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サブスク地獄——空気も記憶も感情も月額課金の時代に破産したので、全部解約してみた

掲載日:2026/03/17

一 世界のすべてに月額がかかる


 西暦4200年。

 人類は偉大だ。


 恒星間航行を実現し、太陽系の外に植民し、銀河の片隅に小さな文明圏を築いた。

 ナノマシンのおかげで寿命は150年まで延びたが、それもサブスク次第だ。疾病は根絶され、労働はAIが代行し、全人類が「何もしなくていい」時代が来た。


 ——で、何もしなくていい人類が何をしたかというと、あらゆるものにサブスクリプションをつけた。


 空気。

 月額500クレジット。


 呼吸用の大気組成は惑星管理AIが制御している。タダではない。サーバーの維持費がかかる。だから月額。解約すると、居住区の大気供給が個人単位で停止される。窒息するわけではない。共用の大気はある。ただし、共用大気は「広告付き」だ。呼吸するたびに鼻腔の奥で広告が再生される。


 ——吸うたびに「新発売! プレミアム酸素パック、今なら初月無料!」と聞こえる生活を想像してほしい。全人類が課金した。


 重力。

 月額300クレジット。


 植民惑星の重力は人工制御だ。地球標準の1Gを維持するには、個人端末との同期が必要。解約すると、自分の周囲だけ0.8Gになる。歩けなくはないが、コーヒーの波立ちが異様に大きくなる。スープが変に跳ねてこぼれる。靴紐が勝手にほどける。地味にストレスが溜まる設計になっている。


 ——「解約してもいいですけど、生活の質は保証しません」。これがサブスクの基本戦略だ。


 記憶。

 月額1,000クレジット。


 人類の記憶は、脳内のナノマシンで管理されている。ナノマシンの維持にはクラウドサーバーとの同期が必要で、同期にはサブスクリプションが必要。解約すると、ナノマシンが管理していた記憶——個人の体験や思い出——が段階的に揮発する。最初に消えるのは直近の記憶。やがて、古い記憶も薄れていく。名前も、顔も、声も——全部、溶けるように消えていく。ただし、言語や社会常識といった基礎知識は生体脳に定着しており、サブスクの管理外だ。


 感情。

 月額800クレジット。


 これが一番えげつない。感情の振幅をナノマシンが制御しており、サブスクの等級によって「感じられる感情の幅」が変わる。月額800クレジットのプレミアムプランなら喜怒哀楽すべてフル稼働。月額400クレジットのスタンダードなら、感情の起伏が制限され、深い絶望も大きな歓喜もカットされる。何を見ても「まあまあ」という感想が精一杯。ベーシックになると、感情の振幅がほぼゼロになる。解約すると——何も感じなくなる。


 他にも、味覚、嗅覚、色覚、夢、直感、やる気、恋愛感情、ノスタルジー——ありとあらゆる人間の機能がサブスクリプション化されている。


 人類は偉大だ。宇宙を征服し、疾病を克服し、あらゆる不便を解消した。

 ——その代わりに、存在のすべてに月額がかかるようになった。



二 破産


 レン・マクファーレンは、実質的に破産した。


 32歳。惑星ノヴァ・テラの第七居住区在住。職業はなし——というか、この時代に職業という概念はほぼ消滅している。AIが全部やる。人間に残された仕事は「消費すること」と、「人間相手の窓口業務」くらいだ。


 レンの破産は珍しいことではない。全人類の12%が「サブスク破産」に陥っている。人並みの生活に必要なサブスクだけで月額5,000クレジット。ユニバーサル・ベーシック・インカムは月額4,800クレジット。


 ——200クレジット足りない。


 この「ちょっとだけ足りない」が絶妙に設計されている。足りない分を補うために、人々は広告を視聴したり、データを提供したり、他人のサブスクの紹介コードを送ったりする。人類の経済活動は、この「200クレジットの隙間」で回っている。


 レンが破産した原因は、ギャンブルでも浪費でもない。


 母親の介護だ。


 母のヨハナ・マクファーレンは、3年前に認知症を発症した。この時代の認知症は、ナノマシンの劣化によるクラウド同期障害だ。記憶のサブスクをプレミアムプランに上げれば治療できる。月額3,000クレジット。母のUBIは在宅介護AIの基本料金で消えており、治療費は全額レンの負担だった。


 レンは自分のサブスクを削って、母の記憶をプレミアムに上げた。

 自分の感情をスタンダードに下げた。

 味覚を解約した。

 夢を解約した。

 直感を解約した。


 それでも足りなかった。


 母の認知症は進行し、プレミアムでも追いつかなくなった。追加で「認知バックアップ」のオプションが必要になった。月額1,500クレジット。


 レンは嗅覚を解約した。色覚をベーシックに下げた。


 世界がセピア色になった。


 食事は味がしない。花の匂いもしない。空は灰色で、夕焼けの赤が見えない。


 それでも、母が自分の名前を呼んでくれるなら——と思っていた。


 3ヵ月前。

 母のナノマシンが完全に劣化し、いかなるプランでも記憶の維持が不可能になった。

 母は重度認知症用の特別棟に移された。レンの名前を、もう呼ばない。


 残ったのは、3年分の借金と、削り尽くしたサブスクの残骸だった。



三 解約


 レンは、部屋の端末の前に座った。部屋といっても、もう私室ではない。住居のサブスクはとっくに解約した。今いるのは共用シェルターの一角だ。食事も無料の栄養ペーストで凌いでいる——味覚を解約しているので、どうせ何を食べても同じだ。


 画面には、契約中のサブスクリプション一覧が表示されている。


——————————————————

レン・マクファーレン 契約一覧


 空気(広告付き無料プラン) …… 0 cr/月

 重力(0.8G) …… 0 cr/月(ベーシック無料)

 記憶 …… 1,000 cr/月

 感情スタンダード …… 400 cr/月

 味覚 …… 解約済み

 嗅覚 …… 解約済み

 色覚ベーシック …… 0 cr/月

 夢 …… 解約済み

 直感 …… 解約済み

 名前 …… 1 cr/月(※別口座より引き落とし)


 月額合計:1,400 cr

 残高:1,403 cr

 ※来月の引き落とし後の残高:3 cr

——————————————————


 残高1,403クレジット。来月のサブスク合計は1,400クレジット。引き落とし後の残高は3クレジット。名前の1クレジットだけ「別口座」と表示されているが、意味は分からない。


 再来月は——ゼロだ。


 UBIの振り込みは2ヵ月前に止まっていた。借金の返済に全額充当されている。


 画面を見つめているうちに、日付が変わった。残高が1,403から3に変わった。


 3クレジット。それが全財産だ。


 感情はスタンダードプランなので、絶望をフルで感じることができない。「まあまあ辛い」くらいだ。これがスタンダードプランの罠だ。絶望しきれないから、泣けない。泣けないから、壊れない。壊れないから、延々と「まあまあ辛い」が続く。


(感情を解約すれば、「まあまあ辛い」もなくなる。楽になる)


 指が動いた。


 『感情スタンダード—— 解約しますか? Y/N』


 Yを押した。


 ——何かが消えた。胸の奥にあった「まあまあ辛い」が消えた。同時に、「まあまあ嬉しい」も消えた。何も感じない。


 悪くない。


 ——なお、解約すれば即座にサービスは停止される。引き落とし直後だろうと、日割りでの返金などない。それがサブスクの基本ルールだ。


(記憶も、要らないか)


 3年間の母の介護の記録。味覚を失った日。嗅覚を失った日。色彩が薄れた日。夢を失った日。——思い出すたびに「まあまあ辛い」が復活しそうだが、もう感情がないので、「まあまあ辛い」も生成されない。


 淡々と解約ボタンを押していく。


 記憶。解約。


 母の顔がかすんだ。「ヨハナ」という文字列は残っているのに、その音が意味を失っていく。数分後には、自分がなぜここに座っているのかも分からなくなり始めていた。——その間に、端末が自動で「記憶喪失時安定化プログラム」を起動していた。


 色覚ベーシック。解約。——1クレジットの節約にもならない。でも、もう世界を見る必要がなかった。


 世界が暗くなった。——いや、暗いのではない。色そのものが消えた。セピアですらない。明暗すら曖昧な、輪郭だけの世界。


 画面を見た。


——————————————————

レン・マクファーレン 契約一覧


 空気(広告付き無料プラン) …… 0 cr/月

 重力(0.8G) …… 0 cr/月

 名前 …… 1 cr/月(※別口座より引き落とし)


 月額合計:0 cr

 残高:3 cr

——————————————————


 全て解約した。残ったのは、無料の空気と重力と——月額1クレジットの「名前」。


 名前。


 なぜ名前にサブスクがあるのかは知らない。「存在の基本識別子の維持費」と説明されている。解約すると、あらゆるシステムから識別子が消え、社会的に「存在しない人間」になる。月額1クレジット。最低額。おそらく、全サブスクの中で最も安い。


 そして、最も意味がない。


 感情がない。記憶がない。味覚も嗅覚も色覚もない。名前だけがある。


 ——名前がなくても、呼吸はできる。


 解約ボタンに指を伸ばした。



四 月額1クレジット


 『名前レン・マクファーレン—— 解約しますか? Y/N』


 Yを押した。


 画面が変わった。


 赤い警告が表示される。——色覚を解約したはずなのに、この警告だけは見える。システムレベルの表示だからだ。


——————————————————

【解約不可】

※生体認証:レン・マクファーレン(対象者)

※権限:解約権なし


このサブスクリプションは、別の契約者によって支払われています。

解約には契約者の同意が必要です。


契約者:ヨハナ・マクファーレン

契約開始日:4168年7月15日

支払い方法:自動引き落とし(ヨハナ・マクファーレン名義・名前維持専用信託口座)

備考:「息子の名前を、絶対に消さないでください」

——————————————————


 レンは画面を見た。


 見たが、理解できなかった。感情を解約しているので、「驚き」という反応が生成されない。記憶を解約しているので、「ヨハナ・マクファーレン」が誰かも分からない。


 ——だが、分からないのに、指が止まった。


 感情はない。記憶もない。なのに、「解約する」という行動が実行できない。


 画面の下部に、追加の注記が表示される。


——————————————————

【契約詳細】


契約者ヨハナ・マクファーレンは、4168年7月15日に本契約を開始しました。

対象者の出生届提出と同時刻です。


備考欄の全文:

「この子の名前は、レン。

 蓮という意味です。

 泥の中からでも、花を咲かせる。

 この子がどこに行っても、何を失っても、名前だけは残るように。

 月額1クレジット。この金額なら、私がいなくなっても、きっと誰かが払い続けてくれる。

 お願いします。この子の名前を、絶対に消さないでください」


ヨハナ・マクファーレンの現在の口座残高:247クレジット

名前サブスクリプションの支払い可能期間:あと247ヵ月(約20年)

——————————————————


 247クレジット。


 施設に入って、認知症が進行して、息子の名前すら思い出せなくなった母親の口座に、247クレジットが残っている。


 月額1クレジット。あと20年分。


 レンの記憶はない。感情もない。「ヨハナ」が誰かも分からない。


 ——だが。


 画面を見ている。


 「この子の名前は、レン。蓮という意味です」


 その文字列を、何度も読んだ。記憶がないので、読むたびに初めて読むことになる。読んで、忘れて、また読む。読んで、忘れて、また読む。


 感情がないはずなのに——視界が、滲んだ。


(……泣いている?)


 感情のサブスクは解約した。涙腺の制御は感情プランに含まれている。解約済みなら、涙は出ないはずだ。


 ——出ている。


 ナノマシンを介さない、生体機能としての涙。旧世代の人類が持っていた、原始的な感情反応。サブスクリプションでは管理できない、身体そのものの反応。


 4200年のテクノロジーが管理できなかったもの。

 記憶がなくても。感情の契約がなくても。名前の由来を忘れていても。


 ——身体が、覚えていた。



五 再契約


 翌日。


 レンは施設を訪ねた。端末の契約記録に残っていた住所を頼りに、来た。


 母のヨハナは窓際に座っていた。白い髪。穏やかな顔。目はどこか遠くを見ている。


 レンの顔を見ても、反応はない。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「あなたの息子です」


「……息子?」


 ヨハナは首をかしげた。息子がいたかどうか、覚えていない。


 レンも覚えていない。記憶を解約したので、この女性が母親だという実感がない。端末の契約記録だけが、この女性が自分の母で、自分の名前に月額1クレジットを32年間払い続けていたことを示している。


 知識はある。実感がない。


 ——でも、今朝目覚めたとき、頬に涙の乾いた跡があった。


「あの——すみません。一つだけ聞いていいですか」


「はい」


「『レン』って名前に、覚えはありますか」


 ヨハナは少し考えた。考えて、首を振ろうとした。


 ——その手が、動いた。


 膝の上に置いていた手が、無意識に、何かを探すように動いた。誰かの頭を撫でるような動き。小さな頭を。柔らかい髪を。


 ヨハナの唇が、かすかに動いた。


「……レン」


 名前だけ。意味は分かっていないかもしれない。記憶のナノマシンは機能していない。クラウドとの同期も切れている。


 ——ナノマシンが忘れても、身体は忘れなかった。


 32年前に抱いた赤ん坊の重さを。命名端末に「レン」と入力した指の感触を。泥の中からでも花を咲かせろと願った気持ちを。


 ナノマシンが記録する以前の、身体の記憶。


 レンは母の前にしゃがんだ。何をすればいいか分からない。感情がないから泣けない。記憶がないから思い出を語れない。


 ——だから、ただ、そこにいた。


 母の手が、ゆっくりと伸びてきた。レンの頭に触れた。


 撫でた。


 32年間変わらない手つきで。


    * * *


 施設を出た後、レンは端末を開いた。


 残高3クレジット。全てを解約した後の、全財産。


 生体機能のエラー——涙の原因を解析するには、感情プランが必要だと端末が判定した。だが、スタンダードプランの月額は400クレジット。残高が足りない。


 感情も記憶もないレンは、それでも毎日、端末の契約記録に残った住所の施設を訪ねた。端末のリマインダーが毎朝「施設訪問予定」と通知してくるので、それに従った。理由は分からない。でも、行かないといけない気がした。


 ——翌月、端末に通知が届いた。UBIの全額差し押さえが解除された、と。端末のログによれば、サブスク全解約による簡易破産手続きが自動適用され、残債の大半が免責されていた。ただし、免責されなかった分の毎月の返済は続く。記憶がないので実感は湧かないが、重荷が一つ消えたことだけは分かった。


 UBIが入金された。残債の天引き後、手元に残ったのは2,400クレジット。レンは感情を再契約した。スタンダードプラン。月額400クレジット。再契約手数料でさらに200クレジット持っていかれた。プレミアムには到底手が届かない。


 世界はまだ輪郭だけだ。味もない。匂いもない。記憶もない。


 ——だが、今度は明確な感情を伴った涙が出た。


 泣いた。


 以前流した涙——いつの涙だろう。記憶がないので分からないが、端末のログに「涙腺反応:感情プラン外」と記録が残っていた。それはナノマシンを介さない、身体だけの反応だったらしい。今度は違う。心が泣いている。何に対して泣いているのか記憶がないので分からない。でも、感情プランが復旧した瞬間に、堰を切ったように溢れた。


 スタンダードプランの涙だ。フル稼働の号泣ではない。


 でも、それで十分だった。


 涙が止まった後、別の感情が来た。申し訳なさ。記憶がないので、誰に対して申し訳ないのか分からない。でも、胸の奥に「待たせてごめん」という言葉が湧いている。


 記憶がないのに、この涙には理由がある気がした。理由を思い出すために——記憶も、いつか再契約しよう、と思った。



六 名前


 3ヵ月後。


 レンは働いていた。


 仕事を探した理由は単純だ。毎朝、端末が教えてくれる。「お前の名前の月額を払っている人がいる。その人の口座の残高が尽きる前に、自分で稼げ」。記憶がないので、毎朝初めて読むことになる。読むと、なぜか涙が出る。理由は分からない。でも、それに従っている。


 記憶のない朝は、最初のうちは怖かったらしい。端末のログに「記憶喪失時安定化プログラム」という無料アプリが起動した履歴がある。目覚めるたびにパニックを起こさないよう、端末が最初に表示するメッセージはこうだ。「おはよう。あなたの名前はレン。記憶は解約済みですが、心配いりません。今日の予定を表示します」。施設への支払いは自動引き落としに設定してあり、視界のARには「この女性の生活費を払うこと。理由は、会いに行けば分かる」という過去の自分からのメモが固定表示されている。


 この時代にほぼ消滅した「人間がやる仕事」を見つけた。サブスクリプション管理局の窓口業務。AIでも処理できるが、「人間に相談したい」という利用者が一定数いる。特に高齢者。特に——身体の記憶だけで生きている人たち。


 記憶のサブスクがなくても、仕事はできた。業務マニュアルは網膜にAR表示され、ナノマシンに頼らない短期的な生体記憶だけで、その日の仕事はこなせる。翌日には忘れているが、またマニュアルが表示される。それの繰り返しだ。


「すみません、私の契約内容が分からなくて……」


「お名前を教えていただけますか」


「名前……名前は……」


「端末を見せていただけますか。——ああ、リン・チェンさんですね。お名前のサブスクリプションは、ちゃんと契約されていますよ」


「本当? よかった……名前だけは、なくしたくなくて」


 レンは窓口で、毎日、同じ会話をしている。


 名前のサブスクリプション。月額1クレジット。全サブスクの中で最も安く、最も解約率が低い。


 なぜなら——ほぼ全員の「名前」が、本人以外の誰かに契約されている。


 親が。配偶者が。子供が。友人が。


 月額1クレジット。その人が存在していてほしいと願う誰かが、黙って払い続けている。


    * * *


 ある日の終業後。


 レンは端末を開いた。


——————————————————

レン・マクファーレン 契約一覧


 空気(広告付き無料プラン) …… 0 cr/月

 重力(0.8G) …… 0 cr/月

 感情スタンダード …… 400 cr/月

 名前 …… 1 cr/月 ※契約者:ヨハナ・マクファーレン


 月額合計:400 cr(名前の1 crは別契約者負担)

——————————————————


 感情はスタンダードに戻した。味覚も嗅覚も記憶も、まだ契約していない。色覚のベーシックは無料だが、再契約には手数料がかかる。今はそれすら惜しい。母の認知症が進行し、介護度の高い特別棟に移されたため、母のUBIだけでは料金が足りなくなった。不足分の1,200クレジットをレンが毎月補填している。そこに感情プランの月額を加えると、残債が天引きされた後のUBIと給料を合わせても、手元にはほとんど残らない。


 世界はまだ輪郭だけだ。食事は味がしない。花の匂いもしない。空も、のっぺりとしたただの背景だ。


 ——でも、名前がある。


 月額1クレジット。母が32年前から払い続けている。


 レンは端末を閉じた。


 帰り道、施設に寄った。


 ヨハナは窓際に座っていた。いつもと同じ場所。遠くを見ている目。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「レンです」


「……レン?」


 首をかしげる。覚えていない。


 ——でも、手が動いた。また、小さな頭を探すように。


 レンはしゃがんだ。母の手が、頭に触れた。


 撫でた。


 それだけで、よかった。


 人類は偉大だ。宇宙を征服し、あらゆるものにサブスクをつけた。

 ——でも、この手だけは、月額じゃない。



(完)

お読みいただきありがとうございます!


「あらゆるものに月額がかかる」——書いていて、半分はコメディのつもりだったのですが、途中から笑えなくなりました。呼吸に課金、感情に課金、記憶に課金。SFのはずなのに、今の私たちの生活と、そんなに距離がない気がしてしまって。


でも、月額1クレジットの「名前」だけは——どんな時代になっても、誰かがそっと払い続ける。名前は、本人のためだけにあるんじゃない。「あなたがいてほしい」と思う誰かのためにある。


感想・ブックマーク・評価をいただけると、ものすごく励みになります。

——月額0クレジットの応援を、お待ちしております。


***


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→「21世紀遺跡発掘報告書——『祈祷板』と『聖獣崇拝』の文化人類学的考察」(1000年後の考古学者がスマホを発掘するSFコメディ)


→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした


よろしければそちらもぜひ!

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管理されない感情があるところに、人間なんだなあって思わされました。どこかに揮発した記憶があるなら、元に戻す方法があって欲しいような思い出しても辛いだけのような…。 実際はこんな世界になるならコンピュー…
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