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傍らに神様(三)

 激しく雨が打ちつける音を聞きながら、窓の向こうにある薄暗い空を里菜は見つめた。

「止まないのかな……」

 この家に来てから十日。一度も雨が降らずにいた事を考えると恵みの雨とも取れるのだが、今の自分にとってはあまり重要ではない。

 昨日は日曜という事もあって叔父、叔母、祖母との四人で出かけていた。折角滅多に来ないこちらに長く居るのだからと観光名所を巡り、丸一日を過ごしたのだ。

 そして今日はこの雨である。

(神様の所へ二日も行けない)

 これが里菜の本音だった。

 特に叔父叔母や祖母と一緒に過ごす事が嫌というわけではない。三人といる事も、近所の人達と話す事も、ここにいるからには当たり前の事だ。

 それがわかっていながらも、あの少年の元へ向かえない自分がひどく落ち込んでいるのがわかった。

 朝方から降り始めた雨は予報を裏切る事はなく、このまま夜まで降り続けるのだろう。

 この強い雨足では裏山へ向かうのもさすがに無理だろうと里菜は溜息を付く。

 足しげく通う自分を祖母が不思議そうに見ているのはわかっている。だが、あの場所とそこにいる少年が、里菜の一番興味があるものなのだから仕方がない。

 彼は一日二日会わなかったからといって、文句の一つも言わないであろう事は想像できる。おそらくではあるが、明日にでも向かったならば変わらぬ笑顔で里菜を出迎えてくれるはずだ。

 そして、それがわかっている里菜もきっと笑顔であの少年と対面する。

 それはとても嬉しい事であり、不満気な顔などできるはずがない。

 この会いたいと思う気持ちに嘘をつく事はできないのだ。



 翌朝、昨日の雨が嘘かと思える程に、空は青く高かった。

 鮮やかな緑色が広がる上に青、そして白く大きな入道雲。

 そんな美しい光景を気にする間もない程に、里菜は木々の中へと足を踏み入れる。

 どうしても会いたくてたまらない、そう思える少年の元へ一瞬でも早く辿り着きたいと、はやる気持ちも歩みも止める事はできない。

「里菜、我は走らず来るように言ったはずだ」

 まだ祠が見える位置ではなかったが、少年の声が耳に滑り込んでくる。

 確かに以前、慌てず落ち着いて来るように言われていた。しかし、里菜にしてみると二日も我慢したのだから、少々走るくらい構わないのではないかという事になる。

 言葉に従わぬまま足を進める里菜へ、また声が降りかかった。

「ぬかるみに足を取られぬよう、落ち着いておいで。そうでなければ我は今日、姿を見せないよ」

 そう言われてしまうと里菜は従う以外の選択肢がなくなってしまう。目的としている者に会えないのでは、息せき切ってやって来たかいもない。

 慌てて足を止めた為、かえって無理な力がかかってしまったらしい。里菜の右足がずるりと湿った草と泥の上をすべり、体が大きくバランスを崩す。傾いだ体をどうにか支えようと頑張ったが、その結果を得る事ができず里菜は両手を地面へと着いた。

 言われた側からぬかるみに足を取られてしまったと思いながらも、四つんばいの格好になった里菜は体をゆっくりと起こす。再び滑る事だけは避けたいと慎重に立ち上がって見れば、ショートパンツから伸びていた足の膝は泥に塗れ、靴も汚れてしまっている。今日は荷物がなかった為、それを投げ出す事態にはならなかったが、両手は泥の感触で不快極まりない。 

「声をかけぬ方が良かったようだ。すまない」

 里菜の状況が見えているのか少年が謝る声が聞こえて来る。

 声によって足を止めたのは確かであったが、里菜自身がこうも足場の悪い所を駆けていた事にもじゅうぶん否があると言えた。

「大丈夫、何もなくても転んだのかもしれないし」

 この距離から神へ言葉が届くのかはわからなかったが里菜は返事をし、その後このまま向かうべきか引き返し足と手を洗うべきかを考える。

「里菜、こちらへおいで。側に水場があるから洗うといい」

 こちらの心を読んだのかと思える程に的確な声が聞こえ、里菜はわずかにだが不安を覚える。

(わたしの思っている事が全部伝わってる?)

 しかしそれに対する返答は一向に聞こえては来ず、少年は里菜を呼ぶ声を繰り返す。

「どうしたのだい? 早くこちらへ来るといい」

 やはりこちらの考え全てが伝わっているのではないのかと里菜は考え直し、今度はゆっくりと祠を目指し歩き始めた。



 少年が言った水場は本当にすぐ側に存在していた。

 三つの祠が並ぶうち、水神がいるという側にそれはあり、またいで渡れてしまいそうな細い幅に水が流れている。

 円状の広場より二メートル程先は緩やかな斜面になっており、わずかに下った先がその沢だ。

 里菜はそこを慎重に降りると、なるべくぬかるんでいない場所を選び、靴を脱ぎ足を水へと浸す。

 昨日の雨の影響か、水はあまり綺麗とは言えない。茶色く濁ったそれで洗う事に普段ならば抵抗を覚えたのかもしれないが、今は気にもせずに手を洗い膝をすすぐ。

「こんな所を流れているなんて気付かなかったな」

 少年は広場から出る事ができないらしい。こちらに近い端で高くふわりと漂い、見下ろすように里菜を眺めていた。

「少し低く木々で見えないのだから仕方がない。これは家の脇を流れているものだよ」

 言われた通りに家の脇には水が流れていたと里菜は思い出す。昔はこの水を飲んでいたのだと祖母が話していたそこは、今は農作業で汚れた物を洗ったりとじゅうぶん生活に根付いている場所だった。

「あそこを流れてるんだからそうだよね」

 手頃な石の上に移動した里菜は、他に使える物がないのだからとポケットから取り出したハンカチで足を拭く。そうして再び靴に足を納めると、少年の待つ広場へ向かい慎重に登り始めた。

 その姿を認めたらしい少年は、緩やかに自分の体を切り株の側へと移動させる。風船のようにふわふわと動いて行く様はいつ見ても不思議であった。

「もっと早い時期であれば蛍も見れたのだが」

「蛍がいるの?」

 少年の隣に腰を下ろしながら里菜は目を輝かせる。

 蛍を見た事がないわけではないが、この場所で神と一緒に眺めるのならば更に素晴らしいものになるのではないかと思ったからだった。

「そうだよ。こちらに来るのが一月早ければ間に合ったかもしれない。家の周りでも見られるはずだ」

「六月末頃かぁ、来年はどうだろうな」

 一年後を思い浮かべる里菜へ、少年は聞く。

「里菜はいつまでここにいるのだい?」

 その言葉に里菜は帰らねばならない事を改めて思い出し、表情を曇らせる。

「あと……二週間くらい、かな」

 来週、母がこちらへ来る事になっていた。そのまま一週間をここで過ごし、二人で帰る予定だ。

 着いた当初は早く帰りたいと思っていたはずの場所が、いつの間にか名残惜しく感じる事に里菜は戸惑いを覚える。おそらくと言うよりも、確実に住み慣れた土地へ戻る方が自分の生活らしい。いや、学校もあるのだから帰らなくてはならないのだ。

 別れを思い沈んだ面持ちになった里菜に気付いたのか、少年が言葉を紡ぐ。

「あと、半分もあるのだね」

「半分も?」

 自分が思いもしなかった言い回しをする少年へ里菜が目を向けると、嬉しそうな笑顔が飛び込んで来る。

「そうだろう? 我と里菜はまだ同じだけの時を過ごせるだから」

 もう時間がないのではなく、同じだけの時を過ごせる。その考え方は里菜に大きな力を与えた。少年にまだ会う事ができ、共に過ごせるのだと気付かせてくれたのだから。

「そっか。そうだよね」

 そうして里菜が笑みを浮かべると、少年もやはり嬉しそうに笑うのだった。



「神様、見て!」

 いつもと変わらず裏山へ向かった里菜は、上機嫌に少年の前で一つ回って見せた。

 白地に大きく牡丹桜があしらわれた浴衣に赤い帯、そこへ白木の下駄と赤い巾着を合わせ、髪はアップにしている。祖母が今日の為にと買い揃えてくれた物だ。

「よく似合っているよ。今日は祭りなのだね」

「うん、叔母さんと一緒に花火を見に行くんだ。出かける前に神様に見せたくて」

 折角、滅多にない姿をしているのだからと里菜はこちらへ足を向けていた。

「綺麗でしょ?」

 浴衣の袂をわずかに上げながら里菜が笑いかけると、少年は目の前へやって来て相好を崩し頷く。

「そうだね。里菜も浴衣も美しい」

「ありがとう。こうしていると神様とも似合うよね」

 いつもと変わらぬ着物姿と並ぶように里菜は己の位置を変える。この少年が白い物をまとっているからと意識して選んだのだが、それを口には出さなかった。

「嬉しい事だね。今日は我もここから花火を見ようか」

 こちらへ笑いかけた後に木々の隙間から見える空を見た少年へ、里菜は言う。

「わたしも一緒に見たかったな」

 しかし、少年はそれを許しはしない。

「ここは暗い時刻に来るような場所ではないよ」

「それはわかってるけど……」

 昼間でも薄暗い木々の道は、さすがに夜通ろうとは思えなかった。だから里菜は叔母と出かける事に決めたのだ。

 どうやら不満を顔に出してしまっていたらしい、少年が苦笑する。

「ならば、明日我に土産話をしてはくれないか? 共に見られなくとも知る事はできる」

 自分を待ち望むような事を口にした少年に里菜は大きく頷く。

「うん。明日も来るから、待っててね?」

「ああ、わかったよ。気をつけて行っておいで」

 あまり時間もないままやって来ていた為、里菜はその言葉に頷くと家への道を引き返した。

 途中、振り返り大きく手を振ると、少年も高く浮かんだまま手を振り返してくる。

 ほんの少しの逢瀬でもまた会えるのなら構わないと、里菜は笑顔でその場を後にした。



 しかし翌日、祠の元へやって来た里菜の目の前に神は現れなかった。

 いつもならば自分が辿り着く前から姿を見せ、ふわふわと浮かんでいるはずの少年がいないのだ。一体何事かと里菜は声を上げる。

「神様?」

 木々がざわめく中に里菜自身の声だけが響いた。

「神様? ねえ、どうしたの?」

 名を忘れた少年の呼び名はこれしかないのだ。里菜は何度も神を呼ぶ。

「神様? 神様?」

 己の住まう祠の辺りに浮かぶ事はわかっていたが、里菜は見る範囲を広げた。どこからか少年がこちらを見つめてはいないか? それを見逃すわけにはいかないと必死に名を呼び目を走らせる。

 だが、少年が現れる事はなく、里菜の声がただただ響くばかりだった。

「どうして? 何かあったの……? 神様」

 目の前にある祠を見下ろして里菜は呟き、何度も少年を呼んだ。それでも姿が浮かび上がりはせず、里菜はどうする事もできないまま涙を流す。

「神様…………どうしたの」

 しゃがみ込み少年がいつか現れるのではないかと里菜は待った。

 しかし、何時間待とうと少年の姿はなく、声を聞く事もできない。

 名を呼ぶ事にも疲れ、里菜はぼんやりと切り株に腰を下ろしていた。普段ならば隣には少年がわずかに浮かびながら座り笑顔を見せていたというのに、今は一人なのだ。

(どうして出て来てくれないの?)

 それだけが何度も脳裏に浮かび、里菜は疲れた顔で祠を見つめた。 

「里菜? どうしたんだい?」

 そこへ声をかけたのは祖母であり、里菜は気付かぬうちに側へ来ていた彼女を見上げる。

「おばあ……ちゃん」

 泣き腫らした瞳でいる里菜を見た祖母は、目を大きく見開いた。

「何があったんだい! 里菜」

 珍しく声を荒げた祖母へ、里菜は呟く。

「神様が……出て来てくれないの」

 この時、里菜は初めて神の存在を口にした。



 ただ神が出て来てくれないと泣く里菜を、祖母は半ば無理やりに家へと連れ帰った。帰りたくないと口にする里菜を諭しながら優しく手を引いて家を目指し、辿り着けば落ち着くようにとジュースを差し出してくれる。

 だが里菜はそれに手をつける事もなく、沈んだ表情でうつむいていた。こたつを挟んだ向かいには祖母が座っているが、そちらを見ようとも思えずただ少年に会えない悲しみに溺れる。

 祖母はしばらくの間、黙って里菜を見つめていたが、優しく口を開く。

「里菜は本当に神様を見ていたんだね?」

 一度口にしてしまったのだから、もう嘘をつく必要もないと里菜は頷いた。だが、異質な者を見ていた自分をどう思うのかと不安も顔を覗かせる。

「おばあちゃんは信じてくれるの?」

 不安をそのまま口にした里菜へ、祖母はもちろんだよと頷いた。

「私のお母さんが見えていたんだから、里菜が見えたっておかしくはないだろうね。おばあちゃんは信じるよ」

 柔らかでありながらも真剣な眼差しを見せた祖母に、里菜はわずかにだが安堵し少年との時間をゆっくりと言葉に乗せる。

 誰かに聞いてもらう事でこの現状が変わるのならば、藁にでもすがりたい気持ちだった。



 少年との出会いをありのまま伝えた里菜は、ようやく飲み物に手を付ける事ができた。落ち着いたというよりは、話した事で乾いた喉を潤おす行為だったのだが、何時間も水分を取らずにいた体にはやけに染み入る。

 祖母は黙って話に聞き入り、今も里菜の様子を見つめていた。

 一切自分を否定しない祖母へ、里菜は聞く。

「神様はどうして出て来てくれないんだと思う?」

 すると祖母は、神様だって忙しいんじゃないのかい? と答えた。

 どうしてだろうね。と答えが返ってくるとばかり思っていたのだが、祖母の意見は予想外のものであり、里菜は何度も目を瞬かせる。

「神様もただそこにいるだけじゃないんだろう? なら用事が会って出て来れない時もあるのかもしれないよ」

 行けば姿を見せる事が当たり前だと思っていた里菜は、驚きを隠せないまま聞き返す。

「また出て来てくれるって事?」

「それはわからないよ。何日もかかる用事だったら、神様はしばらく出て来れないのかもしれない」

 祖母の言葉を聞きながら里菜は思い出していた。いつもそうしているの? と聞いた時にそのような事はないと答えた少年を。それは、出て来れない時があると考えても構わないのかもしれないと、里菜へかすかな希望を感じさせた。

 一日姿が見えないからと騒ぎ立てる必要はなく、明日になれば少年はいつものように浮かんでいる。それもなくはないと考える事のできた里菜は呟く。

「また……出て来てくれるのかな?」

「いつかはわからないけど出て来てくれるかもしれないね」

 祖母の言葉に里菜は頷き、ようやくわずかな笑みを浮かべる事ができた。



 しかし望みが叶う気配はなかった。里菜は毎日足しげく通い祠の前で手を合わせ願う。

(どうか、神様が現れますように)

 願いを叶えると言った少年を信じ、里菜は想いを込める。

 お盆休みに入り、こちらへやって来た母が不思議そうにしているのはわかっていた。里菜が毎朝裏山へと足を伸ばし祈りを捧げている姿はどのように映っているのか? 心配されているのではないか。

 それでもやめる事はできない。

 お願いだから、もう一度だけでもいいから出て来て欲しい。

 里菜は強く少年を呼び続けていた。

 しかし想いが届く事はなく、里菜は帰路へと着く。

「また来るからね……神様」

 その言葉が伝わっているのかさえ、わかりはしなかった。


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