい?」
そう言ってブリュヌはベッドの横の椅子に腰かける。
「はい。雪も強まってきていますし。昨日より寒い気がします」
「大丈夫。夜に薄着で出かけたマリヌと違って、賢い子だからね」
「すいません」
「別に私は仕事をしっかりこなしてくれるなら、貴女達が何処へ遊びに行こうと構わない。だが人に心配を掛けたり、体に無理を強いるのは駄目だ。以後気をつけるように」
「……はい。すいませんでした」
マリヌは俯く。
「まあ今は流感を治すことが第一だ。ゆっくりと休むこと。いいね」
「わかりました」
「何かあったら遠慮なく呼びなさい……ね?」
そう言ってブリュヌは静かに扉を閉めた。
「お待たせ」
「ああ」
サンミルト農園の露店で冷凍レモンを買ったルルドは、広場のベンチに座るカミールの元へ駆け寄る。 このときカミールは、すらっとした眼鏡の青年と会話に花を咲かせていた。
「ルルド、レモンは買えたか?」
「うん」
「そうか。それで、後は何を買うんだ?」
カミールはルルドに問う。
ルルドはポケットからメモの紙切れを取り出す。
「ええと、レモンは買ったから。後は砂糖だね」
「砂糖か……。砂糖は高いぞ」
「大丈夫。今までの貯金もあるし」
「そっか。まあ足りなければ俺も助けるが……」
「カミール。この子が弟のルルド君か?」
そう言うのは彼の眼鏡の男性だった。
「兄さん。この人は?」
「ああ。こいつはコンラッド。士官学校時代からの友人でな。こいつは、今はミュルン市にあるウェルフルド社に勤めているんだが……」
「ああいや、実は新しい戦闘食の開発を進めていて、その試作品を収めに行った帰り。雪で汽車も止まったし、折角だから市場でも回ってみようと思ってね。コンラッド=エルミリ―。よろしく」
コンラッドはルルドに手を差し伸べた。
「あっはい。ルルド=ランディウムです。よろしくお願いします」
「……。ところでだ。どうなんだ、その新しい戦闘食は? 旨いのか?」
「やれやれ。ディオルドは食いしん坊だな」
コンラッドは口元に笑みを湛える。
「いやそうでなくてだな……」
「はいこれ。やる」
そう言ってエルミリ―が鞄から取り出し、手渡したのは、薄い茶封筒だった。
「何だこれ?」
「中を見てみ」
ディオルドが封筒を開けると甘い香りが広がり、中には茶色い板が入っていた。
「それが今回の試作品。余ったからやるよ。大不評だった」
「これが戦闘食? 茶色い樹脂じゃないか」
「まあ喰ってみろよ」
ディオルドとルルドは恐る恐る、試作品の隅を欠いて口に含む。
「ショコラットと言ってな、こいつはカロリーがあるだけでなく、体を温め、集中力を高める。まさに戦闘食として打ってつけだと思ったんだが……」
「おいしい」
「これ、甘みが強いが旨いぞ。なにか問題でもあったのか?」
「んー。温度管理も突かれたが、一番の問題は味。旨すぎるんだそうだ。えっと、クリレンデ駐留海軍総司令官殿曰く、戦闘食は基本的に有事あるまで大事に保存するもの。だがこいつは味が良すぎて、兵士が好き勝手に食してしまうだろう。だから却下。と言われたんだ。とんだ計算違いだったよ」
コンラッドは肩をすくめる。
「なるほど。総司令長官閣下は、部下に不味い食事しか与えぬということか」
「まあ軍と言うのは戦うのが仕事だからな。実用第一、味は二の次ってね。でも食事は兵士の数少ない娯楽で士気にも関わるからね。常に改良開発が求められ、我々にも商機があるのさ」
コンラッドは微笑んだ後、ふと広場の端に手を挙げる人影を見た。
「んじゃ、そろそろ行くよ。久しぶりにカミールと話せて楽しかった。君の小さな弟君にも会えたしね。じゃっ」
そう言ってカミールに手を挙げて挨拶したコンラッドは、人影に向かって歩みを進めた。
「それじゃ、俺達も行くか。次は砂糖だったな」
「砂糖を買ったらポトフを買わないとね」
ルルドは財布の中身を確認しながら言った。
「売り切れ? 売り切れとはどういうことですか?」
砂糖を買いにリエル商会へ立ち寄ったルルドとカミールは、驚きを隠せなかった。
「いや今日は大雪で汽車が止まってしまいまして、砂糖は店内の在庫のみの販売で……」
「……そうですか…………」
店を出たルルドとカミールは、本来の目的であるマリヌの好物の肉入りスープを買いに歩きだす。
「しかしルルドも見たか? あの値段」
「レモネードを作る為には砂糖が必要だし、砂糖だって、蜂蜜が高いからなのに……」
ルルドとカミールは市場の露店に入る。
「ポトフ一杯」
カミールは小鍋を差し出す。
「はい。まいど。」
カミールは肉入りスープを小鍋に入れて貰う。
カミールはお玉の回数分、肉屋の露天商に代金を払う。
無事にポトフを手に入れたルルドとカミールは、マリヌの眠る図書館へと歩みを進める。
「ルルド、砂糖は買えなかったが、肉入りスープは買えたわけだし……。そんなに落ち込んでいると、マリヌも気持ち、沈むぞ」
カミールはルルドのフードに積もった雪を払う。
「……。そうだね。ありがとう」
ルルドは顔を上げ、静かに言った。
「ブリュヌさん。ただいま帰りました」
「おやおやお疲れ。寒かっただろう」
誰もいない図書館で、受付に座って古文書の翻訳に勤しむブリュヌは、銀淵の老眼鏡を外して振り向いた。
「マリヌの様子は如何です?」
カミールが問う。
「カミールも顔を出して行きなさいな。流感はだいぶ落ち着いたようだ」
「ブリュヌさん。その……砂糖、買えませんでした」
ルルドは目を瞑り言った。
「そうか……。それは残念だったね。でもスープの方は買えたんだろう?」
ブリュヌはカミールの持つ、蓋から湯気の漏れる鍋を見て言った。
「はい。でも……」
「それだけあればマリヌもうれしいさ」
「そう……なのかもしれませんが、でも……」
「まあまあ座りなさいな。事情はお茶でも飲みながら……ね」
「そうか。雪で汽車が止まって……」
カミールとルルドは肉入りスープを暖炉の火にかけ温め、ブリュヌに市場での出来事を説明した。
「それで、ショコラットと言ったか、それを少し見せてもらえるかい?」
「あっはい」
カミールは鞄からショコラットの入った封筒を差し出す。
「これがショコラットか……。少し貰っても?」
「どうぞ」
ブリュヌはショコラットを一欠けら口に含む。
「うむ。なるほどな。これなら砂糖無くとも大丈夫だろう」
「えっショコラットでレモネードが作れるんですか?」
ルルドは頭の中で、レモン汁にショコラットを入れる。
「いやいやそうじゃない。確かホットショコラットという飲み物があってな、確かどこかにレシピが……」
そう言ってブリュヌは図書館の本棚を見て回る。そして一冊の本を見つけると、カミールの元に持ってくる。
「これこれ」
そう言ってブリュヌはページをめくる。
「これ、神代の本ではないですか?」
「神代の文字が読めると色々便利だ。ルルドも早く読めるといいね」
ブリュヌは微笑むと、ルルド、カミールと囲んで、レシピの解読を始めた。その光景は六年前の時に戻ったかのようだった。
「ああマリヌ。起きてたか」
ブリュヌはマリヌの額に手を当てる。
「熱はもう無いけれど、もう少し眠ったほうがいいんじゃないかね?」
「ごめんなさい。どうしても眠くなれなくて……。そういえばルルドさんとカミールさんが帰ったみたいですね。声が聞こえました」
「ああ、そうだね。でも、もう少し待ってくれるかい? 今ルルド達が頑張っているから」
「えっルルドさんが何を……?」
ブリュヌは微笑む。
「それは私が言ったらつまらないよ。後でわかるから、それまでの秘密」
「秘密……ですか。でも私、ルルドさんの秘密が気になって、眠れそうにありません」
「おやおや。……うむ。それならルルド達が頑張る間、私から一つ、お話でもしようかね」
ブリュヌは口元を緩めた。
「お話……ですか?」
「うむ。これは遠い遠い昔のこと、神人の時代に流行った、伝承のお話……」
「マリヌ。お待たせ」
そう言って部屋に入るのはルルド。カミールが扉を開き、ルルドが両手で慎重に、盆に載せたマグカップを運ぶ。マリヌの病室にはショコラットの甘い香りが溢れる。
「ごめんマリヌ、ほんとはホットレモネードを作る予定だったんだけど、砂糖が売り切れちゃってて、これ、あり合わせで作ったんだけど……ホットショコラット。滋養がある飲み物なんだって、……飲んで、貰えるかな?」
ルルドは語意に緊張を混ぜながら言った。
「もちろん。ありがとう、ルルド」
マリヌは揺れる瞳でホットショコラを受け取り、震える手で口元に運ぶ。
「おいしい。こんなにおいしいのは初めて」
マリヌは頬を綻ばせた。
「よかったな、ルルド」
カミールがルルドの頭をクシャクシャに撫で、マリヌが笑った。
雪降りしきる二月、寒空に凍った街の一角で、ブリュヌの図書館は暖気に満ちていた。
静かなマリヌの病室。マリヌはふと、新月の暗闇に目を覚ました。枕元の時計を見ると、もう夜更けの刻だった。
マリヌはゆっくりと半身起こすと、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた、発掘品の電灯ランプを灯す。
ランプの輝きに姿を現した一冊の古書。ブリュヌが語り、置いて行ったその本を、マリヌは手に取る。
金字で「The h▓story of Valent▓ne's D▓y」と書かれたその本は、とても厚く、染みだらけで、風化していた。
マリヌはそっと、本の表紙を摩る。幾多の戦禍を乗り越え、幾多の人間に守られ、読まれてきたこの本。
高まる鼓動。その強さに驚き、白のため息を吐く。
小鳥のさえずりが響く。
カーテンの隙の向こうで、街は温もりを取り戻し始めていた。