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御笠山

作者: 今村昭彦
掲載日:2026/10/15

第一章 参道の朝


第一節

昭和十七年の春は、どこまでも冷たく、荒々しかった。

まだ漆黒の闇に包まれた天満宮の境内には、散り残った梅の匂いが微かに漂っていたが、その甘やかな気配さえも、参道をときおり踏み鳴らす軍靴の硬い打音によって、容赦なく凍りつかされていた。

夜明け前の空気は、吸い込むたびに肺の奥を刃物で撫でられるように痛む。

正一は、境内の端に佇み、己の掌の中にあるものの感触をじっと反芻していた。

父・与作から渡された、一本の樫の杖である。

長さは四尺ほど、職人が削り出したそのままの無骨な木地は、数十年分の手の脂と汗を吸い込んで黒ずみ、太古の巨獣の骨のように鈍く光っていた。握りしめるたび、その硬さが掌に食い込み、無言のまま「男になれ」と迫ってくる。

「御笠山は、逃がしちゃくれんぞ」

背後から、父の低く掠れた声が落ちてきた。

振り返らなくても、父の顔に刻まれた不機嫌な皺の深さがわかる。父は正一の返事を待つ風もなく、ただ参道の暗がりを見つめていた。その視線は、目の前にいる正一を通り越し、西の暗い空の彼方——南方の戦地で行方が分からなくなった長男・清次の影を追っているかのようだった。

正一は唇をかみ締め、藍染めの「テクリ」に腕を通した。

戦時下の物資不足で、家に残された作業着はどれも洗われ過ぎて布地が痩せ、繊維の奥に汗と泥の記憶が黒ずみとなって固着している。袖を通すたび、そのゴワついた感触が肌を擦り、これから課せられる労働と服従を、先取りするように肌に刻んだ。

「清次が十六の時も、その杖を持ってあの山を登った」

父が煙管を口にくわえぬまま、ぽつりと吐き捨てるように言った。

「お前も今日で十六だ。子供の遊びはこれで終わりだぞ。御笠宮の大神様に額をつけ、一人前の男としてお前の名を届けてこい。清次の代わりに、この家を、お国を支える体になれ」

父の言葉は、正一の胸の最も柔らかい部分を容赦なく刺した。

半年前に届いた、兄の消息不明を告げる一枚の紙。それ以来、家の中からは言葉という言葉が失われ、代わりに重苦しい沈黙と、正一に対する苛烈な期待だけが充満していた。

農家の次男坊として、本来であれば兄の陰で自由に過ごせるはずだった月日は、あの日を境にすべて吹き飛んだ。再来年、十八になれば自分にも徴兵の検査がやってくる。村の大人たちは「お国のために」「名誉なことだ」と口々に言うが、正一の夜の夢に出てくるのは、いつも見知らぬ異国の泥の中で、五体を抱えて震える己の無惨な姿だった。目が覚めても、その泥の重みだけは掌に残っている気がして、正一は何度も自分の手のひらを開いては閉じた。まだ人間の形をしているかどうか、確かめるように。

正一は、父の言葉に応える代わりに、掌の中の樫の杖を強く握り直した。

杖の表面に刻まれた無数の小さな傷跡が、決まった位置で正一の皮膚を圧迫する。それは、かつてこの杖を握りしめ、同じように御笠山へ向かった兄の、最後の力の残滓であるかのようだった。兄もまた、十六の朝にこの杖の冷たさに怯え、己の運命を呪ったのだろうか。それとも、父の望むような「勇猛な男」として、誇らしげに山頂を目指したのだろうか。今となっては、それを確かめる術はない。

境内の奥、社務所の燈籠にぽつりと灯火が点り、周囲の闇がわずかに白み始めていた。

参道の白砂の上には、正一と同じ「十六詣り」のために集まり始めた村の少年少女たちの影が、ゆらゆらと揺れ動いている。

男子たちは脚絆を固く巻き直し、互いの顔を見合わせては、どこか強がりを含んだ低い笑い声を漏らしていた。女子たちは絣の着物に身を包み、寒さに体をすくませながら、社頭で振る舞われる白湯のお椀に両手を添えている。

しかし、その整然とした共同体の風景の中に、どこか歪で、異様な緊張感が漂っていた。

参道の端、天満宮の豪壮な社殿の陰から、一歩一歩、こちらへ近づいてくる影があった。

正一の目は、その影が纏う、ただ一点の「白」に吸い寄せられるようにして釘付けになった。


第二節

それは、お雪であった。

参道を歩む少女たちの群れからあからさまに距離を置き、境内の端を這うようにして歩いてくる彼女の姿は、薄暗い境内の空気のなかで異様なほど鮮烈に浮き上がっていた。

お雪が纏っていたのは、白装束だった。

しかし、それは天満宮の社頭で舞を納める巫女たちが身につけるような、糊の効いた清廉で乾いた白ではない。幾重にも重ねられたその布地は、くすみ、どこか山の水気を吸って重い、彼女の細い身体の輪郭に吸い付くように沿っていた。

御笠の祈祷所の血筋。正一も、物心つく前から聞かされてきた言葉だった。「天神様の血」であると同時に「山に近い穢れ」であるという、村の誰もが口にしながら誰も説明できない噂。

彼女が身につけているその白い装束もまた、天満宮の「公」の神道体系からは弾かれた、土着の祈祷の衣だった。

幾重の霧を吸い込み、山肌の泥の匂いを染み込ませたその布地は、清らかであると同時に、どこか禍々しいほどの生々しさを放っている。

お雪が近づいてくるにつれ、周りの少年少女たちの声が引き潮のように小さくなっていった。誰もお雪を拒絶するような大声は出さない。しかし、そっと一歩身を引く足音や、視線を逸らす動作の端々に、村という共同体が無意識に張り巡らせている透明な壁が感じ取れた。

だが、正一はお雪から目を離すことができなかった。

正一とお雪の視線が、不意に交差する。

お雪の瞳は、天満宮の豪壮な甍や、そこに掲げられた武運長久の幟などではなく、その背後に黒々と聳え立つ御笠山の深い闇をそのまま映し出していた。その奥底には、村の秩序も、迫り来る戦争の影も届かない、冷たく澄んだ静寂が畳み込まれている。

「正ちゃん、その杖、痛そう」

お雪が正一のすぐ傍まで歩み寄り、かすかに唇を動かした。

その声は、春の冷え込みに小さく震える風のように正一の鼓膜を撫でた。周りの誰も聞こえないほどの細い囁きだったが、その一言は正一の耳の奥に驚くほどはっきりと響いた。

お雪が近づくと同時に、正一の鼻腔を濃厚な匂いが突いた。

それは、天満宮の境内に立ち込める梅の甘やかな香りとは似ても似つかない、どろりとした椿油の匂いと、擦り潰した薬草の甘苦い気配だった。山肌の湿った土と、長い年月をかけて祈祷所に焚き染められた香の残味が混ざり合ったようなその匂いは、これから二人で踏み込んでいく「山の生理」を直感させる、官能的で土着的な匂いだった。

「兄さんも、これを持って登ったんだ」

正一は、お雪の静かな視線から逃れるようにして、樫の杖を固く握り直した。

使い込まれた木の表面の凸凹が、正一の掌に食い込む。兄の重みを、今日はもう何度目かに思い出しながら、正一は杖を握り直した。

お雪は正一の手に視線を落とし、それ以上は何も言わなかった。

ただ、彼女の纏う湿った白装束の裾が、夜明けの風になためき、正一の藍染めのテクリの裾に微かに触れた。そのわずかな接触に、正一は自分の呼吸の音だけが急に大きくなったような錯覚を覚えた。

お雪は正一の手から目を上げ、山の闇へと視線を戻した。その横顔には、村人たちへの憤りも、己の立場への悲壮感も見当たらなかった。ただ、白装束の袖口をそっと撫でるその指先だけが、何かを大切に抱え込むような、静かな執着を物語っていた。

お雪は、八歳の夏の夜、祖母が村の高熱の子供のために祈祷を行った際に見せた、小さくも凛とした背中を思い出していた。天満宮の神職たちが唱える雅で乾いた祝詞とは違う、土の匂いのする素朴な祈り。

(正ちゃんのあの手も、樫の杖の固さに耐えている。あの人も、誰かの深い想いを握りしめて、震えているんだ)

「一同、出立」

村の年寄りのダミ声が、境内に響き渡った。

参拝を終えた十六歳の少年少女たちが、ぞろぞろと歩き出す。天満宮の掃き清められた「公の平穏」を背にして、一行はいよいよ御笠山の登山口へと足を踏み入れようとしていた。

拝殿の社頭には、先ほどまで正一たちを見送っていた父や大人たちの姿があった。父は一度も正一と目を合わせず、ただ腕組みをしたまま、西の空を凝視している。その硬直した背中は、正一を山へ送り出すことで、お家とお国への忠節を果たさせようとする冷酷な決意に満ちていた。

正一はお雪と並ぶようにして、歩調を合わせた。

社殿の影を抜けると、登山口の前に佇む鳥居の向こう側には、黒々と鬱蒼とした樹海が広がっていた。下界の朝焼けの光すら届かないその闇の奥から、冷たく澄んだ風が吹き下ろしてくる。

一歩、山道に足を踏み入れた瞬間、二人を包む空気の重さが劇的に変わった。


第三節

鳥居をくぐり、山道へ踏み込んだ瞬間、足元から立ち昇る気配が劇的に変化した。

天満宮の、綺麗に掃き清められた「公の平穏」は一瞬にして濃い山霧の向こうへと掻き消えていった。代わりに鼻腔を突いたのは、幾重にも重なり合って腐敗した落ち葉の匂いと、岩の隙間から絶え間なく湧き出る冷たい岩清水が混ざり合った、御笠山特有の「生と死の匂い」だった。

雨が降っているわけではない。しかし、鬱蒼と茂るシダの葉は露を溜め込んで黒々と光り、行く手を阻むように急勾配を描く石段は、誰かの執念や祈りを擦り込んだかのように黒光りしていた。

先頭を進む村の少年たちの足音が、乾いた参道の砂利を踏む音から、ぬかるみを噛む重い音へと変わる。

少年少女たちの冗談めかした話し声は瞬く間に途絶え、代わりに荒くなっていく吐息と、木々を揺らす風の呻きだけが周囲を支配し始めた。

正一は、すぐ前を行くお雪の白装束の裾から目を離すことができなかった。

山道を進むにつれ、その白装束は足元から容赦なく泥に汚れ、次第に重みを増していた。

天満宮の境内では異質なほどに白く浮き立っていたその布地が、山へ深く入るにつれ、黒い泥と朽ちた落ち葉の破片を貪欲に吸い上げていく。

それは、お雪という存在が、この御笠山の生々しい肉体の一部へと解け出していく過程のように、正一の目には映った。

お雪自身は、裾が汚れていくことを意に介していないようだった。

彼女は静かに、しかし確実な足取りで、光る石段を一段ずつ踏みしめていく。

山が、私を受け入れてくれている——お雪はそう感じた。

村の人々から「穢れている」と忌避され、天満宮の社頭からも距離を置かれてきたこの白い衣が、泥に染まっていく。その黒い斑点は、彼女にとって決して汚れなどではなかった。むしろ、山が己の息吹を分け与え、静かに彼女を抱き留めてくれている証のように思えた。

母は戦意高揚の時局が進むにつれ、「今は神より国の方が大きい」と言って祈祷の道具を奥の部屋へ仕舞い込んでしまったが、お雪の血の中には、あの夜の祖母の温もりと、山への畏怖が今も脈脈と打っていた。

お雪はおのずと、すぐ後ろを歩く正一の気配に意識を向けた。

正一の吐息はすでに荒く、彼の握る樫の杖が黒ずんだ岩を叩く重い打音が、規則的に背後から響いてくる。

天満宮の境内で見つめ合ったとき、正一の目に宿っていた深い怯え。戦地で消えた兄の影と、父親からの容赦ない重圧に押し潰されそうになりながら、それでも必死に樫の杖を握りしめていた少年の手。

(お婆ちゃんがあの夜、山に祈りを捧げて誰かの命を繋いだように……私も、この山の深みの中でなら、正ちゃんの冷え切った心を少しだけ温めてあげられるかもしれない)

お雪は、正一の乱れた息遣いに合わせるように、自分の呼吸をゆっくりと整えた。

「あっ」

前方を歩いていた少女のひとりが、苔むした岩に足を取られ、短く悲鳴を上げた。

束の間の静止のなかで、お雪の脳裏に、あの夜の光景が鮮明に蘇っていた。

八歳の夏、村の幼子が原因不明の高熱で倒れ、医者も匙を投げ、天満宮の祈祷すら効を奏さなかったとき、母はためらいながらも、村外れの祈祷所にいた祖母へすがりついた。祖母は何も言わず、古い幣束と、山の麓で摘み集めた苦い薬草の束を抱え、小さな祠の前へ立った。

物陰から見ていたお雪の目に焼き付いているのは、祖母の小さくもまっすぐ伸びた背中だった。祖母が唱える祈りの言葉は、天満宮の神職たちが口にする雅な祝詞とは全く違っていた。低く、地を這うような声で語りかけられる、土の匂いと薬草の苦みが混ざり合った、素朴な言葉。それは神を奉るというよりは、山という巨大な生命に「少しだけ、お命をお分けください」と乞うような、剥き出しの対話だった。

夜明け前、子どもの熱がふっと下がったとき、祖母は額の汗を手の甲で拭いながら、ぽつりと呟いたのだ。

『山が、少しだけ貸してくれたのだろう』

列が不意に滞り、お雪もまた立ち止まる。

正一はハッとして足を止め、息を呑んでお雪の足元を見つめた。


第四節

泥にまみれ、損なわれていくお雪の足元に、正一の視線は釘付けになっていた。

天満宮の参道では見ることのなかった、お雪の破れかけた白足袋。冷たい山水に洗われ、黒い泥に容赦なく踏みにじられたその足袋の布地からは、親指の瑞々しくも尖った形がくっきりと浮き出ている。岩肌を噛むたびに指先に力が入るのがわかり、その損なわれていく白さの残酷さに、正一は喉の奥がカラカラに乾くような激しい動悸を覚えた。

それは、美しいものが踏みにじられていくことへの悲痛な恐怖であると同時に、どこか背徳的なまでの美しさに胸を打たれる、混濁した感情だった。

「大丈夫か、正一」

後ろを歩いていた同級生の声にハッと我に返り、正一は無言で首を振った。

正一の右手の中にある樫の杖は、登山口を越えてからというもの、冷たい木切れのままであるはずなのに、なぜか掌の中でじんわりと熱を帯び始めていた。

父から手渡されたとき、その杖はお家お国という逃れられない義務の冷徹な骨として正一の掌を痛めつけていた。しかし、この鬱蒼とした御笠山の霧の中に足を踏み入れて以降、その硬さは不思議と、正一の弱気な心を支える唯一の杭へと姿を変えつつあった。

兄も、同じ重みを知っていたのかもしれない。そう思う端から、その考えは山の熱の中へ溶けて消えていった。

「正一、遅れるなぞ」

先頭の年寄りの怒声が、白い霧の壁を叩いた。

列が再び動き出す。お雪もまた、乱れた白装束の裾を静かに捌き、一歩を踏み出した。

お雪の白足袋が踏みしめ、黒く窪ませた泥の跡へ、正一は正確に己の粗末な草履の底を落としていく。

お雪が右足を出せば、正一も右足を出す。彼女の歩幅が少し縮まれば、正一もまた己の足取りを緩める。

それは、言葉を一切交わさない二人の間で繰り広げられる、静かで執拗な追随だった。

天満宮の境内では、「公」の秩序と村の目が二人を遠く隔てていた。お雪は「天神様の異端」として浮き立ち、正一は「お国に捧げられる兵士の控え」として型に嵌め込まれていた。

しかし、この御笠山の生々しい闇の中では、公の大義名分も、村の不躾な視線も、すべて濃い霧の幕によって遮断されていく。残されているのは、ただ互いの吐息の荒さと、土を踏みしめる足音の重なりだけだった。

お雪がふいに、石段の途中で立ち止まった。

正一も即座に足を止める。二人の距離は、ちょうど正一が持つ樫の杖一本分ほどしかなかった。

お雪は振り返らなかった。だが、その華奢な肩が大きく上下し、乱れた髪の隙間から、白磁のようなうなじが露わになっていた。

山霧から滴り落ちた一筋の水滴が、彼女のうなじの皮膚を滑り、白装束の襟元へと吸い込まれていく。その一筋の跡があまりにも鮮烈で、正一の眼の裏に焼き付いて離れない。

お雪は、ゆっくりと呼吸を整えているようだった。何かをそっと噛み締めるように、肩から力が抜けていくのが、後ろからでも分かった。

正一は、自分の視線がお雪の背中に注がれ続けていることに、今さらながら気づいた。目を逸らそうとしても、なぜか叶わなかった。

お雪の白装束の裾から、ぽつり、ぽつりと、黒い泥の滴が石段の上に落ちていく。その静かな滴りだけが、二人の間に流れる時間の速さを教えてくれているようだった。

お雪が、白い息をひとつ、長く吐き出した。それは風に乗り、正一の藍染めのテクリの胸元にまで届いた気がした。

正一は、掌の中の樫の杖をもう一度固く握り直した。

使い込まれた木の凸凹が、皮の剥けかかった皮膚を鋭く圧迫する。その痛みはもはや不快なものではなく、自分が今、生きているという生々しい実感を呼び覚ます刺激だった。

山はまだ、深く沈黙したままである。

だが、正一とお雪の足元で、そして二人を繋ぐ樫の杖の先で、御笠山の地脈が熱く、静かに蠢き始めていた。

下界の天満宮に残してきた「公」の日常は、もはや遥か遠い雲の下の出来事だった。

二人は互いの気配を唯一の道標として、さらなる深淵――岩肌の擦れ合う領域へと、足を踏み入れていくのだった。


第二章 石段の呼吸


第一節

鳥居の影を完全に脱し、御笠山の中腹へと差し掛かるにつれ、石段はその傾斜を増していった。

下界の天満宮参道で踏みしめていた平坦な白砂の平穏は、もはや遠い昔の出来事のように思える。ここでは一歩を刻むごとに、押し寄せる勾配が重力となって脚の肉へズシリと食い込んできた。

苔むした古岩が不規則に並ぶ石段は、巨岩の隙間からたえず染み出る山の水気によって、鏡のように黒光りしている。

足元を少しでも見誤れば、容赦なく漆黒の谷底へと滑り落ちてしまいそうだ。

「ふう……っ、く……」

正一の呼吸は、石段を数段昇るごとに激しさを増し、熱を帯びていった。

早朝の身を切るような山冷えの空気を取り込んでいるはずなのに、冷え切った肺の奥は、火を焚かれたように熱く、焼けるような痛みが持続している。

身に纏った藍染めのテクリは、噴き出した汗と、濃密に立ち込める山霧の湿気を底なしに吸い込み、正一の背中や胸元にずっしりと冷たく張り付いていた。

歩調に合わせて粗末な布地が皮膚を擦り上げるたび、正一は己の肉体の輪郭を、剥き出しの嫌悪感とともに自覚させられる。

(兄さんは、息ひとつ乱さずに登り切ったのだろうか)

テクリの胸元に残る、幾度洗っても落ちない泥の染み。それもまた、兄が遺していった型のひとつだった。

「一人前の男になれ」という父の言葉が、汗に濡れて肌に張り付くテクリの重みと重なり合う。

その屈辱と、来たるべき徴兵への恐怖が、足を進めるたびに膝を挫こうとしていた。

その屈辱と、来たるべき徴兵への逃れようのない恐怖が、足を進めるたびに重い枷となって膝を挫こうとしていた。

その時、数歩前を行くお雪が、歩調を緩めることなく、ふいに静かな声を漏らした。

「正ちゃん、見て。……岩が泣いてる」

その声は、息を切らす正一の鼓膜に、涼やかな水滴となって落ちてきた。

正一が視線を上げると、お雪が指さす石段の脇、巨木に抱かれた巨大な漆黒の岩肌から、清冽な岩清水が涙のように絶え間なく伝い落ちていた。

その水滴は、石段の凹みにできた小さな水たまりに跳ね、不気味なほどの透明感を持って山の暗がりの中に光を反射させている。

お雪の姿は、この山に入ってからというもの、刻一刻と変貌を遂げていた。

彼女の白装束は、すでに「白」という色彩の定義を失いつつあった。

山肌を吹き抜ける霧が滴となって布地の繊維をくまなく透かし、その向こう側に、十六歳特有の瑞々しくも細い肩の線や、華奢な背骨の起伏をぼんやりと浮かび上がらせている。

さらに、登山口からここまで跳ね上げてきた黒泥が、墨を流したような斑点となって裾から太腿のあたりまでを覆い尽くしていた。

天満宮の境内であれば、「汚らわしい」と顔を顰められたであろうその泥の斑紋。

しかし、周囲を鬱蒼とした樹海と霧に囲まれたこの場所では、その泥の汚れこそが、お雪という存在を山そのものと融解させる紋様のように見えた。

彼女はもはや村の人間ではなく、この御笠山に棲まう妖異か、あるいは古くから山を守る小さき神のようだった。

「……本当だ。岩が、水を吐いている」

正一は荒い呼吸を整えながら、かろうじて言葉を返した。

石段の脇に立ち並ぶ杉の巨木からは、春の芽吹きとともに粘り気のある樹液の匂いが強烈に漂っている。

その青臭くも甘い樹液の匂いが、お雪の髪から立ち昇る椿油の薫香、そして彼女の体温がにじませる白装束の匂いと混ざり合い、正一の鼻腔をむせ返るほど濃密に満たした。

それは、天満宮の社頭で嗅いだ、あの凛として乾いた梅の香りとは正反対の匂いだった。

整然とした公の秩序、国への忠義、美しい大義名分――そうした乾いた価値観のすべてを唾棄するような、土着的で、繕いようのない、剥き出しの生の気配。

その濃厚な匂いを吸い込むたび、正一の頭の奥で、現世の常識が少しずつ削り削がれていくのが分かった。

二人は沈黙したまま、さらに高みを目指して石段を歩み進める。

先を行く同年代の少年少女たちの声は、霧の深まりとともに完全に途絶えていた。

残されているのは、二人の吐息と、正一の握る樫の杖が岩肌を叩く、乾いた打音だけだった。


第二節

やがて道は、それまでの整えられた石段の姿を完全に失い、人一人がようやく通れるほどの細く険しい岩場へと差し掛かった。

左右からは黒光りする岩壁が迫り出し、足元はゴツゴツとした角をむき出しにした岩肌が露出している。わずかでも足を踏み外せば、そのまま切り立った崖下へと滑落しかねない難所だった。霧はさらに濃さを増し、数歩先を行くお雪の白い背中すら、時折かげろうのようにかすんで見える。

お雪が足をもつれさせたのは、まさにその岩場の最狭部に差し掛かった時だった。

「あっ」

苔に足袋の底をとられ、お雪の身体がぐらりと大きく傾く。

短く途切れた悲鳴が、白い霧の中にはじけた。

正一の身体が、思考よりも早く動いていた。

彼は無意識のうちに、右手に握りしめていた樫の杖を「ガン!」と烈しい音を立てて岩の隙間に突き立て、体重をあずけると同時に、空いた左手を前方へ伸ばした。

正一の手が捉えたのは、お雪の細い手首だった。

その瞬間、正一の掌を襲ったのは、暴力的なまでの熱だった。

霧を吸い込み、山冷えの空気の中で氷のように冷え切っているはずの白装束。その冷たい布地のすぐ下で、お雪の肌は驚くほど熱く、脈打っていた。ドク、ドク、と激しく跳ねる血潮の鼓動が、正一の手首の皮膚を通して、ダイレクトに自らの神経へと流れ込んでくる。

「……っ!」

支えられたお雪もまた、態勢を立て直そうと必死に正一へしがみついてきた。

泥にまみれた彼女の白い指先が、正一の着ているテクリの粗末な袖を、爪が食い込むほどの強い力で握り返してくる。

「……離さないで」

お雪が顔を上げた。

至近距離で、二人の視線が真っ向からぶつかり合う。

お雪の瞳は、いまや正一の顔だけを完全に捉えていた。

その暗く澄んだ瞳の奥には、村の窮屈な秩序も、下界から聞こえていたはずの迫り来る軍靴の足音も、何ひとつ届かない。

ただ深く、冷たく、どこまでも続いていく暗渠のような闇が広がっていた。その闇に呑み込まれた瞬間、正一は自分が今どこに立ち、何のために山を登っていたのかさえ、一瞬で見失いそうになった。

正一は彼女の華奢な体を滑落から防ぐため、己の背中を後方の岩壁へ強く押し付けた。

「ぐ、っ……」

背中に伝わる御笠山の岩肌は、まるで永久に太陽の光を知らない氷塊のように冷たい。

テクリ越しであっても、その冷気は正一の皮膚を刺し、骨の髄まで凍てつかせるようだった。

しかし、その背中の極寒とは対照的に、胸元ではお雪の荒い吐息が、熱い塊となって正一の首筋や鎖骨のあたりを激しく撫で回している。お雪の体温と、彼女の身体から立ち昇る椿油と土の匂いが、正一の胸を容赦なく押し潰す。

背中の氷のような冷気と、胸元の火のような熱。

この二つの極端な温度の差が、正一の脳裏を白く濁らせ、狂わせていく。

正一は無意識に、右手に残された唯一の支え——樫の杖を、壊さんばかりの力で握りしめた。

使い込まれた樫の表面に刻まれた、無数の傷と凹凸。

それが容赦なく正一の掌の肉を食破らんばかりに圧迫し、鋭い痛みを伝えてくる。

この痛みだけが、今の正一を現実に繋ぎ止めていた。

父の言う「男になる」とは、お国の捨て駒になることなのか。

それとも、こうして倒れそうな誰かを、自分の痛みを引き換えにして繋ぎ止めることなのか。

正一の胸の中で、これまで教え込まれてきたすべての価値観が、音を立てて崩壊し始めていた。

「この山を越えたら、私たちはもう、子供じゃないんだね」

お雪が、正一の耳元で小さく囁いた。

彼女の吐息が直に耳たぶを濡らし、かすかな唇の感触すら触れそうなほど近くにある。

その声は、苛烈な現実からの救いの言葉などではなかった。

むしろ、二人の逃れられない運命を決定づける、不吉で美しい呪文のように、正一の頭骨の奥深くで反響した。

十六歳。山を越えれば、男子は労働と兵役の義務を負う「大人」となり、女子は家を守り子を産む「女」となる。それは共同体の規則であり、逃れられない生贄の儀式だった。

お雪の足元に目をやると、彼女の白足袋はもはや原型をとどめぬほど真っ黒に汚れ、鋭い岩の角で破れた爪先からは、白磁のように白い爪と小さな指先が覗いていた。

泥に塗れ、傷つき、損なわれていくその美しい足の姿。

それを見た瞬間、正一の胸の奥底で、暗く獰猛な感情が芽生えた。

この美しいものを、さらに汚してしまいたいという恐ろしいほどの加虐心。

そして同時に、世界から弾き出された者同士として、この闇の深淵へ共に落ちていきたいという、あまりにも深い共犯の意識。

二人は互いの体温と重みを確かめ合うように重なり合ったまま、冷たい岩壁の狭間で、しばらくの間ピクリとも動くことができなかった。

周囲の霧はさらに深く、濃く立ち込め、もはや数歩先すら見通せない。

御笠山の巨大な木々も、黒く沈んだ岩肌も、遠く雲の下に没した天満宮の森も、世界のすべてが灰色の圧倒的な静寂の中に飲み込まれていく。

「……行こう」

沈黙を破った正一の声は、自分でも驚くほど低く、かすれていた。

正一は樫の杖を引き抜き、冷たい岩を突いた。

「コツン」という固い打音がひとつ、乾いた音を立てて霧の奥へと吸い込まれていく。

一歩、また一歩。

正一は掌に突き刺さる杖の痛みだけを暗闇の中の道標にして、お雪の手を引くようにしながら、さらなる深淵へと重い足を運び始めた。


第三節

岩場を抜け、再び不規則な石段の登りへと戻ったものの、二人を取り巻く世界はもはや道としての体裁を失いつつあった。

視界を拒む濃霧は、まるで生き物のように蠢きながら二人の肌にまとわりついてくる。水滴を含んだ風が吹き抜けるたび、お雪の重い白装束がかすかな衣擦れの音を立てた。その音は、正一の耳には山そのものが吐き出す溜め息のように感じられた。

正一の左手には、いまもお雪の手首の余熱が鮮烈に残っていた。

先ほど岩場で掴んだ彼女の皮膚の柔らかさと、その奥でトクトクと跳ねていた激しい脈動。自分の掌を焼き尽くすかのようなあの体温の感触が、いまや正一の全身の血を熱く滾らせている。

「正ちゃん……手、冷たくない?」

前を歩くお雪が、ふいに振り返ることなく問いかけてきた。

「え……?」

「手首を掴んでくれたとき、正ちゃんの指、すごく冷たかったから。山の氷がそのまま触ってきたのかと思った」

お雪の言葉に、正一は己の右手を軽く握り直した。

樫の杖を握りしめ続けている右手は、圧力と摩擦で皮膚が痛むほど熱を帯びている。しかし、お雪の手首に触れた左手の指先は、山冷えの風に晒されて確かに感覚が麻痺するほど冷え切っていたのだ。

「……でも、すぐ熱くなった」

お雪は石段を踏みしめながら、静かに言葉を継いだ。

「正ちゃんの熱が、私の中に伝わってきたの。あの時……あそこで一緒に落ちてしまってもいいって、一瞬だけ思っちゃった」

その告白は、正一の胸の奥深くに重く響いた。

(落ちてもいい——)

それは、正一自身が暗闇のなかで密かに抱いた背徳的な念そのものだった。

このまま急勾配の崖下へ二人で転がり落ちてしまえば、家督を継ぐ義務も、父の冷酷な眼差しも、再来年やってくる徴兵の恐怖も、すべてから解放されるのではないか。お国や家族という巨大な枠組みに命を削り取られるくらいなら、この御笠山の暗い泥の中で、お雪とともに果ててしまう方がどれほど救いになるだろう。

だが、正一の右手にある樫の杖が、濡れた岩肌を強く突いて乾いた音を立てた。

「落ちたりしないよ」

正一は、自分でも驚くほど硬く乾いた声を出していた。

「僕が……離さないから。山を下りるまで、絶対に離さない」

お雪の背中が、一瞬だけぴくりと跳ねた。

彼女は足を止めず、ただ黙って歩みを続ける。しかし、その華奢な肩の緊張がわずかに和らぎ、吐き出す白い息が霧の中にやわらかく溶けていくのを、正一は見逃さなかった。

お雪の胸の内でも、激しい波紋が広がっていた。

(正ちゃんは、私を繋ぎ止めてくれようとしている……)

お雪は、破れた白足袋の爪先に力を込め、冷たい石段を一段ずつ踏み締め直した。

岩肌の角で裂けた足袋の隙間から、冷たい山の泥が直に皮膚へ擦りつけられる。痛みと冷たさが神経を刺すが、お雪にとってその痛みは、正一と同じ「生の次元」に留まっていることを実感させる唯一の証だった。

「見て、正ちゃん。杉の木が……」

お雪が立ち止まり、視線を上方に向けた。

霧の向こう側に、樹齢数百年を数えるであろう巨大な杉の幹が、黒々と聳え立っていた。

その幹には、古い注連縄が深く食い込み、厚い苔に覆われている。注連縄の結び目からは、粘り気のある芳醇な樹液が琥珀色の雫となって垂れ落ち、周囲にむせ返るような強烈な木の香を放っていた。

天満宮の境内を彩っていた、あの整然と咲き誇る梅の花の匂いは、もはや完全に途絶えている。

ここに満ちているのは、古木が吐き出す樹液と、腐朽した葉が織りなす、剥き出しで芳醇な山の匂いだった。それは、人間が足を踏み入れる前の、太古からの生の営みがそのまま凝縮された気配だった。

「ここは……昔、おばあちゃんが『神様の腰掛け』って教えてくれた場所だ」

お雪が注連縄の巻かれた巨杉を見上げながら、ポツリと呟いた。

「ここを過ぎると、いよいよ御笠宮の『内つ宮』に入るの。下界の言葉は、もう届かなくなる」

お雪が振り返った。

霧の合間から覗く彼女の顔立ちには、先ほどまでの怯えや迷いは消え去り、山に仕える巫女のような、静謐で揺るぎない光が宿っていた。

泥に汚れた白装束と、破れた足袋。そして、濡れて頬に張り付いた黒髪。その損なわれた姿のすべてが、いまや彼女の神聖さを際立たせる装飾となっていた。

正一は息を呑み、掌の中の樫の杖をさらに深く岩の目へと突きたてた。

二人の足元で、御笠山の地脈が、まるで巨大な生き物の脈動のように静かに、しかし力強く響き始めていた。


第四節

注連縄の巻かれた巨杉を通り過ぎると、周囲の気配はさらに濃密な静寂へと沈み込んでいった。

霧は一層深さを増し、もはや自分が登っているのか、それとも山そのものの胎内へ落ちていっているのかさえ分からなくなる。足元を噛む石段の感触だけが、かろうじて現世との繋がりを繋ぎ止めていた。

正一はお雪のすぐ後ろを突き従いながら、自らの掌に食い込む樫の杖の感触に全神経を集中させていた。

使い込まれた木肌の凹凸が、汗と雨とで滑り、皮の剥けた掌の肉に容赦なく食い込む。その激しい痛みは、父の命じる「家の重圧」でもあり、同時に、正一の正気を保たせる唯一の錨でもあった。

父や村の大人たちが望む「英霊としての肉体」「徴兵に耐えうる頑丈な兵士」。そんな借り物の未来が、この一歩ごとに、足元の黒泥の中へ擦り減り、落ちていくのを感じる。

(僕は、兄さんの代わりなんかじゃない……)

正一の胸の奥底で、小さな声が芽生えていた。

この十六詣りは、正一にとって「男になるための儀式」などではなく、己という人間を殺すための生贄の儀式だったはずだ。

だが、いま隣にいるお雪の体温。

先ほど手首を掴んだときに感じた、あの爆発するような生の脈動。

そして、泥にまみれ、破れ、それでも山肌を毅然と踏みしめる彼女の足袋の痛々しくも美しい姿。

それらが、正一の血を熱く滾らせ、「生きろ」と強く命じていた。

「正ちゃん」

お雪が立ち止まり、静かに振り返った。

二人が立っているのは、山頂の御笠宮へと続く最後の急勾配——「胸突八丁」の直前だった。

ここから先は、ただでさえ険しい石段がほぼ垂直に近い角度でそびえ立ち、黒々とした岩肌が爪先を拒むように突き出している。

お雪の白装束は、すでに全体が山霧と黒泥を吸い上げて重く垂れ下がり、彼女の華奢な輪郭を残酷なまでに浮き彫りにしていた。破れた足袋の隙間からは、白磁のような爪先が泥に塗れて覗いている。

しかし、その瞳には何の迷いもなかった。

天満宮の社頭で見せたような怯えや、村人たちの冷たい視線に対する警戒はすべて消え去り、そこには御笠山の闇をそのままたたえたような、深遠な静けさだけがたたえられていた。

「この先を登ったら……もう、引き返せないよ」

お雪の声は、激しい風の音を縫って、正一の耳元に直接届いた。

「山を下りたら、正ちゃんは『大人の男』になって、いつか遠い戦地へ行っちゃうのかもしれない。私は……村外れの祈祷所で、ずっと『穢れた巫女』として生きていくのかもしれない。……でもね」

お雪は小さく息を吸い、泥のついた華奢な手を伸ばすと、正一が固く握りしめている樫の杖の上から、自らの手を重ねた。

冷たいお雪の指先と、正一の熱い掌。

そして、二人を繋ぐ黒ずんだ樫の木の質感。

「……この山の中にいる間だけは、私たちは誰のものでもない。正ちゃんは正ちゃんだけのものだし、私は私だけのものだよ」

お雪の指が、正一の指にそっと絡みつく。

その熱さが、樫の杖を通して正一の骨の髄まで伝わってきた。

正一は喉の奥を鳴らし、溢れ出そうになる感情を固く呑み込んだ。

父の言葉も、兄の影も、下界で待ち受ける戦争の恐怖も、すべてがこの山の霧の中に溶けて消えていく。

残されたのは、ただ目の前に立つお雪という存在と、二人が今ここで「生きている」という、揺るぎない手応えだけだった。

「……ああ」

正一は低く、掠れた声で答えた。

「行こう、お雪。山頂まで……僕たちの足で」

正一は重ねられたお雪の手を解くことなく、むしろその指を固く握り返しながら、もう片方の手で樫の杖を強く岩肌へ突き立てた。

「ガツン!」と重い音が響き、山の地脈が二人の足元で大きく打ち震えた。

下界に残してきた天満宮の公の平穏は、もはや遥か雲の下、遠い過去の幻影に過ぎない。

二人は互いの吐息と体温を唯一の道標として、大人という名の「死」か、それとも山に呑まれるという名の「永遠」か――その二つが渦巻く御笠宮の深淵へ向かって、最後の荒い一歩を踏み出した。


第三章 陰惨な白


第一節

五合目を過ぎたあたりから、一行を先導する老人の声は、低く垂れ込めた濃霧の壁に遮られ、ほとんど正一の耳には届かなくなっていた。

老人がかすれた声で誇らしげに語る「天満宮の由緒」や「皇国の尊い歴史」といった乾いた言葉の数々は、この御笠山が抱き込む生々しい水気に触れた瞬間に濡れそぼり、何の意味も持たない紙切れのように霧散していった。

周囲を進む他の十六歳の少年少女たちも、すでに口を利く余裕を失っている。聞こえてくるのは、湿った藁草履が粘土質の泥をズルリと噛む音、喉の奥から絞り出される荒い吐息、そして正一の右手が握りしめる樫の杖が、行く手を阻む濡れた岩肌を叩く不規則で重い打音だけだった。

正一は、数歩前を行くお雪の、寸分狂わぬ規則的な歩幅だけを凝視していた。

彼女の歩みは決して急がない。しかし、急勾配に足元をとられようとも、一度として揺らぐことがなかった。山肌から染み出す泥にまみれ、鋭利な岩の角で引き裂かれた白装束の裾が、足を前に出すたび「ペタリ、ペタリ」と重たげな音を立てて太腿の裏に張り付く。霧に濡れて半ば透けた布地の向こうに、十六歳の、まだ成熟しきっていない少女の、しかし妙に硬質で引き締まった肉の輪郭が浮き沈みしていた。

正一は、その歩幅に吸い寄せられるように、自らの足を機械的に動かした。

お雪が右足を出せば、正一も右足を出す。彼女の破れた白足袋が踏みしめ、黒く窪ませた泥の跡へ、正確に自分の草履の底を重ね合わせていく。

それは、言葉を交わすことよりも遥かに執拗で、密やかな追随だった。

もしこの重苦しい沈黙を破って一言でも発してしまえば、何かが完全に決壊してしまうことを、二人は本能的に知っていた。

語るべき言葉など、戦時中というこの歪んだ時代において、正一たちには一語として残されてはいないのだ。

「再来年、十八になれば、俺は徴兵される」

その逃れようのない事実を今さら口にしたところで、目の前の濃い山の霧が晴れるわけではない。今朝、天満宮の社務所の裏で出征兵士を見送る大人たちが上げた万歳三唱の乾いた響きと、国防婦人会の女たちが恭しく振る舞っていたお茶の、舌に残る嫌な苦み。それらが今もべったりと、正一の口腔の裏側に張り付いて離れなかった。

戦地へ赴き、二度と還ってこない兄・清次の代わりに、今度は自分が、あの乾いて白々しい光の世界の中へ引きずり出される。その恐怖は、胸を刺す鋭い痛みというより、骨の奥底をじわじわと侵していく湿気のように、正一の四肢をじんわりと痺れさせていた。

「お国のため」という大義名分。その眩しすぎる光の傘の下で、正一のような農家の次男坊の命など、御笠山の斜面に転がる無数の礫の一つに過ぎない。

だが、その光から最も遠い場所に、いまお雪はいた。

お雪の背中を見つめながら、正一は自らの中に渦巻く、醜悪なほどの渇望をはっきりと自覚していた。

それは、彼女の身体を抱きたいというような、安易で生ぬるい情欲ではない。もっと暗く、粘り気のある、絶望的な逃避への執着だった。

村の者たちは、お雪の家系を「天神様の血筋」と呼びながら、決してそれを誇りとは口にしなかった。曾祖母の代、落雷が村の蔵を三棟焼いた年から、その血は畏れの対象になった。天満宮の清浄な境内からも、お雪は暗黙のうちに排除されている。

正一には、それが疎ましいものだとは思えなかった。彼女の纏う「穢れ」という名の分厚い外套に、自分もろとも包み込まれてしまいたかった。

彼女と共に、この御笠山の底なしの泥の中に沈み込み、兵隊にも、家の身代わりにもならず、ただの肉として腐っていけたなら、どれほど楽だろうか。

お雪がふと、足を止めた。

正一も、それと同時にピタリと歩みを止める。二人の距離は、ちょうど正一の持つ樫の杖一本分。

お雪は振り返らなかった。ただ、わずかに首を傾げ、うなじを見せた。

山霧から滴り落ちた一筋の水滴が、彼女の細い首筋を伝い、テクリの襟元へと吸い込まれていく。その一筋の濡れた線が、正一の眼の裏に焼き付いて離れない。

お雪の呼吸が、微かに早くなる。それは坂道の険しさのせいだけではない。正一の視線が、自分の背中に、その皮膚に、じっと突き刺さっていることを、彼女もまた言葉なしに感じ取っているのだ。

お雪の肩が、小さく上下する。

正一は、自分の肺に溜まった熱い息を、静かに、しかし深く吐き出した。彼の白い吐息が、お雪のうなじのあたりで霧と混ざり合い、消えていく。

その瞬間、二人の間で、目に見えない濃厚な空気の交感が行われた。

(行こう、正ちゃん)

お雪がそう言ったような気がした。いや、彼女の背中が、その身体に張り付いた白装束が、そう雄弁に語っていた。

彼女は再び、歩き出す。今度は、先ほどよりもわずかに歩幅が狭くなっていた。正一を、より近くへ引き寄せるかのように。

正一の掌の中で、樫の杖がじっとりとした汗で滑った。

握り直すたび、兄の、そして父の、歴代の男たちの「諦念」が手のひらを刺す。だが今の正一の胸を占めているのは、国家への忠義でも、家への義務でもない。

ただ、目の前の、泥に汚れていく白を、この手でどこまで汚し尽くせるかという、狂気に似た、静かな愉悦だけだった。

山はますますその陰影を深くし、二人の足元からは、現世の色彩が完全に剥ぎ取られていく。残されているのは、黒い土と、濡れた岩と、不気味に蠢く白装束の、陰惨なまでの美しさだけだった。


第二節

六合目を過ぎたあたりから、斜面を覆う樹木は背の低いアセビやイヌツゲの群落へと変わり、風の通り道となった岩肌をむき出しにしていた。

下界から吹き上げてくる風は、冷たい山霧を激しく巻き上げ、二人の視界を容赦なく奪っていく。数歩前を行くお雪の白装束が、強風にあおられてバタバタと羽ばたくような音を立てた。その乾いた布擦れの音は、静まり返った山中で、まるで手負いの鳥が暴れているかのように歪んで響く。

「……あ」

お雪の足が、突如として不自然に止まった。

濡れた落葉の溜まりに足袋の底をすくわれ、彼女の華奢な体が大きくよろめく。

正一は咄嗟に身を乗り出した。右手の樫の杖を石の隙間に叩き込むと同時に、左腕をお雪の細い腰へと回す。

抱き止めた瞬間、腕の中に飛び込んできたのは、驚くほど軽やかで、それでいてずっしりと重い肉の質量だった。

霧を吸い込んだ白装束は、冷水に浸した雑巾のようにズシリと重く、正一のテクリの胸元へ冷気を伝えてくる。しかしその何重にも重なった濡れた布地の奥深くから、お雪の皮膚の猛烈な熱量が、肋骨を焼き焦がすように伝わってきた。

お雪は正一の胸に顔をうずめたまま、荒い息を吐いた。

濡れた黒髪が首筋に触れ、濃密な椿油の香りと、山肌の泥の苦い匂いが鼻腔を刺す。

「……正ちゃん」

お雪が顔を上げる。

至近距離で見つめ合う二人の瞳の中に、お互いの歪んだ輪郭がはっきりと映り込んでいる。

お雪の白装束の襟元は、先ほどの衝撃で大きくはだけ、白磁のような首筋から鎖骨にかけての肌が剥き出しになっていた。山霧の水滴が真珠のような粒となっていくつも付着し、彼女が息を吸うたびに、滑らかな曲線をなぞって下へ下へと滑り落ちていく。

正一の視線は、その濡れた鎖骨の窪みに釘付けになった。

そこにあるのは、天神の御神徳や村の秩序といった綺麗な嘘ではない。いま、目の前で過酷な山肌に削られ、泥にまみれながらも必死に脈打っている、一人の十六歳の少女の生々しい肉体そのものだった。

「離して……いいよ、正ちゃん」

お雪がかすれた声で呟く。だが、彼女の細い指先は、正一のテクリの袖口を解くどころか、爪が食い込むほど強く握りしめている。言葉と裏腹なその指の力強さに、正一の胸の奥で、暗い熱が弾けた。

「離さない」

正一の声は、自分でも驚くほど低く、地鳴りのように響いた。

「下りるまで……絶対に離すもんか」

腕に力を込め、お雪の体を引き起こす。

その拍子に、お雪の裾が大きく捲れ上がり、黒泥で塗れた足袋と、岩肌で擦り剥いた赤々しい傷口が露わになる。

傷口から滲み出る一筋の朱い血が、黒い泥と交ざり合い、破れた白足袋の上へと広がっていく。

(綺麗だ……)

正一の頭の奥で、恐ろしい言葉が浮かび上がった。

国のために死ぬことを強いられ、兄の代わりに家を背負わされる現世の理不尽。そのすべてに対する、静かな、しかし確かな復讐のように、正一はこの御笠山の闇の中で、お雪の損なわれていく白さを、その傷口を、愛おしく見つめていた。

お雪もまた、自らの足の痛みに顔を歪めることなく、正一の視線を受け止めていた。

村人たちの忌避する目でも、神職たちの払いのける目でもない。傷つき、汚れていく己のすべてを、逃げずに見つめてくれる少年の熱い眼差し。

お雪は、破れた足袋の爪先に力を込め、ゆっくりと自らの足で立ち上がった。

「行こう、正ちゃん。もっと上へ……誰もいないところへ」

お雪は正一の手からそっと離れ、再び先頭に立つ。

その背中は、霧の深淵の中で、先ほどよりも一層小さく見えた。しかし、決して折れることのない芯を秘めて、静かに足を踏み出していくのだった。


第三節

お雪の背中が、再び濃霧の奥へと沈んでいく。

彼女の足元から立ち昇る泥の匂いは、標高が増すにつれて静けさを深め、山の冷気と混ざり合って硬質なものへと変わっていた。先ほど正一の腕の中で弾けた熱い体温の余韻が、テクリの胸元からじわじわと冷やされていく。

正一は右手の樫の杖を強く突き立て、お雪の後を追った。

五合目から七合目へと向かうこの道は、両脇から巨大なシダの群落が覆いかぶさり、道幅を完全に削り取っていた。露出した岩の背骨だけが、うねるように上へと伸びている。

「正ちゃん、足元……気をつけて」

前を行くお雪の声が、霧を透かして届く。

その声には、先ほどまでの激しい息乱れは失われ、どこか底知れぬ静けさが宿っていた。

正一は言われた通りに視線を落とし、息を呑んだ。

お雪の踏みしめる岩肌の上には、彼女の破れた白足袋の隙間から滲み出た、一筋の薄赤い血の跡が、点々と残されていたのだ。

黒く濡れた岩肌に落ちる、小さな朱の点。

山水で薄まり、泥と混ざり合いながらも、それは紛れもなく、お雪の体の中から滴り落ちた生の証だった。

正一は、その血の跡を踏みつけることができなかった。

草履の底をわずかにずらし、彼女の落とした朱の斑点を避けるようにして足を置く。

いま正一の胸を刺している唯一の恐怖は、目の前を歩くお雪が、このまま山の霧に溶けて消失してしまうこと、そして、自分が彼女の血と泥の跡に置き去りにされることだけだった。

徴兵検査も、戦地での死も、父の冷酷な期待も、すでに遥か遠くの幻影のように霞んでいる。

お雪の白装束は、もう白とは呼べないほどに山肌の墨色を吸い上げていた。

濡れて身体に張り付いた布地は、彼女の一挙手一投足を隠すことなくさらけ出し、踏み出すたびに太腿の引き締まった肉の躍動が、陰影となってはっきりと浮かび上がる。

それは、下界の天満宮が求める清浄とは対極にある、あまりにも泥臭く、不吉で、それゆえに抗いがたい美しさだった。

「正ちゃん」

お雪がふいに足を止め、立ち止まった。

二人はいつの間にか、岩場の一角にある小さな祠の前に到達していた。

雨風に晒されて朽ちかけた木造の祠。周りには、誰が供えたとも知れぬ古い幣束が、湿気で固まり、腐りかけた紙屑となって散らばっている。

お雪はその祠の前に静かに膝をついた。

泥に塗れ、血の滲む膝を、容赦なく濡れた岩肌に擦りつける。

「ここはね、おばあちゃんが昔……私に話してくれた場所」

お雪は祠に向かって手を合わせることなく、ただその朽ちかけた木枠に、華奢な指先をそっと触れた。

「八歳の夏、村の子どもの高熱が下がらなかった夜……おばあちゃんは一人でここへ登ってきたの。天満宮のお祓いも利かなくて、みんなが諦めかけた時に」

お雪の静かな声が、霧の中に染み込んでいく。

「おばあちゃんはね、ここで自分の指を少しだけ傷つけて、その血をこの祠の岩に塗ったんだって。神様に祈るんじゃないの。『山のお命を、どうか分けてください』って、自分の身体の一部を差し出して、山と取引をしたの」

正一は無言で、お雪の横顔を見つめた。

彼女の横顔には、村人たちから疎まれてきた「天神様の異端」としての諦念はなく、むしろ己の血筋に対する深く、誇り高い覚悟のようなものが漂っていた。

「天満宮の人たちは、そういうのを『不潔だ』『穢れだ』って笑うけれど……でもね、あの子の熱は次の朝、すっと下がったの。山は、綺麗な言葉なんかより、生身の血と痛みをちゃんと見てくれる」

お雪が振り返り、正一を見上げた。

彼女の瞳には、湿った山の闇がどこまでも深く映り込んでいた。

「正ちゃんの手も……その杖のせいで、痛むでしょう?」

お雪の視線が、正一の右手——皮の剥けかかった掌で固く握りしめられている樫の杖へと注がれた。

正一は、掌の痛みを忘れていたことに気づいた。

あまりに強く握りしめ続けたため、皮膚は破れ、そこから滲み出た自らの血と汗が、樫の木の凹凸を濡らし、粘り気のある黒光りを与えていたのだ。

父から手渡された冷徹な家の骨は、いまや正一自身の血を吸い、彼の身体の一部として熱を帯びていた。

「……痛くないよ」

正一は低く答えた。

「この痛みがないと……僕がここにいることすら、分からなくなるから」

お雪は小さく微笑んだ。

それは、下界では一度も見せたことのない、哀しくもどこか澄み切った笑みだった。

「ふたりとも……傷だらけだね」

お雪は立ち上がり、壊れかけた祠を背にして、再び急勾配の道へと向き直った。

「でも、これでいいの。山に、私たちの名前を刻むんだから」

お雪の白装束の裾が、霧の風に揺れた。

その汚れ切った裾から落ちる泥の雫が、祠の前の石の上に静かに落ちる。

正一は樫の杖を深く突き立て、その音に応えた。

二人の足元で、御笠山の深い地脈が、更なる深淵へと誘うように、重く静かに蠢いていた。


第四節

祠をあとにした二人の歩みは、もはや現世の残滓を削ぎ落としていく行為そのものだった。

七合目を目前にして、傾斜はさらにその凶暴さを増していた。足元を支える石段は完全に砕け散り、雨と露に洗われた不規則な巨岩が、龍の背骨のように乱立している。一歩足を踏み出すたびに、膝の関節が軋み、太腿の筋肉が引きつった。

正一の視界は、己の荒い吐息が吐き出す白い霧と、山腹を包み込む濃霧とで真っ白に濁っていた。

その濁りの中で、唯一の鮮明な輪郭として存在しているのが、お雪の背中だった。

彼女の白装束は、すでに水気と泥を極限まで含み、鉛のように重く垂れ下がっている。

しかし、彼女の足取りには怯えも躊躇いもなかった。破れて赤く染まった足袋の爪先を、濡れた岩の亀裂へ容赦なくねじ込み、引き裂かれた衣服の裾を泥まみれの膝で押しのけながら、どこまでも高く、深く、闇の奥へと突き進んでいく。

その足跡に点々と残る朱い血の斑点は、山道に咲いた不気味な花のようだった。

正一はお雪の血の跡を追うようにして、右手の樫の杖を叩きつけ続けた。

「ガツン、ガツン」という骨太な打音が、無人の山肌にむなしく響き渡る。

すでに正一の右手は感覚を失いつつあった。

皮の剥けた掌から滲み出た自身の血と汗が、樫の木肌の凹凸に擦り込まれ、父の代から受け継がれてきた「黒い骨」を、いまや正一自身の血でヌメリと濡らしている。

痛みが麻痺していく感覚とともに、正一の頭脳を支配していたのは、恐ろしいほどの静寂と澄み切った狂気だった。

(これでいいんだ……)

下界の天満宮で聞かされたお国のための名誉も家に捧げる命も、すべてこの重く湿った御笠山の泥の中に埋もれて消えた。

自分は英雄になるためにこの山を登っているのではない。兄の代用品として死ぬために生きているのでもない。

いま、己の肉体を痛めつけ、血を流し、泥にまみれながら、このお雪という少女の破滅的な美しさに引きずられていくこと。

手の中にある激しい激痛と、鼻腔を突く椿油と血の匂いだけが、正一にとって唯一偽りのない真実だった。

「正ちゃん、見て……下界が消えたよ」

前を行くお雪が立ち止まり、ふいに振り返った。

正一はお雪の横に並び、彼女が見下ろす崖下へと視線を投げた。

そこには、何もなかった。

さっきまで眼下に広がっていたはずの天満宮の豪壮な甍も、筑紫平野の整然とした田畑も、出征を見送る幟の群れも、すべてが圧倒的な灰色の雲海の中に呑み込まれ、跡形もなく消滅していた。

まるで、二人が歩んできた下界という世界そのものが、最初から存在しなかった幻影であったかのように。

「……本当だ。何もない」

正一の声は、霧の壁に吸い込まれて低く掠れた。

「もう、誰も私たちを追いかけて来られないね」

お雪が静かに言った。

彼女の頬には、飛び散った黒泥と山霧の水滴が交ざり合って幾筋もの黒い線を描いている。濡れて額に張り付いた黒髪の隙間から覗く瞳は、下界の光を拒絶するように、冷たく澄み切っていた。

乱れた衣類から覗く首筋や胸元は、すでに寒さで青白く震えていたが、彼女の体からは、恐ろしいほどの生の情念が立ち昇っていた。

「正ちゃん。私……怖くないよ」

お雪の手が伸びてきて、正一の濡れたテクリの胸元をそっと掴んだ。

泥に汚れた指先から、直に正一の皮膚へと、激しい体温の脈動が伝わってくる。

「この山が……私たちの本当の家なんだと思う。綺麗な天神様じゃなくて、この泥と岩の山が、私たちを覚えていてくれる」

お雪の唇が、正一の顎のすぐ下で動いた。

彼女の吐き出す息は熱く、湿り気を帯びて、正一の首筋の汗を吹き飛ばした。

正一はお雪の身体を引き寄せたい衝動に駆られた。

だが、その代わりに、彼は右手の樫の杖を、壊さんばかりの力で岩肌へ突き立てた。

「ガツン!」

二人の足元で、御笠山の地脈が地鳴りのような低い余震を返してきた。

二人を繋ぐのは、言葉でもなく、下界の約束でもない。

ただ、お雪の白装束を染める泥と血、そして正一の掌を刺す樫の杖の痛みという、生々しい傷跡だけだった。

山は、いよいよその深淵——七合目の静寂の領域へと二人を招き入れようとしていた。

下界の色彩を完全に奪われた二人の影は、灰色の濃霧の中へ、一筋の不気味な爪痕を残しながら、さらに高みへと消えていった。


第五節

七合目を目前にした岩の広場へ差し掛かると、それまで二人を激しく痛めつけていた山風が、ふっと嘘のように止んだ。

風が止んだことで、立ち込める山霧は流れるのをやめ、巨大な白い塊となって二人の全周囲を完全に閉じ込めた。下界の音も、木の葉が揺れる擦れ合いも一切聞こえない。ただ、重々しい静寂だけが世界を支配していた。

「……静かだね、正ちゃん」

お雪が足取りを緩め、声のトーンを落として呟いた。

その声は、霧の壁に跳ね返ることなく、二人の間のわずかな空間にしっとりと沈み込んでいく。

お雪は岩の広場の中央に佇み、ゆっくりと己の身体を見下ろした。

かつて祖母から受け継いだ時は、白磁のように美しく乾いていたはずの白装束。それが今や、膝から下は黒泥を重く吸い上げ、上着のあちこちは鋭利な岩肌に裂かれて、痛々しい朱色の血と山水が滲み出していた。

天満宮の社頭であれば「穢れ」として固く禁忌されるべきその惨めな姿。

しかし、現世のあらゆる色彩が霧の中に没したこの空間において、その傷ついた衣の陰惨な白こそが、世界で唯一の圧倒的な存在感を放っていた。

お雪は、ゆっくりと自らの両手を広げた。

泥と傷に塗れた細い指先が、白い濃霧の粒子をそっと愛でるように揺れる。

胸の奥にあったのは、恐怖や悲壮感ではなく、妙に澄み切った解放感だった。

村人たちから避けられ、同年代の女子たちからも離され、どこへ行っても祈祷所の異端として浮き上がっていた自分。天満宮の社殿でどれほど頭を下げようとも、あの綺麗な神徳は自分を包み込んでなどくれなかった。

だが、いま身を置くこの御笠山の暗がりは、己の泥の汚れも、引き裂かれた足袋の血も、すべての不完全さをそのままの形で抱き留めてくれていた。

お雪の視線が、正一へと向けられる。

正一は広場の端に佇み、右手の樫の杖を強く岩肌に突いたまま立ち尽くしていた。

藍染めのテクリは汗と霧で真っ黒に湿り、顎からは絶えず汗の雫が滴り落ちている。樫の杖を握りしめる右手からは、破れた皮膚から滲み出た血が、黒光りする木肌をゆっくりと伝い落ちていた。

正一の瞳は、下界にいた頃のあのおどおどとした怯えを完全に失っていた。

兄の代わりに家を継がされる圧迫感も、来たるべき徴兵への逃避も、いまの彼の瞳には映っていない。彼の目はただひたすらに、お雪の破れた衣服と、そこから覗く生々しい傷口だけを見つめていた。

お雪は一歩、正一に向かって歩み寄った。

泥を含んで重くなった裾が、ずざりと濡れた岩を擦る。

破れた足袋から覗く爪先が、岩の冷たさを直接踏みしめるたび、小さく小さな痛みが走る。しかしお雪はその痛みを愛おしむように、距離を詰めていった。

「正ちゃんの手……見せて」

お雪が囁き、泥のついた華奢な手を伸ばした。

正一は拒むことなく、掌に食い込んでいた樫の杖の力をわずかに緩めた。

お雪の指先が、正一の皮の剥けた手にそっと触れる。

「あ……」

正一の口から、掠れた吐息が漏れた。

お雪の指は冷たかったが、その肌が触れた瞬間に、破れた皮膚の奥へと、痺れるような激しい熱量が流れ込んできた。

正一の掌から流れる赤と、お雪の衣服を染める黒泥と朱。ふたりの流した血が、重なり合った指の隙間で静かに交じり合っていく。

「痛い……?」

お雪が正一の顔を覗き込みながら尋ねた。

湿った髪から漂う椿油の甘苦い香りと、傷口から匂い立つ血の鉄分が交ざり合い、正一の頭脳を深く痺れさせていく。

「痛くない……」

正一はかすれ声で答えた。

「痛いほうが……お雪がここにいるって、わかるから」

正一はお雪の指を、己の血まみれの掌で固く握り返した。

細い指の骨の感触が、直に神経へと伝わってくる。

二人は誰の指示を受けるでもなく、重なり合った手を繋いだまま、霧の密室の中に佇んでいた。

下界で父が叫ぶ「男になれ」という声も、長男・清次の不在がもたらす重圧も、すべてはこの霧の壁に跳ね返されて消え去っていた。ここには、家も、国も、戦争もない。ただ、傷つき、汚れ、血を流しながら、互いの生身の肉体を確かめ合う十六歳の男女が二人いるだけだった。

「行こう、正ちゃん」

お雪が静かに呟き、繋いだ手に少しだけ力を込めた。

「山頂まで……このまま」

「ああ……行こう」

正一は左手でお雪の手を固く繋ぎ止め、右手で血の染み込んだ樫の杖を岩肌へ深く突きたてた。

「ガツン!」と重い打音が静寂の広場に響き渡り、二人は七合目の更なる深淵へと、一歩を踏み出したのだった。


第六節

七合目の岩場を抜けると、道はふたたび這い上がるような急勾配となり、周囲を囲む樹木は、風雪に痛めつけられて身を屈めた低い松の群落へと姿を変えた。

二人を包み込む霧は、もはや濃淡の境目を失い、乳白色の粘土となって四方に立ち込めている。視界は一歩先すら怪しく、自分が岩を踏みしめているのか、それとも空虚な空間へと足を踏み出そうとしているのかさえ判然としない。

だが、正一の左手には、お雪の手の熱量が、握りしめた指の骨の硬さが、どこまでも鮮烈に残り続けていた。

お雪の指先から正一の掌へ、そして正一の破れた皮膚からお雪の爪先へ。交ざり合った二人の血と汗は、山冷えの風に晒されて冷やされながらも、二人の核心にある命の火種を消さずに燃やし続けていた。

「正ちゃん、聞こえる……?」

前を行くお雪が、繋いだ手に少しだけ力を込め、歩調を緩めた。

正一は耳を澄ました。

自分の荒い吐息と、足元で濡れた草履が泥を噛む音のほかに、耳奥を刺すような音がかすかに混じり始めていた。

それは、風が岩の亀裂を吹き抜ける鋭い笛のような音であり、同時に、山頂の御笠宮の社頭に吊るされた古い鉄鈴が、狂おしく揺れて鳴り響く乾いた音のようでもあった。

「チリン……、チリン……」

下界の天満宮で打ち鳴らされていた、あの格調高く威厳に満ちた太鼓の音とは似ても似つかない。その鈴の音は、山そのものが低く呻き、異形の訪れを告げているかのように、不気味で、どこか哀切に満ちていた。

「あれが……山頂の音だね」

お雪が振り返った。

彼女の顔は、飛び散った黒泥と山霧の水滴で激しく汚れていた。

濡れて額に張り付いた黒髪の下で、十六歳のまだ幼さを残した皮膚が、寒さと興奮で青白く透き通っている。幾重にも重なった白装束は、胸元から膝下にかけて完全に水気を吸い上げ、彼女の華奢な肉体の輪郭を、隠すことなく浮き彫りにしていた。

破れた足袋の隙間から覗く爪先は、すでに泥と血で黒く塗れ、爪の形すら判別できない。

天満宮の綺麗な社殿や、下界の村人たちが追い求める美しい乙女の姿はそこにはなかった。

そこにいたのは、御笠山の陰惨な闇と泥を全身に纏い、傷つき、損なわれながらも、圧倒的な美しさを放つ一人の巫女だった。

正一の胸の奥底で、熱い塊が突き上げてきた。

(この子を……誰にも渡したくない)

父の命じる家の存続も、国が求める勇猛な兵士という型も、いまの正一にとっては心底どうでもいいゴミ屑に過ぎなかった。

もし下界へ戻れば、自分は再び徴兵の恐怖に震える弱小な農家の次男坊に戻り、お雪は異端の祈祷師の娘として疎まれ、遠ざけられていく。

だが、この陰惨な白と黒泥に彩られた世界の中だけであれば、自分たちを縛り付ける規則も、理不尽な命令も、何一つ届かない。

正一は右手の樫の杖を、力の限り岩肌へ突き立てた。

「ガツン!」

重い衝撃が腕を伝い、肩の骨まで響く。

使い込まれた樫の凹凸に、正一の血と汗が深く染み込み、木肌は不気味な黒光りを放っていた。父から与えられた逃れられぬ家督の骨であったはずのその杖は、いまや正一がお雪とともにこの不条理な現世へ立ち向かうための、唯一の武器へと姿を変えていた。

「お雪」

正一は繋いだ手を手繰り寄せ、お雪の身体を己の胸元へと引き寄せた。

お雪の濡れた肩が、正一のテクリの胸元に重なる。

彼女の息は荒く、椿油と山肌の泥、そして傷口から漂う血の鉄分が混ざり合った濃密な匂いが、正一の頭脳を痺れさせた。

「山を下りても……僕たちは、ずっとこのままだ」

正一はお雪の耳元で、低く、掠れた声で囁いた。

「村の大人が何を言っても……兵隊になっても……僕の心は、この山の中に置いておく。お雪の血と、僕の血を……ここに置いていく」

お雪はおどろいたように目を細め、やがて、感極まったように小さな唇を震わせた。

「……うん」

お雪は正一のテクリの襟元に顔をうずめ、深く息を吐いた。

「私も……そうする。私の白は、もう全部正ちゃんにあげたから。下界の誰も、この白を奪うことはできないよ」

ふたりの吐息が白く交ざり合い、濃霧の中へ溶けていく。

不気味に響いていた鉄鈴の音が、すぐ頭上で大きく鳴り響いた。

霧の幕がわずかに破れ、その向こう側に、雨風に晒されて黒ずんだ御笠宮の古い鳥居と、古木に抱かれた本殿の社骨が、禍々しい巨獣の影のように浮かび上がってきた。

山頂——御笠宮。

現世の公の秩序が途絶え、生の情念と死の気配が渦巻く、目的地の領域へ二人はついに到達したのだった。

正一はお雪の手を解くことなく、血の滲む樫の杖を強く握り直した。

二人の足元で、御笠山の地脈が熱く、重く打ち震え、静かに下界との境界を完全に断ち切った。


第四章 樫の交感


第一節

山頂の領域に足を踏み入れて以降、先に行く同い年たちの影も、完全に灰色の幕の向こうへと掻き消えていた。

前後を歩いていたはずの村の連中の足音すら、いまや遠い地鳴りのようにしか聞こえない。世界が急速に狭まり、ただ正一とお雪、そして一本の樫の杖だけが、御笠山の急斜面に切り取られたように残されていた。

急峻な岩場をよじ登るにつれ、二人の歩幅はさらに狭まり、互いの息遣いが遮るものなく重なり合うようになる。

正一の視線は、お雪の足元から離れられなかった。

岩に擦れて大きく裂けた白足袋の隙間から、泥にまみれた生の皮膚が覗いている。冷たい山水に洗われ、赤紫にかじかんだその足先が、濡れた黒岩の突起を貪欲につかむようにして進んでいく。その足並みには、天満宮の参道を歩いていた地主の娘たちのような、しなやかな気品はひとかけらもない。しかし、地を這う獣のようなその足取りに、正一はぞっとするほどの生々しさと、言葉にできない官能を覚えていた。

お雪がふいに、大きく息を弾ませて岩肌に手をついた。

その拍子に、彼女の頭がわずかに後ろへ傾く。湿った山霧を吸って重く垂れ下がったお雪の髪が、正一の顔をかすめた。

むせ返るような椿油の匂いが、正一の鼻腔を直撃する。それは麓で嗅いだ時よりも、さらに濃く、饐えた血の匂いに近い甘やかさを帯びていた。

お雪の視線が、ゆっくりと正一の顔へと移る。

初めて、二人の眼が真っ向から交わった。

その瞳は、何も語っていなかった。国を憂える風でもなく、死を恐れる風でもない。ただ、冷たい硝子玉のように正一の歪んだ顔を映している。

しかし正一には、その沈黙の奥から「正ちゃん、あなたもこっちへ来て」という、底なしの誘いが聞こえる気がしてならなかった。

この山を下りれば、正一を待っているのは「大日本帝国兵士」という、個人の存在を許されない巨大な型嵌めである。秋にはさらに多くの若者が、天満宮の梅の木の間をすり抜けて、西の港から泥まみれの戦地へ送り出されるだろう。正一の心にあるのは、お国のために命を捨てる高潔な覚悟などではなく、ただ自分の五体が、見知らぬ異国の土の上で、無残に引き裂かれ、乾いていくことへの、呪いに似た恐怖だけだった。

だが、目の前のお雪の肌は、信じられないほど湿っており、熱かった。

言葉にすれば、それは「非国民」の謗りを受ける不敬な思想でしかない。だからこそ、二人は絶対に口を開かない。ただ、荒い息を吐き出すたび、互いの胸の鼓動が、狭い岩の隙間で木霊し合っていた。

お雪が、ゆっくりと手を伸ばした。

彼女が掴んだのは、正一の腕ではなく、彼が握りしめている樫の杖の、ちょうど真ん中のあたりだった。

手の脂で黒光りする古い木肌の上で、お雪の泥に汚れた白い指が、きつく、捩じ込むようにして締まる。

正一は息を呑んだ。

杖の底から伝わる地脈の冷たさと、お雪の掌から伝わる、燃えるような熱が、一本の樫の木を介して正一の右手に流れ込んでくる。

それは、正一の家系が代々この山に捧げてきた「労働と服従の血」を、お雪の持つ「山の狂気」がじわじわと侵食していくような感覚だった。

お雪は杖を握ったまま、ぐっと自分のほうへ引き寄せた。

正一の身体が、抗えずに一歩、彼女のほうへと進む。二人のテクリと白装束が擦れ合い、湿った布地同士が、ねっとりとした音を立てて密着した。

お雪の眼が、正一の掌を見つめている。

樫の杖を握りしめすぎて、赤く充血し、皮が剥けかかった正一の手。彼女はその手の甲に、己の濡れた額を静かに押し当てた。

冷たい霧の滴と、彼女の額の熱が、正一の手の傷口に染み入る。

(ここで、二人で消えてしまおうか)

言葉にならないその渇望が、沈黙の隙間を完全に埋め尽くしていた。

麓の天満宮に集まった時、正一は彼女を「触れてはならない穢れ」だと思っていた。しかし今、御笠山の深い陰影の中で、その穢れこそが、自分を現世の地獄から救い出してくれる唯一の聖域であることに気づいていた。

お雪がゆっくりと額を離し、再び前を向く。彼女の手は、まだ杖を握ったままだ。

正一は、彼女の手のすぐ下を握り直した。

二人は、一本の黒い杖を文字通り「分かち合い」ながら、最後の一歩を踏み出していく。

頭上からは、すでに現世の音は一切消え失せていた。

ただ、御笠山の頂、神仏の住まう御笠宮から吹き下ろす、身を切るような冷気だけが、二人の汗に濡れた身体を容赦なく叩き始めている。

正一は、もう徴兵の恐怖も、家の重圧も感じていなかった。ただ、手のひらに残るお雪の熱と、これから上宮で迎えるであろう決定的な破滅の予感に、心地よい眩暈を覚えながら、霧の深淵へと足をすすめた。


第二節

一本の樫の杖を互いに分かち合い、その黒ずんだ木肌を介して血と体温を交わし合う二人の歩みは、もはや登山という行為の領域を遥かに踏み越えていた。

傾斜はいよいよ壁のように垂直に近い角度で立ち塞がった。

雨風に洗い晒された巨岩の裂け目には、水滴を溜め込んだ暗緑色の苔がへばりつき、不気味なぬめりを帯びて光っている。そこに足を踏み外せば、二度と下界の土を踏むことはできないだろう。

しかし、正一にもお雪にも、足元の死の深淵を恐れる気配はかけらもなかった。

「正ちゃん……手、離さないでね」

前を行くお雪が、握りしめた樫の杖を引き寄せるようにして、小さく呟いた。

その声は、山肌を叩く激しい風の音にかき消されそうなほど弱々しかったが、一本の木肌を介して直に正一の鼓膜と神経へ突き刺さってきた。

「離さない……絶対に」

正一はお雪の指のすぐ下に添えられた己の右手に、さらに強く力を込めた。

皮の剥けた掌から滲み出る赤々と充血した血が、お雪の濡れた指先へと吸い上げられ、黒ずんだ樫の凹凸をヌメリと濡らしていく。

ふたりの血と汗、そして御笠山が吐き出す濃密な山水が交ざり合い、樫の杖はもはや無機質な木切れではなく、ふたりの生身を繋ぎ止める熱い芯のようになっていた。

お雪が右足を大きく蹴り出し、濡れた岩の突起へと爪先を食い込ませる。

その拍子に、彼女の引き裂かれた白装束の裾が大きく捲れ上がり、黒泥と血に塗れたふくらはぎの肉が、露わになって正一の視界を打ち叩いた。

岩肌の角で削られ、赤々とした生傷を刻まれた彼女の足。

その傷口から滲み出る朱色の血は、冷たい山清水に洗い流されながらも、どこまでも美しく、生々しく脈打っていた。

正一は息を呑み、己の左足を彼女の踏みしめた同じ岩の凹みへと押し付けた。

お雪が落としていった一滴の血の温もりが、草履の薄い底を通して、正一の足の裏へと直に伝わってくるような錯覚を覚える。

(綺麗だ……)

正一の胸の奥底で、暗い狂気の熱がふたたび渦を巻いた。

下界の天満宮の参道で、大人たちが声高に叫んでいた「英霊としての名誉」や「美しい大和撫子」といった綺麗な言葉。それらがどれほど空虚で、白々しい嘘に満ちていたことか。

いま目の前で、過酷な山の爪に破られ、傷つき、泥にまみれて血を流しているお雪のこの惨めな姿こそが、この歪んだ世界における、唯一誤りのない現世の美だった。

お雪がふいに立ち止まり、肩を激しく上下させながら後ろを振り向いた。

二人の距離は、いまや息が触れ合うほどに近かった。

お雪の顔は、飛び散った黒泥と山霧の水滴で激しく汚れ、濡れて額に張り付いた黒髪の間から、湿った瞳が怪しく光っていた。

彼女の濡れた襟元からは、濃密な椿油の匂いと、山肌の泥の苦み、そして彼女自身の体温が放つ血の薫香がむせ返るほど立ち昇っている。

「正ちゃん……胸が、苦しい」

お雪が小さく喘ぎながら、空いた方の手を伸ばし、正一のテクリの胸元を固く掴んだ。

泥に汚れた細い指先が、正一の胸板を強く圧迫する。

「苦しいのは……坂道のせいじゃないよ。正ちゃんの熱が、この杖からどんどん入ってくるから……」

お雪の吐息が、正一の顎のラインを激しく撫で回した。

その温かく湿った気息に触れた瞬間、正一の頭の中の何かが、音を立てて弾けた。

正一は右手の樫の杖を抱え込むようにしながら、左腕を回し、お雪の華奢な腰を強く引き寄せた。

「あっ……」

お雪の短い悲鳴が、霧の奥へ溶けていく。

二人の濡れた衣服が、ねっとりとした音を立てて完全に密着した。

正一のテクリがお雪の白装束を押し潰し、彼女の細い肋骨の起伏と、激しく跳ね上がる心臓の鼓動が、直接正一の胸へと伝わってくる。

背中に押し当たる御笠山の岩壁は、氷のように冷たい。

しかし、腕の中に抱きすくめたお雪の身体は、熱く、燃え盛っていた。

背中の凍てつく冷気と、胸元の暴力的とも言える熱量。

この極限の温度差が、正一の意識を心地よい白濁の渦へと引きずり込んでいく。

「お雪……下りたくないな」

正一はお雪の耳元で、自分でも驚くほど低く、掠れた声を漏らした。

「このまま……二人で、この山の泥の中へ溶けてしまいたい。兵隊にもならず、家の代わりにもならず……ただの泥になって、お雪と一緒にいたい」

お雪の身体が、一瞬だけ強く震えた。

彼女は正一の胸に顔を押し当て、濡れた黒髪を正一の首筋に擦りつけながら、小さく首を縦に振った。

「うん……うん、正ちゃん。私も……私もそうしたい」

お雪の指先が、正一の背中のテクリの布地を強く握りしめる。

「天神様なんて、要らない。村の大人たちの目も、戦争も、全部……どうでもいい。私を……この山の中で、正ちゃんの泥で汚して……」

お雪の言葉は、救いを求める祈りなどではなく、二人の魂を現世から切り離すための、決定的な呪文だった。

二人は抱き合ったまま、一本の樫の杖を固く握り締め、荒い息を重ね合わせた。

頭上からは、現世の公の音など一切途絶えていた。

ただ、山頂の御笠宮から吹き下ろす鋭い冷気と、古木を揺らす風の呻きだけが、ふたりの傷ついた身体を容赦なく叩き続けている。

二人は互いの体温を血の奥底まで染み込ませるようにして、ゆっくりと、さらなる高み——最後の難所の闇へと、一歩を踏み出すのだった。


第三節

山頂直下の岩場に差し掛かると、山を覆う気配は「深遠」から「凶暴」へとその質を変えた。

這うようにして群生していた低木すら姿を消し、そこにあったのは、太古の噴火と風雨が削り出した黒々とした巨岩の巨躯ばかりだった。周囲を包む山霧は、いまや視界を奪うだけでなく、冷たい針となって二人の濡れた肌を絶え間なく突き刺してくる。

下界から吹き上げてくる風は、岩の亀裂を通り抜けるたびに「ヒュウ、ヒュウ」と、鋭い鳴り声を上げた。

二人の前進を支えていた一本の樫の杖は、すでにふたりの血と汗、そして濡れた黒泥で完全にコーティングされ、氷のように冷たく、かつヌメリとした妙な温もりを宿していた。

「正ちゃん……足が……」

前を行くお雪の膝が、激しく震えていた。

この岩壁は、登る者に容赦のない痛みを要求する。

お雪の破れた白足袋はすでに原型を留めておらず、剥き出しになった爪先と踵は、鋭利な岩肌に削られて滑らかな曲線を失っていた。足袋の破れ目から覗く皮膚は、山冷えで紫にうっ血し、そこから滲み出る血が、黒い岩肌に赤黒い爪痕を残している。

しかし、お雪の足取りは止まらない。

彼女は痛みに悲鳴を上げるどころか、破れた爪先を岩の隙間へ強引にじりじりとねじ込み、肉が裂ける感触すらも糧にするかのように、身体を上へと引き上げていった。

正一は、お雪の手のすぐ下で樫の杖を強く握り直しながら、彼女のその痛々しくも凄絶な後ろ姿を見つめていた。

下界の天満宮で、大工の父が御神徳やお国を讃え、村の者たちが「天神様の異端」と疎んだ少女。彼女は傷つき、汚れ、血を流すことでしか、己の存在を世界に証明する術を持たなかった。

そして正一自身もまた、同じだった。

出征した兄・清次の「代用品」として、家の重圧と徴兵の恐怖に押し潰されそうになりながら生きる日々。

いま、この絶壁で、お雪とともに痛みを分かち合い、血を流し、極限の寒さに震えることだけが、正一に「自分は生きている」という生々しい実感を与えていた。

お雪がふいに、大きくバランスを崩した。

「あっ……!」

右足の踏み込みがぬめった苔にすべり、彼女の細い体が宙へ浮く。

正一は咄嗟に左腕を伸ばし、お雪の濡れた腰を強引に抱き寄せた。

「お雪!」

二人の身体が、狭い岩の棚の上へ倒れ込むようにして重なり合った。

「ドスン」という重い音とともに、正一の背中に冷たい岩の硬さが突き刺さる。

その衝撃と同時に、正一の胸の上へ、お雪の濡れた全身がしかと落ちてきた。

水気を吸い込んで鉛のように重くなったお雪の白装束。そのずっしりとした質量の奥から、彼女の胸の動悸が、正一の肋骨を突き破らんばかりの激しさで叩いてくる。

「ハァ……ハァ……」

お雪は正一の胸元に顔を埋めたまま、激しい息を吐き出した。

彼女の乱れた黒髪が正一の首筋を覆い尽くし、冷たい山水と、椿油の甘苦い匂い、そして生傷から漂う濃密な血の鉄分が、正一の鼻腔を激しく麻痺させていく。

お雪がゆっくりと顔を上げた。

二人の距離は、唇が触れ合うほどに近かった。

お雪の額には、跳ね返った泥と山霧の水滴が幾重にも交ざり合い、黒い筋となって彼女の白磁のような肌を汚していた。そして、その汚れた顔の真ん中で、彼女の大きな瞳だけが、下界のあらゆる光を拒絶するように、怪しく、美しく澄み渡っていた。

「正ちゃん……あたたかいね」

お雪がかすれ声で呟いた。

彼女の濡れた唇から吐き出される白く熱い息が、正一の冷え切った頬を激しく撫で回す。

「こんなに寒いのに……正ちゃんの胸の中だけ、すごく熱い」

お雪の手が伸びてきて、正一の首筋へとしがみついた。

泥に汚れた細い指先が、正一のうなじに食い込み、彼女の身体がさらに深く、正一の体へと密着してくる。

正一はテクリの袖を濡らしながら、お雪の華奢な背中を固く抱きしめ返した。

二人の間にある一本の樫の杖が、テクリと白装束の間に挟まれ、ふたりの胸板を強く押し潰す。

木肌に染み込んだふたりの血と汗が、体温で温められ、じわじわと二人の衣類へと逆流してくるようだった。

(ここで……終わってもいい)

正一の頭の中で、澄み切った思考が弾けた。

このまま冷たい風に晒され、お雪と抱き合ったまま泥と氷の中に凍りついてしまえば、徴兵も、天満宮での息詰まる日常も、何もかもが無になる。

それは破滅でありながら、同時に二人にとっての唯一の完全な救済だった。

お雪もまた、正一の瞳の奥に宿るその暗い情念をはっきりと感じ取っていた。

お雪は小さく微笑むと、己の汚れた額を、正一の額へと静かに押し当てた。

「正ちゃん……私を置いていかないでね」

「行かない……絶対に、お雪を置いてどこへも行かない」

二人の言葉は、冷たい山霧の中に静かに溶けていった。

下界の天満宮で鳴り響いていた出征送別の太鼓も、大人たちの綺麗な建前も、この絶壁には一切届かない。

ここにあるのは、傷つき、損なわれ、互いの血と体温だけを頼りに生きる、十六歳の二人の生々しい肉体そのものだった。

お雪はゆっくりと身体を起こし、正一の腕の中から立ち上がった。

彼女の破れた白装束の裾が風に揺れ、その下から覗く傷だらけの足が、再び岩肌を力強く踏みしめる。

正一もまた、血の染み込んだ樫の杖を握り直し、彼女の隣へと立ち上がった。

頭上には、いよいよ山頂の御笠宮を包み込む、禍々しいまでに巨大な社叢の影が迫っていた。

二人は一度も後ろを振り返ることなく、最後の一歩を踏み出すために、霧の深淵へと足を進めた。


第四節

岩棚をあとにした二人の視界から、ついに一切の不純物が削ぎ落とされた。

岩肌を削る風の音は、もはや笛の音を超え、低く腹に響く地鳴りとなって足元を激しく揺さぶっている。山頂を間近に控えたこの領域は、天満宮の神職たちが「上宮の神域」と呼んで崇める場所でありながら、その実体は、人を寄せ付けぬ冷酷な岩と泥の巨塊に過ぎなかった。

霧はますます濃くなり、粒子は雨となって二人の身体を叩きつける。

お雪の白装束は、すでに上から下まで黒泥と山水、そして彼女自身の血を吸い尽くし、布としての軽やかさを完全に失っていた。濡れて皮膚に貼り付いた衣類は、彼女の削ぎ落とされたように細い肩と、固く引き締まった肋骨の起伏を、恐ろしいほどの鮮明さで浮き彫りにしている。

「正ちゃん……手、滑りそうだよ」

お雪が振り返ることなく言った。

ふたりが抱え込む一本の樫の杖。その黒光りする木肌には、正一の掌から流れる血とお雪の擦り剥いた皮脂が交ざり合い、ぬめり気を帯びた薄い膜を形成していた。力を込めれば込めるほど、その赤黒い脂は木肌の上で滑り、二人の指先を互いの領域へと滑り込ませていく。

正一はお雪の指のすぐ上に、己の血まみれの掌を重ねるようにして叩きつけた。

「滑らせない……! 僕が、固く握っているから!」

正一の声は、吹き荒れる風に千切られながらも、お雪の背中に突き刺さった。

正一の右手はすでに感覚を失っていた。

皮が大きく剥け、露出した生肉が冷気と摩擦に晒されるたびに、脳髄を焼き切るような激痛が走る。だが、その激痛こそが、いま正一が現世で繋ぎ止められている唯一の証だった。

下界の天満宮で、父が大工道具を握りしめて正一に叩き込んだ「家の継承」という重圧。秋になれば西の港から出征し、見知らぬ異国の泥の中で野晒しにされるという徴兵の恐怖。それらすべてが、この手の平を貫く激痛の前に虚妄として弾け飛んでいた。

正一の視線は、お雪の手の甲へ注がれた。

泥と傷で汚れ切った彼女の細い手。その爪先は黒く染まり、皮膚のあちこちに鋭い岩で刻まれた赤々しい切り傷が走っている。

天満宮の綺麗な拝殿で、巫女たちが舞う時に見せる白く繊細な指先とは、似ても似つかない。しかし、この傷つき、泥を噛み、己の生き生きとした血を流しているお雪の手こそが、正一にとっては狂おしいほどに美しく、愛おしかった。

お雪の足が、最後の大岩の角にかかった。

その瞬間、彼女の足袋の底が完全に裂け、剥き出しになった踵が滑らかな岩肌の上で大きく滑った。

「っ……!」

お雪の短い悲鳴とともに、二人の身体を支えていた樫の杖が、大きく斜めへと傾く。

正一は反射的に脚を踏み張った。

草履の縄が千切れ飛ぶ感触とともに、正一の裸足の指先が濡れた泥へ食い込む。彼は倒れかかってきたお雪の身体を、左腕で強引に抱きかかえ、右手に握った樫の杖を岩の亀裂へと突き刺した。

「ガツン……!」

鈍く重い打音が、山肌を揺らした。

樫の杖の先端が岩の隙間に噛み合い、二人の倒れ込む身体を辛うじて空間に繋ぎ止める。

その拍子に、お雪の顔が正一の首筋へと強く押し付けられた。

むせ返るような椿油の匂い。雨に濡れた黒髪の冷たさ。そして、彼女の乱れた吐息が吐き出す、激しい生の熱量。

お雪は正一の首筋に顔を埋めたまま、荒く息を吐いた。

「正ちゃん……私、もう……下りられないよ」

お雪の囁きが、正一の耳孔を濡らした。

「足を止めたら……下界の綺麗な嘘が、私を追いかけてくる。村の人たちの冷たい目も……天神様も……全部、私を捕まえに来るの」

お雪の手が、正一の手の甲を強く包み込んだ。

彼女の指先から滲み出る赤黒い血が、正一の傷口へと混ざり合っていく。

「ここで……正ちゃんと一緒に、山の不浄になるの。それが……私の望み」

お雪の言葉には、一片の迷いもなかった。

それは死への逃避ではなく、現世の理不尽な型嵌めに対する、彼女なりの最も烈しい拒絶であり、反逆だった。

正一はお雪の腰を固く引き寄せ、彼女の汚れた額に己の額を強く押し当てた。

「僕も……下りない」

正一の声は、風の音を切り裂いて響いた。

「兄さんの代わりにもならない。兵隊にもならない。お雪の血と一緒に……僕の命も、この山に置いていく」

二人の瞳が、数寸の距離で真っ向から交わった。

そこには、互いの歪んだ輪郭と、山頂を覆う灰色の闇だけが映っていた。

言葉はもう不要だった。

二人は一本の樫の杖を、まるで互いの命の柄であるかのように固く握り直し、ゆっくりと身体を起こした。

頭上には、苔むした古い鳥居の脚が、いよいよ間近に見え始めていた。

現世の公の秩序が完全に途絶え、生の情念と血の結びつきだけが支配する、御笠山の頂――御笠宮の境内が、すぐ目の前で二人を待ち受けていた。

二人を踏み留まらせるものは、もう下界のどこにも存在しなかった。

二人は互いの血のぬめりを確かめ合いながら、決定的な破滅と救済の待つ山頂へ向かって、最後の一歩を同時に踏み出した。


第五節

鳥居の柱基を通り抜けた瞬間、それまで二人を打ち叩いていた狂暴な風が、嘘のように鳴りを潜めた。

そこは、御笠山の最頂部に位置する御笠宮の境内であった。

周囲を樹齢数百年を数える杉や栂の巨木に囲まれた狭い平坦地は、濃厚な乳白色の霧によって外界から完全に遮断されていた。踏みしめる地面は、何世紀にもわたって降り積もった腐葉土と冷たい山水が混ざり合い、黒く重い泥の絨毯となって二人の足を深く沈め込ませる。

正面の闇の中に、雨風に晒されて黒ずんだ小さな木造の本殿が、まるで横たわる巨獣の骨のように静かに佇んでいた。

下界の天満宮に見られるような、朱塗りの華やかさや豪壮な彫刻はどこにもない。そこにあるのは、現世のあらゆる飾りや綺麗な建前を削ぎ落とした、荒々しくも冷酷な山の社そのものの姿だった。

「……着いたね、正ちゃん」

お雪が繋いだ手に残る最後の力を振り絞るようにして、静かに囁いた。

彼女は一本の樫の杖からそっと手を離すと、泥に塗れた両足を揃え、本殿の前にぽつりと立ち尽くした。

彼女の白装束は、すでに白とは名ばかりの、不気味で陰惨な色に染まり切っていた。

膝から下は黒泥の分厚い層に覆われ、上着の破れ目からは、冷気で紫にうっ血した皮膚と、鋭利な岩肌に削り取られた赤々しい生傷が剥き出しになっている。濡れて身体に固く張り付いた布地は、彼女の削ぎ落とされたように細い肉体の曲線を痛々しいまでに強調していた。

天満宮の参道を歩いていた時の、村人たちが忌避しつつも目を奪われた祈祷所の美しい娘の面影はどこにもない。

そこにいたのは、現世の秩序や神徳といった綺麗な嘘をすべて拒絶し、己の血と泥だけで自らを包み込んだ、一人の少女だった。

お雪はゆっくりと自らの両手を広げ、天を仰いだ。

「見て……おばあちゃん、正ちゃん。誰も……追ってこられないよ」

お雪の唇から漏れた吐息が、冷たい山霧の中に白く太く広がっていく。

彼女の濡れた黒髪から漂う椿油の甘苦い匂いと、傷口から匂い立つ血の鉄分、そして足元から立ち昇る腐葉土の泥の匂いが交ざり合い、境内の密閉された空気を濃密に満たしていった。

お雪の視線が、ゆっくりと正一へと注がれる。

正一は右手に握りしめた樫の杖を、黒い泥の中へと深く突き立てたまま、動くことができなかった。

彼の右手は、破れた皮膚から流れ出た血と汗でドロドロに汚れ、握りしめた樫の木肌と完全に一体化していた。父から手渡された「家の骨」であり、「労働と服従」の象徴であったはずのその杖は、いまや正一がお雪とともに下界の理不尽へ反逆を遂げた、不吉な証拠として泥の中に屹立している。

正一の胸の奥底を支配していたのは、徴兵の恐怖でも、長男・清次の代用品として生きる惨めさでもなかった。

いま、正一の全身を満たしていたのは、現世のあらゆる重圧から完全に解き放たれたという、恐ろしいほどの解放感と、目の前のお雪に対する抗いがたい愛おしさだった。

「お雪……」

正一は樫の杖から手を離し、一歩、お雪に向かって踏み出した。

草履の紐が千切れ、裸足になった正一の足が、冷たい黒泥を直接踏みしめる。

足裏を刺す泥の冷たさは、脳髄を刺すように鮮烈で、正一に「己はここにいる」という確かな生の実感を与えた。

正一はお雪の華奢な肩を抱き寄せ、彼女の濡れた身体を力任せに己の胸元へと引き寄せた。

「あっ……」

お雪の小さな喘ぎ声が、湿った境内に響く。

二人の泥に塗れた衣類が、ねっとりとした音を立てて再び重なり合った。

正一のテクリがお雪の湿った白装束を押し潰し、彼女の細い身体の熱量が、直接正一の皮膚へと伝わってくる。

背中に押し寄せる山頂の凍てつく冷気と、腕の中で燃え上がるお雪の皮膚の熱さ。

その極限の温度差の中で、正一はお雪の耳元に顔を寄せ、深く、激しい息を吐き出した。

「もう……下りない」

正一の声は、かすれて地鳴りのように低かった。

「再来年になっても……西の港へは行かない。お国の兵隊にも……父さんの家の代わりにもならない。僕の命は……この山の中で、お雪と一緒に腐っていくんだ」

お雪の身体が、激しく震えた。

彼女は正一の首筋に両腕を回し、泥と血に汚れた己の顔を、正一の首筋へ強く擦り付けた。

「うん……正ちゃん。そうして……私を、下界へ返さないで」

お雪の濡れた唇が、正一の首筋の傷口に触れた。

彼女の吐き出す熱い息と、皮の剥けた傷口を刺す冷たい山水が混ざり合い、正一の頭脳を完全な白濁の渦へと引きずり込んでいく。

この時代において、下界へ戻ることは、巨大な国家の歯車として無残に消費されることを意味していた。

天満宮の梅の木の下で叩き鳴らされていた出征送別の太鼓も、大人たちが口にする名誉という名の綺麗事も、すべてはこの不浄な泥と霧の前に破綻していた。

二人は抱き合ったまま、静かに泥の上に膝をついた。

お雪の白装束の裾が黒泥の中に沈み込み、正一の血まみれの掌が、お雪の傷ついた指先と泥の中で固く絡み合う。

ふたりの流した血と、御笠山の黒い泥が交ざり合い、二人の存在を下界のいかなる手からも奪い去っていく。

頭上の御笠宮の社骨は、無言のまま、現世を捨て去った二人の若い姿を、その深い闇の奥へと静かに呑み込んでいくのだった。


第五章 上宮の光景


第一節

濃霧の海を割り、這い上がるようにして辿り着いた御笠山の頂は、下界の春とは完全に切り離された、凍てつくような氷の世界であった。

巨岩が剥き出しになった山頂の平地には、ねっとりとした灰色の霧が渦巻いており、そこへ這いつくばるようにして、古い石造りの御笠宮の上宮が佇んでいる。社殿の木肌は、何百年もの間、山の烈風と湿気、そして雪に晒され、まるで化石のように白茶けていた。

先に到着していた少年少女たちは、もはや声を出す気力もなく、上宮の前に据えられた石畳の上に泥まみれのまま、まるで打ち捨てられた人形のように蹲っている。

「一同、直れ」

神職の、驚くほど硬く乾いた声が霧を打った。

正一はお雪の隣に跪き、ぬかるんだ石畳に両膝を突き立てた。冷水のような泥の感触が、テクリの膝の擦り切れた布地をあっさりと透過し、骨の芯まで染み込んでくる。しかし、正一の意識は、その冷たさよりも、己の右手のなまなましい感覚に集中していた。

お雪が、ゆっくりと樫の杖から手を離したのだ。

彼女の指先が離れた瞬間の、手のひらの急激な冷却。まるで、体内の熱をごっそりと奪い去られたかのような喪失感に、正一の指先が小さく震えた。隣を見れば、お雪はすでに端然と頭を垂れている。その横顔は、霧に洗われて異様なほど白く、睫毛にはびっしりと微細な水滴が宿っていた。彼女の纏う白装束は、もう九割方が山の黒泥に浸食され、斑模様の死装束のようになって石畳に広がっている。

やがて、神職が懐から大麻を取り出し、祝詞を奏上し始めた。

「――掛けまくも畏き、御笠宮の、大神の御前に恐み恐みも白さく――」

その声は、天満宮の社頭で聞くような、磨き上げられた雅な響きではなかった。低く、地底から響くような、あるいは御笠山の岩肌が擦れ合うような、粗野で、暴力的な響き。

祝詞の調べが、正一の頭蓋へと容赦なく突き刺さる。神職が読み上げるのは、十六歳になった村の子供たちの名を神に告げ、その息災を祈る、本来であればめでたいはずの文言だった。

しかし、この山頂において、その祝詞は別の意味を持って正一の耳に届いた。

(お前たちの肉を、命を、この山に、そして国に差し上げろ)

神職の掲げる大麻が、バサリ、バサリと冷たい風を切るたび、正一は自分がじわじわと人間の枠組みから解体され、国という巨大な怪物の胃袋へと送り込まれていくような錯覚に囚われた。

「正一」

自分の名が呼ばれた瞬間、正一はびくりと背中を震わせた。それは、成長の報告などではない。名簿に朱線を引かれ、現世の籍から抹消されるための、宣告に等しかった。

祝詞の響きに呼応するように、不意に、山頂を包んでいた濃霧が、狂った生き物のように激しくうねり、一方へと流れ始めた。

「……あ」

誰かが、小さく声を漏らした。

霧の幕が劇的に裂け、眼下の風景が、信じられないほどの明瞭さで一瞬にして剥き出しになった。

そこには、正一が生まれてから一度も見たことのない、残酷なまでに広大な世界が広がっていた。

眼下にのたうつ筑紫平野。そこは、陽の光すら届かぬ鈍色の雲の影に覆われ、家々も、田畑も、すべてが小さな塵のように平伏している。そして、その平野の真ん中に、箱庭のように佇んでいるのが、自分たちが今朝通り抜けてきた天満宮の境内だった。

ここから見下ろす天満宮の甍は、あんなに恐ろしかった権威の象徴であるはずなのに、まるで地に這う虫の甲殻のように小さく、色褪せて見えた。

だが、正一の目を釘付けにしたのは、そのさらに西の果てだった。

地平の境目に、鏡の破片のように鈍く光る線が見える。――海だ。博多の海だった。

あの海の向こうに、大陸があり、南方がある。今この瞬間も、無数の若者たちが泥水をすすり、弾丸に引き裂かれ、乾いた骨となって転がっている戦地。来年には自分もまた、あの鈍く光る海の彼方へと、抗う術なく投げ出されるのだ。

「お国のために、立派に果たすのだぞ」

いつの間にか、先達の老人が、正一の真後ろで、感情の失せた声で呟いていた。その言葉は、天満宮の権威を笠に着た、乾いた「公」の命令そのものだった。

正一は絶望に息を詰まらせ、地面に突いた両手に力を込めた。手のひらの傷口に、御笠山の鋭い砂利が食い込み、新しい血が滲む。

その時、正一のすぐ横で、衣擦れの音がした。

お雪が、平伏した姿勢のまま、わずかに顔を巡らせて正一を見た。

彼女の瞳は、眼下に広がる壮大な風景など、一瞥もしていなかった。彼女が見つめているのは、ただ一人、正一の横顔だけだった。

その瞳の奥に、正一は見た。

それは、天満宮が強いる「清く正しい死」への拒絶であり、この御笠山の闇だけが許してくれる、「泥まみれの破滅」への歪んだ肯定だった。

お雪の唇が、音を立てずに動いた。

(海なんか、見ちゃ駄目、正ちゃん)

確かに、そう聞こえた。

お雪の指先が、再び、ぬかるんだ石畳の上を這うようにして、正一のテクリの裾に触れた。濡れた指の冷たさが、正一の太腿に、消えない烙印のように伝わってくる。

正一は、天満宮を見下ろすのをやめ、固く目を閉じた。

どれほど世界が広かろうと、どれほど国家が巨大であろうと、自分が行くべき場所は、もうこのお雪の指先が示す、暗く湿った底しかない。

「――これにて、参拝を終了とする。一同、山を下りよ」

神職の冷徹な声とともに、裂けた霧が再び急速に閉じ始め、眼下の天満宮も、鈍く光る海も、すべてを灰色の混沌のなかに包み隠していった。

後に残されたのは、ただ、山頂に吹きすさぶ、骨を刺すような寒風と、二人の狂おしいまでの沈黙だけだった。


第二節

神職の「下りよ」という冷酷な宣言が霧の壁に打ち消されたあとも、正一とお雪はぬかるんだ石畳の上に跪いたまま、しばらくピクリとも動くことができなかった。

一足先に立ち上がった同い年の少年少女たちは、山頂の極寒と祝詞の重圧に押し潰されたように、先達の老人に引き連れられてトボトボと参道を下り始めていく。その背中は、つい先ほど神前で名簿を読み上げられ、諦念に満ちた丸まり方をしていた。

だが、正一の膝は泥の底に根を張ったように動かない。

正一の左太腿には、お雪の濡れた指先が強く触れ続けていた。

泥に塗れ、氷のように冷え切った彼女の指。しかし、その指先が触れている布地のすぐ下から、正一の皮膚を焼き焦がすような激しい体温と脈動が、直接太腿の肉へと染み込んでのたうっている。

「……正ちゃん」

お雪が静かに顔を上げた。

神職の去った境内には、山頂の烈風の音と、社頭の古い鉄鈴が「チリン……チリン……」と鳴り響く不気味な音だけが残されていた。

お雪の顔は、先ほど霧が晴れた瞬間に眼下に広がった筑紫平野や、博多の海の光景を完全に拒絶していた。彼女の大きな瞳に映っているのは、目の前に跪く正一の歪んだ影と、ふたりを包み込む灰色の山霧だけだった。

「見なかったよね……海」

お雪の唇が微かに震え、かすれた声が漏れ出た。

「……ああ」

正一は低く答えた。

「見なかった。何ひとつ、見てない」

正一の声には、もう下界で父の前にいた頃の怯えや躊躇いは残っていなかった。

先ほど眼下に一瞬だけ露出した天満宮の小ささ。そして、西の果てで鏡の破片のように光っていた博多の海の不気味さ。それらは、正一に「お国のための高潔な死」などという建前がいかに空虚な嘘であるかを、残酷なまでに分からせていた。

あの海へ渡れば、自分は人間ではなく「兵隊という名の肉塊」となり、異国の泥の中で野晒しにされて腐っていく。

そんな綺麗な嘘の地獄へ連れて行かれるくらいなら、いま、この御笠山の黒い泥の中で、お雪とともに腐り果てるほうが、どれほど狂おしいほどの救いか。

お雪がゆっくりと立ち上がった。

彼女の破れた白装束の裾が「ずざり」と泥を擦り、重い音を立てる。

黒泥を吸い尽くし、朱い生傷の血で汚れたその衣は、もはや現世のどんな巫女の衣装よりも不吉で、陰惨で、そして圧倒的に美しかった。

お雪は両手を伸ばし、正一が固く握りしめていた樫の杖の、ちょうど中央のあたりを再び強く包み込んだ。

正一もお雪の手に押し出されるようにして立ち上がり、彼女の手のすぐ下で杖を握り返した。

一本の黒ずんだ樫の杖。

そこに染み込んだ二人の血と汗が、濡れた木肌の上でぬめり気を帯びて交ざり合う。

「正ちゃん……ここから下りたら、私たちは『大人』になっちゃうんだね」

お雪が正一の目を真っ直ぐに見つめながら言った。

「下界へ下りたら……正ちゃんは兵隊になって、私は祈祷所の穢れた娘に戻される。また、村の人たちが……私たちを違う人間として切り離そうとする」

お雪の指先が、樫の杖を壊さんばかりの力で強く捩じ込んだ。

彼女の破れた足袋の隙間から、泥に塗れた爪先が覗き、岩肌へとしがみつく。

「やだ……嫌だよ、正ちゃん。私を……『あっち』へ返さないで」

お雪の言葉は、悲鳴ではなかった。

それは、己の運命を決定づけようとする現世の巨大な仕組みに対する、静かで、しかし絶対に折れることのない反逆の誓いだった。

正一は右手に全身の力を込め、お雪の手が触れる樫の杖を引き寄せた。

二人の距離がゼロになり、湿ったテクリと黒泥の白装束が、ねっとりと音を立てて擦れ合う。

お雪の荒い吐息が、正一の首筋を撫で回した。

椿油の甘苦い香り、泥の臭気、そして彼女の首筋から立ち昇る生々しい体温の匂い。その濃密な交感が、正一の頭脳を真っ白に染め上げていく。

「下りないよ」

正一はお雪の耳元で、強く、はっきりと囁いた。

「下界へ下りても……僕たちの足は、この山の泥の中に置いたままだ。誰が何と言おうと……僕の命はお雪のものだし、お雪の命は僕のものだ」

お雪の瞳が、熱で怪しく揺れた。

二人は一本の樫の杖を二人の身体の間に抱きかかえるようにして、固く抱き合った。

山頂に吹きすさぶ冷たい寒風が、二人の濡れた身体を容赦なく叩きつける。

しかし、重なり合った胸と胸の間には、下界のいかなる法律や神徳も侵すことのできない、狂おしいほど熱い生の火種が、黒々とした炎を上げて燃えさかっていた。

二人は山頂の本殿に背を向け、霧の閉ざされた下り参道へと、ゆっくりと最初の一歩を踏み出した。

それは下界への帰還ではなく、泥と血の密約を抱えたまま現世を侵食していくための、二人だけの不吉な旅立ちであった。


第三節

山頂の本殿をあとにした下り参道は、登りのそれとは全く異なる顔で二人を迎え入れた。

背後から追いかけてくる山頂の冷気と、足元から立ち昇る腐葉土の熱っぽい湿気が交ざり合い、参道はまるで生き物の胎内のように薄暗く、泥ねばっていた。

先を行く同年代の若者たちの足音は、霧の彼方へとすでに遠ざかり、どこにも聞こえない。

この御笠山の傾斜の中に残されているのは、ただ一本の樫の杖を分かち合い、泥に足をとられながら下っていく正一とお雪の二人だけだった。

「正ちゃん……前、見えないね」

お雪が、前方を塞ぐ濃密な灰色の霧を見つめながら呟いた。

彼女の白装束の裾は、山頂のぬかるみで吸い上げた黒泥の重みで垂れ下がり、歩くたびに「ずざり、ずざり」と濡れた蛇が這うような音を立てていた。

下り坂の傾斜は、登り以上に膝と足首へ凶暴な負担を強いる。

お雪の破れた足袋の隙間からは、岩肌に擦られて新しく開いた生傷から血が溢れ出し、それが黒泥と交ざって足首を赤黒く染めていた。しかし、お雪はその激痛に顔を歪めるどころか、むしろ己の肉体が削られていく感触を慈しむように、一段一段、踏みしめる足に重みをかけていた。

正一はお雪のすぐ後ろにつき、彼女の身体が傾くたびに、左腕を伸ばして彼女の細い腰をしっかりと支えた。

正一のテクリの袖口もまた、山頂の石畳で泥まみれになり、硬く固まりつつあった。

右手で握りしめた樫の杖の感触は、すでに自分の皮膚の一部と化している。木肌の凸凹に、自分の血とお雪の血が交ざり合って乾き、ねっとりとした接着剤のようになって二人の指先を繋ぎ止めていた。

(下界へ帰るんじゃない……)

正一は、前方に広がる深い霧の闇を見つめながら、心の中で反芻した。

下界には、天満宮の境内があり、父が待つ大工の仕事場があり、再来年になれば正一を連れ去る赤紙の影が潜んでいる。

だが、いま、この御笠山の中腹でお雪と体温を交わし合い、血を流しながら下っているこの時間だけは、現世のあらゆる束縛から切り離された、二人だけの場所だった。

お雪がふいに足を止め、参道の脇に突き出た大きな杉の根元へと身体を寄せて倒れ込んだ。

「あっ……」

お雪の膝が折り切れ、地面の湿った苔の上へ崩れ落ちる。

正一は慌てて樫の杖を泥に突き立て、お雪の身体を抱き止めた。

「お雪……」

二人の身体が、杉の巨木の陰で重なり合った。

お雪の顔は激しい疲労と山冷えで白蝋のように青白く、その額には泥と汗が滲んでいた。しかし、正一の胸元に押し当てられた彼女の吐息は、恐ろしいほど熱く、荒かった。

「正ちゃん……下りたくない……やっぱり、下りたくないよ」

お雪の手が伸びてきて、正一のテクリの胸元を狂おしいほどの力で掴み寄せた。

泥で汚れた細い指先が、正一の胸板に食い込む。

「天満宮へ戻ったら……また私、大人たちの綺麗な言葉で汚される。お国のために死ねとか、天神様のために清くあれとか……そんな嘘の言葉で、私の体を固められちゃう」

お雪の大きな瞳から、一筋の涙が溢れ出た。

その涙は、彼女の頬に付着していた黒泥をすっと拭い去り、白磁のような素肌の筋を浮かび上がらせた。

「私の体は……正ちゃんの泥で汚されたいの。天神様なんかじゃない……正ちゃんの血と、正ちゃんの熱だけで……私を満たして……」

お雪の言葉は、正一の胸の奥深くに潜んでいた暗い情念に火をつけた。

正一は左腕を回し、お雪の身体を強く、砕けんばかりの力で抱きしめた。

「お雪……」

正一はお雪の濡れた首筋に顔を埋めた。

そこからは、冷たい雨水と泥の匂い、そして彼女の肌が放つ濃密な椿油と血の匂いがむせ返るほど立ち昇っていた。

「僕も……天満宮には帰らない。父さんの家にも……兵隊の行列にも、魂は渡さない」

正一の言葉が、お雪の首筋の温もりへ直接吹き込まれる。

「下界で何が起きようと……僕たちの身体は、この御笠山の泥で繋がっている。僕が……お雪を誰にも渡さない」

お雪の身体が、正一の腕の中で震えた。

彼女は正一の髪に両手を回し、正一の顔を自分の方へと引き寄せた。

二人の泥に汚れた額が重なり合い、荒い息が交差する。

二人はしばらくの間、風の音と雨雫の落ちる音だけに包まれながら、お互いの体温を骨の芯まで確かめ合った。

やがて、正一はお雪の体をゆっくりと抱え起こし、泥の中に刺さった樫の杖を握り直させた。

二人の血で濡れた樫の木肌が、二人の掌の間で再び不吉な温もりを取り戻す。

二人は互いに寄り添い、二人の足音を一つに重ね合わせながら、霧の奥に眠る下界の不気味な静寂へと、再び歩みを進めていくのだった。


第四節

標高が下がるにつれ、山を支配していた冷酷な狂暴さは静まり、代わりに下界の重苦しく生温かい空気が、霧の破れ目からじわじわと二人の全身を蝕み始めた。

八合目、七合目と下るごとに、岩肌を覆っていた氷のような山水は姿を消し、粘土質の赤泥が二人の足を深く沈め込ませる。

お雪の足取りは、すでに限界を超えていた。

破れ果てた白足袋から覗く指先は血と泥で濡れ鼠のように黒ずみ、一歩を踏み出すたびに、彼女の細い肩が痛みに激しく跳ね上がった。それでも彼女は、正一の手から決して樫の杖を離そうとはしなかった。

「……正ちゃん、鳥居が見える」

お雪がかすれた声で呟いた。

霧の深淵の向こうに、登りの際に通り抜けた天満宮側の登山口――下界と神域を隔てる一の鳥居の黒い影が、まるで二人の帰還を待ち構える捕獲網のように佇んでいた。

その鳥居の向こう側には、天満宮の参道が連なり、大工の父の待つ家があり、秋になれば正一の身を拘束する徴兵の仕組みが、公然たる顔をして広がっている。

正一はお雪の横顔を見つめた。

彼女の顔は、飛び散った黒泥と己の血で激しく汚れていたが、その瞳は澄み渡り、下界の理不尽に対する静かな蔑みに満ちていた。

「鳥居をくぐったら……みんな『元の世界』に戻った顔をするんだろうね」

お雪が苦笑交じりに言った。

「十六歳のお参りを終えて、立派な大人になったって……村の人たちは喜ぶの。でも……私は戻らない。私の魂は、あの御笠宮の泥の中に置いてきたから」

お雪の言葉は、正一の胸を強く打った。

正一は右手に握りしめた樫の杖に、さらに強く力を込めた。

皮の剥けた掌の痛みが、再び鮮烈に脳髄を焼き焦がす。

この手のひらの傷と、お雪とともに杖を握りしめた記憶こそが、正一にとっての唯一の真実だった。

二人は鳥居の手前で足を止めた。

境内の外からは、天満宮の参道で行われている出征送別の太鼓の音が、風に乗って泥のように低く響いてきていた。

「祝武運長久」の幟旗がはためき、村の大人たちが揃いの手ぬぐいを振って、次の若者を戦地へ送り出す乾いた狂騒。

正一とお雪は、その鳥居の影の暗がりに佇んだまま、互いの手を最後にもう一度強く握りしめた。

お雪の指先から、正一の掌へ。

正一の傷口から、お雪の破れた爪先へ。

二人の間にある一本の樫の杖を介して、目に見えない血の交感が、確かな誓いとなって二人の肉体の深層へ染み渡っていく。

「正ちゃん……忘れないでね」

お雪が正一の目を真っ直ぐに見つめた。

「私たちが……この山で分かち合った泥の温もりを。誰にも……天満宮の綺麗な嘘にも、奪わせないで」

「忘れない……絶対に、忘れない」

正一は頷いた。

二人は意を決したように、ゆっくりと一の鳥居を潜り抜けた。

その瞬間、下界の生温かい風が吹き抜け、天満宮の太鼓の音が二人を包み込んだ。

参道を行き交う村人たちが、泥まみれで傷だらけの二人の異様な姿を見て、不審と忌避の混ざった視線を投げてくる。

しかし、正一もお雪も、その視線に怯えて俯くことはなかった。

二人は血と泥で黒光りする一本の樫の杖を、まるで下界の理不尽を切り裂く密かな刃のように固く抱え直した。

衣服は破れ、肉体は傷つき、徴兵という逃れられぬ影が目前に迫っていようとも、彼らの胸の奥底には、御笠山の闇と泥だけが育んだ、絶対に壊されることのない二人だけの密約が息づいていた。

二人は下界の雑踏の中へ、一度も振り向くことなく、力強い足取りで踏み出していくのだった。


第六章 赤飯と黒泥


第一節

下山の道のりは、登りよりも遥かに残酷な速さで正一たちの身体を下界へと突き落としていった。

御笠宮を後にした一行の足取りは、重く、急だった。山頂で一度「死」を宣告された十六歳たちは、もはや言葉を交わす口を持たない。ただ重力に急かされるまま、濡れた石段を、黒光りする岩肌を、滑り落ちるようにして下っていく。

正一の右手にある樫の杖は、下りの衝撃を受け止めるたび、掌の同じ傷口を執拗に突き上げてきた。しかし、その激痛さえも、どこか遠い他人の肉体の出来事のように思える。

前を行くお雪の白装束は、下山の泥を浴びて、もはや元の白さを完全に失っていた。裾は引き裂かれ、泥を吸って重く垂れ下がり、彼女の歩みを現世の重力で縛り付けようとしている。だが、お雪は一度も振り返らなかった。山頂で正一のテクリの裾に触れたあの指先は、今はただ、固く握りしめられて彼女の脇で揺れている。

二人の間には、もはや視線の交差すら育たなかった。

言葉を交わせば、山頂で分かち合ったあの「泥まみれの破滅」の誓いが、天満宮の張り詰めた空気によって一瞬で粉砕されてしまうことを、互いの身体が知っているのだ。

下るにつれ、御笠山の濃密な霧は徐々に薄れ、代わりに麓の、あの忌々しいほどに整然とした空気が、じわじわと正一の肌を刺し始める。

杉の樹液の匂いや土の饐えた匂いは、遠ざかっていく。代わりに、どこからか、天満宮の、あの乾いた、清廉すぎる梅の香りが、風に乗って鼻腔をくすぐり始めた。

現世が、この戦時下が、口を開けて彼らを待っている。

「――戻ったか。皆、大儀であったな」

気がつけば、一行は天満宮の社務所の裏手、うっそうとした梅林の影へと辿り着いていた。

そこには、出征兵士の家族や、国防婦人会のたすきを掛けた女たちが、湯気の立つ巨大な大釜を囲んで待っていた。彼女たちの顔には、戦時下の物資不足による疲弊と、それを取り繕うための、薄気味悪いほどに硬直した「お祝い」の笑みが張り付いている。

正一たち十六歳は、境内の端に並べられた粗末な長床に、促されるまま腰を下ろした。

正一の隣には、いつの間にか、あの無口な父が立っていた。

父は、正一の泥まみれのテクリや、破れた草履には目もくれず、ただ正一の手にある樫の杖をじっと見つめた。そして、無言でその手を伸ばし、正一の掌から杖をむしり取るようにして引き抜いた。

数十年分の手の脂で黒光りするその杖は、正一の手を離れた瞬間、ただの冷たい木切れに戻ったように見えた。父はそれを愛おしそうに、しかし冷徹な手つきで脇に抱え、一言だけ呟いた。

「これで、お前も一人前の男だ。兄上の分まで、お国に尽くせ」

その声には、なんの疑念も、なんの慈悲もなかった。それは、この村落共同体が、天満宮の神域が、正一という個人の命を正式に道具として召し上げるための、最後の儀礼の言葉だった。

「さあ、十六詣りのお祝いですよ。温かいうちに召し上がれ」

婦人会の女たちが、木製のお椀を正一の前に置いた。

お椀の中に盛られていたのは、湯気を立てる赤飯だった。

米が貴重なこの時代において、これほど鮮やかな小豆の色を出した赤飯は、本来であれば狂喜するほどの贅沢のはずだった。しかし、正一の目に飛び込んできたその「赤」は、あまりにも生々しく、暴力的だった。

それは、お祝いの赤などではなかった。

それは、これから海の向こうの戦地で、弾丸に引き裂かれ、泥の中にぶちまけられるであろう、自分自身の血の赤そのものだった。

正一は、箸を持つ手が小刻みに震えるのを止められなかった。

隣を見れば、お雪の前にも同じお椀が置かれていた。

お雪は、泥に汚れた白装束の袖を震わせながら、無言で赤飯を口に運んでいた。彼女の、白磁のようだった唇が、赤飯の不気味な赤に染まっていく。

その時、お雪がふと、正一のほうを向いた。

彼女の瞳は、もう山頂の時のように正一を射抜いてはいなかった。その瞳は、完全に光を失い、ただの冷たい硝子玉に戻っていた。彼女は、麓の大人たちの、天満宮の「公」の秩序に、その身を明け渡してしまったかのように、機械的に咀嚼を繰り返している。

だが、正一は見た。

お雪の、泥に汚れて破れた白足袋の先から、まだ微かに御笠山の黒い土が、長床の板の間に一粒、ぽつりと落ちるのを。

彼女は、山を連れて下りてきたのだ。現世のフリをしながら、その魂の底には、あの霧深い御笠山の闇を、正一と分かち合った破滅の契りを、誰にも見えぬように隠し持っている。

正一は、胸の奥から突き上げてくる激しい吐き気を堪えながら、箸を突き立てた。

血のような赤飯を、一塊、口の中へ放り込む。

噛みしめた瞬間、小豆の濃厚な、しかしどこか饐えたような甘みが、舌の裏にべったりと張り付いた。それは、正一の喉を焼くようにして、胃の腑へと落ちていく。

それを飲み込んだとき、正一は、自分の中の「子供」が完全に死に絶えたことを確信した。

もう、引き返せない。

自分はこれから、この赤飯の血を肉に変え、立派な兵隊の型へと嵌め込まれ、海の向こうへと投げ出されるのだろう。だが、どれほど身体が国家の道具になろうとも、自分の魂の半分は、あの樫の杖を介して触れたお雪の、燃えるような手の熱の中に置いたままだ。

「美味いか、正一」

父の声が、遠くで響く。

正一は答えない。ただ、涙とも汗ともつかぬ湿った液体が、泥に汚れた頬を伝い、お椀の中の赤飯を濡らしていくのを、じっと堪えていた。

天満宮の境内には、いつの間にか、出征を祝う乾いた軍歌のレコードの音が、遮るものなく鳴り響き始めていた。

満開を過ぎた梅の花びらが、風に吹かれて、正一の足元に広がる黒い泥の上へと、静かに、そして容赦なく散り落ちていく。

その光景を見つめながら、正一は、自分がもう二度と、あの御笠山の霧の中へは戻れないことを、そして、戻れないからこそ、あの暗い闇の美しさだけを終生、抱きしめて死んでいくのだということを、静かに悟っていた。


第二節

軍歌のレコードが擦れ破れた雑音を混じらせながら、春の境内へ低く響き渡っていた。

国防婦人会の女たちが配り終えた赤飯のお椀からは、なおも白い湯気が細く立ち昇っている。長床の周りに集まった大人たちは、我が子の顔を見ようともせず、「これで晴れてお国のお役に立つ」「立派な若者になった」と口々に交わし合い、乾いた満足感を噛みしめていた。

正一は長床に深く腰をかけたままであった。

父の手によって半ば奪い取られるように回収された樫の杖は、父の黒い脚半の脇に立てかけられ、そこだけ現世の光を吸い込むような暗がりを作っている。正一の手のひらには、杖を失ったことでぽっかりと生じた冷たい空洞と、破れた皮膚が固まりかけた生々しい傷口の引き攣れだけが残されていた。

お椀の中の赤飯を咀嚼するたび、小豆の持つ濃厚な甘みが、正一の舌の奥でねっとりと広がる。

それは、成長を祝福する美味などでは到底なかった。山頂で告げられた「死」の宣告を、そしてこれから直面する戦場の血泥を、強引に腹の中へ流し込むための毒薬のようだった。

「正一」

頭上から、父の低く硬い声が落ちてきた。

父は立てかけた樫の杖の頭を、ごつごつとした大きな掌で撫でまわしていた。数十年分の脂と汗を吸い込んだその木肌は、父の手に触れられることで、かつて正一の掌から吸い上げたはずの血と体温を、冷酷に打ち消されているかのように見えた。

「この杖はな、お前が生まれた年に、わしが御笠山の樫の枝から削り出したものだ。兄上も十六の時にこれを握って山へ登り、そして翌々年には西の港から出征された」

父の言葉には、一筋の迷いも、我が子に対する感傷もなかった。

「お前が今日、この杖を無事に下ろしてきたということは、家督の重みを知り、お国の型に嵌まる覚悟ができたということだ。明日からは大工の道具の扱いも、兄上の代わりとして叩き込んでやる」

正一は黙って頷いた。

返声をする気力すら湧かなかった。

父が口にする「型」や「家の代わり」という言葉は、いまや正一の肉体を取り囲む冷たい鉄格子となって、彼の呼吸を圧迫していた。

正一の視線は、長床の板の間へと低く落とされた。

そこには、となりに座るお雪の破れた白足袋からこぼれ落ちた、一粒の黒い泥が静かに転がっていた。

参道の梅の花びらが風に煽られて舞い降り、その黒泥のすぐ脇へ「ひらり」と落ちる。綺麗な白梅の花弁は、泥の水分を吸って瞬く間に斑模様に汚れていった。

お雪は無言でお椀を傾け、最後の赤飯を喉の奥へ流し込んでいた。

彼女の横顔には、山頂で見せたあの狂おしいまでの生の情念や、正一の手を握りしめた激しい情熱の影は微塵も残っていなかった。あごのラインは冷たく硬直し、ただ機械的に噛みくだく運動だけを繰り返している。

(お雪……)

正一は心の中でその名を呼んだ。

しかし、口に出すことはできなかった。

いまこの境内で彼女の名を呼べば、あるいは彼女と目を合わせれば、大人たちの鋭い不審の目が二人に突き刺さり、二人が山頂で交わした血の密約が暴かれてしまう。

村人たちにとって、お雪はあくまで「祈祷所の異端の娘」であり、正一は「お国のために捧げられる兵士の卵」でなければならなかった。下界の秩序は、二人がただの「個」として惹かれ合い、泥に塗れて破滅することを決して許さない。

お雪がお椀を静かに長床の上に置いた。

その瞬間、彼女の細い指先が、テクリの裾の影で小さく、本当にかすかに動いた。

彼女の指は、長床の板の間に落ちていたあの小さな黒泥の粒を、そっと撫でるようにして己の袖口の中へと押し隠したのだった。

正一の胸の奥底で、冷え切っていた血液が「ドクン」と大きく跳ね上がった。

お雪は諦めてなどいなかった。

彼女の硝子玉のような瞳の奥には、下界の大人たちを欺くための仮面が張り付いているだけであり、その肌のすぐ下には、あの御笠山の濃霧の中で正一とともに流した血と体温が、熱い磁石のように残り続けていたのだ。

お雪はお椀を置くと、一度も正一のほうを振り向くことなく、静かに立ち上がった。

彼女の汚れた白装束の裾がずざりと擦れ、参道の乾いた砂利を踏みしめる音が響く。

彼女の背中は、集まった村人たちの好奇の視線を完全に突っぱねるように、真っ直ぐに伸びていた。

父が正一の肩を重く叩いた。

「立て、正一。家へ帰るぞ」

正一は泥のついた膝を押し上げ、立ち上がった。

足裏に走る激痛と、右手の傷口の痛みが、再び現実的な重量となって正一の全身を押し潰してくる。

しかし、正一の眼差しは、遠ざかっていくお雪の白装束の後ろ姿を、固く、静かに捉え続けていた。

どんなに時代が二人を切り裂こうとも、どんなに国が己の肉体を兵隊の型へと嵌め込もうとも、二人の魂が触れ合ったあの山頂の激痛と、樫の杖を介して交わした血のぬめりは、誰にも奪うことのできないものだった。

正一は父の後ろにつき、軍歌の響き渡る天満宮の境内をあとにした。

足元で、散り落ちた梅の花びらが、二人の汚れた足跡に踏み潰されて、不吉な斑点を描いていた。


第三節

天満宮の鳥居を抜け、村へと続く一本道を下る足取りは、まるで異国の地を踏みしめているかのように頼りなく、重かった。

父は正一の二歩前を歩き、その右手には正一から取り上げた樫の杖が握られていた。父の背中は、まるで一本の古木のように頑なで、一切の隙を見せない。杖の先が乾いた土埃を突くたび、「トン、トン」と規則正しい硬い音が響き、それが正一の歩調を強制的に縛り付ける律動となっていた。

道端の田畑では、すでに初夏の準備を始める農民たちが汗を流していたが、正一たちの姿を認めると、誰もが手を止め、恭しく頭を下げた。

「参詣、ご苦労さまでしたな」

「これで正一さんも、立派なお国の柱だ」

交わされる言葉のどれもが、正一の耳には遠い空洞のとどろきのようにしか届かない。

村人たちの差し向ける敬意の視線は、十六歳になった正一という人間そのものに向けられたものではなかった。それは、正一の着ている泥まみれのテクリの奥に透けて見える「兵隊の予備軍」という透明な型に対する敬礼に過ぎなかった。

正一は一度も頭を下げ返すことなく、ただひたすら己の足元を見つめて歩いた。

すり減った草履の先から覗く自分の足指は、御笠山の黒い土で汚れ、爪の間に黒い血の痕が固まっていた。その汚れこそが、村人たちの語る「清く正しいお国の柱」という建前に対する、唯一の肉体的な異議申し立てのように思えた。

(あいつらは、何も知らないのだ)

正一は胸の中で冷たく呟いた。

村の大人たちも、天満宮の神職も、国防婦人会の女たちも。自分たちが十六の若者に「おめでとう」と声をかけ、赤飯を食わせているその裏で、若者たちの魂が御笠山の濃霧の底でどんな血を流し、どんな狂おしい誓いを交わしているのかを、何一つ知りはしないのだ。

家へ辿り着くと、大工の作業場には木屑の香ばしい匂いが充満していた。

父は無言で作業場の奥へ進むと、壁の神棚の脇にある古い柱の傷に、携えてきた樫の杖を立てかけた。そこは、数年前に出征し、二度と戻らなかった兄の杖が置かれていた場所でもあった。

二本の黒ずんだ樫の杖が、暗がりのなかで並んで佇んでいる。

兄の杖は、何年も放置されたことで脂が抜け、カサカサと乾いた木肌を見せていた。一方、正一が持ち帰ったばかりの杖は、今なお正一の掌の血とお雪の汗、そして御笠山の湿った黒泥を吸い込んで、生々しく黒光りしていた。

「手を洗ってこい。すぐに墨付けの仕事を教えてやる」

父は振り返りもせず、作業台に置かれた尺がねと墨つぼを引き寄せながら言った。

「戦地へ行くまでに、柱の一本も削れるようにならねば、大工の家系に対して顔向けができん。明日からは夜明けとともに叩き起こす」

「……はい」

正一は小さく答え、表の井戸端へと向かった。

井戸の釣瓶を引き上げ、桶に溜まった冷たい水を両手で掬い上げる。

泥と固まった血で汚れきった顔を洗うと、水の冷たさが麻痺していた皮膚の感覚を鮮烈に呼び覚ました。顔を拭い、両手を桶の中に沈める。

掌の皮が剥けた傷口に水が沁み込み、刺すような激痛が走った。

正一は思わず歯を食いしばったが、水から手を引き上げることはしなかった。その痛みが強ければ強いほど、山頂の冷たい雨の中で、あの樫の杖をお雪とともに握りしめていた瞬間が、はっきりと鮮明に脳裏に蘇ってくるからだ。

桶の澄んだ水面が揺れ、そこに己の顔が映り込んでいた。

水の中の正一は、今朝山へ登る前の幼さを完全に削ぎ落とされ、頬が削げ、目だけが怪しくギラギラと光る、まるで別人のような顔をしていた。

それは、大人たちの望む「一人前の男」の顔などではなかった。

下界の嘘と理不尽に満ちた世界を生き抜くために、胸の奥底に狂気と誓いを隠し持った、孤独な顔だった。

ふと見上げると、西の空には御笠山の黒々とした山頂が、夕闇の濃紫色の雲を押し頂くようにして聳え立っていた。

山頂のあたりは今なお深い霧に閉ざされているのだろう。

あの中には、お雪が足袋の先につけて持ち下りてきた黒い土の原点があり、二人が交わした言葉にならない絶望と歓喜が、永久に保存されているのだ。

正一は濡れた手をテクリの裾で拭うと、静かに作業場へと戻った。

夕闇が落ちていく作業場の隅で、父の振るうカンナの音が「シュー、シュー」と削り節を吐き出しながら、悲しく響き渡っていた。その規則正しい音は、正一の残された時間を刻む計時器のようであり、これから彼を死へと導く現世の足音そのものであった。


第四節

夜が明ける前から、作業場にはカンナを引く乾いた音が規則正しく響いていた。

薄暗い土間に落ちる木粉は、朝の冷気を含んで白く煙り、父の背中はただひたすら無言のまま木肌を削り続けていた。正一もまた、言われるがままに角材を固定し、手のひらの傷口が擦れる激痛を殺しながら、ノミを叩き槌を振るった。

手の皮が破れて血が滲むたび、父は視線すら向けずに「力を抜くな」とだけ吐き捨てた。

その冷酷さは、我が子を一人前の職人に育てるための厳しさではなかった。秋になれば「お国」へと差し出さねばならぬ肉体を、それまでの間、ただ機械的に役目へ嵌め込んでおくための作業に過ぎなかった。

正一はノミを握る右手に力を込めながら、目の前の木肌ではなく、胸の奥底にある闇を見つめていた。

作業場の壁には、あの二本の樫の杖が並んで立てかけられている。

兄の乾燥しきった白い杖と、正一の血と泥を吸って黒光りする杖。

昼間、父の目が逸れた隙に、正一はそっと己の杖に触れた。

木肌の凹凸に指先を滑らせると、そこには昨日の山頂の冷気と、お雪の指先の震えが、まだ微かな凹凸となって刻まれているように感じられた。下界の大人たちがどれほど正一の肉体を「 兵隊の型へ嵌め込もうと、この杖に刻まれた感触だけは、誰にも奪うことのできないものだった。

夕刻になり、父が「今日はここまでだ」と作業を切り上げた。

正一は汗と木粉にまみれた身体のまま、家を抜け出した。

向かったのは、村の端にある古い祈祷所の裏手――お雪の家へと続く、小高い竹林の影だった。

村の子供たちは昔からこの場所を「祟りがある」と恐れて近づかず、大人たちも不浄の地として忌避していた。だが、今の正一にとって、この打ち捨てられた竹林の暗がりだけが、唯一呼吸を許される場所だった。

竹葉が風にそよぐ音を聞きながら佇んでいると、竹林の奥から「ずざり……ずざり……」と、濡れた衣が湿った土を擦る微かな音が近づいてきた。

正一は息を飲んで振り返った。

そこに立っていたのは、昨日と同じ、破れて黒泥の染みついた白装束を纏ったお雪だった。

彼女は下界へ戻ってからも、あの不浄の衣を脱ぎ捨ててはいなかった。大人たちからどれほど咎められようと、彼女はこの衣を着続けることで、御笠山で得た破滅の契りを全身で保持し続けていたのだ。

二人は言葉を交わさなかった。

近づき、ただ静かに互いの身体を寄せ合った。

お雪の体からは、いまなおあの御笠山の腐葉土の匂いと、冷たい雨水の匂い、そして生々しい血の香りが漂っていた。

お雪の手が伸びてきて、正一の手のひらをそっと包み込んだ。

お雪の指先は氷のように冷たかったが、正一の掌の傷口に触れた瞬間、そこから焼きつくような熱がふたりの脈を通じて走り抜けた。

お雪がそっと手を開いて見せた。

彼女の白磁のような掌の上には、昨日、長床の板の間から彼女が静かにすくい上げた、あの御笠山の小さな黒い土の粒が、大切に包まれて乗せられていた。

「正ちゃん……」

お雪の唇が微かに動いた。

「これがある限り……私たちは、あっちの世界には行かないよ」

彼女の瞳は、天満宮の境内で見せたあの硝子玉のような冷たさを完全に消し去り、山頂と同じ、狂おしいほどの生の暗光を宿していた。

正一はお雪の掌ごと、その黒い土の粒を己の手で強く握りしめた。

土の粒が二人の傷ついた皮膚に食い込み、小さな痛みが走る。

「ああ……行かない」

正一は深く頷いた。

「僕たちの肉体がどこへ連れて行かれようと……僕たちの魂は、この黒い土の底でずっと抱き合ったままだ」

竹林を吹き抜ける風が、竹葉を激しく鳴らした。

遠く天満宮の社頭からは、夕刻の出征送別の太鼓の音が、地鳴りのように低く響いてきていた。

下界はこれから、戦時という巨大な狂気の中へ、若者たちを呑み込みながら突き進んでいくのだろう。正一もまた、その渦中へと投げ出され、海の向こうの戦地へと送られる運命から逃れることはできない。

しかし、正一の心には、もう一点の恐れもなかった。

お祝いの赤飯の血の赤に恐怖し、国の型に怯えていた気弱な少年は、御笠山の山頂で一度死に絶えたのだ。

今ここにいるのは、お雪とともに不浄の泥を噛み、現世のあらゆる美しい嘘を拒絶した、二人だった。

二人は夕闇が竹林を完全に呑み込むまで、言葉もなく、ただ互いの体温と手のひらの痛みを確かめ合うように、固く抱き合い続けていた。

足元に落ちた梅の花弁は黒泥に塗れ、不吉な斑模様を描いたまま、静かに夜の闇へと消えていった。


第七章 光の降り注ぐ場所


第一節

昭和二十一年、春。

終戦から半年余りが過ぎた筑紫の地は、かつて国という巨大な機構が放っていた重苦しい緊張感を嘘のように喪失し、無防備な虚脱感と、どこか饐えた復興の匂いに包まれていた。

天満宮の参道沿いには、出征兵士を送り出した「祝武運長久」の幟旗や軍歌のレコードの音はすでに影を潜め、代わりに米軍のトラックが撒き散らすガソリンの匂いと、闇市から立ち昇る粗末な副食の煙が混ざり合って漂っている。

正一は、大工の作業場の土間にぽつんと腰を下ろし、自分の右手を見つめていた。

南方戦線の過酷な密林を生き延び、復員船に揺られてこの村へ辿り着いてから二か月。

彼の右手には、銃を握り続けたことで固くなったタコと、あの昭和十七年の春に御笠山の樫の杖によって刻まれた、引き攣れたような深い掌の傷痕が、なおもくっきりと残されていた。

「正一」

奥の母屋から、年老いた父の弱々しい声が聞こえた。

戦時中、正一の背中に「お国の型に嵌まれ」と冷酷な言葉を浴びせ続けていた父は、終戦と同時に急激に老い衰え、今では大工の道具を握ることすらできなくなっていた。国家という後ろ盾を失った父は、ただの哀れな老人に成り果てていた。

「作業場の片付けは終わったか……。兄上の……兄上の杖は、どうした」

「……壁に掛けてあります」

正一は低く答えた。

作業場の奥の柱には、戦場から戻ることのなかった兄の、乾ききった白い樫の杖と、正一が持ち帰ったあの黒光りする樫の杖が、今も変わらず並んで立てかけられていた。

終戦によって、兄の死は「英霊の誇り」から「無駄死に」へと価値を反転させられ、村人たちは掌を返したように過去の狂騒を忘れようとしていた。しかし、正一にとって、あの戦争の地獄の中で自分を繋ぎ止めていたのは、国家の掲げた大義などでは一切なかった。

(あの泥の温もりだ……)

密林を叩く驟雨に打たれ、泥水に這いつくばりながら死の恐怖に震えていた夜、正一の脳裏を支配していたのは、常に御笠山の山頂で交わした、お雪の燃えるような手の熱と、お椀の赤飯を濡らした自分の血の味だった。

正一はおもむろに立ち上がり、壁から自分の樫の杖を取り外した。

数年間の歳月を経てもなお、その杖は正一の掌にしっくりとなじみ、皮の剥けた記憶を呼び覚ます。

正一は父に声をかけることもなく、作業場を出て、天満宮の境内へと向かって歩き出した。

境内は、かつての厳格な神域の雰囲気を失い、疎開先から戻ってきた子供たちが駆け回り、春の陽光が境内の老梅の枝を柔らかく包み込んでいた。

正一は参道を抜け、うっそうとした梅林の影を通り、あの小高い竹林のほうへと足を向けた。

村の人々がかつて「不浄の地」「穢れの祈祷所」と呼んで忌避していたその場所は、終戦を経て大人たちの威圧的な視線が失われたことで、ただの静かな竹林へと戻っていた。

竹葉が春の穏やかな風に揺れ、「さらさら」と優しい音を立てている。

正一が竹林の小径を奥へ進むと、日当たりの良い古い石垣のほとりに、一人の女性が佇んでいた。

白地に淡い草花が描かれた、素朴だが清潔な着物を纏った女性――お雪だった。

彼女はもう、あの破れて泥に塗れた不吉な白装束を着てはいなかった。

だが、その背筋の伸ばし方、そして春の光を跳ね返すような白磁の肌は、あの御笠山の闇を通り抜けた者だけが持つ、静かな清らかさを纏っていた。

お雪が振り向いた。

二人の視線が、静かに交差する。

そこには、あの下山時に漂っていたような、お互いを泥の中に引きずり込もうとする狂気や、下界の大人たちに対する憎悪の色はもうなかった。

お雪の大きな瞳には、ただどこまでも深く、澄み渡った春の光が宿っていた。

「……正ちゃん」

お雪が静かに微笑んだ。その声は、かつての悲鳴や掠れ声ではなく、春の風のように清らかに正一の胸へと届いた。

「無事で……よかった」

正一は無言で頷き、右手にある樫の杖を強く握りしめた。

二人がかつて「不浄」と呼び、「破滅」として抱きしめたあの御笠山の黒い泥と血の記憶。それが今、戦後の虚無のただ中で、二人の命を救い出し、新しく生き直すための何かへと姿を変えようとしているのを、正一は肌で感じていた。


第二節

竹林を吹き抜ける春風が、陽光に透ける幼竹の葉をさらさらと揺らしていた。

正一はお雪の前に歩み寄り、手に持っていた樫の杖を地面に突いた。

「コツン」と鳴ったその硬い音は、かつて下界の大人たちに怯えながら響かせていた重苦しい不吉さを完全に失い、清々しい春の静寂の中に静かに溶けていった。

お雪の視線が、正一の握る樫の杖と、その掌に刻まれた深い傷痕へと注がれた。

「その手……戦地でも、ずっと痛んでいたのでしょう」

お雪がそっと手を伸ばし、正一の右手を包み込んだ。

彼女の手は、あの御笠山の雨の中で凍え切っていた冷たさでもなく、破滅を求めて燃え上がっていた熱さでもなかった。柔らかな日差しをその身に蓄えたような、温かく、生命力に満ちた温もりが、正一の傷ついた皮膚からゆっくりと体内へ染みわたっていく。

「痛むたびに……お雪のことを思い出していた」

正一は溢れ出る思いを噛みしめるように、低く呟いた。

「南方での毎日は、人間が人間でなくなるような惨状だった。弾丸が飛び交い、仲間が一人、また一人と泥の中に沈んでいく……。だが、僕が最後まで正気を失わずに済んだのは、この手に残るあの山の傷と、お雪の手の感触があったからだ」

正一は深く息を吐き出し、竹林の隙間から覗く青空を見上げた。

「あの頃、僕たちはあの御笠山の黒い泥を『自分たちの破滅の証』だと思い込んでいた。下界の大人たちが強いる『清く正しい英霊』としての死を拒むために、自ら穢れの中へ飛び込もうとしていたんだ。でも……本当は違っていた」

「違っていた……?」

お雪が大きな瞳を瞬かせ、正一を見つめ返した。

「ああ。あれは破滅の誓いなんかじゃなかった。どんなに国が滅び、世界が狂おうと、僕たちがお互いを一人の人間として求め合い、生きて愛し合うための……道しるべだったんだ」

正一の言葉に、お雪の目から大粒の涙が溢れ出た。

しかし、その涙はあの下山時に流した、絶望に満ちた涙ではなかった。春の光を浴びてキラキラと輝く涙は、彼女の白磁のような頬を伝い、足元の青々とした草むらへと落ちていった。

「私ね、正ちゃん」

お雪が涙を拭い、照れくさそうに微笑んだ。

「正ちゃんが戦地へ行っている間、私、ずっとこの祈祷所の裏で、あの山から持ち帰った黒い土を握りしめて祈っていたの。天神様のためじゃない……正ちゃんが、生きて帰ってきてくれるためだけに」

お雪は着物の袖から、小さな布袋を取り出した。

使い古された木綿の布袋には、かつて彼女が下界の長床からそっと持ち帰った、御笠山の黒い土が一握り、大切に包み込まれていた。

「村の人たちは、終戦になってから『天神様も嘘だった』『自分たちは騙されていた』って、急に神様や国を呪い始めたわ。でも私、一度もあの山を、あの日の出来事を呪ったりしなかった。だって……あの日、あの泥の中で正ちゃんと出逢えたからこそ、私は本当の私になれたんだもの」

お雪は布袋の口を解き、掌に黒い土をあけた。

御笠山の黒土は、数年の歳月を経て乾燥し、固く小さくなっていたが、二人の目の前に出されると、太陽の光を浴びて温かな土の匂いを放ち始めた。

お雪はその土を、竹林の脇にある新しい柔らかい日だまりの土の上へと、静かに撒いた。

黒い土は春の陽光の中でサラサラと解け、芽吹き始めた若草の根元へと吸い込まれていく。かつて二人を死と破滅へと誘う「穢れ」の象徴であった黒泥は、今や新しい命を育むための、豊かで温かな大地の一部となった。

「もう……泥の中に隠れる必要はないんだね」

お雪が正一の顔を見上げ、晴れやかに言った。

「ええ。これからは、光の中で生きていこう」

正一は樫の杖を強く握り直すと、お雪の手を固く取った。

ふたりの掌が重なり合い、戦後の新しい風が竹林を駆け抜けていく。

かつて彼らを縛り付けていた天満宮の呪縛も、国という巨大な怪物も、いまや過去の幻影に過ぎなかった。

二人の足元には、御笠山の深い闇を乗り越えた者だけが踏みしめることのできる、明るい道が広がっていた。


第三節

竹林を抜けると、まぶしいほどの陽光が二人の視界を埋め尽くした。

参道へと続く坂道からは、かつて二人の胸を押し潰していたあの天満宮の甍が望めた。

しかし、あの春、御笠山の山頂から見下ろした時の、冷酷で不気味な威容はどこにもない。終戦の混乱を経て、軍国主義の威圧的な色彩を剥ぎ取られた境内は、ただの古びた歴史ある社として、柔らかな春霞の中に佇んでいた。

「変わったね……天満宮も」

お雪が小さく呟いた。

「ああ。変わったんじゃない、あっちが『素の姿』に戻ったんだ」

正一は右手に握りしめた樫の杖に少しだけ重みをかけながら答えた。

「僕たちを縛り付けていたのは、天神様そのものじゃなくて、時代や大人たちが勝手に作り上げた『綺麗事』だったんだよ。お国のためだとか、英霊の母だとか……そういう嘘の服を着せられて、僕たちは呼吸ができなくなっていた」

参道の脇では、かつて国防婦人会の女たちが大釜を囲んで不気味な笑みを浮かべていた場所に、近くの子供たちが集まり、泥だらけになってメンコ遊びに興じていた。

子供たちの上げる無邪気な歓声と笑い声が、春の空高く吸い込まれていく。

そこにはもう、十六歳になった途端に朱線を引かれ、死の穴へと突き落とされるような恐怖の影は一切存在しなかった。

正一とお雪が並んで参道を歩いていくと、農作業の手を休めた村の老人たちが、二人の姿に気づいて視線を送ってきた。

かつてお雪を「不浄の娘」と忌み嫌い、正一を「予備の英霊」としか見なかった大人たちの目には、いまや歪んだ偏見も狂信的な光もなかった。そこにあったのは、戦争という過酷な暴風を生き延び、傷つきながらも地に足を落として歩む若い二人に対する、静かな労りと安堵の眼差しだった。

「正一さん、お雪さん……暖かくなりましたな」

道端で薪を割っていた近所の老人が、腰を伸ばして穏やかに声をかけてきた。

「ええ……本当に、いい春ですね」

正一は足を止め、真っ直ぐに老人を見つめて返した。

かつて下界の大人たちの視線から逃げるように伏せられていた正一の瞳は、いまや一点の陰りもなく澄み渡っていた。

老人は正一の右手にある黒光りする樫の杖に目を留め、懐かしそうに目を細めた。

「その杖……御笠山の十六詣りの時のものだな。大変な時代だったが……あんたらがこうして生きて戻ってくれて、本当に良かった」

「ありがとうございます」

正一はお雪と顔を見合わせ、静かに頭を下げた。

二人が歩みを進めると、参道沿いに植えられた梅の木々が、青々とした若葉を風に揺らしていた。

満開の花びらが散り、不吉な赤飯の上や泥の上に落ちていたあの春から数年。季節は巡り、梅の木々は花を咲かせる役目を終えて、次の生命を育むための力強い緑を湛えている。

お雪が足をとめ、その新緑の枝にそっと触れた。

「正ちゃん……私、この梅の匂い、ずっと嫌いだった」

お雪は微笑みながら、柔らかい若葉の葉脈を指先で撫でた。

「天満宮の梅の匂いは、私を『巫女の綺麗な人形』に閉じ込めるための匂いだったから。でも……今の若葉の匂いは、すごく好き。泥の匂いと同じくらい、生きている匂いがする」

お雪の言葉に、正一は胸の奥が熱くなるのを感じた。

二人があの極限の山頂で交わした血と泥の契りは、決して二人を闇へ引きずり下ろすための呪いなどではなく、現世のあらゆる毒を耐え抜き、新しい春を迎えるための足場となったのだ。

正一はお雪の腰にそっと手を回し、彼女の柔らかな体温を確かめた。

「行こう、お雪。僕たちの家へ」

「うん……正ちゃん」

二人は二度と後ろを振り返ることなく、陽光の降り注ぐ参道を通り抜け、自分たちの新しい生活が待つ場所へと、力強い一歩を踏み出して行った。


第四節

天満宮の参道を後にした二人は、村の東外れにある、かつて大工の作業場であった一角へと向かった。

父が倒れ、職人としての役目を終えて以来、静まり返っていたその作業場には、すでに新しい木々の匂いが満ちていた。屋根の一部は終戦直後の台風で傷んでいたが、正一は復員してからの二か月間、空いた時間を見つけては手に入れた材木を削り、自分の力で修理を重ねていたのだった。

作業台の上には、正一が丁寧に刃を研ぎ澄ませたカンナやノミ、そして新しく仕入れた杉の角材が並んでいた。

父の代までのように、国の要請による軍需品や、若者たちを死地へ送るための神棚を作る道具ではない。そこに置かれているのは、戦後の混乱期の中で、傷ついた家々を建て直し、人々が暮らすための道具だった。

「正ちゃん、ここ……ずいぶん明るくなったね」

作業場の入口に立ったお雪が、感嘆の声を上げた。

かつて父が威圧的な背中で日差しを遮り、暗がりの中に二本の樫の杖が不吉に佇んでいた土間には、壊れた板壁を正一が取り払ったことで、春の陽光がどこまでも真っ直ぐに差し込んでいた。

「風通しを良くしたんだ」

正一は作業台の脇に近づき、自分の右手をかざした。

「父さんは僕に家の型を継がせようとした。でも、僕は父さんの真似をする気はない。これからは、僕が僕の足で立ち、お雪と一緒に生きていくための大工仕事を始める」

正一はおもむろに、壁の柱に目を向けた。

そこには、あの戦場へ散った兄の乾いた白い樫の杖と、正一が御笠山から持ち下り、南方の密林をも共にくぐり抜けてきた、あの黒光りする樫の杖が掛けられていた。

二本の杖は、差し込む陽光を浴びて、静かにたたずんでいる。

正一はゆっくりと手を伸ばし、自らの黒い樫の杖を柱から取り外した。

そして、作業台の上に固定された一本の太い杉の角材の上に、その杖をそっと置いた。

「正ちゃん……何を?」

お雪が不思議そうに覗き込んだ。

正一は答える代わりに、使い慣れた鋸を手にとった。

「この杖は、あの春、御笠山の山頂で僕とお雪の命を繋ぎ止めてくれた。……だからこそ、もう杖の形のまま壁に飾っておく必要はない」

正一は鋸の刃を、樫の杖の太い幹へとあてがった。

「ギィ、ギィ」と、堅い樫の木肌を断ち切る乾いた金属音が作業場に響き渡る。

数年間、正一の手の汗と血、御笠山の黒泥、そして南方戦線の雨水を吸い込み続けた樫の木は、鋸の刃を跳ね返すほどに堅牢だった。しかし、正一が右手の傷痕に力を込め、一心不乱に引き進めると、やがて「みちみち」と音を立てて、二つに裁断された。

切り口からは、数年間閉じ込められていた、あの御笠山の深い森と濃霧の匂いが、かすかに立ち昇った。

正一はその断ち切られた樫の木をノミで削り、カンナで丁寧に表面を整えていった。

ノミを打つたびに、硬い木片が「からん」と土間に落ちる。

正一の指先は驚くほど繊細に、かつ力強く動き、一刻一刻と木塊の形を変えていく。

お雪は息を殺し、正一のその手元をじっと見つめていた。

正一の掌の引き攣れた傷口から汗が滲み、それが削り出されていく樫の肌へと滴り落ちる。

やがて、陽が西に傾き始め、作業場全体が温かなオレンジ色の夕光に包まれる頃——。

正一の手の中に、一つの小さな木彫りの像が姿を現した。

それは、特定の神仏の形をした偶像ではなかった。

二人の人間が、嵐の中でしっかりと肩を寄せ合い、互いの身体を抱きしめ合いながら、地の中に強く根を張っているかのような、流線型の素朴な抽象の姿だった。

「できたよ……お雪」

正一は息を整え、完成した木像をお雪の両手の上へとそっと手渡した。

お雪はその木像を掌で受け取ると、愛おしそうに指先でその滑らかな木肌を撫でた。

かつて己の手のひらを刃物で傷つけ、血を流すことでしか生を実感できなかったお雪の指先が、正一の削り出した木像のぬくもりを、優しく、確かに感じ取っている。

「温かい……」

お雪の目から、一滴の涙がこぼれ落ち、木像の頭頂部に染みを作った。

「正ちゃん……この像、あの日私たちが山頂で抱き合っていた時の形と同じだね」

「ああ」

正一はお雪の肩を抱き寄せ、深く頷いた。

二人は作業台の脇に立ち、夕陽が沈みゆく筑紫の山並みを見つめた。

壁に残された兄の白い杖は、過ぎ去った時代の記憶として、静かに影を落としている。

しかし、正一の手にあった黒い杖は、いまや二人の手の中で、新しい形を得て息づいていた。


第五節

夕闇が静かに筑紫の平野を包み込み、遠く聳える御笠山の稜線が、深い群青色の空に鮮やかな影を描き出していた。

作業場の窓からは、春の夜風がそっと吹き込み、削り立ての杉と樫の香ばしい匂いを室内へ運んでくる。

正一とお雪は、作業台の上に置かれた小さな木像を、ただじっと見つめていた。

正一が削り出し、お雪の涙で湿ったその木像は、夕闇の静寂の中で、仄かな温もりを放っているように見えた。

「正ちゃん」

お雪が静かに口を開いた。その声は鈴の音のように清らかで、夜のしじまへ柔らかく染み込んでいく。

「私ね……あの山から下りてきた日、本当は死のうと思っていたの」

正一は息を飲み、お雪の横顔を見つめた。

お雪の瞳は遠い記憶を辿るように、窓の外の御笠山へと向けられている。

「村の人たちから『不浄の娘』と呼ばれ、祈祷所の暗がりで大人たちの身勝手な祈りを聞かされる毎日……。私が十六になったら、天満宮の綺麗な人形として死ぬか、狂って死ぬかのどちらかだと思っていた。だから、あの十六詣りの日、御笠山の谷底へ身を投げようとしていたの」

お雪の細い指先が、正一の右手をそっと包み込んだ。

「でもね……正ちゃんが私の手を取ってくれた。あの雨の中で、手から血を流しながら、私の名前を何度も呼んでくれた。あの時、私をこの世界に繋ぎ止めてくれたのは、正ちゃんの温かい手だったのよ」

お雪の目から、溢れ出た涙が幾筋も頬を伝った。

正一は何も言わず、お雪の身体を強く引き寄せ、抱きしめた。

正一の胸の中でも、熱いものがこみ上げていた。

あの日、父の求める「家の型」や「国の兵隊」という重圧に押し潰され、自分という存在を見失いかけていた正一に、生きる意味を与えてくれたのは、他でもない、お雪の破れかけた白装束と、その激しい魂の叫びだった。

「お雪……ありがとう」

正一の声が震えた。

「僕を生かしてくれて……無事に僕のところへ帰ってきてくれて、本当にありがとう」

二人は肩を寄せ合い、互いの体温を確かめ合うように、静かに涙を流し続けた。

やがて夜が深まり、空には満天の星が瞬き始めた。

天満宮の境内からは、夜警の鳴らす木魚の音が「ぽく、ぽく」と優しく響いてくる。かつて正一の耳に重苦しく届いていたその音は、今や穏やかな夜の調べのように心地よかった。

正一はお雪の手を取り、作業場を出て、土間の外の庭へと出た。

春の夜空の下、二人で手を取り合って立つ。

足元には、数年前に散り落ちた梅の花弁や赤飯の泥が混ざり合い、今では豊かで柔らかな黒土となって、新しい草花の芽を育てていた。

正一の右手には、あの引き攣れた傷痕がくっきりと残っている。

お雪の心にも、消えることのない時代の傷痕が刻まれている。

「正ちゃん、明日から、忙しくなるね」

お雪が正一の腕に頭を預け、嬉しそうに微笑んだ。

「ああ。村の子供たちのための小さな机や、新しく建て直す家の柱を、たくさん削らなきゃいけない」

正一はお雪の髪に優しく触れた。

「僕の手は、もう人を傷つけるための道具じゃない。お雪を守り、この村に新しい風を呼び込むための手だ」

御笠山から吹き下ろす夜風が、二人の髪を柔らかく撫でて去っていく。

その風の中には、あの日二人が山頂に残してきた恐怖や狂気の匂いはもう一切なかった。あるのは、新緑の芽吹きを促す、清々しい命の息吹だけだった。

二人はしっかりと手をつなぎ直すと、どこまでも広がる夜空と、その先にある明日という光に向かって、深く、深く息を吸い込んだ。

過酷な時代を生き抜き、互いの手を離さなかった二人の頭上には、柔らかく暖かい春の光が、静かに降り注いでいた。


(完)

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