『数字しか見えない女』と婚約破棄された私が辺境で帳簿屋を開いたら、なぜか宰相閣下が毎日通ってくるのですが
「お前は、数字しか見えないつまらない女だ」
三年間の婚約者だったエドモンドは、そう言い放った。
王城の中庭。春の陽光が降り注ぐ中、彼の隣には見知らぬ令嬢が寄り添っている。淡い金髪に青い瞳。いかにも華やかで、社交界の花という言葉がよく似合う女性だった。
「アデーラ嬢は違う。会話は楽しいし、笑顔は美しいし、一緒にいると心が華やぐ」
エドモンドの言葉に、アデーラ嬢は恥じらうように俯いた。
私は静かに二人を見つめた。
怒りは、不思議と湧いてこなかった。悲しみも、悔しさも。ただ、ああ、やっぱりか、という諦めに似た感情だけが胸に広がる。
「ティルネア、聞いているのか」
「ええ、聞いています」
私は穏やかに微笑んだ。
「おっしゃる通りです、エドモンド様。私は数字しか見えない、つまらない女です。ですから——」
懐から封筒を取り出す。今朝、机の引き出しから取り出してきたものだ。ずっと前から、用意していた。
「——辞表も、出させていただきますね」
エドモンドが目を見開いた。
「は? 辞表だと?」
「はい。本日付で、王城経理官の職を辞します。七年間、お世話になりました」
私は深々と頭を下げ、踵を返した。
背後でエドモンドが何か叫んでいたが、もう聞こえなかった。聞く必要もなかった。
王城経理官。
それが、この七年間の私の肩書きだった。
毎日、山のような帳簿と向き合い、数字の海を泳ぐ。歳入と歳出の計算、予算の配分、各部署からの経費申請の精査。地味で、目立たない仕事だ。
誰からも感謝されない。それどころか、経費を削減すれば恨まれ、予算を通せば当然だと言われる。華やかな舞踏会の裏で、私は一人、蝋燭の灯りを頼りに数字と格闘していた。
それでも私は、この仕事が好きだった。
数字は嘘をつかない。人の言葉より、ずっと信頼できる。帳簿の中には、この国の真実がある。どこに無駄があり、どこに不正があり、どこを改善すべきか。全部、数字が教えてくれる。
私は独自の管理システムを作り上げた。複式簿記を改良し、一目で国庫の状態が分かる仕組み。誰にも教わらず、試行錯誤の末に完成させたものだ。
でも、もう疲れた。
七年間、誰にも認められず、影で国を支え続けることに。
エドモンドとの婚約も、結局は『経理官の娘なら財布の紐は固いだろう』という打算だった。私自身を見てくれる人は、どこにもいなかった。
だから、終わりにしよう。
実家に戻って、辺境のラヴェル領で小さな帳簿屋でも開こう。商人たちの帳簿を整理して、細々と暮らす。それで十分だ。
辺境の領地に着いたのは、それから二週間後のことだった。
ラヴェル領は、王都から馬車で五日かかる小さな領地だ。特産品もなく、観光名所もない。ただ、空気は澄んでいて、人々は穏やかだった。
私は領主館の片隅に小さな部屋を借り、『帳簿屋ティルネア』の看板を掲げた。
最初の客は、近所の雑貨屋の主人だった。
「嬢ちゃん、帳簿が見れるって本当かい?」
「はい。記帳、決算、在庫管理、何でもお任せください」
主人が持ってきた帳簿を開いた瞬間、私は思わず眉をひそめた。
ひどい。数字の並びが滅茶苦茶だ。これでは利益が出ているのか赤字なのかすら分からない。仕入れと売上が同じ欄に書かれ、日付は飛び飛び。合計も合っていない。
「あの、こちら、仕入れと売上が混在していますね。それと、この日付の記載が——」
気づけば、私は夢中で帳簿を整理していた。
まず、仕入れと売上を分離する。次に、日付順に並べ替え。そして、それぞれの合計を計算し直す。
数字が整っていく。混沌が秩序に変わる。あるべき場所にあるべきものが収まっていく。
この感覚。やっぱり、好きだ。
「嬢ちゃん……すげえな」
主人が呆然と帳簿を見つめていた。
「おかげで、どこで損してたか分かったよ。この仕入れ先、値段が高すぎたんだな」
「ええ。こちらの業者に変えれば、年間で銀貨二十枚ほど節約できるかと」
「二十枚!?」
主人は目を剥いた。そして、深々と頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう。——なあ、うちの女房にも教えてやってくれないか?」
こうして、私の小さな帳簿屋は、少しずつ評判を呼び始めた。パン屋、鍛冶屋、宿屋。領地の商人たちが、次々と帳簿を持ち込んでくる。
忙しいけれど、充実していた。ここには、私を見下す人はいない。
それから一ヶ月が過ぎた頃。
異変が起きた。
その日、店に入ってきたのは、見るからに高貴な身なりの男性だった。
黒髪に灰色の瞳。切れ長の目元は冷たく、全身から近寄りがたい雰囲気を放っている。仕立ての良い外套、磨き上げられた革靴。どう見ても、この辺境には不釣り合いな人物だ。
どこかで見たことがある顔だ。
「帳簿屋とは、ここか」
「はい、いらっしゃいませ。何をお求めでしょうか」
「君が、ティルネア・ラヴェルか」
私は目を瞬いた。
名乗った覚えはない。この辺境で、私のフルネームを知っている人間がいるとは思えなかった。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「ヴァイスだ」
心臓が跳ねた。
ヴァイス。この国の宰相。冷徹で無慈悲、数字と効率しか見ない鉄の宰相と呼ばれる男だ。国政の実務を一手に担い、王族からも畏怖される存在。
——なぜ、そんな人が、こんな辺境に?
「君の帳簿を見せてもらいたい」
「……は?」
「この店の帳簿だ。見せてくれ」
意味が分からなかった。
けれど、宰相の頼みを断る理由もない。私は困惑しながらも、日々つけている帳簿を差し出した。
ヴァイス閣下は、黙ってそれを受け取った。
ページを繰る。灰色の瞳が、数字の列を追っていく。その目つきは真剣で、一行一行を丁寧に読んでいるようだった。
沈黙が流れた。
やがて、彼は顔を上げた。その表情が、わずかに——本当にわずかに——柔らかくなっていた。
「——美しい」
「え?」
「この帳簿は、美しい。無駄がない。数字の配置が論理的で、一目で全体が把握できる。これを作った人間は、天才だ」
私は言葉を失った。
七年間、誰からも言われなかった言葉。帳簿を褒められたのは、生まれて初めてだった。
「君が王城経理官を辞めた後、財政が大混乱している」
ヴァイス閣下は淡々と続けた。
「後任が三人入れ替わったが、誰も君の作った管理システムを理解できない。今、予算配分が滞り、各部署が悲鳴を上げている。軍の装備費、官吏の給与、インフラの維持費。全てが遅延し始めている」
「それは……」
「私は、ずっと不思議だった。なぜ我が国の財政は、これほど安定しているのか。歳入に対して歳出が無駄なく配分され、余剰金は適切に積み立てられている。奇跡のような均衡だと思っていた」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。
「その正体が、君だったのか」
胸が熱くなった。
見てくれていた人が、いた。
あの膨大な数字の海の中で、私の仕事を見つけてくれた人が。
「閣下、あの——」
「明日も来る。君に聞きたいことがまだある」
そう言って、ヴァイス閣下は帰っていった。
彼は本当に、毎日来た。
最初は帳簿の質問から始まった。私が王城で作った管理システムについて、予算配分の考え方について、減価償却の計算方法について。
宰相ともあろう人が、こんな辺境まで来て経理の話をする。おかしな光景だった。護衛の騎士たちも、さぞ困惑していることだろう。
でも、楽しかった。
数字の話を、同じ熱量で語れる相手がいる。私の説明を、真剣に聞いてくれる人がいる。それがこんなにも嬉しいことだと、知らなかった。
「この計算式、君が考案したのか」
「はい。従来の方式だと誤差が出やすいので、こちらの方が——」
「なるほど。確かにこの方が効率的だ。——君は、本当に頭がいい」
ヴァイス閣下の言葉に、私は思わず俯いた。
顔が熱い。なぜだろう。褒められ慣れていないからだろうか。
ある日、彼はふと尋ねた。
「なぜ、辞めたんだ」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「疲れたからです。誰にも認められない仕事を、七年も続けることに」
「……そうか」
「エドモンド様——元婚約者に、『数字しか見えないつまらない女』と言われました。その通りだと思いました。私には、それしかないのだから」
ヴァイス閣下は黙っていた。
しばらくして、彼は静かに言った。
「私も、そう言われたことがある」
「え?」
「冷たい、人の心がない、数字しか見ていない。——だから、分かる。君がどれほど孤独だったか」
灰色の瞳が、優しく細められた。
「でも、私は君の数字が好きだ。君の帳簿には、心がある。数字を通して、この国を良くしたいという想いが伝わってくる。それを、つまらないとは思わない」
涙が、溢れた。
止められなかった。こんなところで泣くなんて、みっともない。でも、七年分の孤独が、一気に溶けていくようだった。
「——ありがとうございます」
ヴァイス閣下は、黙って私が泣き止むのを待っていてくれた。
季節が変わり、夏が来た。
その頃には、ヴァイス閣下——いつの間にか、私は彼をヴァイス様と呼ぶようになっていた——との関係は、単なる帳簿の師弟を超えていた。
彼は相変わらず毎日来た。帳簿の話が終わると、お茶を飲みながら他愛ない話をする。政治の話、領地の話、好きな本の話。
冷徹な宰相の仮面の下には、意外なほど穏やかな人柄が隠れていた。時折見せる微笑みに、私の心臓は跳ねた。
「ティルネア」
ある日、彼は真剣な表情で私を呼んだ。
「君に、頼みがある」
「何でしょうか」
「——王城に、戻ってきてほしい」
私は息を呑んだ。
「戻る、ですか」
「ああ。経理官としてではない。宰相府付きの財政顧問として。私の傍で、働いてほしい」
心臓が激しく鳴った。
「私は、この仕事が好きだ。でも、一人では限界がある。君のような人間が、必要なんだ。——私には、君が必要だ」
その言葉の意味を、考える暇もなく。
彼は続けた。
「それだけじゃない。私は——」
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「——君が、好きだ」
世界が止まった気がした。
「最初に君の帳簿を見た時から、惹かれていた。君の数字への愛情、この国を良くしたいという情熱、そして誰にも認められずとも黙々と仕事を続ける強さ。全部、好きだ」
「ヴァイス様——」
「君が嫌でなければ、傍にいてほしい。——妻として」
涙が、また溢れた。
でも今度は、悲しみではなく。
「——はい」
私は頷いた。
「私も、あなたが好きです。あなたの傍で、働きたい。生きていきたい」
ヴァイス様の表情が、花開くように綻んだ。
冷徹な宰相が見せる、初めての笑顔だった。
彼の手が、私の頬に触れる。そっと涙を拭ってくれた。
「ありがとう。——君を、幸せにする」
それから数ヶ月後。
私は宰相夫人として王城に戻り、財政顧問として働き始めた。
あの混乱していた財政も、少しずつ立て直しが進んでいる。今度は、私一人ではない。ヴァイス様と二人で、数字の海を泳いでいる。
「ティルネア、この計算を見てくれ」
「はい、今行きます」
執務室で、肩を並べて帳簿を覗き込む。そんな日常が、今の私の幸せだった。
ある日、侍女が報告を持ってきた。
「奥様、エドモンド様が面会を求めていらっしゃいます」
私は少し考えてから、首を横に振った。
「お断りしてください。私は忙しいので」
「かしこまりました」
侍女が去った後、ヴァイス様が眉を上げた。
「会わなくていいのか」
「はい。もう、関係のない方ですから」
後から聞いた話では、エドモンドは大変だったらしい。
私が辞めた後、彼の実家が管理していた財政帳簿に大量の不備が見つかり、調査が入ったのだという。私がいた頃は、こっそり修正してやっていたのだ。不正経理の疑いで、家名に傷がついた。
婚約した令嬢にも逃げられ、今は実家で謹慎中だとか。『数字しか見えない女』がいなくなった途端、全てが崩れ始めた。
でも、それはもう私には関係のないこと。
「ティルネア」
ヴァイス様が、私の手を取った。
「今日は早めに仕事を終わらせよう。一緒に夕食を取りたい」
「はい、ヴァイス様」
「——ヴァイスでいい。二人きりの時は」
私は思わず笑った。
「はい、ヴァイス」
窓の外には、夕焼けが広がっている。
数字しか見えない私でも、幸せになれた。
私を見つけてくれた人が、いたから。
私の帳簿を、美しいと言ってくれた人が、いたから。
翌朝、執務室で目を覚ました私は、隣で帳簿を読むヴァイスの横顔を見つめた。
この人の傍で、これからも数字と向き合っていく。
それが、私の幸せな日常だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
「数字しか見えない」——誰かにとっての欠点は、別の誰かにとっての魅力かもしれない。
そんな想いを込めて書きました。
ティルネアの帳簿への愛は、私の数字への愛でもあります。
整然と並んだ数字、きれいに合った合計……美しいですよね?
反響があれば、ヴァイス様視点や新婚生活編など、連載版も考えています。
評価・ブックマークお待ちしております!




