5.武の枢機
むせ返るような血の匂いと、焼け焦げた瓦礫の臭い。
数時間前まで、王都の裏社会を牛耳る莫大な富が動いていた地下オークション会場は、今や完全な地獄絵図と化していた。
「……ひどい有様だ」
遅れて現場に到着した『真実の騎士』レオンは、白銀のブーツで血だまりを踏み越えながら、苦々しく呻いた。
会場のあちこちで、マクシムが雇っていた精鋭の護衛たちが、文字通り「ミンチ」にされて転がっている。そして生き残った特権階級のVIP客たちは、誰も彼もが虚ろな目をして、ただひたすらに「マクシム枢機卿の罪」を壊れた念仏のように唱え続けていた。
さらに奥へ進んだレオンの目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
「レ、レオン団長……。こちらです。マクシム猊下のご遺体が……」
青ざめた部下の騎士が指差した先。
そこには、床に仰向けに倒れ、白目を剥いて絶命しているマクシム枢機卿の姿があった。
その死に顔は、極限の苦痛と絶望に歪んでいる。
無理もない。彼の大きく開かれた口の中には、本来彼の十指を飾っていたはずの大粒の宝石が、喉の奥までびっしりと詰め込まれていたのだから。
「自らの財産を吐き出し、自らの富を喉に詰まらせて死ぬ、か。……ノア、お前は本当に、修羅の道に堕ちてしまったんだな」
レオンが悲痛な面持ちでマクシムの死体を見下ろした、その時だった。
ズォンッ!!
背後の壁が、爆発でも起きたかのように吹き飛んだ。
「――遅いぞ、駄犬」
もうもうと舞い上がる粉塵を裂いて現れたのは、身の丈二メートルを優に超える、筋骨隆々の巨漢だった。
豪奢な法衣など着ていない。上半身に歴戦の傷跡が刻まれた分厚い鋼の鎧を纏い、身の丈ほどもある巨大な戦斧を肩に担いだ男。
王都の軍権を完全掌握する、教会最強の武力。
【六枢機】が一人、武の枢機・バルド。
「バ、バルド猊下……!」
周囲の騎士たちが一斉に青ざめ、膝をつく。
バルドは怯える騎士たちを一瞥すらせず、重い足取りでレオンの眼前に立った。その圧倒的な巨躯から放たれる威圧感は、息をするのすら困難なほどだ。
「貴様の仕事はなんだ、レオン」
地を這うような、重低音の声。
「……六枢機たる猊下方の御身を守り、教会に仇なす異端を排除することです」
「ならば、なぜこの二日間で二人の枢機卿が死んでいる?」
ガンッ!!
バルドの丸太のような腕が振り抜かれ、レオンの腹部を容赦なく殴り飛ばした。
「がはっ……!」
王国最強の騎士であるレオンの体が、くの字に折れ曲がって瓦礫の山に激突する。
普通なら避けるか防御できる一撃だが、相手は六枢機。レオンの首に刻まれた『絶対隷属の呪印』が、彼から一切の抵抗と回避行動を禁じているのだ。
「ぐ、ぅぅ……ッ」
「王国最強?『真実の騎士』?笑わせるな。貴様はただの首輪のついた犬ッコロだ。飼い主が次々と殺されているのに、現場に到着して死体を見下ろすのが貴様の仕事か?」
バルドはマクシムの死体をブーツの底で無造作に蹴り転がした。
「まあいい。こんな金と権威に縋るだけの脂ぶとりが死のうが、どうでもいいことだ。だが……教会の威信に泥を塗ったコソ泥は、この俺が直々に叩き潰す」
バルドが戦斧を肩から下ろし、石畳にドンッと突き立てる。
「犯人は分かっているのだろうな、レオン」
「……ノア・ヴェイン。十年前の、反逆事件の生き残りです」
レオンが血を吐きながら答えると、バルドは「ほう」と太い眉を動かした。
「あの時の小僧か。だがあんなガキ一人の武力で、六枢機が二人も殺せるわけがねぇ。なるほど、バルバロスもマクシムも、正面からの戦闘ではなく、何か小賢しい罠か毒でハメられたというわけだ」
バルドの顔に、凶悪な笑みが浮かぶ。
「小細工を使うネズミは、迷路で追いかけてはならん。迷路ごと巨大なハンマーで叩き潰せばいいのだ」
「な……バルド猊下、まさか……」
「明日、俺の直属の私兵団三千を動かす。ネズミが潜んでいそうな王都の地下水路、および貧民街一帯を、丸ごと軍隊で包囲し、焼き払え。焦げ出されたネズミを、俺の斧で三枚おろしにしてやる」
あまりにも暴力的な、そして圧倒的に理不尽な制圧作戦。
「お待ちください!貧民街を焼けば、罪のない数万の領民が……!」
「黙れ駄犬」
バルドの目が、殺意でギラリと光った。瞬間、レオンの首の呪印が焼け焦げるような激痛を発し、彼の声を強制的に奪う。
「これは『戦争』だ。俺に小細工は通用せん。……せいぜい首輪を引きちぎられないよう、俺の後ろで尻尾を巻いて震えていろ」
暴虐の巨漢は、高らかに嗤いながらオークション会場を後にした。
レオンは瓦礫に倒れ伏したまま、親友に迫る圧倒的な「暴力」の脅威に、ただ血の涙を流すことしかできなかった。
◆
同じ頃。
王都の地下水路のさらに奥深く、誰も寄り付かない巨大な忘れられた空間に、俺たちの隠れ家はあった。
「お帰りなさいませ、ノア様ぁっ!さあさあ、今すぐその薄汚れた麻袋を脱いで、私と一緒に薔薇の香る湯舟へ――」
「後だ。まずはノエルの様子を見てくる」
背後から抱きつこうとしてきたシトリーの顔面を手のひらで制し、俺はアジトの最も奥にある、厳重に魔術結界が張られた部屋の扉を開けた。
キィ……。
仄暗いランプの灯りだけが照らす、清潔だがどこか寒々しい部屋。
その部屋のベッドの隅で、一人の少女が膝を抱えて丸まっていた。
「……ノエル。起きてるか?」
俺が優しく声をかけると、少女の肩がビクッと跳ねた。
栗色の美しい髪。だが、その髪の間から覗く彼女の顔の右半分は、見るも無惨に赤黒く焼け爛れ、痛々しい引きつれを残している。
かつて俺の婚約者であり、レオンのたった一人の妹だった少女。
十年前の六枢機による放火事件で、炎の下敷きになった彼女は、顔と心に決して消えない深い傷を負ってしまった。
「あ……ノア、さま……?」
ノエルが、怯えた小動物のような目でこちらを見る。
彼女は重度の男性恐怖症……いや、人間不信に陥っており、自分を炎の中から救い出してくれた俺以外の人間が近づくと、パニックを起こして気を失ってしまうのだ。
「ああ、俺だ。遅くなって悪かったな。発作は起きていないか?」
俺がベッドの傍にしゃがみ込み、彼女の火傷のない左側の頬をそっと撫でると、ノエルはすがりつくように俺の手に自分の手を重ねてきた。
「よかった……ノア様が、帰ってきてくれた……。私、また……炎の夢を見て……お兄様が、私を置いていって……」
ポロポロと大粒の涙を流すノエル。
レオンは、呪印のせいで彼女に近づくことすら許されなかった。その事実が、何も知らないノエルの心をさらに深く抉っている。
「大丈夫だ。レオンはお前を見捨てたわけじゃない。……俺が必ず、あいつの呪縛を解いて、お前の元に連れ戻す」
「ノア様……」
「それと、ノエル。お前の顔に火傷を負わせた連中も、俺が必ず全員地獄へ叩き落とす。だから、お前はここで安心して寝ていればいい」
俺がそう言って微笑むと、ノエルは少しだけ安心したように目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
(……待っていろよ、レオン。必ず俺が六枢機を全滅させ、お前の呪いを解除する。それまでは……意地でも死ぬなよ)
俺は眠りに落ちたノエルに毛布を掛け直し、静かに部屋を出た。
「……ノア様。ノエル様はお眠りになられましたか?」
部屋の外では、先ほどまでの狂気じみたテンションを引っ込めたシトリーが、真剣な表情で控えていた。
「ああ。……それで?マクシムの後の、王都の動きはどうなっている」
俺が尋ねると、シトリーは冷酷な吸血鬼の顔に戻り、報告を始めた。
「王都の夜空に放っている私の『眷属の蝙蝠たち』から、先ほど報告が入りましたわ。……どうやらバルバロスとマクシムの連続死を受け、教会の軍部がついに本格的に動くようです」
「軍部が?」
「ええ。明日の朝を以て、武の枢機・バルドが率いる私兵団三千が、このスラム街を完全に包囲。ノア様を炙り出すために、街ごと焼き払う作戦に出るとのことですわ」
「……軍隊三千で、街ごと放火か。マクシムのように知略や見栄で動く連中とは真逆の、純粋な『暴力』だな。それに迅速だ」
俺は壁に立てかけられた作戦盤を睨みつけた。
俺の『天秤の制約』は、相手に「嘘」を吐かせなければ発動しない。
交渉の余地もなく、ただ問答無用で軍隊による蹂躙を仕掛けてくる相手に対しては、俺の能力は相性が悪すぎるのだ。
「ふふっ。お困りですか、ノア様。ならば、私にお任せを」
シトリーが妖艶に微笑み、血のような赤い爪を舐めた。
「吸血鬼の私を舐めないでいただきたいですわね。私一人で前線に出向き、一晩で三千人全員の血を啜って、干からびたミイラにして差し上げましょうか?」
「ダメだ。却下する」
俺は即答した。
「ええー?なぜです?」
「お前は俺の護衛として、俺の半径五メートル以内から絶対に離れるな。お前が軍隊の相手をするために前線に出れば、俺の護りが薄くなる。……その隙を突いて、確実にレオンが単独で俺の首を取るために突っ込んでくるからだ」
俺の言葉に、シトリーの顔から余裕が消える。
「明日の包囲戦には間違いなくレオンも来る。王国最強の騎士の武力と、奴を縛る『呪印の強制力』を舐めるな。お前が隣にいなければ、今の俺はレオンに一秒で殺される」
「その謎の自信はなんですか……とはいえ、あの白銀の駄犬ですか。本当に忌々しいですわね」
シトリーが不貞腐れたように腕を組む。
「ならば、どうなさいますか?まさか、正面から筋肉ダルマと力比べをするわけにもいかないでしょう?」
「ああ。相手が力ずくで盤面をひっくり返そうとしてくるなら……俺たちは、その暴力の方向を少しだけズラしてやればいい」
俺は作戦盤の王都の地図に、赤いナイフを一本突き立てた。
「脳筋には脳筋の脆さがある。……武の枢機バルド。あいつのその強大すぎる暴力と傲慢さを利用して、奴自身を自滅の罠にハメてやる」
第三の標的、バルド。
嘘の通用しない絶対的な暴力を前に、最弱の復讐者の新たな反逆が始まろうとしていた。




